|
(1)
八
識
説
|
(1) 八 識 説 (8つのこころ) |
① 8つの”こころ”とは・・・
○ ”唯識”では、こころの深層にある心理を含めて、ヒトの内面に”こころ”があり、これを8つに分別(下表)した。
この思想を作り上げた人々は、ユガ(ヨーガ)業唯識派であった。 |
|
◇ ”こころ”は、大別すると、2つに分けられる。 |
それは、表に現れた「表層」の顕在心と、深層に潜んでいる潜在心であるというものである。
|
我々は、見たり聞いたり触ったりして、感覚を通して情報を得て、これを基に思考する。
そして行動する。ここまでが「表層」の顕在心の6つのこころ:六識・・・・・である。
さらに、内に潜在する”こころ”:潜在心が二識ある。
これは顕在する”こころ”と連鎖・連動する。 ・・・・・と、解説された。 |
※ 下表のように分けて見ることができる。(立教大学 横山鉱一 教授による) |
表
層 |
顕在心
(六識) |
現行
(げんぎょう) |
1 |
眼 識 |
これらの
感覚
を努力して
明瞭にして
いく
|
ちょっと、日常の自分を振り返ってみよう。
カメラで風景を写すと、ピントが適正ならば機械はすべてを鮮明に風景を印画紙に焼き付ける。
うっかり、「人の目はもっと精巧だ!」と、思い込んでいる。
しかし、もう一度目を遠方に移してみよう。
気がつけば、肉眼で眺める風景にピントが合っている部分は、ほんの一部分のピンポイントでしかない。
意外だが、それでもヒトは自分の目の方が正確に対象物を確認していると思い込んでいる。
カメラよりも視野広く見えると思い込んでいる。
実は、そう思い・・、確かにそのように前の風物が見えるのは、今までの経験と学習が観察を手伝ったりと、その時のその人のこころが対象をみているにすぎないのである。『あばたもえくぼ』なんて言葉もある。
眼だけではない、大きな騒音も心ここに在らざれば、全く聞こえなかったり、・・・・・、体に触れるモノも同様である。
・・・ 苦縁讃
|
2 |
耳 識 |
3 |
鼻 識 |
4 |
舌 識 |
5 |
身 識 |
6 |
意 識 |
思 考 |
”こころ” |
深
層 |
潜在心 |
種子
(しゅうじ) |
7 |
末那識
(まなしき) |
自我執着心
|
7番目の識
|
8 |
阿頼耶識
(あらやしき) |
根本心 |
五感に感じるコトは、すべて”こころ”が認識させていると言える。
しかし、問題は、この意識する”こころ”は、本人が自覚しない心の深層に潜在している”種子(しゅうじ)”から促され、導かれて、誘導されているということである。
例えば、ここに一万円札の束があったとしよう。誰の物なのかわからない。
これを見た人の心:意識はそれぞれ多様に揺れ動く。先ずは、「これがもしも自分のものだったら・・・・!」と、思う人が多いであろう。
① 「これだけあったら、○△を買おう!」とか
② 「これだけあれば、随分の貧しい人が救われる!」、あるいは
③ 「これを資金にして、とりあえずもっと多く増やそう!」とか・・・・、実に様々である。
決して、同じではない。
いずれも、自我執着心に基づいて考えようとする。
①は、そのまま自我のためである。 ②もそうではあるが、他者とともに自我がある。
③は、もう少し先を聞かなければ、その「自我執着心」の程は判定できない。
この「自我執着心」も、百人百様だ。
「もし、自分の物であったならば・・・・!?」とは思わない人もいる。
自我執着心は、「根本心」に基づいているという。
・・・ 苦縁讃 |
② 8つのこころを観ずる方法とは ?・・・・ヨーガ(ヨガ)について |
○ 人間の心は、常に乱れている。
主として、視覚・聴覚の窓を通して確認し、その結果”こころの流散(るさん)”が生じる。
これを、「 散心・・乱れた心」という。 |
○ ヨーガとは・・・
目をつむって、吐く息・吸う息を整えていく・・・・すると、やがて心が乱れない状態に至る。
摩周湖のごとく、表層が澄んでいれば、心の底が見え、やがて心の中に沈潜していく。
これがヨーガである。 ・・・ この状態で8つの”こころ”を観ずる(観る)ことができる。 ・・という。 |
③ ヨーロッパの唯心論との違い |
○ ヨーロッパの「唯心論」は、自他差別の世界のことであり、
ここで説く「唯心論」はこれらの思想とは異る。・・という。 |
◇バークレイ→人は、”スピリッツ”を神から受けて、この”スピリッツ”で世界を見る。スピリッツは、やがて神に戻ってゆく
◇デカルト → 心とモノの二つがある。 ・・・と、分けて考えている。
◇プラトン → 心は”霊魂の牢獄”である。 ・・・ と、認識している。 |
さて、・・・・ |
|
(2)
こ
こ
ろ
は
仮
有
の
も
の
と
す
る
思
想
で
あ
る
|
(2) 「唯識」では、この”こころ”を、仮有(けう)のもの、即ち”仮(かり)にある”もの・・・と、説いている。 |
○ 唯識は、ヨーロッパの唯心論とは異なる。・・が、しかし、唯心論的な傾向を持つ思想ではある。
↓
「苦」から救済するための筏(いかだ)として、仮に存在するものが「こころ」であるとする。
① 唯識論は、”こころ”を、仮有(けう)のもの、即ち”仮にある”もの・・・と、説く。
|
瞑想によって、ついには”こころ”を「空」にまで推(お)し進めて観ずるのである。
だが、「空」は『虚無』と同意ではない。
◇ 唯識無境(ゆいしきむきょう) → 境識倶泯(きょうしきぐみん)=
共に無くなること → 空に至る |
・・・と言う教えなのである。
注:例えば:
バラを見る・・今、視覚が薔薇(ばら)を見ている。
しかし、眼前からバラを取り去れば見えない。
このことは、見える対象が有るから見えるのである。 または、
薔薇を取り去らなくても、目をつむれば見えない。→見えなければ、認識しない。
従って、「視覚」という”こころ・心”は、在るようで無く、無いようで在る。
要は、考える対象があるから意識が起こってくるにしかすぎない。 ・・・・・・と、説く。
◇ 定義: 空は「虚無」ではない。 ・・・ということを、次のように示している。 ・・ ”空観”という。
” 空 観 ” と は |
☆ あるもの(A)の中に、
☆ あるもの(B)がないとき、
☆ それ(A)はそれ(B)として、空であると
如実に見る。
☆ 更に、そこ(A)に残れるもの(C)はあると
如実に知る
・・・「瑜伽師地論」 |
例えば、→
|
☆ 蔵(A)がある。
☆ 蔵の中に宝物がある。これらの宝物(B)を、
盗賊がすっかり奪い去った。
☆ 空っぽの蔵が残った。
☆ 蔵(A)は宝物のあった記憶(C)と共に
目の前にある。
|
また、喩(たと)えて言い換えれば、
暗闇の中にいると、ふっと「お化けが居る」ように思う。→電気を付けた瞬間にそれはなくなる。
→しかし、何かが心の中に残っている。
|
・・・・と、言ったようなものである。
◇ フロイト&ユンクの無意識論・・・ 患者など他人の中の無意識の存在を科学的に認知することを科学した。
◇ 唯識では、自ら修行して自己の中の無意識を知ることである。→こころを三次元の空間の中にあると考えていない。
ヨーガ(瞑想)・修行により自分の中の顕在心と潜在心に入っていって、自ら心の住所を換えていくことができる。
・・と言う。
<”識”の構造> (立教大学 横山鉱一 教授による) |
* 唯識は、修行して自己の中の無意識を知ることを説く。 |
自然(器世界)
身体(有根身)
眼 識
末那識(まなしき) 耳 識
意 識 鼻 識
身 識 舌 識
|
身体(有根身)
|
自然(器世界) |
|
三次元の空間の中ではなく”こころ”の中を分析している。
自分の中の顕在心と潜在心に入っていって、
無意識のこころ:阿頼耶識を、
自ら換えていくことができる。
|
<阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)> ・・・表層と深層の相互関係
表 層 |
深 層 |
識: 現行(げんぎょう) ← |
→ 阿頼耶識 : 種 子 |
|
☆ たばこのポイ捨て →無意識にしているうちに、悪い種子を育てていく。
|
|
(3)
「意
識」
と
い
う
モ
ノ |
(3) 意識というものについて |
意識というものは、まことに曖昧なものである。
ころころと移り変わる。 ころころと こころ 哉
・・・苦縁讃 |
○ 頭がかゆい → これを意識をすると、痒さが増していく。
○ 老化していく→ これを意識すると、老人性の鬱病(うつびょう)となる。老人は過去や未来を憂うことが多くなる。
○ 「荷物を持ちましょうか?」と言われると、今まで持っていた荷物の重さが、やたら気になってくる。
② 言葉の作用・・・
我々は、言葉によって物事を考え、言葉によって心を表現もするそして、その言葉によって迷っている。→
良い言葉・正しい言葉 を求めることは大切なことである。
何でもないひょっとした一つの言葉によって救われた気持ちになることもある。ヒトは救いの言葉を希求する。 |
|
|
(4)
真
理
に
至
る
四
つ
の
段
階
|
(4) 真理に至る四つの階段 |
それでは、静寂な心を得る方法はいかがなものであろうか? ・・・苦縁讃 |
|
・・ (立教大学 横山鉱一 教授による解説)
ア |
親近善知識(しんこんぜんちしき) |
正しい師匠に会うこと |
見る、出会う |
イ |
正聞熏習(しょうもんくんじゅう) |
良き師を得て、繰り返し繰り返し正しく聞くこと |
何度も繰り返し聞く内に心に残る。心の底に留まって離れない。 |
ウ |
如 理 作 意 ( にょりさい )
注:例えば、「諸行無常」について |
聞いたことを、自分でも考えてみる。
実生活の中で哲学する:存在の理。
ニュートンは、リンゴを見て、それだけで引力を認知したわけではない。それの前に因果があったはずである。 |
努力の結果、認識するに至る。 |
エ |
通 達 真 如(つうだつしんにょ) |
真理に通達すること |
真理を得る。
揺るぎない心理だと確信できること。 |
注:例えば; [諸行無常]について・・・如理作意(にょりさい) の在り様(よう)(三つの認識手段)・・・・ |
|
認識手段の行程 |
例えば・・ |
如理作意(にょりさい)
の
過 程 |
① |
至 教 量 (しきょうりょう) |
諸行無常と言う文句(教え)を知る |
② |
現 量 (げんりょう) |
感覚でとらえようとする |
③ |
比 量 (ひりょう) |
論理的に自覚する。
(量とは=認識・手段のこと) |
|
顕在心であるところの「第六識・意識」(八識の内の第六番目)の高揚をはかることは重要である。
|
2 潜在識(第七識)の「我執(がしゅう)」を克服するために |
2
我執の克服 |
(1)
無
我
・
・
我
執
|
(1) 無我について考える・・・・我執(がしゅう)とは、いかなるモノだろうか? |
こんな経験をしたことがある。
私は、子供の頃から絵を描くことに非常に興味があった。
ところで・・・良くある風景であるが・・
絵を描くヒトが腕をいっぱいに伸ばし、対象の風景に向かって片目を閉じに持った鉛筆で計っている。
「カンバスにどのようにこの風景を納めたモノか?!」と、思案する風景である。
この時に、私は、こんな風に自省したことがあった。 |
|
「手の先に掲げた鉛筆に、遠方の大杉が隠れてしまったぞ?!」 ?!?!
「だが・・鉛筆はあの大杉よりも小さい。」と、独り言・・。もちろん当然のことである。 |
だが、しかし・・・
”こころ”は、「肉眼」という組織体をとおして、周囲の世界・宇宙をみている。
この時に、
絵を描くときの、あの、”当然”の状況を、うっかり錯覚してしまっていることが多いのだ。
手にかざした鉛筆(我)が、対峙する大杉と同じサイズだと思い込んでしまうのだ。
・・・・・現実の生活で、そんなことが起きているように思う。 どうだろうか?・・・・・??
「肉眼」という、小さな窓から「吾・己」が外界をみる!?・・・と、知らず知らずのうちにサイズの相対的な比較を誤ってしまって気づかないことが多い。?!
例えば、・・・
野球の「○△選手! おぃ! あの守備はないぜ!」「監督のあの判断は無茶だよなぁ!」等のスポーツは、生活の潤いとなる。しかし、彼らのずば抜けた才能と陰の努力を承知した上でのお楽しみならば、それは結構であるのだが、そうばかりではない。・・・。
だが、翻って考えれば、これがスポーツ鑑賞の醍醐味で在るともいえよう。・・。
現実の日常の社会生活でも、このミスサイジング(Mis-sizing)は、無意識ではあるが結構多いのである。
”大臣”や”政治家”達を、隣のオッサンのように批評して居る。
(これは、『政(まつりごと)』をする政治家の方々から、”公儀”の心が消失してしまった結果、国を愛し世の中の未来を工夫するよりも、4年後の自分の身を考える方を優先させてしまっている・・・・といった、見にくい現実があるからではある。
しかし、そんな政治家を育てたのは、結局、目の見えない我々国民であるのだ。
TVに出演して寸劇等をして、コメディアンを演じて「票稼ぎ」。視聴者は、これを見て単純に悦んでいる。国家を担うべき政治家達の酒宴の余興のような姿を見て、「無様で哀れな状況だ!」と嘆く人は少ない。)
自分が大きく見えて、・・・、それに気づかない。
しかも、気づかないでも良いように、さらに言い訳を考えたりもする。
自分の考えと異なる者を、軽蔑して排除したくなったりもする「いじめ」等は、小学校の世界だけの出来事ではない。 ・・・・苦縁讃
LINK 思索の庵10:聖徳太子の十七条の憲法
|
|
① 我 執: 我執とは末那識(まなしき)の世界である。 |
二つの「我執」がある →
A |
表層的なもの |
手足・・・「私の手」とか、「私の足」。← 私のものか?
赤ん坊の抱き癖等・・「私ならこうするだろう!」・・等の拘(こだわ)り。 |
椅子に座ったときに何気なく脚を組むことがある。このときに組んだ下で支える脚は重さを感じない。「我の脚」は重さを感じず苦痛ではない。・・・・。この場合、隣の他人の脚を支えると・・・・、感想は全く異なってくる。・・・苦縁讃 |
B |
潜在的なもの |
寝ても覚めても執着する自我意識
・ 生まれ変わり死に変わりしても消えない「我」への拘り
・ 「自分の子供だから可愛い!」という想い。 |
☆ このような我執は、命(いのち)有るものすべて持っている。→ ゾウリムシが餌を捕らえる行動も然り・・!!
「持ってない!」と、断言できる人は居ないのである。
原始の時代、女性にはこの”我執”が有ったからこそ、子供は外敵から守られたのである。
『私の子だ!!』と、自らの命を投げ出して、子供を守ったはずである。
昆虫にも、命がけで産んだ卵の保全を図ろうとする本能が見られる。
(植物にだって神経があるのである。)
「母は、女性の性(さが)は偉大なのである。」・・・・・ところが、・・・・
この”母性”人間に限って、昨今は壊れだしてきている。"子供への虐待"である。
ヒトは、言葉によって「教育」を受けないと、母親になれないのであろうか????
そのことは、一面、否めない事実ではある。
ここには”我執”の問題が潜んでいるように思う。 根っこは深いところにあるのである。
・・・苦縁讃 |
|
*********************
○ 倶生(ぐしょう)の我執(先天的):釈尊は、我執を去り無我となることの必要性を説いた。
バラモン教では、「真我」がある。・・・と、説く。
○ 分別の我執(後天的)とは:人に言われてその気になること・・
例えば、
「私は無能」という自我観・・
「私は、○△家の者だから・・!」と言う矜恃(きょうじ)・思い。 等である。
濁った我執から、より清らかなそれへと浄化させる努力こそが修行の道である。
あたかも、ろうそくが燃えるがごとく・・である。やがて、ろうそくは燃え尽きる →
智慧という光 慈悲という暖かさを放って、”いのち”のろうそくは燃え尽きる。 |
人は皆、すばらしい素質を兼ね備えている。
皆、千差万別であり、その多様な中で比較のしようのない”輝く”ものを、お互いに、皆、それぞれが備えている。
それをどうして気づき、更に、それをどのように清め・高めて行けば良いのであろうか?
・・・苦縁讃 |
<末那識の階層> (立教大学 横山鉱一 教授による)
|
|
エネルギー放出先 |
↑↑
↑↑
↑ |
煩
悩 |
様々な我執 |
|
生の
エネルギー
<悲善悲悪>
無機であって
清濁在り |
清
濁 |
誓 願
|
我癡(がち) |
我の愚かさ・愚迷を知る |
他者への愛 |
我 見 |
他者との関わりで |
↑ |
我 慢 |
他と比較して慢心する |
エ ゴ |
我 愛 |
自分こそ愛しいという思い |
|
注: 「我・吾。我こそは!」=という”いのち”。
”いのち”の愚かさを浄化して、エネルギーを正しく最大限に発揮させよう!
|
|
(2)
我
執
を
去
る
|
<我執を去る方法>・・・こころを浄化させる手段は・・・
○ ヨーガによる正聞薫習(しょうもんくんじゅう)によって自らを清める方法
正しい教えを正しく聞くことだ・・・・誰かに言われた忘れ得ない言葉・・・・。
ふっと気づき心の底にひっ掛かって、自分の中の「己」が捕まえて離さない。
LINK 言志四録(真己と仮己)
それは、理屈ではなく、心から叱って、自ら判断し覚醒を促してくれる先生である。
または、
○ 意味は分からなくても・・
例えば、「空即是色 色即是空」と、一心にこれを繰り返すことによって
やがて誓願を果たして、内なる種子を目覚まさせることも可能である。
自分の中の種子(しゅうじ)が、やがて受け入れてそれを成長させ、そして、こころを浄化する。 |
|
(3)
浄
化
し
て
得
ら
れ
る
境
地 |
(3) こころを浄化して得られる境地
○ 浄化して得られる二つの境地がある。 (立教大学 横山鉱一 教授による)
得られる境地 |
※ |
無分別智
(むぶんべつち) |
「識」から「智慧」に変化した境地 |
※ |
平等性智
(びょうどうしょうち) |
末那識に転じて得られる智慧:例えば→ |
イエス
釈尊
ガンジー
テレサ |
|
・・と、解説された。
・・・また、・・
補足:五智五仏(五智如来)について 「理趣経」 松長有慶 著 中央文庫より |
阿閦(あしゅく)如来 |
大円鏡智
(だいえんきょうち) |
水に喩えると(「秘蔵記」から紹介)
澄んでおだやかで、一切の色や姿がその上に表れる |
宝 生 如 来 |
平等性智
(びょうどうしょうち) |
あらゆるものの影が水に映って高下なく水面が等しい高さあること |
阿弥陀如来 |
妙観察智 |
水の中に一切の色とか姿の区別がはっきりと表れる |
大毘盧遮那如来 |
法界体性智 |
その水が至る所に遍満する |
不空成就如来 |
成所作智
(じょうしょさち) |
あらゆる生き物が水によって生まれ成長すること |
|
|
3 一切は心が生じせしめる |
3 一
切
は
心
が
生
じ
せ
し
め
る
|
(1)
佛
教
の
深
層
心
理
:
阿
頼
那
識
|
唯識では、 一切の日常の現象世界はすべて阿頼那識から生ずる という。
〈阿頼那識は、過去の「業」の貯蔵庫:プールである。〉
自然界に存在するもの:コップ・星・机・宇宙・・そして、「痛い。」「苦しい」と言った心も ・・・・
すべて阿頼那識から生ずる という。・・のである。とすると・・・・??
では、・・・・・・?? ?
すべてが、心の中にある・・・?・・・では、
それらは感覚は、幻(まぼろし)のモノで、実在してはいないのだろうか? ↓
「丸い」というコップの形は、コップの持っている属性か?
それとも、丸いと見た人間の”感じ・感覚”でなのあろうか?
|
ロックは、二つの属性に分けて考えた。
① 外的属性 ・・・ 形・数・動き
② 内的属性 ・・・ 冷たい、色、食べたときの味とか |
|
☆ 佛教では、「これら一切は、その人の心の映像にすぎない。」という見方をする。
そこで・・ 一人一宇宙という考え方からすれば、
即ち、
唯識では、外界にはそれらのモノはないんだ!というのである。
↓
知見するものは、心が観ており、これは脳から生まれた副産物というのである。
|
かつての教え子達が、季節ごとに旬の物を送ってくれる。
また、時々、入れ替わり立ち替わり拙宅に訪れて、「これ!結構旨いですよ!」と、届けてくれる。。 聞いてみれば、・・・・、もう、かつての教え子達は還暦を迎える年齢になっているという。
思えば・・?!小生は、逢ったときに彼らを「よう!○△。」と、敬称を省略しているではないか?!
既に白髪交じりの、眼の前の彼らが、未だに・・・・・・???、
あの頃の・・・・、昔の『可愛いガキ大将』にしか見えないのである。
『良いんだよ先生!俺たちも先生の前では、昔に戻れるんだから・・・・!』という。
まださめぬ
此世の夢に夢を見て
いやはかなるる
身のゆくへかな 沢庵 |
|
”こころ”が、そんな風に見させている。この間は、現実の時間が”夢”の時だ。
私と、かつての教え子達との間には、時間が止まったままなのであった。
非才で愚直なだけであった、この非常識な”昔・先生”には、唯識が理解できるように思うのだ。
・・・苦縁讃 |
|
☆ 阿頼那識→ 一切種子識=蔵識 (アラーヤ=蔵の意)
業(過去の行為)が、瞬間瞬間に刻々種子を、深層心理の中に植え付けていく
<人間の日常の行為が一つ一つ貯まっていく、即ち、薫習(くんじゅう)していく>
★ 「阿頼耶識縁起」の図 ★ |
例えば、相手を「憎い」と思った隠れた心の在り様が、刻々巡って、新しい種子を産んでいく。
そして、これは未来に影響し繋がっていく。
汚れた眼でものを観れば、見たものは汚れて見える。
これが増幅して循環する。 順次溜め込まれていく種子(しゅうじ)となる。
そこで、・・
「我」の存在を⇒無我に向かわしめる努力が必要である。
釈尊は、
「生まれ変わり死に変わりしてゆく人の魂は、
不連続の連続の業の相続である。」 |
|
・・と言った。
このことは、喩(たと)えれば・・
ロウソクの火のごとくである。
蝋燭の蝋は炎の熱に溶け、芯を昇り、燃えていく。
これが継続して続く。
我々の命も、
吸気・吐く息、常に続くが 、消滅しながら続いていく。
阿頼那識 は、そのような輪廻の主体である。・・・という
|
↓ ↑
種子生 ↑現行熏
現 行 ↑種子
↓ ↑
(深層)
種子 ・・・ 種子
種子生種子
隠れている
人のこころの在り様 |
|
○ 川は常にあるように見える。しかし、水は常に流れ去り、従って、同じ川はない。
日々は過ぎ去り、”今日”という日はもう巡ってこない。
日々や日々 日々日日の 日々ぞ 日々 ・・・詠み人知らず
ひびやひび ひび にちじつの ひびぞ ひび |
何気なく過ぎ去って行く毎日、
しかし、その何気ない一日一日に
大きな大きな意味があったのである。 苦縁讃 |
日 日
おなじようなこと
くりかえす
日日であるが
この日日から
私はいろいろなことを
無尽蔵に 学ぶ
・・・ 榎本栄一 |
無 終
ここが終わりかと
思うたら
また 道がひらける
これからさきは
果てしれず
・・・ 榎本栄一 |
|
|
(2)
清
ら
か
な
心
|
○ 佛教は、哲学である。
キリスト教やバラモン教などのように、唯一絶対なる神を設定していない。
キリストの言う「神」とは異なって、
「我」の自らの清らかな心に従う試みが、即ち佛教である。
佛教は、「もともと人間の心は清らかである。」という見方をする。
仏教では、己の中に眠っている潜在的なすばらしい可能力を信じることが必要であると説いている。
「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ) 」に、以下のごとく説かれる。
「諸(もろもろ)の悪を作す莫(な)かれ
衆(いろいろ)の善を奉行(ぶぎょう)せよ
自(みずか)ら其(そ)の意を浄(きよ)めよ
是(これ)が諸仏の教えである。」 |
(しかし、善悪に拘ってはいけない)
(そこで、自分の心を清らかに)
|
「悟るぞ!」という意志の種と、意志に至る努力。
これが仏陀の智慧に目覚めさせる力である。
「まだ悪の報いが熟していない間は悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし、悪の報いが熟したときは悪人はわざわいに遇う。
・・・・・
その報いはわたしたちに来ないだろうと思って悪を軽んじてはならない。
水が一滴ずつしたたり落ちるならば、水瓶は満たされる。
愚かな人は水を少しずつ集めるように悪を積むならば、
やがてわざわいに満たされる。」 ダンマ・パタ 119,121 |
もともと、生来清らかな人間のこころ。
利他業によって、やがて本来の清らかなところに戻っていくのである。 |
|
「正法眼蔵随聞記」に曰く。 |
「示していわく、仏々祖々(ぶつぶつそそ)、皆な本(もと)は凡夫なり、
凡夫の時は必ず悪業(あくごう)もあり、
悪心(あくしん)もあり、痴もあり、
然(しか)あれども尽(ことごと)く改めて知識に随(したが)いて修行せしゆへに、
皆仏祖と成りしなり。
今の人も然あるべし。我が身愚鈍なればとて卑下することなかれ。」
正法眼蔵随聞記 |
道元禅師は、こう仰った。
仏や歴代の傑僧は、もとはどなたも皆さんと同じ”凡夫”であった。
その時は、ワルサもし、凡俗な心もあったのである。
しかし、これを改めて修行された・・・。云々。
・・管理人。 |
注: 随いて修行せしゆへに ・・→ 師匠に随って修行すれば 教え
補: 鈴木大拙は述べる。 ・・・「定本 妙好人才市の歌 全」法蔵館 序文 より抜粋 |
(略)
人間としてはシャカも吾等も有情であり同じ凡夫である。ただ悟るものは佛となる。
佛ももとは凡夫で、凡夫も正覚を成ずれば佛だと言うことを教える。
ここが哲学だと感じられるところであろう。
蓮如聖人の御一代記聞書には、『仏法には、無我と仰せられ候』(八十一)とあり、この無我は仏教のコルナー・ストーン(注:corner・stone: n 【建】 隅石(スミイシ), 礎石; [fig] 基礎, 第一歩, かなめ石)と考えられて居るので、真宗の如き弥陀一本槍の宗旨にも無我がもち出される。この無我はキリスト信者などの言うセルフレスと違って、単なる倫理的意義よりも、もっと深い形而上学的色彩をもって居る。それで佛教は哲学だと言うことになる。
佛教では、一切衆生悉皆成仏と教える。この衆生と言うは頗(すこぶ)る広汎な意味をもって居る。
一切の有情と非情とを含んで居る。それで自分の成仏だけでなく、庭先の石ころも、秋風に散り行く落ち葉も、冬の朝を真白に塗りつぶす雪の花も、みな成仏の可能性をもって居る。或いはそのままに今目の前で成仏していると言うことにもなる。
(略)
佛教者その人の立場からすると、何にもこれらが哲学的に観ぜられて居るのでなくて、『宗教』的直感の境地に他ならぬのである。(略) |
|
三帰依文
(さんきえぶん) |
「人身受け難し今既に受く。
仏法聞き難し今既に聞く。
此の身今生(こんじょう)に度せずんば、
更に何れの生に於いてか
此の身を度せん。」
三帰依文 〈「仏法僧の三法を敬え」という文〉 |
人間として命を戴くことは、稀な程難しいことである。だが、こうしてヒトとして今を生きている。
仏のお言葉を聞くことも、なかなか出来ることではない。それでも貴方はいまこうして聞いている。
これほど得難いご縁にて、ここで"法"を聞いて居るではないか?!今しか無いぞ!
今、この時こそ真実に目覚めるべきだ。 云々。 ・・管理人 |
|
「この世の行い如何(いかん)によって、或いは・・・、死後、生まれ変わったときには、再び人間として生まれてこないかも知れない。」と言う思想が背後にある。
○ 魂は不滅という考えが根底にある。 また、
○ ヒトとして、生を受けたものとしての使命がある。 と、仏法は説いているようだ。 ・・・管理人 |
|
4 ヨーガの生活 唯識を「行い・実践」の面からとらえる |
4 ヨ
ー
ガ
の
生
活 唯識
を
「
行
い
」
の
面
か
ら
と
ら
え
る |
(1)
教
(2)
行
|
○ 心理学との違い・・唯識は学問ではない
・・深層心理の段階から心を変革・浄化= 転迷開悟または 転識得智(唯識的な表現)
→ 苦しみからの脱却の思想
○ おこないに、三つの道
踏むべき段階
三つの道 |
教
行
証 |
良き教えを聞き
日常実践し
仏になり、真理を悟ってゆくこと |
|
○ 「阿頼耶識縁起」の図に示したとおり、→表層心理と深層心理が互いに影響しあっている。
☆ こころの中に良い種をまけば。それは良い種となって生まれてくる。
☆ 現行薫種子・・表層(日頃の行い)が種子を生む
☆ 種子生現行・・種子(無意識の想い)は表層に現れる。
(2) 「行」とは ・・・ 行→Yoga=YUJ→二つのものを結びつけるの意 |
○ 常には、身と心が分離している→これを結合させる努力。
↓
○ なりきっていくうちに、分離する前の存在に戻っていく。
↓
○ 結合させて、こころの中に住まいする仏と結びつく。
↓
○ 内に内在する仏と結合してゆく。
真如(在るがままの自分)になれる。
↓
○ 慈悲の心が生まれる。
↓
○ 自他の苦からの解脱を目指す。(誓願)
↓
○ そして、「大いなるいのち」をつかみ取る。 |
瞑想の 総称(ヨーガ)
禅・禅定
三 昧
摩伽止観(まかしかん)
↓
四つのヨーガ
① 信:縁起の理・仏になれる
② 欲:誓願力を起こす欲(善法欲)
③ 精 進
④ 瑜 伽 修 行
日常生活そのもののことだ |
(立教大学 横山鉱一 教授による)
* 縁起の理:電車の中で、貴方が立っているから、私は座っている。
* 精進:すばらしい教えを聴くこと。
☆ 誓願 ・・・エゴを消滅させてゆく→ 心の浄化 (立教大学 横山鉱一 教授による)
他者に向ける
生のエネルギー
(自分が軽くなると上へ)⇒ |
誓 願
他者への愛
↑
エ ゴ |
|
☆ 菩薩の誓願
菩薩の誓願 |
上求菩提(じょうぐぼだい)
下化衆生(げかしゅじょう) |
世俗を脱して向こうにあるものを見る
慈悲・・・迷いから悟りの世界に渡す |
|
☆ ヨーガの方法とヨーガの心
ヨーガの方法
○ 汚気を吐く→息に想いを集中 →心を定める
○ 入出即念定・・息に成りきる
|
ヨーガの心
念(ねん)→
定(じょう)→
慧(え)→止(し)・・静寂な心
観・・ありのままに見る心 (止観) |
|
☆ 煩悩にまみれた心を清める二つの道・・まず、誓願を抱くこと。
汚れた種子を焼 く 。そして、清浄な種子に肥料を与える |
1 |
正聞熏習(しょうもんくんじゅう) |
正しい師匠に正しいことを教えられる。良い種をため込む。美しいものを素直に感じ取れる心を育てる。
誓願を持って→<薫習=繰り返し行うこと> |
2 |
無分別智(むぶんべつち) |
ロウソクの火は智慧、その暖かさは慈悲。
智慧と慈悲を与えつつ燃え尽きる。 |
|
|
5 覚醒の朝 |
5
覚
醒
の
朝
|
(1)
覚
者
と
は
(2)
覚
醒
へ
の
道
|
覚者=覚悟=ブッダ → 仏になること |
我々は今、生死の夢中に処せられども、数(しばしば)、
唯心如夢の道理を観じて、覚悟の朝に至る。
良遍「観心覚夢抄 |
今、我々は活きて 夢の中に存在している。 「生死の夢中」と言い生死という
夢の中に生きている。それは、「生・老・病・死」 の苦しみである。
また、
○ 生の苦しみは、常に存在する。即ち、自分と他者との対立の中で苦しむ。(識)
→ そこで、「自他一如」に至り、自他対立の世界から抜け出ることを「転識得智」という。
或いは、
○ 二元対立の世界・・・「死」の恐怖を向こうに置き、恐怖して対立して苦しむ。
対立する対象を観ているとき、人はこれに執着し、自分自身を観ていない。
結局、自分を観ていない。自分が見えていない。 ・・ 一人一宇宙
客観的になり、「自他一如」に成ることは、なかなかでき得ない。
そこで、凡夫に与えられた方法は、正しい教えを繰り返し聞くことである。
念(いまのこころ) → 常 → 慧(清らかな心) ・・と、阿頼耶識を浄化して、仏になるように努める。 |
(2) 覚醒への道 ・・・ 仏になることは、即ち、目覚めること・覚醒することである。 |
◇ 覚醒に至る 四つの智慧 (立教大学 横山鉱一 教授による)
① |
五 識 |
成所作智(じょうしょさち) |
為すべきこと(所作)を完成し、それを成就する智慧を・・。
エゴを滅して他者に慈悲を・・。 |
② |
意 識 |
妙観察智(みょうかんさっち) |
物事の根元にあるものを見抜く修養。 |
③ |
末那識 |
平等性智(びょうどうさっち) |
大海であっても、海面は波立ち、波には高低もある。
表面は差別の世界。波は岸をはぎ取り、ざわめく。
しかし、下の方に向かって深まれば波はなく静寂である。 |
④ |
阿頼耶識 |
大円鏡智(だいえんきょうち) |
科学者は、己のいのちを知って 智慧を発揮・・・。
技術者は、衆生のための慈悲心を根底に据えて ・・・。 |
|
の、 四つの智慧を得ること。即ち、他者のために生きることである。 |
6 他者に生きる ・・・・どう生きるべきか? |
6
他
者
に
生
き
る
ど
う
生
き
る
べ
き
か
?
|
(1)
菩
薩
の
道
と
は
何
か
?
|
現代人は、”欲望充足型”の日本に埋没している。 五十代に自殺者が一番多い。いわば、混迷の時代。
菩薩への道 とは・・・「生のエネルギーをどのように昇華させてゆくか?」と言うことでもある。 |
<末那識の階層> 注:再掲
|
|
エネルギー放出先 |
↑↑
↑↑
↑ |
煩
悩 |
様々な我執 |
|
生の
エネルギー
<悲善悲悪>
無機であって
清濁在り |
清
濁 |
誓 願
|
我癡(がち) |
我の愚かさ・愚迷を知る |
他者への愛 |
我 見 |
他者との関わりで |
↑ |
我 慢 |
他と比較して慢心する |
エ ゴ |
我 愛 |
自分こそ愛しいという思い |
|
○ 菩薩(ボーディー・サットバ)とは、悟りを得た人の意
一人一宇宙:一緒にいても皆違う世界に住んでいる。この違う「自分」とは何か?
誓願 の
二つの種子 |
上求菩提(じょうぐぼだい)
下化衆生(げけしゅじょう) |
上には菩提を求め
下には、衆生を救っていこうと願う |
智恵:勢至菩薩
慈悲:弥勒菩薩 |
人は、心の中に、 皆、誓願の種子を持っている。 (立教大学 横山鉱一 教授による)
悟りを得られると、「生死を解脱して涅槃にいたる」という。
これを、『無余依涅槃(むよえねはん)』という。
無余依涅槃(むよえねはん) |
生死の苦しみ → 涅槃に至る |
|
|
|
(2)
究
極
の
涅
槃
|
それは、・・・生死にも涅槃(ねはん)にも住しない涅槃のことである。
○ 菩薩の生き方・・・・瑜伽師地論(玄奘三蔵が原本から訳した経)に説く。
問う「菩薩はまさに何をもって苦を為すと言うべきや」 |
|
答う「衆生の損悩をもって苦と為す」 |
|
問う「菩薩はまさに何をもって楽と為すと言うべきや」 |
|
答う「衆生の饒(にょう)益をもって楽と為す」 |
饒:満ち足りている、安楽の意 |
問う「菩薩はまさに何をもって住と為すと言うべきや」 |
|
答う「衆生の無分別をもって住と為す」 |
|
|
|
7 一人一宇宙の教理:体(からだ) 専門用語では、「人人唯識(にんにんゆいしき)」 という。 |
唯識は、体をどのように観ているのであろうか?!
身体は、阿頼耶識から生じてくると説いている。
阿頼耶識が、表層の身体を維持し続けている。
「従って、肉体は生まれてから死ぬまで腐る事がない。」と、説いている。
デカルトの思想は、二元論、即ち、身体(物)と精神は二つの実態によって成り立っていると説く。
だが、身体というモノは、心から分離して実在する物ではない。
すべて、心の中の映像に過ぎない。幻(まぼろし)的な存在なのである。お金も、この体も・・・である。
物は、すべて縁起の理によって存在しており、在るようであり、無いようで有るもの同士が関係し合っている。
釈尊は、縁起の理を悟られた。
ものは、相依って存在しているのだ。
「舟によって人々は海洋を渡るが如く、身体によって心は生じる。
人々によって舟は海洋を渡るが如く、心によって身体は生じる。
人々と舟とが一緒になり、相依って海洋を行くが如く、心と身体とは相互に依止(えじ)している。 ・・清浄道論 |
|
部派仏教までは、深層意識は発見できなかった。
唯識になってから,即ち、このヨーガ理論になってから、心の中の隠れた部分を見つめるようになったのである。
そこから唯識論に発展していった。
肌を抓(つね)れば痛い。
切れば血が出るこの体が、深層の意識によって生じるという事は理解しがたい。
これは、深層の意識の内で執着している”身体観”である。 ・・・という。
鏡を見た。見えるのは老いている現実の自分の体である。これは、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)。
遍計所執性とは、すべてが、「言葉」に依って、その人の心の中に存在せしめていると言う意味である。
その奥にある、・・・、自分が執着しているものの、その奥にあるモノを観ると、見えてくるのである。
実は、鏡に見える老けた自分の姿の、そのむこうに実態があるのである。
その実態とは・・・。
他によって「活かされて在る」自分の身体(からだ)が見えてくるのである。
<『老けてしまったなぁ!!』という、嘆きの姿ではない、真の姿が見えてくるのだ。>・・・・<>内は管理人が補う
・・・・・それは、依他起性(えたきしょう)に在る。
今までに、『自分がやった!』と思っていた事々は、すべて自分の力だけで成し遂げられたコトではない。
<『往年の自分はこうだったのに・・?!』という素直な実感の向こう側に、無数の人びとによるご縁・関連性が潜んでいた。自分の力だけで為し得た功績は一つもない。また、たった今、ここにこうして呼吸する自分を支えているのは、他者が丹精した結果得られた”食"であり、”衣類"でもある。>
鏡の前の真の姿は、そのような無数の関連性の中に生かされていた、そして、今、その場に置かれた自分の姿である。
この姿は、我執が無くなるにつれて見えてくる自分である。
本当は、「自分」などはないのである。
気づいたら、この世に放り出されていたのである。しかし、『自分。自分』と思って生きている。生きてきた。
面子も保とうと抗ったりした
。
いつ頃から「自分が生きている」と感じたのであろうか?
一人一宇宙の、存在の基盤・・・・、この世界はすべて、己(おのれ)が関与しない法則によって顕現(けんげん)している。
これを縁起(えんぎ)の理というのである。
この”縁起”を、唯識では「依他起性(えたきしょう)」という。
因
果
関
係 |
根源的生命体
猿人
父母
↓
宇宙の果て → 自分 ← 60兆個の細胞
太陽 地球 (無我) 体の器官
↑
教育
出生
精子と卵子
|
|
「理」に対する言葉は、「事」である。
差別の世界は、相違の世界だ。
<無限の関連性の中に生かされていることを知ると、「我」も「他人」も「身内」もない世界がある。
こう観ると、差別などは生じようもないではないか?!>。
差別を乗り越えた真理の世界もあるのである。
それが「円成実性(えんじょうじっしょう)の世界」である。
|
7 一人一宇宙の教理 |
(1)
対
立
の
世
界
|
対立(差別)はなぜ起こるか? 理事無碍(りじむげ)への行程。
<縁起の理>
仏の世界 (理)
個人 個人 個人 個人 個人 個人 個人 個人
(事) (事) (事) (事) (事) (事) (事) (事)
個人 個人 個人 個人 個人 個人 個人 個人
(事) (事) (事) (事) (事) (事) (事) (事) |
大波小波の下には、静かな大海の水(理)
海にたとえると、大波と小波との表層の差別の世界
他によって、「我」のこころに波が立つ |
問い:「これはどなたの手ですか?」
答え:「これは私の手です。」・・・問われて、「私の・・」といった瞬間に「私」があると思いこんでしまう。
しかし、そこにあるのは、ただの「手」のみ ・・・手があるから私があるのだ。
すべての(事)は、他によって存在している。 『依他起 (えたき) 縁起の理』である。
そして、それぞれのすべての個人(事)は、八識の流れにより作用しあっている。
<人ごとに、観る世界は皆異なっている。
子どもの頃に麦刈りの手伝いをしていて、麦の穂先のヒゲで眼を傷めたことがある。
そのせいか知らないが、右目と左目とは見える世界の色が微妙に異なっている。
言葉の表現は同じでも、それでも違うのである。>
・・・・<>内は管理人が補う |
|
潜在心の一つである「阿頼耶識」を換えていかなければこころの進歩がない。
<一人一宇宙>
一人一人が、一つの宇宙に棲み、周囲のモノ「他」によって、こころの中で様々な波が立つ。
<波には、三性(さんしょう)あり>
・・・一人一宇宙:一人一人の宇宙を見ると、三性(さんしょう)がある。
|
|
三 性 |
|
① |
エゴで濁ったこころ |
遍 計 所 執 性(へんげしょしゅうしょう) |
自分が死んだら天国か地獄か?等々の拘り |
② |
エゴが薄らいだこころ |
依 他 起 性 (えたきしょう) |
実は、自分もない空間もない。・・・と、浄化されて行く |
③ |
清らかになったこころ |
円 成 実 性(えんじょうじっしょう ) |
|
<転識得智(てんじきとくち)>
「阿頼耶識縁起」(前掲)では、知識から智恵に移るときの働き、
「転識得智(てんじきとくち)」を示したものである。
それは、以下のごとくに輪廻する。
① 日常の生活・即ち「現行」は、深層の阿頼耶識がなさしめている。
このもとを種子(しゅうじ)という。
② 種子が日常の生活(現行)を行わさせる。これを「種子生現行(しゅうじせいげんぎょう)」という。
③ 日常の生活が、繰り返しくり返ししながら、深層の種子(しゅうじ)に作用を及ぼす。
このことを、「現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ)」と言う。
④ 作用されて、深層の種子は少しずつ変化していく。これを「種子生種子」と言う。
元(もと)は、濁っていた心の波のサイクルが、繰り返し繰り返される内に、その在り様(よう)をかえて浄化される。そして、やがて円成実性 を産んで行く。
日常の生活が濁ったままでは、相変わらず妄念を抱き続けて留まるところがない。
こころの波はしずまることにならない。
|
<自他不二の境地「依他起性(えたきしょう)」>
よくよく見れば自分と他人との区別は無いのだ。→ すべての事象は、相互に関連し在って成り立っている。
我が身一つででき得るものは、一つも存在しない。
従って、これを「依他起性(えたきしょう)」という。
そこで、利他業に目覚め、ひたすらこれに努めて、汚れた種子を焼滅させることに努め、清浄な種子に肥料を与えるように勤めることが肝要である。
このことを「誓願」を起こすという。
<理事無碍(りじむげ)> は、円成実性(えんじょうじっしょう )につながる。
水面に雫が落ちると、波紋が出来る。
沢山の波紋同士が広がって、相互にぶつかって、そのまま、この状態が拡がり合う。
こういうことを 理事無碍(りじむげ) というのである。
|
8 識の中の自然について |
8
識の中の自然について |
|
自然は普遍のものであろうか? ・・・自然は自己のこころの中にある。・・・唯識のこころ
◎ 一水四見(いっすいしけん)・・水に例えれば・・・
:魚には → 住み家
天人には → 渡り行く道
罪人(地獄)には→流される苦しみの川・・・立場によって様々な見方がある。
唯識でみれば、「境(きょう)」のみが存在するとする。
「境」には、こころだけ有って一切は存在しない。
☆トンボにはトンボの複眼で見る世界があり、魚には魚の世界がある。このごとく・・
手を叩てば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ
女中茶と聞く 猿澤の池 詠み人知らず(管理人補う)
|
|
人間の中にも自然を見て、各人それぞれにいろんな見方が存在する。
紅葉など観ても同じである。
(2) 一人一宇宙のこと・・・・・遍計所執性(へんげしょしゅうしょう) |
他者の見ている「花」の映像を、同じ映像を自分が見ることは出来ない。→これを「一人一宇宙」という。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):人間にとっての自然とは、各自で概念化したものにすぎない。
◇ 悟りを得た後の「自然」とは、末那識・阿頼耶識を超えた処から見るものである。
あるがままの自然 真如→我と万物は同一根→「自然(じねん)」→円成実性(えんじょうじっしょう)
分別と差別の世界から・・・電車の中の子供の泣き声を耳にすれば →『うるさい!』と思う。
泣き声は、それを聴いた自分か?・・・・。「聞いた自分」が泣き声か?
・・問答を心の中で繰り返す内に『うるさい!』というコトが気にならなくなる。
世俗諦(せぞくたい) → 顕れた世界
(有または無の世界) (表)
勝義諦(しょうぎたい) → 隠れた世界
(非有非無) (裏) |
意識で見るもの 美しい・汚い
<分別の世界>
エゴを取り去って見える自然
<言葉の通用しない世界> |
清ければ、国土清し
|
|
☆ 五木寛之の朗読より ☆ |
|
|
華厳唯心偈 (100字に現されている:奈良の東大寺)
心は工(たくみ)なる画師の如く
種種(しゅじゅ)の五陰(ごうん)を画(えが)き
一切世界の中に
法(もの)として造らざる無し
心の如く仏もしかり
仏の如く衆生(しゅじょう)も然り
心と仏および衆生は
是(こ)の三差別(しゃべつ)無し
諸仏は悉(ことごと)く
一切は心より転(てん)ずと了知(りょうち)したもう
若(も)し能(よ)く是(かく)の如く解(わか)らば
彼(か)の人は真(まこと)の仏を見立(みた)てまつらん
心も亦(また)是(こ)の身に非(あら)ず
身も亦是の身に非ずして
一切の仏事(ぶつじ)を作(な)し
自在(じざい)なること未(いま)だ嘗(かつ)て有(あ)らず
若(も)し人もとめて
三世(さんぜ)一切(いっさい)の仏を知らんと欲(ほっ)せば
応当(まさ)に是(かく)の如く観ずべし
心は諸(もろもろ)の如来を造ると・・・・・
**********************
巧みな画家が様々なものを描き出すように
こころもまたこの世のあらゆるものを造り出す
地獄という苦の世界を造り出すのも心なら
極楽という楽しい境地に棲むのも心
悟って仏となるのも心
迷って衆生に留まるのも心
すべては心が作り出すものならば、
心と仏と衆生とは一つのものに他ならない
諸々(もろもろ)の仏は一切の存在を創り出すのは心に他ならないと説いている
もしそのことが理解できたのなら、
真の仏を観ることが出来るだろう
心と体は一つではないが、
その二つが深く関わり合うことによって
真の自由を手に入れることができるであろう
もし、人が過去・現在・未来の
三世全てにわたって仏を求め続けるならば
このようにして
やがて自らの心に宿る仏生を見いだすことができるであろう
朗読:長谷川勝彦氏 ’7.8.15 |
|
|
|
LINK 華厳経 |