人間:釈迦・仏陀
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編集・管理人: 本 田 哲 康
序 鈴木大拙は述べる ・・・「定本 妙好人才市の歌 全」法蔵館 序文 より抜粋
 仏教は哲学で、宗教ではないと言う人がある。
 これは色々の意味で言われるのであるから、ただこれだけではそれから何等の結論を引き出すわけには行かぬ。
 なるほど、普通に仏教者の言うことをきくと、哲学めいたこともあるが、さればとて仏教は宗教ではないとは言われぬ。
 第一宗教とは何か、哲学は何かと言うことを詮索
(せんさく)しなくてはならぬ。これがハッキリしないのに、仏教を大雑把(おおざっぱ)に取り扱っては間違いを生ずる。
 が、仏教を哲学だという人の心の奥に、何だか仏教に理屈めいたものが多くあって、信仰談、即ち人間の霊性的
(れいせいてき)生涯に関する言論が余(あま)り目につかぬと言う気分が漾(ただよ)って居ると見てよいようだ。
 仏教を哲学扱いする人々にキリスト教の人が多いように思う。キリスト教の人はキリストの伝記と考えられるものを極致(きょくち)として、自分の霊性的生活をその上に築き上げんとする。
 仏教者の間にはシャカならシャカの一生を目標にして宗教的生活の進展を計ると言うよりも、シャカの教訓をもとにしようとする傾向がある。
 シャカは自分を以て真理の代弁だという心を述べて居る。
 
人間としてはシャカも吾等も有情(うじょう)であり同じ凡夫である。ただ悟るものは佛となる。佛ももとは凡夫で、凡夫も正覚を成ずれば佛だと言うことを教える。ここが哲学だと感じられるところであろう。
 蓮如聖人の御一代記聞書には、『仏法には、無我
(むが)と仰せられ候』(八十一)とあり、この無我は仏教のコルナー・ストーン(注:corner・stone: n 【建】 隅石(スミイシ), 礎石; [fig] 基礎, 第一歩, かなめ石)と考えられて居るので、真宗の如き弥陀(みだ)一本槍の宗旨(しゅうし)にも無我がもち出される。
 この無我はキリスト信者などの言うセルフレス(Selfless)と違って、単なる倫理的意義よりも、もっと深い形而上学的色彩をもって居る。それで佛教は哲学だと言うことになる。
 佛教では、一切衆生悉皆成仏
(いっさいしゅじょうしつかいじょうぶつ)と教える。
 この衆生と言うは頗(すこぶ)る広汎
(こうはん)な意味をもって居る。
 一切の有情
(うじょう)と非情とを含んで居る。それで自分の成仏だけでなく、庭先の石ころも、秋風に散り行く落ち葉も、冬の朝を真白に塗りつぶす雪の花も、みな成仏の可能性をもって居る。或いはそのままに今目の前で成仏していると言うことにもなる。
 猫や犬や馬や牛などの成仏、さては悪人どもの成仏・・・・これも保證(ほしょう)されているさえ言われる。
 これがまた佛教を目して哲学だと批評せられることにもなる。
 佛教者その人の立場からすると、何にもこれらが哲学的に観ぜられて居るのでなくて、『宗教』的直感の境地に他ならぬのである。
(略)
 
            (注:「云ふ」などの言葉を、今様の表現に直した。また、「コルナー・ストーン」は、解説を追加した。・・・ 管理人)
鈴木大拙氏の 職    歴
1889年 飯田町小学校教師(英語担当)
1890年(1891年まで) 美川小学校訓導
1909年 学習院講師(英語担当)
1909年(1916年まで) 東京帝国大学文科大学講師
1910年(1921年まで) 学習院教授
1921年(1960年まで) 大谷大学教授
1934年 大谷大学教学研究所東亜教学部部長
1950年 コロンビア大学客員教授
補1:道元禅師の「正法眼蔵」から学ぶ ・・・・・
 示に云く、仏仏祖祖、皆本(もと)は凡夫なり。
 凡夫の時は、必ず悪業
(あくごう)もあり、悪心もあり、鈍(どん)もあり、痴(ち)もあり。
 然れども皆改めて、知識に従ひ、教行
(きょうぎょう)に依(よ)りしかば、皆仏祖と成りしなり。
 今の人も然るべし。
 我が身おろかなれば、鈍なればと、卑下することなかれ。
 今生
(こんじょう)に発心(ほっしん)せずんば、何(いずれ)の時をか待つべき。
 好むには必ず得
(う)べきなり。
    
道元 「正法眼蔵随聞記」 一ノ十五
仏仏祖祖 ・・・ お釈迦様も・・・道元禅師も皆
知識に従ひ ・・・指導者に従って 
○教行(きょうぎょう)に依(よ)りしかば ・・・教えに従って 
必ず得(う)べき ・・・必ず得るときがあるんだ。


      ・・・ ************************* ・・・
 無常を観じたときにどのように生きていったらよいのか。
 今。此処で・・・。
 
駒沢大学教授 角田泰隆 氏解説
 道元禅師は、諭して仰いました。
 もともとお釈迦様を始め多くの悟りを得た僧達も、皆、もとは凡夫だった。
 凡夫の時には、必ず好ましくない行いもあり、こころの中に不浄な想いも抱き、・・・・・ 管理人意訳

人間・釈迦 人間釈迦の生まれ・生きて辿った道のりとは?  注:これは、TVにて放映された番組を、まとめて関連のものを、忠実に編集したものです。
- ブッダ その大いなる真実 -


1 はじめに:2500年前の仏教
仏教は
仏教は、釈迦の説いた教えである。日本には聖徳太子が伝えたと言われている。

釈迦の死後(4〜5百年後),
様々な経典は、当初はサンスクリット語で書かれた仏典であったが、これらは中国の高僧(玄奘三蔵など:別のページに解説)が漢訳し、日本語音読みにされている。
 今、日本では天台宗(最澄)、真言宗(空海)、浄土宗(法然)、曹洞宗(道元)、浄土真宗(親鸞)、日蓮宗(日蓮)へと枝分かれして、なお脈々と伝えられている。

 
 ◇ 釈迦の教え(仏教)の伝わった経路                      
☆ 南伝仏教
スリランカ  東南アジア タイ(エメラルド寺院) カンボジアミャンマー(シェダゴン・パゴダ)
☆ 北伝仏教
ガンダーラ アフガニスタン(バーミャン遺跡) チベット 中国→朝鮮半島 日本に
(一説には552年)


2 人間・釈迦:::::::釈迦の誕生
                              
 釈迦の誕生年については、諸説があります。スリランカ、インドなどの南方アジアの諸国では、1956〜1957年にかけて、ブッダ入滅2,500年の記念式典が盛大に行われました。

 これは、ブッダの入滅が紀元前544年であるという南方仏教の伝統説によっています。

 ブッダの誕生については、様々な説がある。 例えば、
    @ 566〜486年 ないし  560〜480年 の説。
    A 466〜386年 または、 463〜383年  或いは 480〜400年頃の説です。
  しかし、
    B 中村 元 博士の説は、463 〜383年です。 

        「仏典を読む ーブッダの生涯 ー」 中村 元 前田專學監修 182頁より
                   
ガンジス川辺に住む釈迦族の王子であった。名前を、ゴータマ・シッダールタと言った。(釈迦)
 母親は、釈迦を出産するために、隣国の実家にに帰る途中、ネパール・ルンビニー園で産気づき、男児を生む。
 父、スッドーダナ王(ストオーダナ(浄飯王)共和制)は、高名なバラモン僧 アシタを招き、我が子の将来を占わせた。
 バラモン僧・アシタは王に言う。
        

 「王子は長ずれば 世界を統一する理想の主となるであろう。或いは、もし出家すれば必ずや真理に目覚めたる者・ブッダ となるであろう。年老いた私は、その姿を見ることができないことが悲しい。」
                               と、涙を流しつつ告げた。
                                     
カンハシリ(アシタ)という仙人は言った、
「わたしは、王子に不吉の相があるのを思い続けているのではありません。また彼に障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげて下さい。
 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この方は最上の清浄
(しょうじょう=清らかな境地)を見て、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわす(教えを説く)でしょう。この方の清らかな行いはひろく広まるでしょう。
 ところがこの世における私の余命は幾ばくもありません。〔この方がさとりを開かれるまえに〕中途でわたしは死んでしまうでしょう。わたしは比
(たぐい)なき力のある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」
 かの清らかな修行者(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起こさせて、そして宮殿から去っていった。かれは自分の甥(ナーカラ)をあわれんで、比なき力のある人(つまりブッダ)のお教えに従うようにすすめた。 ー
 
「もしもお前が後に『目覚めた人(ブッダ)あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならばそのときそこへ行ってかれの教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」 スッタニパータ《689〜696》
                     ・・・・ 「ブッダの生涯」 中村 元  前田專學 監修 岩波書店

注: 『スッタニパータ』は、数多い仏教聖典のなかで、もっとも古い経典。歴史的人物としてのゴータマ・ブッタ(釈尊)のことばに最も近い詩句が集成されている。
  第一 蛇の章
  第二 小なる章
  第三 大いなる章
  第四 八つの詩句の章
  第五 彼岸に至る道の章からなり、1149の詩と散文で構成されている。

 なお、『ブッダのことば - スッタニパータ -』
中村 元訳・岩波文庫 に全文が収録されている。
                   <引用 同上より>    
LINK  法句経(ダンマパダ) 
 やがて、その方が「法輪をまわしたもう」、つまり教えを説きたまうという噂を聞いて、つまり、アシタ仙人のいったとおりになったのですから、出かけていって、それでブッダにお会いして信仰の心を起こし、いみじき聖者に最上の聖者の境地を尋ねたと、そのように説かれております。
 ○ ナーカラは、ブッダに本当の”仏教の実践”についてたずねた。
 師はいわれた、わたしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。
 これは行い難く、成就し難いものである。
 さあ、それを貴方に説いてあげよう。
                          
 「しっかりとして、堅固であれ。
 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。〔罵られても〕こころに怒らないように注意し、〔敬礼されても〕冷静に、高ぶらずにふるまえ。
 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
 婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。淫欲のことがらを離れさまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生き物に対して、敵対することもなく、愛著(あいじゃく)することもない。
 『かれらもわたしと同様であり、わたしもかれらと同様である』と思って、わが身と引きくらべて〔生きものを〕殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。
 凡夫は欲望と貪
(むさぼ)りとに執着(しゅうじゃく)しているが、眼(まなこ)ある人はそれを捨てて道を歩め。
 この〔世の〕地獄を超えよ。
 腹を減らして、食物を節し、少欲であって、貪ることなかれ。・・・・・・・・」

                            スッタニパータ《701〜707》
            引用: 「ブッダの生涯」 中村 元  前田專學 監修 岩波書店
                           
  さて、

 
母親 マーヤは、彼を産んで7日後死亡する。

               
 
☆ 瀬戸内寂聴の釈迦解説 「釈迦と女とこの世の苦」  によれば・・・・

釈迦の生母:マーヤは、 貞淑で絶世の美女であったという。子どもがなかったが30歳近くになって、”白象の夢”を観て授かった。という 伝説がある。

 子供を産むために里に帰る途中のお産であった。寵愛する后が帰ることを嫌がって、王は臨月まで留めた。
象に乗って向かう途中ルンビニーで産気づく。

 伝記に依れば・・・・、
 ・・アショーカの赤い花を取ろうとして、右手を差し出したときにその脇の下から生まれる。・・と言う。
 難産であったであろう・・ 一週間目に死亡。

 また、伝記に依れば、・・釈迦は
 七歩歩いて、左手で地。右手で天を指し「天上天下唯我独尊
(てんじょうてんげゆいがどくそん)」 と言った。・・・・と言う。
  天にも地にも自分の命はただ一つだ の意か。
   
 
下線部注:中村 元によると、「『スッタニパータ』にはこのような伝説は出てきていない。」と記されている。
        「ブッダの生涯」   前田專學 監修 岩波書店


 小さいときから憂鬱にもの思いに耽った。と、伝えられている

釈迦の成育する当時は、戦乱の世。
配膳係が実は敵のスパイであったり、反乱・小競り合い・裏切りは常であった。
・・・・・・人間不信。”人間”むき出しの現実。病苦に苦しむ民。・・・・


 
生老病死 = 「私もいつか病にかかりそして死ぬ。人として生まれることは、人生とはなんと厭わしく、何とおぞましいものなのだろう!そう気づいたとき、私にはすでに生きる意欲はまったく無くなってしまった。」
・・・と、述懐する。
 ある日、大勢の彼の周辺に侍っている女官達の、寝姿を見つつ考えた:   
   『外観はいくら美しくても、一皮むけばそこにあるのはみんな人間の醜さばかりだ。
      そうだ、これが世俗の姿なのだ!』 と、・・・。

  次いで、瀬戸内寂聴の釈迦解説 「釈迦と女とこの世の苦」 には・・・・

 
○ スッタニパータ(もっとも古い教典)によれば・・
 「死の苦しみについて」
               
「この世における人々の命は普遍ではなく、どれだけ生きられるかはからない。
   痛ましく短くて苦悩につながれている。
 生まれたものどもは死を逃れる道がない。老いに達しては死が来る。
            実に、生ある者どもの定めはこの通りである。」

釈迦の后の名は、ヤショーダラ。結婚して長男を授かる。
 
長男の名は、ラーフラ
 (邪魔する者の意=『悪魔』とでも言う意味だ。出家する際に我が子への愛着がいかに障害になるか知っていたかのような名前であった。)

 思えば、彼は、普通の人・普通の夫だったようだ。
 ☆ シャカの苦しみは、連綿と続いた。
  「老いることは 何と苦しいことだろう」

  「病とは 何と苦しいものなんだろう」、

  「そして 死という逃れようのない苦しみが待っている。」
尚かつ、
  「生きる」と言うことは、それ自体何という大きな苦しみなのだろうか」等と・・・。

             
ここまでは、瀬戸内寂聴の釈迦解説 「釈迦と女とこの世の苦」

3 釈迦の出家
  9才で出家。黄色い衣を身にまとい、若干名の従者を伴って、王舎城・現在のラジギールへ向かった。
  <王舎城の城壁跡、岩の道に刻まれた深い轍の跡など、今も遺っている。>

☆ ビンビサーラ王との対話は、以下のごとくであったという。(後の世に作られた逸話であろうか)
王:  「修行者よそなたは我がマダカ国に仕官する気はないか。
  もし、そなたが望むならこのマダカ国の半分をそなたに譲ろうと思っている。」

釈迦: 「私は、釈迦族の王家に生まれました。その地位を捨てて出家したのです。
  世俗の欲望をかなえるためではありません。」
  「王よ。私は生老病死の苦しみを知って愕然として出家したのです。
   私の、求めている道はその苦しみ の解決なのです。」

王:「いずれそなたが道を得られたその時には、
   この王舎城に来て私のために教えを説くと約束してほしい。」

 
○ その後、高名な仙人を次々に訪ねた。
   何事にも執着しない無念無想の境地を求めた → 座禅とよく似た禅定
(ぜんじょう)をマスターする。
 
   ○ 次にたどり着いたのは、ブッダガヤ郊外 ネーランジャラー川 のほとりの小さな村だった。
  ここは、苦行修行僧達の集まるところであった。
  ここでは、様々な苦行が行われていた。
   断食・呼吸の抑制・不眠・不座など、極限まで自分の肉体をさいなんで行き浄化するのだ。
   ここで、5人の僧と出会う。

○ 前正覚山がある。悟りを開く前にこもった山の意である。ここの洞窟に一体の仏像=苦行の姿。
   闇の中に金色に輝く像が安置されている。
○   ラホール博物館にも  釈迦苦行像 
      さらに苦行を深める。死の一歩手前まで・・・。一層の断食・・呼吸を止める業。
    ・・・・・ 様々な苦行に努めた。

 釈迦は述懐する。・・・
   「その小食のために私の肢の節は草の節のようになった。
   その小食のために私の肋骨は腐食し破れてしまった。

    私は腹の皮に触れようとすると脊柱をとらえてしまい
   脊柱に触れようとすると腹の皮をとらえてしまった。」



6年間の苦行の末
                  
  苦行では悟りに至らないのではないか? との疑念を持つ。そして、
   

    山を下りて、・・・・・、歩く内に・・・



         
                       
4 琴の音色 と スジャータ
「琴の音は、強くしめれば糸が切れ、弱くても音が悪い。琴は糸を中ほどに締めて初めて音色がよい。・・・」と考えながら歩き続ける釈迦は、牛の乳搾りをしていた村の娘”スジャータ”に出会う。

 そこに座り込んでしまった釈迦に「尊いお方。どうぞこの乳をおのみ下さい。」とすすめた・・・。
  ・・・が、・・・・
 「乳を飲んだら、今までの苦行のすべてが消えてしまう。」と、躊躇
(ちゅうちょ)する。
 スジャータは、「一度嫁したが何かの事情で実家に戻った女性だった」と、ある調査では語られていた。
 ここでは、「乳」であるが、乳粥であったとの説もある。釈迦が疲れ果てて背にもたれた樹は、村の民たちが食事などを捧げる”聖なる樹”であったという。  ・・・確か、中村 元 先生は対談でそう語られていたっけ。

 
しかし、このときに釈迦は”琴の糸”のことを想う。・・・・。そして、勧められるまま素直に乳を飲む。

 釈迦は、中道の道を選んだ。
 快楽にも耽らない。
 苦行も極端である。しかし、極端な道を歩んだのでは、絶対真理は得られないであろう。と・・・。

 中道という概念は、人類の歴史の中で釈迦が初めてたどり着いた概念である。

                                ・・・ 宗教評論家 ひろ さちや

 ○ 
5人の仲間は、見ていた。そして、彼らは、これを「釈迦は修行半ばで”堕落”した」と観た。
   彼らは失望し、釈迦に向かって非難の声を浴びせて、やがてその場を立ち去った。


 
 釈迦は、菩提樹に向かって歩む。東に向かって座る。真理を悟るまでは、このまま動かなかった。
  「苦」はどこから生まれるのか? そんな釈迦に、これまでに克服したはずの様々な煩悩が襲った。

  ○ 悪魔の誘惑 3人の美女( 愛欲  快楽  嫌悪 )
  3人の美女を送る。 ・・・・ 心が完全に透明で柔軟な状況に至った釈迦は、
      「これらの悪魔には実体が無く ただ己の心の内を映し出しているに過ぎない」
                             と、いうことを完璧に見抜いていた。
  しかし、尚、甘言や暴力で迫る悪魔。
  「悪魔よ止めるが良い。 私はすでに生死の彼岸にいる。悪魔よ。汝は破れたり。」

スッタニパータ 《436〜440》 「ブッダの生涯」 中村 元  前田專學 監修 岩波書店 によると・・・・
  
悪魔に対してブッダは、「おまえはいろいろ誘惑する軍隊を使っている。」
 それが八つあるといいます。
「汝の第一の軍隊は 欲望であり、
第二の軍隊は 嫌悪であり、
第三の軍隊は 飢渇(きかつ)であり、
第四の軍隊は 妄執(もうしゅう)といわれる。
汝の第五の軍隊は ものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は 恐怖といわれる。
汝の第七の軍隊は 疑惑であり、
汝の第八の軍隊は

みせかけと強情と、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、
また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

 
ナムチよ、これらは汝の軍隊である。黒き魔の攻撃軍である。
 勇者でなければこれに打ち勝つことができない。〔勇者は〕これらに打ち勝って楽しみを得る。
 このわたしがムンジャ草を取り去るだろうか?
 この場合、〔わたしにとって〕命はどうでもよい。
 わたしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。」


 
やがて夜明けになって、釈迦はゆっくり目を開けた。

 その眼は、在るがままに観て、在るがままにとらえる眼であった。35才。
 「観自在」
                  
ここで、釈迦は成道する。
  ブッダガヤの地であった。

○  はじめの7日間 悟りの 満足感に浸る。
   気が楽になったから、入滅しようと考えていた。   宗教評論家 ひろ さちや  

○  古代インドの最高神 ブラフマン(梵天)は、「釈迦よ、人々に真理を説き賜え。」
 釈迦は言った:「私の悟った真理は難解で、世の人々はそれを理解できるとは思えない。」

このままでは世は絶望と落胆で滅びてしまうと思った梵天は、尚、釈迦に・・・

 「世の中には、泥の中から咲きでる花のように、
   あなたの教えを受けて見事に花を咲かせる者もきっといる。
      釈迦よ。どうか教えを説き賜え。」         ・・と、告げたという。


 
そして、 「 みんなに楽になってもらおう。」との、慈悲心を起こす。 宗教評論家 ひろ さちや

   釈迦:「我、法を説かん

○ 最古のヒンズー教の最大聖地: ベナレス ガンジスで沐浴
  当時も、多くの宗教家が集まるところであった。
  ここで、また、5人の仲間と出会う。仲間は、怪訝な顔で観る。
   釈迦は、不思議な尊厳に満ちていた。仏陀となった釈迦がそこにいた。
    彼らに悟りを語る。

悟りを語る   @ 人間生きていることそのものが、<>で在ることを知れ。
 A 
<苦>の原因は欲望と執着であることを見極めよ
 B その原因である欲望や執着を捨て去り滅せよ。
 C そのためには八つの正しい道を実践せよ。

   正しいものの見方 正しいものの考え方
      
    正しい言葉       正しい行い
    正しい生活       無理のない適切な努力
    決して教えを忘れず    正しい瞑想と心の解放

○ 5人が弟子となる。  ここが鹿野苑
(ろくやおん):鹿の集う場所
               
初転法輪(初めて法を伝える)の地となった
                        
5 救済の旅が始まる。
@


キサー・ゴータミ
という名の女








 死んだ愛児を抱えて半狂乱になって彷徨う。わが子の死を受け入れることができない母親。生き返らせる薬を求める母親に向かって。
 「材料の芥子の種をもらっておいで、その薬を作ってあげましょう。但し、今まで一度も死者を出したことのない家のものでなくてはダメだよ。」
 村中を回った。しかし、今までに死者を出したことのない家など何処にもなかった。
・・・・。母親は、やがて気づく。
 「生きている子は生きていることですばらしい。死んだ子は死んだそのままで最高なのだ。
死んだ子を死んだ子としてしっかり愛することが本当の愛情。」
 キサー・ゴータミ は、苦を乗り越えて釈迦の弟子となった。
A



チュラ・パンタカ

の悟り





























  二人の兄弟。兄は優秀だったが、弟は何事にも覚えが悪く修行が進まない。
 それを恥じた兄は、弟に家に帰るように言う。
 釈迦は、弟チュラ・パンタカに、一枚の布を渡してこう言った。
「毎日、やってきた人の履き物をぬぐいなさい。 そして必ず「塵垢を払え」と、唱えるのです。」
 彼は、愚直にその教えを守った。毎日続けながら、ある日気づいた。
「本当に払わなければならないのは、人の心の塵や垢なのではないか?」と、
やがて、彼は悟りを開いた。

詩人 宮沢賢治 
     
 「アメニモマケズ  カゼニモマケズ
       雪ニモ 夏ノアツサニモマケヌ
       丈夫ナカラダヲモチ
       慾ハナク
       決シテ 
ラズ
       イツモシズカニワラッテイル
       アラユルコトヲ
       ジブンヲカンジョウニイレズニ             
       ヨクミキキシテワカリ
       ソシテワスレズ
       ミンナニデクノボートヨバレ
       ホメラレモセズ
       クニモサレズ
       サウイフモノニ
       ワタシハ ナリタイ」


  「四方の何処にでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し諸々の苦難に耐えて恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め」

 しばしば訪れた王舎城・竹林精舎・霊鷲山など、釈迦が瞑想した洞窟がある
                                               
祇園精舎
        ******************************** ********************************
畠中光享氏は言った。釈迦画(奈良の寺生まれの日本画家。20代からインドに放浪し、釈迦にまつわる場所をくまなく歩く。)
ラージギール ・・ ここに一番長く滞在した。 彼の調査によれば・・・・
霊鷲山
(りょうじゅせん)において、法華経・無量寿経・観無量寿経が説かれた。 ・・・と言う。 
B



殺人鬼

アングリマーラ

の改心







































コーサラ国 舎衛城 に、殺人鬼が現れた。 町は恐怖に包まれる。
    殺した人の指を首飾りにする悪党であった。いよいよ指は99本(人)に及んだ。
    100人目に及ぼうとしたときに、殺人鬼は釈迦に出会った。
    彼は、釈迦に斬りかかろうとするがどうしても斬りかかれなかった。

殺人鬼:「動くな 沙門(修行者)」
釈迦:「私は決して動いていない。生きとし生けるものに対する害心を捨てて停まっている。
    動いているのはそなたの方なのだよ。害心に目がくらみ動転して停まれないでいる
    のは、そなたの方なのだよ。」


  
釈迦の言葉は、晴天の霹靂のように殺人鬼を打ちのめした。
  地にひれ伏して叫んだ。「私を救ってください」 ・・・ 弟子にした。

       どんな宿業を負った人にも慈悲心で覆った。


  親鸞  「善人ナヲモテ 往生トグ  イワンヤ悪人ヲヤ ・・・・。」

人は知恵や能力 努力だけでは救われない。その無力さを知り、
 自然の在るがままの姿で仏の手に身を委ねた時 初めて人は救われる


○報恩寺 住職(東京都東上野)上野学園大学教授(R・C・ゼナー1913〜1970
 (オックスフォード大学)に、師事しキリスト教神学 新約聖書 等を1年間学ぶ。)
 板東性純氏は、親鸞聖人の「教行信証」を伝えている。
 
    は、恩師の
鈴木大拙(1870〜1966)から、下記のように毛筆で書かれた『書』を賜った。  
  Man's Extremity is Gods Oppotunity.   Daisetz
                  鈴木大拙 (1870〜1966)

 
意味は、
 ひとの行き詰まりが 神様のお出ましになる時である。 
(どうにもこうにも成らなくなったとき、その時に新しい世界が開けてくる。)

      =
『窮すれば 通ず。』・・・ということか。


今まで、絶体絶命の中で生き抜いてきた自信。この自信こそ慢心の正体なのだ。
 ここまで自分を育ててくれたのは両手両足のないこの体なのだ。これが自分に与えられた境遇なのだ。業のつきるまで芸人でいよう。
                            中村久子

 「あたかも母が愛しき独り子に対して善き婦人であるように、いたるところで一切の生きとし生けるものに対して善き人であれ。」と、「慈悲の世界」を説いた。    
C

プンナの覚悟




























釈迦:「おまえが目指す国の人々は気性が荒く乱暴だそうだ。
    もし殴りかかってくるようなことがあったらどうするね?」
ブンナ:「師よ。私は思うでしょう。この国の人々はよい人だ。
     何故なら私を棒で殴ったりしないから・・。」と、
釈迦:「でも、棒で殴ってきたらどうするね?」
ブンナ:「私は思うでしょう。 この国の人々はよい人だ。
    何故なら私を刀で斬りつけたりしないから・・。」と、
釈迦:「では、命まで奪うようなことがあったらどうするね?」
ブンナ:「師よ、世の中には自ら命を絶つ者もおり、
    また死はいつか我が身に訪れます。
   私は思うでしょう。 この国の人々はよい人だ。
   私は我が手に刃物を取らずとも死ぬことができたと・・・。」


 
心がけに感心した釈迦は、「もう私にはおまえに何も教えることはない。」といって見送った。我執を離れ恨みから解放されることで得られる釈迦の絶対の慈悲。
 これは今にも通じる無限の可能性と広がりを持っている。

 マハトマ・ガンジー(非暴力・非服従)は、我が身を犠牲にして相手の良心に訴える方法で、インドを独立国にした。
 「我々はみんなが同じ神の子であり、
その本質に神聖を分かちもっているのであれば、
我々はすべての人間の罪をも共有しなければならない。
 その人が自分の同胞であろうと他民族であろうと」 
 「われは万人の友である。
 万人の仲間である。
 一切の生きとし生けるものの同情者である。
 慈しみの心をもって
あらゆる生物をいたわる人
そのような人には多くの福徳を生じる。」


  ○ ビンビサーラ王(最大の理解者) 死去
 実の王子に殺される。

  
○ シャカ国滅亡
  

6 80才。 アーナンダ独りを連れて、故郷カビラバストーを目指す

  
べーサリーの町にはいると、アーナンダに話して聞かせた。                
「アーナンダよ。 今もそして私の死後も 他を頼りとせず 誰もがただ自己と法とのみをよりどころとしなければならない。それを実践する人こそ修行僧として最高の境地にいる者なのだよ。」 
                                          
  法句経
「あぁ べーサリーは美しい。
この世は何と美しく、
人間の命は何と甘美なものなのだろう」 と、最晩年の釈迦はつぶやいた。
   苦しみの果てに考えついたシャカの境地であった
○ クシナガラ・・・阿難に言う。「三ヶ月後に涅槃に入る」双樹の木の元で、
            二本並んだサーラの木(沙羅双樹)の元で・・・・

三法印 諸 行 無 常 世はなべて移り変わるものであり
諸 法 無 我 一切が我がものでないことを知れば
涅 槃 寂 静 迷いや苦しみのない心にたどり着ける
                           
一 切 皆 空 現象世界に存在するものは、皆、実体がない。→「空」


 
2月15日入滅生まれ故郷の方(北)を頭にして・・。80才

 
☆ 玉城康四郎氏の解説によれば・・・・・                          
 佛教は、不思議な教えである。
 その開祖釈尊が説いたという経典は、けっして1,2にとどまらない、おびただしい数である。
 しかも、南方パーリ佛教に伝えられる原始経典もあり、サンスクリットや漢訳に残っている大乗経典もある。どちらの経典群も、その分量においてはとてもキリスト教の比ではない。

 また、こうした経典群の中に
がある。
 律は、日常生活を規整していく律法であり、論には、右の経典を注釈したものもあり、独立の論文もある。
 律によって律宗が成立し、経論によってもまた多くの学派が現れている。
 たとえばインドでは、部派佛教の小乗二十派、大乗の中観・唯識・密教・如来蔵があり、中国では、天台・華厳・浄土・禅をはじめ多くの学派・宗派が成立した。そしてたがいに異なった思想体系を主張している。
 なかには、こころの基底をみずから経験し洞察して、その実態を叙述した学派もあり、人間や世界の実相を思索し究明した体系もある。それらは皆、深遠な体験の哲学といってよかろう。

 ところで、さらに一歩考察を進めてみると、奇妙なこと・・・実はそれが真実なのであるが・・・に気づくのである。
 佛教にはこれほど百花繚乱、さまざまな学派が競いおこり、咲き乱れているが、さて、佛教とは何か、佛教そのものとは何を指しているのか、その根本教理は何か、あるいは、最小限これだけは佛教に欠かせないものは何か。

 こういう議論になってくると、実は佛教には何もないのである。
 まったくない、無一物といってよい。全身澄みとおるほど、何もないのである。

 キリスト教にはある。神の子イエスがある、十字架がある、贖罪(しょくざい)がある、復活がある。これらを無視したら、キリスト教は崩れてしまう。

 佛教には、それを無視したら佛教でなくなってしまうものが一つもない。
 もっと突っ込んでいうと、たとい佛教でなくなってしまってもいっこうにかまわないという無頓着の力が佛教にある。
 こういうと、縁起や業
(ごう)や空(くう)の教理があるではないかという反論がおこるかもしれぬが、これらも一つの規格であるにすぎない。これをまともに受けとめていると、やがてそれまでも超えてしまうのである。縁起や業も、何もかも越えてゆくのである。空(くう)もまた空なのである。

 ではいったい、佛教とは何か。
 その答えは、徹頭徹尾なにもないという主張のなかに含まれている。
 強いてそれを指せば、悟りと言うほかなかろう。
 それは、あらゆる束縛、あらゆる教理からの徹底的な開放であり自由である。
 心情的にいえば、目覚めることである。闇から光へ、閉ざされた世界から開かれた世界へ、しかしながらそこにとどまるものではない。
 超越から超越へ、果てしなく超脱しつづけていく。何を脱却するのか。
 世界のあらゆる束縛、あらゆる観念である。このような超脱は、同時にかつ必然的に世界の実相を見究めずにはおかない。
 束縛からの解放、観念からの目覚めはそのまま世界の実相を見究めているといえよう。
 世界からの果てしなき超脱は、世界の現実への果てしなき還帰である。

  このことを理解しておかないと、『華厳経』の精神が徹底しないと思う。
 というのは、
『華厳経』こそ、無数の大乗経典のなかで、特に釈迦の悟りに重点をおいているからである。
                            ・・・・・・・ 「日本の佛典」 中公新書 55〜57頁
☆ 補足:カースト制度について・・ 釈尊誕生時の時代背景
                    
 ・・・・・ 駒澤大学教授 奈良康明 氏の解説による 
 BC8〜7世紀:鉄が使われはじめ、貨幣制度も出来、専門の職業人も生まれて、都市が出来はじめた頃に釈尊が生まれた。今は草原に埋もれていて、それらの一部しか発掘されていない。
 都会にはとかのリズムがある。新しいものが求められはじめた頃であった。

 釈尊も初期の仏教集団も、どちらかというとその都会的な人たちによって外護(げご)され信仰されていた。仏教はどちらかというと都市的な宗教・都会的な宗教と言っても良い性格を持っていた。
 コーサラ国・パセナディ王、ナラナ国・ミンジサーナ王等に養護されていた。シャエイ城に建てられた祇園精舎は、そこの大資本かが寄付したものであった。このように、都会を中心にして初期の仏教は展開されている。

 釈尊の生まれた時代(BC4〜5世紀)は、いろいろな動きが激しくなってきた時代であった。部族社会が部族国家となり君主制国家が誕生する頃であった。

 そんな中で、時代の要請に応える形で仏教が説かれたのである。
四姓
 ○ バラモン ・・・ 僧侶
 ○ クシャトリア ・ 王侯武士
 ○ ヴァイシャ ・・ 一般庶民
 ○ シュードラ ・・ 隷民
 
 この階層を「ヴァルナ  ー 四姓制度」といい、いわゆるカースト制度とは区別して考える方が妥当である。

 姓(ヴァルナ)は、特に皮膚の色を表している。
 これは両者の社会的な地位と文化の差が関わりながら成立した地位である。
 すなわち皮膚の色を表した制度であると言える。
  上の三階層はアーリア人が本来もっていた社会階層の区別ををおおよそ基にして成立した階層である。

 
従って、上の三階層は、アーリア人を基にしたアーリア人的な階層である。シュードラは、原住民の系統の階層。
 しかし、これを明確に分けることは出来ない。アーリア人がシュードラに落ちた者もいたり、シュードラがバラモンやクシャトリアになった例もある。この階層は生活様式の名称であるといえる。
 バラモンは、祭祀の呪術的なことを行っていた。あらゆることを祭祀によって占って行うのが習慣であった。バラモンたちはこの宗教的な権威を独占すると同時に、それをフルに活用していたのであった。
 クシャトリアは、一般に文武を司っていたが、社会的にはバラモン及びクシャトリアが上層階級、ヴァイシャ及びシュードラは下層階級であった。

 初期においては、兄弟で一人はバラモン、一方はクシャトリア、等ということもあり、生まれによって階層が決められるというようなことはなかった。
 四姓は、アーリア文化の優越性を意識しながら社会の中の階層的位置づけを造ろうとしたものである。バラモンたちを一番上にした社会のある種の理想像が四姓制度である。これは理念的なものであったと言えよう。
 しかし、同時にBC6〜5あるいは8〜7世紀に様々な種族・部族・職業集団を中心とした実質的な社会集団が成立してくるのであった。これをジャーティと称した。
 カーストなる言葉はインド語ではない。16世紀に訪れたポルトガル人たちが、インド人の非常に特異なインド人の在り方を見て「カスタ」と言う言葉で呼び、それが欧米に入って”カースト”と言う言葉になったのである。インド語ではジャーティと呼び「生まれ」の意味であるが、これが釈尊の生まれる頃には成立していて、職業を世襲するとか族内婚をするとか・・・、いわゆるカースト的な性格を持ち始めていた。
 バラモンの四姓制度は、理念の上ではすべての人間を含まなければいけないので、新しくできてきたジャーティ集団を「四姓の間の雑婚によって生じたもの」として説明をしてきた。そのことは現在にまで影響を及ぼしている。すなわち理念的な四姓制度とジャーティ:カースト
(ジャーティ)制度は、密接に関連しながら現代にまで及んでいるのである。これら両方を一緒に考えないとインドを正しく理解できない。そこで、「カースト・バルナ制度と呼ぼう」等と主張する者もいるほどである。
 いろいろな仏典を読んでいると、いろいろな職業集団とか部族とか種族の名前が出てくるが、同時に四姓の名前も出てくる。その場合、「カースト・バルナ制度」と言う名において理解すべきであろう。

 しかし、釈尊の時代になるとバラモンたちの勢力が陰りを見せ始めてくる。
 バラモンの宗教的な権威が次第に限界を見せ始めて来る。そしてバラモンの社会的な勢力も下落しはじめてくる。そんな傾向をもたらした一つの要素は、経済的な理由と都会の出現であった。
 
 BC8〜7世紀:鉄が使われはじめ、森林の開拓とか種々の手工業が興隆し、生産が増大すると自給自足の生活の枠を超えてしまうことになる。
 生産物は商品として売られはじめ、当然に商人という職種も生まれて貨幣経済も一般化し交易路も出来、川沿いには市場が建ち倉庫も出来て専門の職業人も生まれて、人々が集団化して生活するような社会になって都市が出来はじめた。その頃に釈尊が生まれた。この頃には大きな都会のあったことが知られている。主な都市は、カピラヴァッツ・クシナーラー・コーサンピー・ミティラー・サーケータ・ヴァーラーナシーチャンバー・ラージャガハ等である。
 今は草原に埋もれていて、それらの一部しか発掘されていない。

 都会には都会のリズムと気質がある。新しい環境の中に新しい人間関係が求められはじめた頃であった。
 旧来の慣行とか習慣が出たりもする。そして、新しい価値観が求められてくる。このようないろいろな動きのあった時代に釈尊は生まれたのである。
 釈尊も初期の仏教集団も、どちらかというとその都会的な人たちによって外護(げご)され信仰されていた。
 仏教は、当時からすると、どちらかというと都市的な宗教・都会的な宗教と言っても良い性格を持っていた。
 コーサラ国・パセナディ王、ナラナ国・ミンジサーナ王等に外護
(げご)されていた。シャエイ城に建てられた祇園精舎は、そこの大資本かが寄付したものであった。このように、都会を中心にして初期の仏教は展開されている。
 釈尊の生まれた時代(BC6〜5世紀)は、いろいろな動きが激しくなってきた時代であった。
 部族社会が部族国家となり君主制国家が誕生する頃であった。
 そんな中で、時代の要請に応える形で仏教が説かれたのである。
 そんな時代背景を考えながら釈尊の人柄なり教えを理解する必要がある。

補2:道元禅師の「正法眼蔵」から学ぶ ・・・・・
 志を発(おこ)さば、ただ世間の無常を思ふべきなり。この言(ことば)はまたただ仮令(けりょう)に観法(かんほう)なんどにすべき事にあらず。
 また無き事を造りて思ふべき事にもあらず。真実に眼前
(げんぜん)の道理なり。
 人のをしへ、聖教
(しょうぎょう)の文証(もんしょう)・道理を待つべからず。
 朝
(あした)に生じて夕(ゆうべ)に死し、昨日(きのう)見し人今日無きこと、眼に遮(さえぎ)り耳に近し。是(こ)れは他(た)の上にて見聞(みき)きする事なり。我が身ひきあてて道理を思ふ事を。
          道元 「正法眼蔵随聞記」 二ノ二十五
○志・・・仏の道を生きるという志
○無常 ・・・
移り変わっていくこと
○仮令
(けりょう)に観法・・・仮に想像して心に想うこと
○無きことを・・・
未だ来ぬ未来のことなど
○眼前
(げんぜん)の道理なり・・・目の前にあることそのものが”無常”と言うことなのだ。
○を待つべからず。・・・
教典や人の言葉によって気づくことを待つまでもない。
○眼に遮
(さえぎ)り耳に近し・・・視界を遮るほど目の前に溢れている。よく耳にする。
○他
(た)の上にて見聞(みき)きする・・・他人事として見聞きしてはいるが・・
○我が身ひきあてて・・・
「自分に起こったら?!」と思って見なされ。「大切なこの自分が・・・?!」と思いかえて見ることができたならば、一層、この『無常』が理解できるであろう。
 念念(ねんねん)に留(とど)まらず、日日に遷流(せんる)して、無常迅速なること、眼前の道理なり。

 知識経巻の教
(おしえ)を待つべからず。
 念念に明日を期することなかれ。

 当日当時許
(ばかり)と思ふて、後日(ごじつ)は甚だ不定(ふじょう)なり、知り難ければ、ただ今日(こんにち)ばかりも、身命(しんみょう)の在(あ)らん程、仏道に順(したが)はんと思ふべきなり。

 仏道に順はん者は、興法利生
(こうぼうりしょう)のために、身命を捨てて行じて去(ゆ)くなり。


       
同 二ノ二十五
○念念 ・・・ 一念一念・一瞬の思いに
○日日に遷流 ・・・ 日々変わることは重要なこと・道理である。
○知識経巻 ・・・ 指導者・師匠や経典
念念に明日を期する ・・・ 明日が在ると期待するな
興法 ・・・ 仏法を広める
利生 ・・・ 衆生に利益を与えること
      *************************
無常迅速 ・・・ ある弟子・修行僧が、お釈迦様に問うた。
 「私たちの寿命は限りがあります。死に近づいております。これはどれほどに速いのでしょうか?」
 『それはなかなか難しい!貴方に分かってもらうことは不可能でしょう。』

 「では、たとえ話で、お示し下さい。」
 『一人の足の速い男が居る。四人の弓の名人が、一気にそれぞれに四方に向かって矢を射ったとしよう。足の速い男は、この放たれた四本の矢を地上に落ちる前に掴み取るほどの速さであろう。』と応えた。『足の速い男は、それでも地行
(ちぎょう)夜叉(やしゃ)には敵わない。しかし、地行夜叉でも、空を飛ぶ天人・空行(くうぎょう)夜叉には敵わない。だが、空行夜叉でも四天王には敵わない。さらに、四天王の速さは、太陽や月の速さには敵わない。・・・。太陽や月の速さは、ケンギョウ天子(太陽や月を引っ張っている天子)にはかなわない。・・・・・。さて、我々の寿命の尽きるのは、このケンギョウ天子よりも速いのだよ!』と、お答えになった。 それほどに「命」は短いのである。
駒沢大学教授 角田泰隆 氏解説
☆ 無常迅速について ・・・・管理人の感想的な補足
 この喩え話を、村人の葬儀の帰りにマイクロバスの中で話してみた。マイクロバスの中には、80代の高齢者が二人、中年の婦人が数人男性が数人同乗していた。
 だが、意外なほどに反響がなかった。
 お釈迦様と我ら凡夫の尺度の違いであろうか?
    
 少なくとも、・・・・・この宇宙(我々の住む宇宙以外にも、無数の宇宙は存在する)が生まれて137億年経っている。
 1億年を1mとすると、この宇宙が誕生した時点から今現在までは、137mとなる。 
 こちらから50m手前になって、50億年前に太陽系が誕生。46億年前(46m手前)に地球誕生。命が誕生したのは43億年前だから、・・・・・、43m手前になってからである。
 また、人類が誕生したのは700万年前である。 ・・・・・。すると、わずか7cmと・・・・、ほんの少し前のことになる。
 さらに、我らホモサピエンスが生まれたのは、20万年前のことだ。・・・・・とすると、わずか2mm手前と言うことである。
 さて、
 この2mmのわずかな幅の中で、人類は世界各地に拡散し、更に、我が国では多くの人々の歴史が刻まれている。生まれ死に生まれ死に・・・・と繰り返してきた。
 この物差しで考えると、お釈迦様の喩えの話が少しは理解可能である。
                  ・・苦縁讃
 LINK    宇宙論(M理論)


 LINK    原子そしていのち


 LINK   日本人のルーツ


 LINK   我が国の歴史(概観) 
☆ リンク ☆
玄奘三蔵 イエス 空 海 参考文献 世界観