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※ 三蔵法師(さんぞうほうし)とは、仏教の経典である経、律、論(=三蔵)、すべてに精通した者を指し、単に「三蔵」と呼ぶこともある。 四大訳経家に数えられ、鳩摩羅什や真諦、不空金剛なども多くの教典の漢訳を手がけており、「三蔵法師」と呼ばれる。日本では一般に単に「三蔵法師」と言えば玄奘の事を指すのが殆どである。
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◇ リンク ・・・ 唯 識 論 |
玄奘玄奘三蔵の果てしない旅 |
1 真理を求めて - 苦難の果てしない旅の行程 - |
それは、実に17年の永い過酷な旅であった。その行程は以下のごとくである・・・。 |
長安→タクラマカン砂漠→トルファン→クチャ→タシケント→バーミャン→ガンダーラ→ブッダガヤ→ナーランダ |
☆ 「般若心経」を、サンスクリット語から中国語に翻訳したのは玄奘三蔵である。 | ||||||||||
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その後、 | ||||||||||
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平山郁夫画伯 | 氏は、シルクロードへ実に130回以上訪れて、玄奘三蔵をテーマに作品「大唐西域壁画」7場面の大作を産んだ。 全部で、13の壁。高さ2m 横幅計49m 玄奘の普段の旅を描いた。(着想して42年の後、 制作年数は17年間であった。) |
2 生い立ち | |
このころ中国は混乱期 |
589年 | 随が中国を統一。 | |
602年 | 玄奘(後の三蔵法師)、生まれる
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3 幼少時代 |
611年 | 玄奘、当時10歳。 地方役人の父親(陳慧ちんえ)死亡。 その後 次兄出家先に引き取られる(浄土寺) 科挙(かきょ):旧中国で行われる官吏登用のための資格試験に挑む。 彼は、13歳で合格した。(500人中27人の合格。) 年齢制限があったが、特別に僧になる受験を許可された。 各地で、反乱の後、隋は滅亡する。 |
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612年 | 随の二代皇帝煬帝(ようだい)の頃であった。皇帝は、この年大治水工事を敢行。また、朝鮮半島の高句麗を強行・遠征し、半分の兵隊が死ぬなど、悪名高い皇帝で国土は荒廃を極めていた。 そこかしこに白骨が散乱する状況であった。 玄奘三蔵の幼年時代である(602年生まれ)、少なからず玄奘に影響を与えたに違いない。 |
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615年 | 玄奘三蔵、次兄と共に洛陽から長安に移る。17才。
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4 青年期 |
399年 | 法顕(ほっけん):長安を出発してインドに渡り、数多くの教典を持ち帰った名僧が居た。 | |
618年 | 時は、唐王朝 初代皇帝 高祖の時代に、玄奘は多感な青年期を過ごした。 この年、玄奘三蔵は次兄と共に洛陽から新しい首都長安に移り住む。(この時、17歳) 多感な青年・玄奘は「荒れ果てた人間のこころ。真実の教えはどこに?」と、苦悶しつつ勉学に励む。 玄奘の才能は、国中に知れ渡ることになる。 彼は、「宗派によって教えが違うことに、真理は一つではないのか?」と疑問を抱く。 格式の高い僧を尋ねて聞くが。しかし、納得の出来る答えが無かった。 「自分も法顕(ほっけん)のように天竺に渡るしかない。」 と、決断し朝廷に願い出る。 しかし、朝廷は出国を許さなかった。 ☆ 隋滅亡、唐建国。
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5 長安を出る |
629年 | 28歳の玄奘、国法を破って長安を出る。 西へインドを目指す。
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また、途中立ち寄った国の王に、このままそこに留まるように脅される。 王は、名僧をこの国に留めておきたかった。 彼は王に説得した。結果、王はお供と馬を提供して送り出した。 |
6 天山山脈。 - 7日間かけて越える - |
天山山脈に至った。標高4,000mの山である。(我々の想像を超える厳しい旅路であった。) 途中、一行10人中4人が凍病死する。一行は、7日間かけてようやくこの山脈を越えた。 ついに、聖地に近づいた。バーミヤンの巨大石仏にまみえることができた。 これは、実に長安出発から3年後であった。 |
631年 | ガンダーラに到着。この時、玄奘三蔵、30歳。 |
玄奘が到着したインドは、想像していたインドとは様子が異なっていた。 玄奘は、ある場所を訪れた。そこには、放置されたままの菩薩像があった。 |
7 師に会う |
ここで、彼はシーラバトラに紹介された。 |
8 帰 国 |
643年 | この年、玄奘は帰国を思い立った。
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645年 | 玄奘、長安に帰る。 民衆の熱烈な歓迎を受ける。彼は、英雄として迎えられたのであった。 国禁を犯した彼には、これは予期しない状況であった。
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当時の皇帝 唐の二代皇帝 太宗(たいそう)は、国禁を犯して出国した玄奘に、 「そなたは出家のみ俗世の法などで、裁けるものではありません。」と迎え、・・・ 年下の玄奘を、太宗(たいそう)は、自分の義父として礼する。 玄奘は、 仏像7体 経本657部 持ち帰った。 |
653年 (再掲) |
この年、日本から第二回目の遣唐使が派遣された。 道昭、この年入唐して玄奘(げんじょう)から教えを受けた。(第1伝。) その後、我が国の「法相宗」となる。 中国・日本の仏教の一学派である。 南都六宗の一つ。 「解深(げじん)密経」「成唯識論」などを典拠とし、一切の存在は識(心)の作り出した仮のもので、阿頼耶識(あらやしき)以外に何物も実在しないと説く。 インドの唯識派を承け、唐の基(き)を祖とする。 日本では、奈良の興福寺・薬師寺を大本山とする。 |
9 教典の翻訳をする |
瑜伽師地論(ゆがしじろん):(空思想の実践論)・・自己の心の中の汚れた部分を積極的に見直そうと言う教えである。 その後、玄奘は18年間の後半生を佛教再生の作業に没頭する。 その間に、 総計 74部 1,338巻 の教典を翻訳した。 大般若経 600巻:悟りの智慧の義を説く諸教典の集大成をも行った。 |
663年 | 約4年がかりで、大般若経600巻を翻訳し終わった。 このとき玄奘は60歳を過ぎていた。
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664年 | 2月5日 玄奘三蔵63歳になっていた。 総計74部1,338巻の教典を翻訳し、大般若経600巻:悟りの智慧の義を説く諸教典の集大成を成し遂げられた。
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10 その後、佛教の心髄として、日本に渡る。 |
我が国では、日本佛教の父→ 釈尊 母→ 玄奘 と言われている。 |
参考文献 |
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