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編集・管理人: 本 田 哲 康
      
   
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1 仏陀の宇宙を語る 東洋大学 竹村牧男教授による。
 (1) 華厳経は、
   『華厳経』には、漢訳としてまとまったものが二つある。
@


A


 北インド出身の佛駄跋駄羅(Buddhabhadra)359〜429が五世紀の初めに訳したもの。

 → 「六十華厳」:九十九偈伴の詩句より成る。

  注:中村元の著書”『華厳経』『楞伽経』”で、氏は、「418年から420年に漢訳されましたから、原本は四世紀にはまとまっていたはずです。」という。
        
 中央アジア・コータン出身の実叉難陀(siksananda
じっしゃなんだ)652〜710年が、7世紀の終わりに訳したものである。

 → 「八十華厳」:六十二の詩句で構成されている。



   我が国では、奈良の東大寺(華厳宗)が中心となっている。  ☆ 西暦750年 良弁聖人
752年  東大寺(良弁僧正が開山。華厳経の教主とされる。本尊は、毘留遮那仏びるしゃなぶつ。)この年に大仏開眼供養された。儀式の導師となったのは、インド人僧

侶(バラモン出身の菩提僊那せんな)であった。
参考:
 この年、第12回遣唐使を派遣。(894年第20回目が中止になるまで遣唐使は続けられた)。
                        


厳経

 釈尊のお悟りの世界をそのまま描いた経典。漢訳で、80巻。唯識など大乗仏教のすべてを包含している。

 西暦421年に、中国で翻訳された。 後に華厳宗となり、宝蔵大師がこれを広めた。

 終半の、40巻は:「入法界品」・・・善財童子
(ざいぜんどうし)が、53人の師を訪ねての遍歴の物語である。

                           ・・・・・・文殊(もんじゅ)菩薩の励ましを受けて53人の師匠を訪ねる話

 「その53人とは、文殊菩薩をはじめとする優れた菩薩たちだけではなく、比丘(びく)、比丘尼、すなわち」修行僧や女僧、あるいは少年

少女,医師、長者、金持ち、商人、それから船子(船を動かす人)、神々、仙人、外道
(げどう)すなわち仏教外の人までいるのです。

 またバラモン、さらに遊女までも含まれています。道を求める心の前には、階級や職業の区別もない、宗教のちがいも問わないという、

ひじょうに崇高な立場に基づいています。」
 
                     ・・・・・・・・・ 中村 元(はじめ)  「現代語訳 大乗仏典 5 『華厳経』『楞伽経』 より
 ブッダアバタンサカ=仏がいっぱい=花がいっぱい→仏の中にすべての宇宙の現象を解け込ませている。・・・・万物が繋がり合って

いるという教え。
          「一即一切・一切即一」 → 「重々無尽
(じゅうじゅうむじん)
   
  
一つのものはそのまま一切のものと関連しており、

                一切のものがそのまま一つ一つの命と結びついている。

                       ↓
            
<すべてが関連しあって存在し、その繋がりは尽きることはない。>    管理人意訳
           

   現在は、人と自然・人と人の関係性が薄れてきている。人工的な環境の中で生きる。

   (思えば、ヒトは生物の一員でありながら、特別な”生物圏”を作って、異常増殖中だ !!
=苦縁讃:管理人) 

 
(2) 華厳経の教えとはどのようなものか?

一つの毛穴(けあな)のなかに、   

無量のほとけの国土が、

(よそお)いきよらかに、

広びろとして安住する。

      ・・・

一つの微塵(みじん)のなかに、    

あらゆる微塵
(みじん)のかずに等しい微細の国土が、

ことごとく住している。

あらゆる世界に種々のかたちあるを、

仏ことごとくその中において、

尊ときおしえを説きたまう。

  これぞ弘誓
(ぐぜい)の願い、

自在のちからであって、

(いち)いちの微塵のなかに、

あらゆる国土をあらわしたまう。


                          
・・・ 華厳経


(いち)いちの毛穴のうちに、          

あまねく如来海を示現(じげん)し、

         ほとけは如来の塵にいまして、
       
 
           
菩薩衆に囲繞(いにょう)せられたまう。

(いち)いちの毛穴のうちに、         

無量の諸仏海がおわし、

   
ぞれ道場の華座(けざ)に坐して、

         淨妙
(じょうみょう)の法輪を転じたまう。

(いち)いちの毛穴のうちに、         

                あらゆる国土の 微塵数にひとしい仏が                    
        
結跏趺坐(けっかふざ)して普賢(ふげん)の行を演説したまう。

                            ・・・ 華厳経
                     

あわ雪の  中に立てたる 三千大千(みちおおち)
また その中に あわ雪ぞふる

                              ・・・ 良寛
注:






















 ”あわゆき”は、微細な泡の集まりである。無数の泡の集まりで、

よくよく見ればそれぞれの泡の中に、さらにまた、泡を持つ。

 その、一つひとつの”泡”が集まって、おいしさと食感を維持する。・・・・・。
  また、
 ヒトの体の中に、微細な細胞が存在する。

 ひとつの細胞に変異があっても、正常な生活は営めない。

 更に、これら一つひとつの細胞の中にごまかし無く、各々の細胞に必要な構成要素が備わっている。

 細胞核・ミトコンドリア・等々・・・・。ごまかしはない。

 そして、

 これらには、すべてに脂肪・タンパク質・炭水化物、ビタミン・その他のミネラルが、「栄養素」として万遍なく含まれている。”満遍なく”

である。

 更に言えば、この栄養素は、間違いなく同じような原子によって成り立っている。

 植物も動物も、皆、”いのち”は同じである。

 さて、

 植物に必要な、十大栄養素は、C(
炭素)・H(水素)・O(酸素)・N(チッ素)・S(イオウ)・P(リン)・K(カリウム)・Ca(カルシゥム)・Mg(マグネシウム

そしてFe(
)・である。

 興味深いことは、上記の原子はすべて”原子核”を中心にして、・・・・、まるで、太陽を中心にして回る惑星のように、回っているモノがあ

る。・・・・・・。まるで宇宙の中を覗いたごとくである。

 ”いのち”は、そのまま壮大な宇宙なのである。

 この宇宙に存在する原子達は、ビッグバン以降137億年という時間に、想像を絶するエネルギーによって造られた。
Link・原子誕生

 宇宙は、また、浜の潮騒に湧きいずる泡のごとくに、無数に有るというのだ。 ・・・・。 LINK:宇宙論


   ・・・・                          ・・・苦縁讃
Link   ”原子の誕生そしていのち”  ・・・この宇宙に存在する原子は、137億年の時間と、想像を絶するエネルギーによって造られた。
                     

 
現代は、自然と人、人と古里(ふるさと)・・等の関係性が薄れてきている。

 ヒトは、”Divide and Rule”=分断して考える。

 効率を追求し、細分化され、利害関係の中で成り立つ世界の中にいる。

 だが、実は、生命・自然は繋がり合っている。

 だから、”Ecological
:エコリジカルなものの見方”が必要なのである。

 先ず、「個」の確立が重要だ。

 そして、一個のみの「個」はあり得ない。相互扶助と助け合いの世界が不可欠である。


                 
   
而今(にこん)の山水は             

  
古仏の道現成(どうげんじょう)なり   
         ・・・山水経
道=言うの意味

 
・・ 仏の説法として現れているのだ。・・という意味。
管理人意訳:
 
たった今、ここに見える山・川の自然の一切には、

 そのまま、古来からあまたの諸仏が修行した場所であり、そこにはその教えがそのままここに現れている。


あらたふと 青葉若葉の 日の光              

五月雨の  降り残してや光堂
(ひかりどう)

                           ・・・芭蕉=「おくのほそ道 」

                     

 
今の世は、自分と世界が切り離されている。そして、自己と自己同士も切り離されている。
世 界

 (個) (個) (個) (個) (個)
  (個) (個) (個) (個) (個) (個) 
実は→→→

重々無尽の縁起

果てしない

関連性が

有るのだ。
 (個) (個) (個) (個) (個)

 (個) (個)  
  (個) (個)   

  (個) (個)  
 (個) (個) (個)

しかし、個同士も繋がり合って、世界を成す。
  (個) (個) (個) (個) (個) (個)
  
   例えば、
  ○ 庭の松は、竹である。松は竹に入り込んで居る。・・松だけでは、『庭』ではない。

  ○ 家のかもいは、柱であるとも言える。・・・柱の存在があって、初めて鴨居が”かもい”となる。

   ヒトには、一人でできるものは一つとした存在しない。食べ物も着物も仕事にありつけるのも・・・。

   総て、ヒトは他との関わりに中に成立しうる事象の中に置かれて存在している。

   『命の繋がり』も、また、同様である。



ほろほろと 啼く山鳥の声聞けば             

          父かとぞ思う  母かとぞ思う 
   ・・・ 古歌
   
2 華厳経の位置づけ
 (1) 仏教の部派・流れ
            東洋大学竹村牧男教授は、
「ブッダの宇宙を語る D無量の法門」の中で以下のように説明した。

 「華厳経」解説の立場で説かれたものをご紹介します。

 仏教は、広く東南アジア・チベットにも渡った。 中国には13宗が存在する。

 我が国に伝わった仏教は、やがて分派して、「奈良仏教」・「鎌倉仏教」などと称されていた。


 @ 仏教の時間的な分類と内容
     
○ 原始仏教 BC383
釈尊入滅
 素朴な教えを、相手に応じて説く。  BC383釈尊入滅。

  これ以降の仏教。
              対比説法:ニカーヤ・阿含経
(あごんぎょう)
○ 部派仏教 仏滅

100年後
 「釈尊の作った戒律を時代に合わせて運営していこう」、「イヤ、あくまでも釈尊の樹立した戒律、これは守っていこう」と、二つ

に別れ「根本分裂」が起きた。

 これらは、浄座部
(じょうざぶ)と大衆部(だいしぶ)と称された。

 そして、更に、その中でもいろいろと別れ、団体(部派)が出来た。

 釈迦の言葉を厳密に論理的に整理したり、組織的に体系化したり、哲学的な学問が各部派において行われた。

○ 大乗仏教  釈迦の説いた教えは、やがて学問的・哲学的な営みとなる。

 今までの考え方に飽き足らない人々が、「在家の人も皆が救われる」教理を求めた。

 * 最初、経典が作られた。
          =
般若経 法華経 華厳経 無量寿経・・となったのは、紀元前後のことであった。
             (これは、釈迦入滅後およそ400年のことであった。)
                          
 A そして・・・・ 日本・朝鮮半島に大乗仏教が、・・・・・・

 
日本・朝鮮半島に大乗仏教が、東南アジアには浄座部仏教が伝わったのである。

 やがて、教典に基づいて哲学的に究明しようとする中観派(空の思想)又は、唯識思想等とへつながることとなった。

○ 聖徳太子
          等により
 聖徳太子等により、「三経義蔬」が完成された。
 (勝鬘経義蔬
(しょうまんぎょうぎしょう):611年・維摩経(ゆまきょう)義蔬:613年、 法華経義蔬:615年)
その後、

○ 奈良仏教

    へと
その後、
 奈良仏教へと発展。南都六宗を誕生させることとなった。教典に基ずく教えにより論証


   @ 三論宗・: 
竜樹の創った論
   A 唯識法相
(ほっそう)宗 : 無寂世人(せじん)
   B 華厳
(けごん)宗 華厳経  唐の時代の元暁(げんぎょう)大師 法蔵
   C 天台宗    法華経
(ほっけきょう)
   D 真言宗   理趣経  空海  密教
(みっきょう)
   E 日蓮宗   浄土
(じょうど)
          注:わが国には小乗仏教(部派仏教)も大乗仏教も同時に伝わった。
Link      聖徳太子:「十七条の憲法」
             

  ☆  中国には、西暦50〜60年頃伝わる。  
  
 「自分はどの教えに従ったらよいか?」、「どの教えが本当に釈尊の教えに近いか?」という論議が、中国では早い時期に行われた。(南北朝時代)
○ この論を、教相判釈(きょうそうはんじゃく)という。               
  *例えば、天台大師智(ちぎ)の「教相判釈きょうそうはんじゃく」は:通称「五時八教判」と称し、釈迦は経を

  どのような順番に、説法されたのか?を、五つの時(歴史)で整理する方法をとった。


    
大体五つにわけることが出来る、と言うものである。

    
化儀・化法(けぎ・けほう):お釈迦様が説法する順序・仕方・内容のことである。(四つづ各8つ)  
 B 教相判釈(きょうそうはんじゃく)
☆ 天台大師智(ちぎ)の五時八教判   「法華経は、一番深い最終的な教えである。」との思想である。 
@ 華 厳 時 華 厳 経  悟りを開いて直ちに、釈迦は相手誰彼なく説法された。しかし、人々は理解できなかった。
 A 鹿苑(ろくおん)  人々に分かりやすい形での説法を工夫。小乗仏教
B 方 等 時 唯摩経(ゆいまきょう)
勝鬘
しょうまん)経 等
 大乗教典
C 般 若 時  特に、大乗の深い空の教え
D 法華涅槃時 法華経(ほっけきょう)
涅槃経
(ねはんぎょう)
 まどかな(完全なの意)教え、
    この、非常に深い解釈は、注目に値する。

また
☆ 賢首大師法蔵の  
    教相判釈
 ☆
五教十宗判 仏教全体の見方を示した




小乗教 法有無我宗
など
 小乗教は、自分自信の問題の解決をめざし、涅槃への世界を説く。

 ヒトは、自我に執着して苦しんでいる。

 しかし、この執着している「自我」は、実は存在しないんだ。即ち、

 常・一・主・宰=常に変わらぬ・単一な・主体なるもの
(アートマン)はない。

 小乗は、これに拘りしがみついている。だが、変わらない一つの自我等はない。

なぜなら・・・

 ”こころ”は、いろんな要素によって構成されているからだ。

 例えば、車の「車輪」のようにいろんな部分に依って構成されて車輪と称しているが、「車輪」そのもの等は無い。・・と言うよう

に・・。
大乗始教 一切皆空宗  変わらないモノが、「変わらずに在る」と思って、執着し苦しむ。

 しかし、世界のすべてが、「変わらない」ものは存在しない。

 アートマン
(変わらない自我)のみでなくダルマも空。

 在ると思っている「自我」は、実はないのだ。

 また、自分自身で自分の存在を支えられるものは一つもない。

 すべてが、相互関係の中
(縁起)で成り立っている。→「本体・実体」はないのだ。

 従って、空である。=般若経。  
                        
 また、中論(竜樹)では、言葉の世界を解体して、別な観点で実在するものを見直している。
   
 例えば、新幹線が走ると言えるのか?走っている新幹線は走るのか?「ある」「ない」の、二元的な価値観で貫かれている

言語体系が果たして、事柄そのもの・”いのち”そのものに適合しているだろうか?

 「否。空である。」・・・というものである。



真徳不空宗
 ここまでは、言葉で説明した世界である。

 「真実の教えは空しいものではない。」との教えである。 涅槃経。

 即ち、「空」が在るからこそ「色」がある。


 △ どんな人でも、如来の資質を持っている=如来蔵思想。

 △ 華厳経は、”一切衆生悉有
(しつう)仏性(ぶっしょう)”を説く。

 ・・・・これは「一切の、生きとし生けるもの、形有る物には、”佛”が存在している。」という意味
   である。

「奇なるかな、奇なるかな、

  衆生はなにゆえに、その身のうちに如来のまどかな智慧を抱いておって、しかもそれを知見せ

ぬのであろう?

  自分はよろしく彼ら衆生におしえて聖道をさとらしめ、

  永
(とこしなえ)にあらゆる妄想顛倒(もうそうてんどう)の垢縛(くばく)をはなれしめ、如来の智慧のまどかに

その身のうちに在って、

  ほとけと相違しないことを自覚せしめよう」と、・・・・。
                  
・・・華厳経・宝王如来性起品
 
 
注)性起:如来がどうしてこの世にお出ましになったか・・・
 ”おかしなことよのう。

 人間は、皆,如来のようなまどかな智慧を心の芯に持っているのに、些細なことに捕らわれ

て、何故か、真実の自分をみようとしないのじゃ。 なぜかのう?

 仏は、彼らにそこを気づかせてやって、偏った見方から生じる差別や、つまらない背比べや、

 益のない面子
(めんつ)への拘りなどの妄想(もうそう)から、解き放してやろうと思うのじゃが、

 ・・・・・・。

 ひとそれぞれが、みな、もれなくかね備えている、その知恵に気づかせてやって、 ・・・・、

  ひとがそのまま
『仏』。 そのものなんじゃと言う、・・・・・・。

 そういう事(真実)に気づかせたいんじゃがのう・・・。”


                         ・・・と言うことでしょうか?!  ・・・・苦縁讃
頓教

(とんきょう)
相想倶絶宗    「頓教(とんきょう)」とは悟りを実証した世界のことである。
      相(客観)と、想(主観)の分裂を断つ。→”主客一如”

  言語体系が瞬時(頓)に解体され、実在の真理が瞬時にみえ、

  修行が瞬時に完成し生・滅を越えたところ、・・・・、ここに”絶対の主体・絶対の生”がある。

  絶対の生を自覚したときに仏になる。

 本来のいのちの営みのただ中に、仏のいのちを見いだした、

 即ち「仏と一つになった」という教え。言葉・分別を越えた処のことである。


                        *頓教  維摩の一黙
10 円教 円明具徳宗
えんみょうぐとく
 世界が無限の関係をなして成立していることを悟る(華厳の世界)
                 (一つの華厳の見方を大成させた)

3 華厳経の具体的な教え     Link  ”思索の庵”へ
 はじめに・・世界成立の所以(ゆえん)中村元著 現代語訳大乗仏典『華厳経』『楞伽経』より
 (略)
 『華厳経』が説くのは、巨大な世界観の世界です。

 現実の世界は、縁起の道理によって成立しているものであるといって、その成立の由来を次のように説いています。

【漢訳書き下し文】
 大方広華厳経(だいほうこうけごんきょう)      仏駄跋陀羅 訳
(前文略)「緒(もろもろ)の仏子よ。当(まさ)に知るべし。 ・・・一切の世界海は、世界海の塵(じん)の数

の因縁
(いんねん)(あ)りて具(そな)わるが故(ゆえ)に成(じょう)ず。已に成じ、今成ずべし。所謂(いわゆる=

すなわち)
、如来の神力
(じんりき)の故に。法(ほう)が応(まさ)に是(かく)の如くなるべきが故に。衆生の行

業の故に。一切の菩薩が応に無上道を得べきが故に。普賢菩薩
(ふけんぼさつ)の善根(ぜんこん)の故

に。

 菩薩が仏土を厳浄
(げんじょう)するに、願行
(がんぎょう解脱について自在なるが故に。如来の無上

なる善根の依果
(えか)の故に。菩薩(ふけんぼさつ)の自在の願力の故に、となり。是
(かく)の如(ごと)

き等(とう)の世界海の(じん)の数の因縁が具わるが故に、一切の世界海は成ずるなり。」

(以下略)
              (普訳 『華厳経』盧舎那仏品第二之二  九巻409下) 
 その趣意は次のようなことです。

 
すべての世界の海は、無数の多くの因縁によって成り立っている。全ては因縁によってすでに成立しており、現在成立しつつあり、また

未来も成立するであろう。

 ここにいう因縁とは次のことをさしている。それは仏の神通力である。またものごとはすべてありのままであると言うことである。
 
 また衆生の行為や宿業である。

 またすべての菩薩は究極の悟りを得る可能性を有しているということである。

 また菩薩が仏の国土を浄め美しくするのに自由自在であるということである。・・・・・これが世界が成立するための因縁である、というの

です。

 『華厳経』は、説明叙述のしかたもひじょうに雄大です。

 この一節に「世界海」ということばが出てきます。これは世界というだけでもいいわけです。

 しかし、単に世界といってしまわないで、海が無限に広がっているような、偉大な世界を考えるのです。この経典の原典はこのように壮大

な叙述をずっとつづけていて、何を説いているかを一言でいうのは、非常に難しいのです。

 そこで『華厳経』が中国に伝えられると、華厳宗の人々は、この要点を簡潔に伝えるためにわかりやすい説明として考えたのが、
事事無

(じじむげ)の法界縁起(ほっかいえんぎ)の思想です。
 ◇ 真理の世界から観た現実のすがた ◇
 当時のインド人は、世界には依りどころとしての基体がなければならないと考えていましたが、普賢菩薩は次のように説きました。
【漢訳書き下し文】

 一一(いちいち)の微塵(みじん)の中に、仏国海
(ぶつこくかい)が安住(あんじゅう)し、仏雲(ぶつうん)が遍(あまね)く護念(ごねん)し、弥綸(みりん)して一切を覆う。

 一つの微塵の中に於て、仏は自在力を現じ、一切微塵の中に、神変することも亦是の如し。

 諸仏及び神力は、盧舎那の示現したもうなり。」
(以下略)

       
(普訳 『華厳経』盧舎那仏品第二之二  九巻410 中ー下) 
 ここの趣意は次のようになります。
 世界海では、いちいちの小さな塵の中の佛の国土が安定しており、いちいちの塵の中から仏の雲が湧(わ)きおこってあまねく一切をおおい

包み、一切を護
(まも)り念じている。

 一つの小さな塵の中に仏の自在力が活動しており、その他一切の塵の中においても諸仏が神変を示しているが、それらはすべてヴァイロー

チャナ仏の示現である、というのです。 (一部略)

 塵ということばはサンスクリット語の原文では「アヌ(anu)」「パラマース」ということばが使われ、これはひじょうに微細なものをいいます。

 インド人は総じて抽象的なことばを使うのが好きですから、「ひじょうに微細なもの」という言い方をします。

 ところが中国ではなんでも具象的な表現をする傾向にあります。そこで「塵」ということばを使ったわけです。サンスクリット語の「アヌ」または

「パラマース」は、インドの自然科学的思考では原子のことをいうので、西洋の学者はこれを「アトム(atom)」と訳しています。

 そのアトムの中に偉大な世界がある、極微の中に無限大を指示する、ということをここでいっているわけです。








 壮大な思想に驚嘆である。「驚嘆」するのは、まるで今解き明かされようとしている宇宙の姿を解説しているかのような思想だからである。

 びっくりせざるを得ない。

 仏教は、深い哲学思想だ。

 その哲学が、大きな深い胆識を備えて、今、眼前の世界を解説している。

 ・・・・、現代人が悩み苦しんでいる、見えない”こころ”の世界を解き明かしているのだから・・・・・?!

                                                                   ・・・ 苦縁讃
 (1)  自己の存在
  ◇ 松は竹 竹は松 ・・・・ 重重無尽(じゅうじゅうむじん)の縁起(えんぎ)

 関係の中にあって、始めて松は松。竹は竹。関係の中に存在している。

 松は松だけで完結して存在するものではない。それだけで独立して存在するものではない。

 庭を見た場合も同じ。他との関係の中にあって、始めて松は松、竹は竹として活きるのである。

☆ 四法界(しほっかい) 空無事象       ◎ 事事無礙法界(じじむげほっかい)=重重無尽(じゅうじゅうむじん)の縁起
華厳の

世界観
自 法 界
(じほっかい)
 個々の事象の世界・個々の世界がある
理 法 界
(りほっかい)
 それらがすべて空を本質としている 本体を持たない。
理自無礙法界
(りじむげほっかい)
 個々の事象と空象が一つに溶け合っている。
                ◇ 般若心経:色即是空 空即是色
事事無礙法界
(じじむげほっかい)

 空象において、あらゆる事象がそれぞれの関係の中で一つに溶け合っている。

 そこから個々の事象が妨げなく各々に溶け合っている。


(2)  相即相入・・  響き合い無限 =重重無尽の縁起

一即一切  一切即一

一入一切  一切入一
 即=体: 一(いち) → 一つの事象・事物のこと。一つの個物の存在

 入=用(ゆう:はたらき)  作用
    
しかし、体の中に用(ゆう)があり、用の中に体あり。

     一月普現一切水

     一切水月一月摂
        ・・・証道歌
一つの月がすべてに写っている

一切の水に映った月は一つに納まっている

例えば、        

 音楽のCD(体)を使って、オーディオ(体)を使って、音楽を聴く(用)。

音楽を愉しむ自分(体)がいる。体と用(ゆう)は、一体となる。

 (3)  無自性(むじしょう):空  ・・・ 「事事無礙法界」の説明
   ◇ 十玄縁起無礙法門義の説明
一には、一是れ、本数なり。

何を以ての故に、

縁成の故に、

及至十には、一が中の十、何を以ての故に、

若し一無ければ即ち十成ぜざるが故に、

即ち一に全力有り

故に十を摂するなり、

仍って十にして一に非ず。

余の九門も亦た是の如く、一一に

皆な十有り、準倒して知んぬべし。


                 ・・・ 五教章

 
どれを中心にして見ても、他との関わりが存在する。


 ☆ 縁成の故に: 自他不二

     ・・・・他者在っての自己




           

 (4)  囚われの世界から開放
   四つのテーマ ・・ 囚われの世界から開放・・ 五教章の中の”義理分際”を説明するテーマ
十玄縁起無礙法門義
(じゅうげんえんぎむげほうもんぎ)
 十の玄妙 十の観点から論理する 一は即ち十。 存在と働きを見る
十世隔法異成門
(じゅっせきゃくほういじょうもん)
 時間の関係から見ても、あらゆるものが関係し会っている。

  過去・現在・未来は、各時点でそれぞれに過去・現在・未来が在る。 これらを十世という。過去は未来に

入り込んでいる。未来は現在に入り込んでいる。

 これは縦横無尽の関係。
唯心廻転善成門
(ゆいしんえてんぜんじょうもん)
 菩提心を起こしたら、そこで、もうそこからすべてが展開する。
因陀羅微細境界門
(いんだらみさいきょうがいもん)
 帝釈天の宮殿に網が掛かっていて、それに宝石が付いている。互いの宝石が相互に互いの影を映し会っ

ている。(インドラ網の喩え)

       無限の性質・可能性を秘めている=平等性

 (5)  一塵に宿る宇宙 全体と部分
一即一切  一切即一

一入一切  一切入一
 一の中に二が入ってしまう。2には三が入ってしまう。

 2が無くして一はない。

 一から始まって、すべてが中心になって成り立っている。
 
 ◇ 法蔵:華厳宗第三祖(647〜712) 華厳五教章
○ 因陀羅微細境界門(いんだらみさいきょうかいもん) ・・・無限の関係性を説く。→ 重重無尽 相即相入

身体:心臓や肝臓。ここがみな関わって健康を維持して生命現象を営んでいる。

車:部分が単に集まればよいと言うものではない。


 
すばらしいエンジンを作ったが、うまく行かない。エンジンの改良が足りないのか?

 結果、エンジンの振動が、車体全体に振動が伝わって、この振動がエンジンの回転に影響を及ぼしていたのだった。そこでこの振動を切り離したら、この

すばらしいエンジンがうまく回転し、本来の機能を発揮してスピードが出た。

<従来の、西欧の近代合理主義とは随分と違う思想である。>

 
   華厳五教章(ごきょうしょう)<家の例で、問答形式で説く。>
問う。
 此は但(た)だ椽(たる木)等の諸縁なり。何者か是れ舎なるや。

答う。
 (てん)即ち是れ舎なり。

 何を以ての故に、椽全
(ぜん)に独(ひと)り能く舎を作るに為(よ)るが故に。

 若し椽を離れては舎即ち全に成ぜざるが故に、

 此に為って若し椽を得る時、即ち舎を得。


                     
理自無礙法界の説明の仕方

 たる木を、「家」と言うんですか?

 これは「たる木」であって、”家”ではありません

?!

答えて:

 たる木、即ち「家」である。

 何故ならば、「たる木」が誤りなく、「たる木」と

しての役割を全うしているからこそ、”家”はこの

ように建っているじゃぁないか!

 もし、「たる木」無ければ「家」は存在し得ない

じゃぁないか!

 だから、故に「たる木」は「家」そのものでもあ

るのだ!

問う。
 (すで)に舎即ち是れ椽(てん)ならば、

 余の材、瓦
(が)等、応に即ち是椽なるべしや。

答う。
 総じて並びに是椽なり。何を以っての故に、

 椽を却
(しりぞく)れば、即ち(舎)無きが故に。

 然る所以
(ゆえん)は、

 若し椽無ければ、即ち舎壊
(え)す。

 舎壊するが故に材、瓦等と名づけず、

 是の故に材、瓦等即ち是れ椽なり。



                     
事事無礙法界の説明の仕方

 仰せのように、家は「たる木」であるとならば、

その他の材、例えば「”瓦”をもって、これを”たる

木”である。」と、言うことですか?!
   

答えて:

 
結局は、そう言うことである。何故かというと・
・。

 「たる木」を除去してしまうと、家は無くなるから

だ。

 更に言えば、もし、「たる木」無ければ”家”は

壊れる。壊れてしまえば、家の材料は本来の役

目を果たせない。従って、”瓦”であっても「瓦」ではない。

 家は、多くの材に依って「家」と成っている。
 
・・・・ならば、”瓦”は、そのまま「たる木」である

と言っても良いのだ。

 すべてが、不可欠な関連を以て、本来の役

割を果たし、意味を具現させているからである。


 この故に、一切の縁起の法は、成(じょう)ぜずんば即ち已(や)みなん。

 成せば即ち相即容融して、無碍自在、円極難思
(えんごくなんし)にして、

 情量
(じょうりょう)を出過(しゅっか)せり(越えている)

 
法性(ほっしょう)縁起、一切処(しょ)に通ず。

 準知すべし。

 このように、一切の物事の縁起の法とは、

存在が無くなったときには(例えば、”家”が、「

家」として存在しなくなったとき)、構成していたも

のの意味がすべて消える。

 存在するモノは、部分部分がお互いに関連

し有って”在るがまま”に存在している。

 その関連性は、凡夫の想像を超えている。
 
一切のものが、この通りであることを知るべし。

 注:現代人の我々にとって見れば、家の屋根に乗せる”瓦(かわら)”は道路に落ちていても、「瓦」と認識する。
 しかし、本来、モノの名前や”言葉”には、それぞれの性格を表し、言葉には”言霊(ことだま)”を観じていた。

 謂わば『味わい』が在ったのだ。

 『瓦』とは、屋根にあって雨水を屋内に漏らさぬように”働き”をしてこそ、初めて”瓦”は「瓦」というのである。

 古
(いにしえ)の和歌や俳諧には、我々の想像以上の味わいがあったに違いないと思う。

 今、文明に流されて、スピードは益々速くなって、・・・・、しかし、”こころ”は、どうも、軽薄に成りつつあるのであろうか?!人類。

 古
(いにしえ)の昔は、人々の会話も、ず〜とゆっくりとしていたそうな。

 想えば、ビッグバン以降のこの宇宙は、拡散しつづけている。益々スピーを加えている。
 
 そういえば、この世の出来事を見てみると、

 私の子供の頃は、人気の歌手の歌は2〜3年間はみんなが口ずさんでいた。

 今、流行の歌は2〜3ヶ月で消えていく。

 この宇宙の運命と共に、一切がスピード化し、めまぐるしくなって行くのであろうか?!
    
                                 ・・・・・ 苦縁讃
    
 縁起の法とは:関係性 円極難思であり、完全のきわみ。 情量:迷いの認識 法性:空性のことわりを説く。

 また、或いは互いに反発しあっているからこそ意味がある。柱は縦、棟は横だから意味がある。

  それでも、一つ一つは本当に掛け替えの無い個性を発揮し合っている。

 (6)  六相(りくそう)円入義(えんにゅうぎ)
   これは、 六相(りくそう)円入義(えんにゅうぎ)
 

 此の義、現前すれば、

 現前すれば:事事無礙法界が理解されたならば

 一切の惑障は一断一切断にして、

 九世
(くせ)・十世の滅(めつ)を得(う)

 行徳
(ぎょうとく)は、即ち一成(いちじょう)一切成(いっさいじょう)

 九世:過去・現在・未来各々に三世がある。

 現在にそれらが統括されていて、現在を併せて十世

になる。
理性は即ち一顕(いっけん)一切顕なり。
 理性:悟りの智慧で知られる究極的な世界。真如・

理法界の世界

 並びに普別(ふべつ)具足し、                                 普別:全体性と個別性

 
始終皆斉(ひとし)くして、

  初発心
(しょほっしん)の時に

    便ち正覚
(しょうがく)を成(じょう)ず。
 始終皆斉く:修行の始まりと中ほどと終わりは同じ

      ”初発心時便成正覚”
              
 (7)  大慈・慈悲 大悲の妙用果てしなく

   
佛の本質は大慈・慈悲である。

   宝王如来性起品 (華厳経の内容の一部)・・・・ 佛の本質を描く


 @ 仏陀は、阿弥陀様のことを説いている。
   阿弥陀様は、 無量寿無量光  計り知れない空間・命・智慧・光明を具現する。

  法華経では・・・:如来出世の本懐 如来像思想を、以下のように説く。
 
 諸(もろもろ)の仏世尊は、衆生をして仏の知見を聞かしめ、

   清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したもう。
                  ・・・・・・
 衆生をして、仏の知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

 衆生をして、仏の知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

 舎利弗よ、

  これを諸物は、唯、一大事の因縁をもっての故にのみ、世に出現したもうとなすなり。

                                      ・・・法華経 (開示悟入)
  
  仏の知見とは、また、自分とは何か?・・・・・・・・ 大円鏡智。本質的に、自他平等を知ること。

           ひとりひとりの本当の命を知ること→自我に囚われた命から解放されること

               ・・・・ヒトは自分の本当の命を知らないから苦しむ。

 A <何故、仏がこの世に現れたのか?>
 
  ・・・如来は何故この世に現れたか?

  大慈は衆生の帰依となり、

  大悲は衆生を救済し、大慈大悲は衆生を利益
(りやく)する。

  大悲大慈は方便智
(ほうべんち)に依り、大方便の智慧は如来に依る。

  しかして如来には依るところなく、無礙
(むげ)の慧光(えこう)あまねく十方一切の世界をてらす。

  仏子よ、これが等正覚
(とうしょうかく)を成就し、世に現れたまう第九の因縁(いんねん)である。

  菩薩大使は此のごとく知るがよい。

                             
・・・・宝王如来性起品 (華厳経の内容の一部)
                  慈 →友情   悲 →同情
 B 如来とは・・・

 如来の智慧の日光は「自分はまず菩薩を照らし、ないし邪悪の衆生に及ぼそう」とはおもわれない。

 ただ大智のひかりを放ってあまねく一切を照すばかりである。

 仏子よ、たとえば日月この世に現れて、ないし深山幽谷にいたるまでも、

    あまねく照らさぬということはない。

 如来の智慧の日月もまた此のごとく、

    あまねく一切を照らして明了ならしめぬということはない。

 ただ衆生の希望・善根に不同あるがために、

     如来の智光に種々の差別が生じる。

                           (受け止め方による) 宝王如来性起品
注:  ただ衆生の希望・善根に不同あるがために、如来の智光に種々の差別が生じる。
管理人意訳

 
一切に・平等に、如来の智恵の光は照らしている。

 太陽や月の光の射すがごとくである。

 ただ、衆生の希求するもの・何気なく行う言動が同じではないので、光は受け手に応じた受け止め方をされるだけである。


 C 如来の智慧とは・・

 仏子よ。

 たとえば大海は一切衆生の色像をよく印限する。

 それゆえに大海を名付けて印といふ。

 如来・応供・等正覚の菩提もまた此のごとく。

 菩提の内に一切衆生の心念と諸根とを現出して、

   しかも何ものをも現出しない(すべてを知っていて囚われない)。

 それゆえに如来を一切覚と名づける。


                                ・・・宝王如来性起品

  大海に例えて→ 華厳経では 海印三昧(かいいんざんまい)と言う。=唯識では、大円鏡智(だいけんきょうち)

  如来・応供・等正覚 →仏の別の呼び名。 応供とは、供養を受けるに相応しい人

 D 一切衆生 悉有仏生(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)

「一切衆生悉有仏生」
: 涅槃経
(ねはんぎょう)

・・・・・「すべての生き物が仏生を持っている。」ということ。
 
 華厳経では、如来蔵思想。如来の胎児を皆一人一人が既に持

って働いている。:宝性論 

           ( 唯識では、種子
しゅうじ。)
  すべてのものが、如来の悟りの知恵を持っている。

  
宝王如来性起品(ほうおうにょらいしょうきぼん)                        

また、次に仏子よ、

 この菩薩大士は、みずからその身のうちに、ことごとく一切諸物の菩提の存することを知る。

 彼等菩薩のこころは、あらゆる如来の菩提をはなれないから、彼等は自身の心中におけるごとく、一切

衆生の心中もまた同様であると知る。

 げに如来の菩提は無量無辺であって、処として存せぬことなく、破壊することができず、思議することが

出来ない。

 また次に仏子よ、如来の智慧は処として至らぬと言うことはない。

 なぜなら衆生ひとりとして、如来の智慧を具足していな居ないものはないから。

 ただ衆生は顛倒のゆえに如来の智慧を自覚せざるのみ。

 もし顛倒をはなれるならば、すなわち一切智・無師の智・無礙の智をおこすだろう。
                            奇なるかな、奇なるかな ・・・・・<再掲>

 奇なるかな、奇なるかな、衆生はなにゆえに、その身のうちに如来のまどかな智慧を抱いておって、しかもそれを

知見せぬのであろう?

 自分はよろしく彼等衆生をおしえて聖道をさとらしめ、永(とこしな)えにあらゆる妄想顛倒の垢縛(くばく)をはなれしめ

、如来の智慧のまどかにその身のうちに在って、仏と相違しないことを自覚せしめよう。

                             華厳経・宝王如来性起品
(如来蔵思想)

我ら衆生には、それに気づくことが難いのだ。

      ********************************
4  華厳宗の位置づけーその2
 (1) もう一つの大乗仏教

  
華厳宗は、奈良時代に日本に入ってくる。  南都六宗の一つの宗派である。

   聖徳太子の著したと言われる「三教義証」の中には「華厳経」はない。しかし、

  「唯摩経」の中に、華厳と近い思想がある。従って、聖徳太子も華厳経を学んでいたとも思われる。


「而して大悲息(や)むこと無く 機に随(したが)いて化(げ)を施(ほどこ)す」   聖徳太子
 @ 法相宗(唯識:ゆいしき)との関わり

 法相宗(唯識)の「三乗思想」は、さとりに至る声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三つの実践法である。

 乗とは、人を乗せてさとりに至らしめる乗り物とも言うべき教えのことである。・・・・ 人々にどういう段階まで仏教的に自分を成就し

て、行く着くことが出来るか?が、予め区別して定まっている。という思想(三乗思想)


 法相宗(唯識)の「三界唯心」という思想は、三界のあらゆる現象は、ただ一心から現れ出たものであると言うこと。

 すべての存在は、ただ”こころ”によってのみ存在していると言うことで、これは華厳(一乗思想)から出ている。

注:  一乗思想とは、”唯一無二”の教えのこと。

 仏教の種々の教えは、仏陀が衆生を導くために方便として説いたもので、実は唯一つの教えが在るのみだという説。

 それによって如何なる衆生もすべて一様に仏になれると説く。

 この思想は、『法華教』『勝鬘経』『華厳経』等で説かれるが、特に『法華教』で強調される。

                               
「仏教語大辞典」中村 元 参照

 A 弘法大師の見る華厳・・・・「秘蔵宝鑰」      LINK  人間・空海

 空海は、「秘密曼陀羅十住心論」 の「秘蔵宝鑰」で: 人間のこころの段階・在り様を十にわかりやすくまとめ、これを

宗派に当てはめた。

 空海は、ここで

   ○ ”こころ”(本能)のままに生きる人間の段階から、
   仏教に入り、

    正聞・縁覚・・・
   法相宗

    三論宗

   天台宗

   ○ 華厳宗・密教へと到達する。・・・と、説く。

             即ち、空海が顕教の中で一番評価しているのが「華厳」であった。

  非常に大きな位置を占めていた様であった。

 B  空海 「即身成仏偈:そくしんじょうぶつげ  前半のみの部分に以下のとおり説明があった。

 「六大注1無礙(ろくだいむげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり  ・・・瑜伽 ・・ 結びついていること      

四種曼荼
注2
(ししゅまんだ)各々離れず

三密加持注3
(さんみつかじ)すれば速疾(そくしつ)に顕わる

重々帝網注4
(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく」
  

 
さて、上文の解説である。      
****************
・・・・・・・・・・・・・・・・・・↓
 
注1 六大(六つの大きな元素)とは                         ・・・・「大日経」には・・・。

これらは「大日経」に表すことである。・・・という。  地水火風空 + 識(こころの世界)             
世界構成の元素 大 日 経 世界の根元は以下のごとく
識 大 我   覚 仏の智慧の成就
地 大 本 不 生
(ほんぶしょう)
真実の世界は二元的な対立を越えている
水 大 出過語言道
(しゅつかごごんどう)
仏の世界は言葉の表現を越えているのだ
火 大 諸過得解脱 煩悩解脱を一切はなれている
風 大 遠離於因縁 生死輪廻の世界を越えている
空 大 知空等虚空 世界の本性は空であって、何の限定も出来ないのだ。
   

 
注2: 四種曼荼(ししゅまんだ) の各々とは・・・・
法 曼 陀 羅  説法のすべて 言葉の世界
三昧耶(さんまや)曼陀羅  印 しるし(不動明王の剣のような物)象徴の集まり こころの世界
大 曼 陀 羅  形・総合 体の世界
羯磨(かつま)曼陀羅  身・口・意の三業のすべての世界
                          
注3: 三密加持 とは・・・ 方法と意味                             
 三 密 加 持 すれば速疾に顕わる       
身・口・意(しん・く・い)

 の三業
  ◇  真言を唱える。マントラ          
  ◇  印を結ぶ・・手の形足の組み方形。   
  ◇  こころを統一して三昧に達すると・・・・。
加持 とは
「即身成仏義」に
「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。        
 仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、   
         行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」

 注4: 重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく・・・                   
 帝網:帝釈天の飾りになっている網のこと・・・に、宝石がちりばめられている。
 この網には、宝石が散りばめられている。

 そして、それら宝石同士が相互にその影を反映し合って、見れば、無限に宝石があるかのように見える。

 限りなく、華美な宝石がある。

 そこに我が身を映せば、自分自身が無限にそこに存在する。
                                     


   「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」を見る限り、密教は華厳の上に乗っかっている思想であると判断できる。


 ☆ 十界互具・・・「一念三千」→これらが入り交じって、渾然としている。                    
十界互具
(じゅっかいごぐ)
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・正聞・縁覚・菩薩・佛の中の世界 「一念三千」
   華厳的な考え方→ 天台の思想                       

5 鎌倉時代の禅宗・・
 ○ 臨済宗 も、そして
 ○ 曹洞宗(道元:「正法眼蔵」の「海印三昧かいいんざんまいの思想」)にも、華厳の考え方がある。

 「仏法には 修証(しゅしょう)これ一等なり。

   いまも証上
(しょうじょう)の修なるゆえに、

           初心の弁道 すなわち本証の全体なり」
 ・・・道元「弁道話」

              ・・・とある。

 ○ 良忍(1072〜1132) 華厳と密接な関係がある。
           注:1124年 良忍(1072〜1132融通念仏宗開祖)念仏を唄う。

「一人一切人、一切人一人、         

一行一切行、一切行一行、

       是れを他力往生と名づく、

十界一念、融通念仏、     

      億百万遍、功徳円満。」
 

               ・・・ 「融通円門章」  良忍

  ○ 親鸞(1173〜1262)の、 「信心為本(しんじんいほん)に、 華厳経の影響を見ることが出来る
    注:皇太后宮大進日野有範(こうたいごうぐうのだいしんひのありのり)の子として、京都に生まれる。


「信心よろこぶ そのひとを                 

如来とひとしと ときたまふ            

    大信心は 仏性なり        

   仏性すなはち 如来なり」


            ・・・・・ 「浄土和讃」  親鸞
「此の法を聞きて歓喜し、              

信心して疑い無ければ        

速やかに無上道を成じ  

諸の如来と等し」

               ・・・・・・・華厳経「入法界品」

・・・・・と、上記のように

  「無上道:悟り」について、説いている。




 
参考資料 
☆ 親鸞の挙げた七高僧 ☆                       
BC566年 釈迦(〜486)
150年 龍樹(りょうじゅ)  インドで、龍樹りょうじゅ(〜250)生誕。=親鸞が七高僧に挙げる僧。南インドに生まれ、哲学・天文・地理・医学などの

あらゆる学芸を身につけた。

 やがて隠身術を身につけて友と城に忍び込み美女を心のままに情欲の犠牲にし、やがて”情欲こそ堕落”と、出家

する。

320年 天親てんじん
(世親
せしん
 インドで、天親てんじん(世親せしん〜400)生誕。

 兄の無着菩薩から小乗の天親に「大乗を誹るな」と、諌められ、大乗を進められた。
476年 曇鸞(どんらん)  中国で、曇鸞(〜542)生誕。親鸞が七高僧に挙げる僧。北魏の五台山で修業。

 50代に洛陽である三蔵
(シルクロードを通って多くの経典を携えて来て、ここで中国語に翻訳中)から、観無量寿経を示され浄土

の教えに帰し、仙経を焼きすてる。
562年 道綽(どうしゃく)  伽耶(任那)、新羅より滅亡。中国で、道綽どうしゃく(〜645)生誕。

 中国北周の武帝は仏法を嫌い過激な迫害を行った。この時代に14歳で仏門に入る。

 涅槃宗に帰依していたが、ある寺で曇鸞の碑文を読んで強い衝撃を受け、聖道自力の道を投げ捨てて他力の教え

に帰依した。これよりこの寺・玄忠寺の移り大師の「浄土論註」を基として、念仏生活に入る。同師80歳のときに善導が

いる。

617年 善導(ぜんどう)  この年、五穀が豊かに実る。 中国で、善導(〜681)生まれる。

 幼くして出家。三論宗に入り「維摩経」や「法華経」を学んだ。

 その後「観無量寿経」を一心不乱に学んだが、29歳のときに玄忠寺の道綽禅師に会う。

 この後長安の光明寺に住んで広く大衆に門戸を開き念仏を勧めた。「観経疏」を著し、これまでの「仏説観無量寿

経」についての解釈を改め、念仏往生こそ末法悪世の仏の本位であることを明らかにした。
942年 源信
(恵心)
 源信(恵心):942〜1017,親鸞が七高僧に揚げる僧。
1133年 源空

(法然)
  8/宋船来着、忠盛、院宣と称して貨物を没収。源空(法然〜1212)生まれる。
◇ 地域の歴史::

 3/15寺部八幡宮、平安時代荘園高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村(上野町1丁目)の館内に石清水八幡宮

を勧請し祀ったことがおこりで、この年、子孫の高橋氏が再勧請造営。

 1656年、時の社主寛国は、領主渡辺治綱と計り寺部村岩前山に遷宮。

          ****************      ****************
6 まとめ
     :華厳宗は、現代に生きる我々に何を訴えるのか?
 (1) 華厳宗の思想は、大乗仏教の基盤・全体である。
   民衆に大きな影響を与えたと言うことはないが、それらの基盤となって影響した。

    それぞれの仏教の背景に、華厳独特の考え方が多彩に各宗派に入り込んでいる。
 (2) 華厳思想の内容 
  @ 仏陀の悟りの世界・・・ 自内証を説く。仏様の悟りの世界。(近寄りがたい世界)
 A 菩薩道の世界 ・・・・・ 如何に人々が修行をして悟りに入ってゆくか?その道筋を説く。
 B 信満成仏の救い ・・・ 「信」が成就したら、そこで人は皆、仏と同じであるという考え方。
 (3) 具体的な解説
  ○ 悟りの世界・・・・・仏果(修行して得た仏の世界)の世界は、言葉では説けない。「果分不可説」

    しかし、

     ありとあらゆる世界が微塵の中に入り込んでいる。

     無限に重なり合って影響している世界を観ることである。

 その1:

一つの毛孔のなかに、無量のほとけの国土が、装いきよらかに広々として安住する。・・・

一つの微塵の中に、あらゆる微塵のかずに等しい微細の国土が、ことごとく住している。

あらゆる世界に種々のかたちあるを、仏ことごとくその中において、尊とき教えを説きたまう。

これぞ弘誓の願い、自在の力であって、                       

    一いのちの微塵のなかに、あらゆる国土をあらわしたまう。


                 ・・・・・・・・ 華厳経 (悟りを開いた結果見えた世界)
  仏の願い:「修行して人々を救済したい」

  悟りを開いてみれば、そんなありのままの姿がこの(上記)ように見えた。

  無限の関係性の世界のこと ・・・ それは ・・・「重々無尽
(じゅうじゅうむじん)の因縁」である。
その2:

一即一切 一切即一

一入一切 一切入一
 個物は、他のあらゆる一切の物と一つである。個は一切の物と一つ。

 即ち、個=一つのモノの働きが、他の一切の物の働きに入り込んでいる。

        ・・・・・・・・・と言うこと。

  その3:
    インドラ網のたとえ・・・→  事事無礙法界
A
B F
C E
D

網に宝石がくくりつけられている。A・B・C・D・E・Fの宝石だとすると・・・・・。

宝石が、互いにその姿を映し合う。

それのみではなく、相互が映している姿を、そのまま無限に映し合っている。

 Aは、他の宝石を映しているが、別の宝石にはAが他を映している”A”そのものの姿を映している。その中は無限に映し合う宝石が見

える。

 同様に鏡を置いてみても同じである。

 無限に映し合う。
       
                   

 その4:
 @ 比喩・・ 家 においても同じである。 全体と部分。

  ○ たる木・柱・・・・・、それぞれが「家」全体である。

           一つ一つがかけがいのない個性を発揮しているから、家を構成することが出来る。
  ○ 敷居は、柱は、・・・・・と、これらは、家がなければ、一本の材木にすぎない。

          敷居がなければ、柱もない。 部分と部分の関係と全体。

   しかし、部分は全体のために存在するのではない。
事 法 界 個々別々の事物の世界
理 法 界 事物を貫く真理・空という事物の在り方。
理事無礙法界 個々の事物と普遍的な真理が解け合っている。
< 普遍的な真理は、空性であるから消えて・・・>
事事無礙法界 これが求める真理

   仏果(修行して得た仏の世界)の世界は、言葉では説けない。

   「果分不可説」。従って、すなわち比喩で説明するしかない。

 A しかし、修行の道は説明できる。
  菩薩道の修行の世界は説明できる 因分可説
  ◇ 善財童子(ざいぜんどうし)が、
    文殊菩薩の励ましを受けて53人の師匠を訪ねる話:「入法界品」解説がある。

「我以外 皆 我が師なり」       吉川英治

※ 善財,菩薩の道を問う ※        中村 元現代語訳大乗仏典『華厳経』『楞伽経』より
 53人との対話の中でも、異色の対話として人々が大変興味を持つ一節は、善財がヴァスミトウラー(婆須密多)という

遊女から教えを受けたという話です。

 彼は第25番目の人として、女僧を訪ねます。そしてそれから第26番目の人として遊女のもとへ赴くのです。

                   
 中村 元現代語訳大乗仏典『華厳経』『楞伽経』より
【漢訳書き下し文】 中村 元 氏の解説
 その時(とき)に善財(ざいぜん){童子(どうし)}は、彼(か)の女人

(にょにん)を見(み)たてまつるに、宝(たから)の獅子座(ししざ)に処

(いま)して、顔貌(げんみょう)端厳(たんごん)にして、妙相(みょうそう)

成就
(じょうじゅ)し、身は真金(しんごん)の如(ごと)く、目髪(もくはつ)

は紺色
(こんじき)にして、長(なが)からず短(みじ)からず、白から

ず黒からず、身分
(しんぶん)具足(ぐそく)し、一切の欲界に与

(とも)に等しき者無し。
 何
(いか)に況(いわ)んや勝(まさ)るもの有らんや。言音(ごん

おん)
は婉妙(えんみょう)にして、世(よ)倫匹(たぐい)(な)く、善く

字輪
(じりん)や技芸(ぎげい)緒論(しょろん)を知り、幻智(げんち)

菩薩の方便
(ほうべん)を成就し、阿僧祇(あそうぎ)の宝を以(もっ)

て其(そ)の身を荘厳(しょうごん)し、宝網(ほうもう)を羅覆(らふ)し、

(かしら)に天冠(てんかん)を冠(かむ)り、大衆(だいしゅ)に囲遶

(いぎょう)せらる。〔その大衆(だいしゅ)たちは〕皆(みな)(ことごと)

善を修
(しゅ)し、其(そ)の願行(がんぎょう)を同(おな)じくし、善根

ぜんこん)
を成就して、沮壊(そえ)すべからず、無尽(むじん)の功

(くどく)の宝蔵(ほうぞう)を具足して身より光明(こうみょう)を出(い

だ)
し、普(あまね)く一切を照(てら)す。斯(こ)の光に触(ふ)るる者

は、歓喜
(かんぎ)し、悦楽(えつらく)して、身心(しんじん)柔軟(にゅう

なん)
となり、煩悩(ぼんのう)の熱(ねつ)を滅(めっ)す。

 
(普訳 『華厳経』入法界品第34之7 九巻717上)
 その時善財が、彼女を見ると、宝の獅子座にいました。豪勢な、ベッドにもなる椅子を獅子座といい、それが宝で飾られているわけです。その立派な寝台の上であぐらを組んでいたのでしょう。日本の女性はあぐらをかくことはありませんが、インドの婦人はおおっぴらにあぐらをかきます。両脚を組んで坐っても、前をサリーで覆ってしまいますから、ちょっともおかしくはないのです。
 彼女は、顔だちが麗しく明るく、見事なすがたをしています。身体はまるで純金のように輝いていて、目は紺色です。「青い目」は仏の三十二相の一つとしてインドで尊ばれています。ただ原文を見ると「ニーラ(nila)」という文字があるので、青より少し黒みがかったもののようです。そして目も髪も長くはないし、また短くもない。白からず黒からず、中庸を得ているというのです。インド人はひじょうに色の白い人もいるし、また真っ黒な人もいますがそのどちらでもないということです。そして体と体の部分がきちんとそなわっています。
 私たちが住んでいる欲界(欲望にとらわれている世界)にかの女に等しい者はない、ましてかの女に勝る者はありえません。ことばはあでやかで、世にたぐいなく、よく字や技術・芸術、緒論を知り、不思議な力と智慧とについての菩薩の方便を完成して身につけています。
 数え切れないほどの宝をもってその身を飾り、宝の網をめぐらし、頭には天の冠をかぶっています。
 そして大勢の人々に囲まれています。その大勢の人々はみなことごとく善を実行し、その願い、行いを同じくしています。そして善根(後で善い報いを生ずるような功徳。根と表される)つまりよい徳を完成していて、妨げそこなうことができません。また尽きることのない功徳の宝の蔵をそなえていて、身体から光明(光り輝き)を出してあまねく一切を照らしています。
 その光に触れた者は、すっかりうれしくなって身心が柔軟になり、そして煩悩の熱を滅するのです。
 美しい遊女を見たら、煩悩をかき立てられることになるのではないかと案じられますが、そうではなくて煩悩が鎮まると述べているのは、ここには大乗仏教の教理がものをいっているのです。
 のちの真言密教では、人間の欲望を満たすと煩悩がなくなると説きますが、ここではそういう思想を内にふくめてこのようなことをいったのだろうと思われます。
 ※ 遊女の教え ※
 善財は、「立派な人よ。私はさとりに向かう道心をおこしたけれども、どういう具合に実践したらいいか、どうもそれがわかりません。だから教えてください。」 ・・・・・ これに対して、ヴァスミトゥラー女は以下のように応えました。
【漢訳書き下し文】 中村 元 氏の解説
 「善男子よ。我は已(すで)に離欲実際(りよくじっさい)という清浄

(しょうじょう)の法門を成就せり。若(も)しも〔もろもろの〕天が我を

見なば、我は天女
(てんにょ)となる。若し人が我を見なば、我

は人女
(にんにょ)となる。及至(ないし)非人(ひにん)が我を見なば、

非人女
(ひにんにょ)と為らん。形体◇妙(ぎょうたいしゅみょう)に、光

(こうみょう)の色像(しきぞう)も殊勝(しゅしょう)にして比(たぐい)(な)

し。
    注:◇=女偏に朱
 若し衆生
(しゅじょう)にして欲に纏(まと)わるる者ありて、来たり

て我が所に詣
(いた)りなば、其(そ)が為に法を説きて、皆悉

(ことごと)く欲を離れ、〈無著(むじゃく)の境界(きょうがい)〉という三昧

(さんまい)を得しめん。若し我を見ること有らば〈歓喜(かんぎ)

という三昧を得ん。
 
(普訳 『華厳経』入法界品第34之7 九巻717上)
 「善男子よ。私はすでに離欲実際という名前の浄らかな教えを身に受けて完成しています。」

 「離欲」とは欲を離れること、「実際」真実の究極と言う意味です。
 「もしもろもろの神々が私を見たならば、私は天女となります。
 またもし人が私を見たならば、私は人間の女となります。
 また悲人が私を見たならば、私は悲人の御後なるでしょう。形があでやかで、光り輝いている姿も比(たぐい)ありません。」自分でそういってほめているのだからおもしろいですが・・・・。

 「もしも人々のうちで欲望にまだとりつかれている人が私のところに来たなら、その人のために教えを説き、すべての欲を離れて<執着がない境地>という精神統一を得させましょう。

 もしも私を見ることがあれば、<歓喜>という三昧を得るようにしてやりましょう。」ここの「歓喜」とはサンスクリット語では男女の性的な喜びという意味にも使われることばです。
 「若(も)し衆生有りて我と語らん者は、<無礙(むげ)の妙音

(みょうおん)
>という三昧(さんまい)を得ん。

 若し衆生有りて我が手を執
(と)らん者は、<一切の仏刹

(ぶっせつ)
に詣(いた)る>という三昧を得ん、若し衆生有り

て我と共に〔同じ宿に〕宿せん者は、<解脱光明
(げだつこう

みょう)
>という三昧を得ん。

 若し衆生有りて我が頻申
(ひんしん)を見ん者は、<壊散

外道
(えさんげどう)>という三昧を得ん。

 若し衆生有りて我を観察せん者は、<一切仏境界
(いっ

さいぶつきょうがい)
光明>という三昧を得ん。

 若し衆生有りて我を阿梨宜
(ありぎ)せん者は、<摂一切

衆生
(せついっさいしゅじょう)>という三昧を得ん。

 
若し衆生有りて我を阿衆△(あしゅび)せん者は、<緒功徳

密蔵
(しょくどくみつぞう)>という三昧を得ん。  注:△→ 革

偏に卑

 是
(かく)の如(ごと)き等の類の一切衆生は、来りて我に

詣らん者は、皆<離欲実際
(りよくじっさい)>という法門を

得ん」。(以下略)




(普訳 『華厳経』入法界品第34之7 九巻717上ー中)
 「また、私と話をする者には、<とどこおりのない妙なる音声>と名づけられる精神統一を得させるようにしましょう」。ポーとなってしまう、といういのでしょう。
 だんだん話が現実的になってきますが、「自分の手をとった者には、<一切の仏刹(ぶっせつ):佛の国土に詣(いた)りうる>という名前の精神統一をうるようにしてやるのでしょう。心を統一して、その結果、どの仏のところにも行けるというようにしてやるのでしょう。
 「もし私と同じ宿に宿る者には、<解脱光明
(げだつこうみょう)>という三昧を得るようにしてやりましょう。もし私を見る者には、<解脱光明>という三昧を得るようにしてやりましょう」。つまり、人間の動かすいろいろの力である諸行が静まるようにしてやろう、というのです。
 「もしも誰かが、私があくびをするところを見たならば、<外道をおっぱらってしまう>という名前の精神統一を得るでしょう。もし私をよく観る人がいるならば、その人は<あらゆる仏の境界が光り輝いている>という精神統一を得るようにしてやりましょう」。
 「もし衆生のうちで、私を抱擁したものには、<一切の衆生を摂する>という精神統一を得るようにさせましょう」。「阿梨宜(ありぎ:アーリンガナの音写)」は抱擁するという意味です。そして抱擁するとは摂することですから、そこでつながるわけです。
 「もし衆生がいて私を阿衆△(あしゅび)する者は、<緒功徳密蔵>という精神統一を得るでしょう。」・「阿衆△
(あしゅび)」は、アーチュンバナの音を写したもので、接吻するという意味です。だから、功徳密蔵(内に良いことを密かにおさめている)という名前の連想とつながるわけです。
 「このように、私のところに来た衆生はみな、<離欲実際>という法門を得るでしょう」。
 この節で遊女に対する「抱擁」とか「接吻」ということばが出てきましたが、インド人は一般に抱擁とか接吻というような、男女の姓に関するようなことばを口にすることを何とも思いませんでした。ところがこれを選択するにあたって、、中国という国は「君子の道」を説くところですから、中国人の眼には、これは好ましくない現象であると映ったのでしょう。神聖なるべき宗教経典に、男女の姓に関係あることばが露骨に用いられているのはとんでもないことだ、宗教経典としての権威を汚すと考えて、東晋のブッダバドラならびにその訳場(翻訳の場所)の人々は、サンスクリット語を直接「抱擁」「接吻」と訳するのを避けて、音だけを写し、難しい漢字をあて、意味をかくしてしまったのです。ところが唐代になると、この時期はひじょうに国際的で開放的でしたから、かまわないということになって、『八十華厳』では文字どおりの意味を翻訳しています。

 ところで、女人に接吻したり抱擁したりすると、欲情をますますつのらせることになるのではないかと思われますが、ここではそれが離欲への道(欲を離れる道)であると、そのように説か
れています。しかしこの立言はどうも矛盾しているようで、説明が困難です。おそらく人生の煩悩や欲望を通りぬけて、すいも甘いもかみ分けた人には、やがて解脱の境地がひらかれるということを、暗に示唆していっているのではないでしょうか。 (以後略)
管理人の感想   (*^_^*)
 『華厳経』は、ともかく一切のモノを包含した思想である。これには驚きを覚える。
 ヴァスミトウラー(婆須密多)という遊女は、日本では
花魁(おいらん)といったところかと思う。
 中村元氏の解説に述べられていたように、仏教思想を語る上で、思想の権威を落とさないように表現してあるので、
実際に善財童子が対話したときには、華厳経に表されたのとは少々ニュアンスが異なっていたことと推察できる。
 思えば、屋台の老年期のおばちゃんに、酒を注いでもらいながら、思わぬ人生のアドバイスを頂戴したこともあった。
 振り返れば、自然界は無言でありながら・・・樹木や季節の流れが、また、貴重な呼びかけをしてくれるではないか?!
                    
 大学受験の準備を始めようとした時に、「どの参考書が一番良いだろうか?」と、悩んだ時があった。
 どの著者の参考書が良いのか?・・・・は、実はそれほど重要な問題ではない。(歎異抄の一節を思い出す。)

第二条
 一 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こ

ころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

 しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼし

めしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。

 もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひ

たてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。


 親鸞におきては、・・・云々

 読んだ自分が、どのように知識を身に着けるか?!が問題である。(大学受験は知識の記憶術。)
 善財は、縁によって出会ったすべての人々から学びを得たのであった。実は、これが「華厳経」の広さである。

 ◇ 段階を示す「52移説」が、華厳経のチャプター名で知ることができる。  <52の段階>
初発心住  → 十信・十住・十業・十回向(じゅうえこう)・十智(じゅっち)・等覚(とうがく)・妙 覚(みょうかく)

 B 修行の方法は・・・











布 施
自 戒
忍 辱
精 進
禅 定
智 慧
財施 法施 無畏施 等
悪をせず他者を利益する。
厳しい修行に堪え忍ぶ。他者の誹謗・中傷に耐える。
少しくらい得るところがあっても継続する。更に深める。
こころ落ち着け
    注:大概、仏教の修行は、「 戒」 「定」 「慧」 を 三学と言った。
      これに大乗仏教の修行には 「布施」と「忍辱」 が加わった。

 C 信満成仏(しんまんじょうぶつ)の救い
  信満成仏  ・・・ 華厳には繰り返し繰り返しこれが説かれている。
   菩提心を起こしたときに、すでに心は仏と一つになっているのだ。
  ◇ 「信」が成就すれば、如来と等しい。


此の法を聞きて歓喜し      

信心して疑い無ければ  

速やかに無上道を成じ

     諸
(もろもろ)の如来と等し。

     ・・・・・・・
華厳経 「入法界品」
親鸞、そして

道元 の思想の基本でもあったようだ。


発菩提心

(ほつぼだいしん)
 悟りを求める心を起こすこと。他者と共に幸福になりたいと思う心。

 本来の自己の在り方に気づかされる。

   自己の了解:自己は如何なる存在であるか知りたく思う心。

それは、
                                  
・・・ 個人は掛け換えのない存在であるが、しかし、他者との関わりのなかで存在し得るモノ。

    自分は、活かされている!?

    自分を越えた”いのち”によって支えられている。
    
    ・・・・・・・・ と、すんなりと信じられることか ?!    苦縁讃


注:「八十華厳」について シリーズ[現代語訳 大乗仏典 」”『華厳経』『楞伽経』” 中村元著  東京書籍 によれば
  氏は次のように解説している。
 
「六十二の詩句の内、第一から第四十八偈は、普賢菩薩があらゆる仏を讃嘆し、人々に奉仕することを誓うという内容であるが、第四十九から六十二偈には、阿弥陀(アミターバ、無量光)仏に対する讃嘆の言葉が出てくる。
 釈尊に言及している一説に阿弥陀仏が突然出てくるのは奇異ですし、趣旨が矛盾しているように思われるのですが、アミターバ信仰がようやくさかんにおこりつつあった時代に、この部分が付け加えられたのではないかと考えられます。
 このように、(略)一連の詩句は、華厳思想を奉ずる人々のあいだでもそうとう複雑な変遷あるいは発展があったことが知られますが、それは大きく三つの段階に分けられると思います。」・・・・・と述べている。ここでは、その説明の一部をご紹介します。
第一段階

(一)  毛の先端や微塵の中にも全宇宙を見出し、過去・現在・未来のすべてを現在の一刹那のうちに見出す原始華厳思想を頂いていた人がいました。その名は不明ですが‥かれは普賢菩薩を崇拝していました。



(二)


 そしてその実践は「すばらしい行い」(bhadra-cari)とよばれ、それがまたこの一連の詩句の題名となって、この題名のもとに後世に伝えられました。
 bhadraとは「良い、すばらしい、めでたい」等の意味合いがあり、漢訳者はこれを「賢」と訳しました。
 しかし、今日「あの人は賢い人だ」などというときの「賢い」とは少しく意味合いがちがいます。

(三)  ここではすべての仏を崇拝しています。特に一人の仏に限ることはありません。
                   
第二段階 阿弥陀仏の信仰が盛んになるにつれて、この仏を讃嘆する詩句が後で付け加えられました。
 以上一連の詩句がつくられたのは、おそらくクシャーナ王朝時代、つまり西暦三世紀以前です。
 全体が崩れた仏教サンスクリット語でかかれていて、美文体(kavya, ornate style)の影響を受けている入法界品の散文とは様式を異にしています。
 そうしてこれらの詩句の文法は、クシャーナ時代の諸碑文の文法と類似している点があるのです。

                   
第三段階

 これら一連の詩句が後代に、四十巻本の『華厳経』の末尾に付加されました。
 八十巻本『華厳経』が漢訳されたのが695年から699年であり、四十巻本が漢訳されたのが795年から798年ですから、現存のサンスクリット原点には、その中間の、八世紀初頭から中葉にかけて付加されたのでしょう。
(八十巻本にふくまれている行願讃は四十巻本のそれとはかなり異なっています。)
                    
 続いて、同書  の”日本仏教への影響”によれば・・・        (”『華厳経』『楞伽経』中村元の著)
                              
 「普賢行願讃」は東アジア諸国で重んじられましたが、中国・朝鮮では華厳思想を体現したものとして、また日本では浄土教を勧めたものとして源信僧都や法然上人などによって尊重されたという趣があります。
 日本仏教に対する影響という点では、六十巻本の九十九偈半の詩句よりもこの四十巻本の
「普賢菩薩行願讃」の方がはるかに重要です。東大寺では、毎月十五日にこの「普賢菩薩行願讃」を読誦します。

 そこで、四十巻本(般若訳)のこの詩句(○大十巻847上以下)を、サンスクリット原文(鈴木大拙・泉芳m校訂)と対照させて紹介することにしましょう。
                             










































































漢訳書き下し文 サンスクリット原文和訳(鈴木大拙
 (あ)らゆる十方世界(じっぽうせかい)の中(うち)にまします三世(さんぜ)の一切(いっさい)の人師子(にんじし)(仏)に、我は清浄(しょうじょう)なる身(しん)と語(ご)と意(い)とを以て、一切遍(あまね)く礼(らい)したてまつる。
 尽
(つ)くして余(あま)り無し。
 十方の世界に、[過去・現在・未来の]三世のすべてのうちにある<獅子のような人々>(もろもろのブッダ)がどれだけましまそうとも、
 私は、身体でもことばでも心でも清らかに澄んで、かれらすべてに敬礼いたします。
(一)
 [われは]普賢の行願の威神力(いじんりき)もて、普(あまね)く一切の如来の前に現(あらわ)る。
 一身
(いっしん)に復刹(またくに)(国土)の[微(み)]塵(じん)ほどの[多くの]身(み)を現(げん)じ、一一(いちいち)[の身]もて普(あまね)く刹(くに)の[微(み)]塵(じん)ほどの[多くの]仏を礼(らい)す。
 国土をつくりなす無数に多くの微塵ほどもある無数に多くの身体を現して、私はすべての勝者(ブッダ)を礼拝いたします。
 ー心ですべての勝者(ブッダ)に目のあたりお目にかかって、すばらしい行い(bhadra-cari、普賢行)をなしとげたいという誓願の力をこめて。
(二)
 一塵(いちじん)の中に[微(み)]塵(じん)の数ほどの[多くの]仏が、各(おのおの)菩薩(ぼさつ)の衆会(しゅうえ)の中に処(お)りたもう。
 無尽
(むじん)の法界(ほっかい)の[微(み)]塵(じん)も亦(また)(しか)り。
 [われは]深く諸仏
(しょぶつ)を信ず、皆(みな)[諸仏が]充満(じゅうまん)す。 
 一つの微塵の先端に、微塵の数ほどの(無数に多くの)仏たちが、仏の子らの真ん中に座っておられる。
 このように勝者らの充ち満ちておられる全宇宙を
(dharmata-dhatum)、あますところなく、ありがたくいただきます。(三)
 (おのおの)[の仏]を[われは]一切の音声(おんじょう)の海を以て、普(あまね)く無尽(むじん)の妙(たえ)なる言辞(げんじ)を出(いだ)し、未来の一切の劫(こう)の尽くすまで、仏の甚深(じんしん)なる功徳(くどく)を海に讃(たた)えまつる。  海のように美しい色が尽きることのないかれらを、あらゆる音声の音色ある海の高鳴りの声で、すべての勝者(仏)らの徳をほめ讃えて、私はすべてのみ仏を讃(たた)えたてまつる。(四)
五・六・七を略す
 我が昔造りし所の諸(もろもろ)の悪業(あくごう)は、皆(みな)無始(むし)の貧(とん)と恚(い)と痴(ち)とに由(よ)る。
 [わが]身
(しん)と語(ご)と意(い)とより生じたる所(ところ)なり。
 [その]一切
(いっさい)[の悪業(あくごう)]を、我は今、皆(みな)懺悔(さんげ)す。
                 ***************
 
著者注:恚(い)は、明の『大蔵経』では「瞋(しん)」となっている。
   その漢訳文は、懺悔文として日本のほとんどすべての
   宗派で称えている。
 貪欲から、憎悪から、また愚かさゆえに、私がこれまでに、どのような悪事を犯したにせよ、
 また、身体やことばや心で罪業を重ねたにせよ、私は、そのすべてを懺悔したてまつる。
(八)
 十方(じっぽう)の一切の諸(もろもろ)の衆生(しゅじょう)、二乗(にじょう)、[まだこれから]学ぶべきことの有る[修行僧]及び[もはやこれから]学ぶべきことの無い[修行僧]、一切の如来と、菩薩との、有(あ)らゆる功徳(くどく)を[われは]皆(みな)随喜(ずいき)す。
                **************
 管理人の注:[もはやこれから学ぶべきことの無い修行僧]
         のことを、無学の人と言ったそうな。
 世間の、修学すべきことの残っている者、残っていない者たち、独覚たち、仏の子ら、またすべての勝者が、十方において、どれだけの福徳を得たにせよ、私は、そのすべてを喜ぶ。(九)
             **********************
 著者注:独覚とは、サンスクリット言文ではpratyekajina,おそらくpratyekabuddha と同義であろう。不空訳『普賢行願讃』には「辟支仏(びゃくしぶつ)」とある。
 十方(じっぽう)の有(あ)らゆる世間の灯(ともしび)、最初に菩提(ぼだい)を成就(じょうじゅ)せる者、
 我は今[かれら]一切に皆
(みな)勧請(かんじょう)したてまつる、 ー
 無上
(むじょう)にして妙(たえ)なる法輪(ほうりん)を転(てん)じたまえ。と。
 [さとり]に到達して、煩悩にとらわれず、十方の世界において、世の灯火となっている人々、これらすべての主たちに、私は請いたてまつる、 ー
 無上の教えの輪をまわして、教えを説きたまえ、と。
(十)
 諸仏にして若(も)し涅槃(ねはん)を示さんと欲(ほっ)せば、我は悉(ことごと)く至誠(しじょう)にして勧請(かんじょう)したてまつる。ー
 唯
(た)だ願わくは久しく刹(またくに)(国土)の[微(み)]塵(じん)ほどの[多くの]劫(こう)のあいだ[この世に]住(とどま)りて、一切の諸(もろもろ)の衆生(しゅじょう)を利楽(りらく)したまわんことを。
 安らぎの境地を示そうとなさる仏さまがたに、私は合掌して懇願したてまつる。 ー
 この世のすべての人々の幸せと安楽のために、国土の微塵の数に等しい(無数に多くの)劫
(こう)のあいだ、子の世に[久しく]とどまりたまえ、と。 (十一)
 著者は述べる。
 「これは、仏教史における驚くべき転換です。もともとニルヴァーナを求め、ニルヴァーナに入った人がブッダなのです。
 ところがいまここでは、ニルヴァーナに入らないでくださいというのですから、正反対になったわけです。」
 と。
 有(あ)らゆる礼賛(らいさん)と供養(くよう)と福[徳]により、[われは]仏が世に住(とどま)り法輪(ほうりん)を転(てん)じたまわんことを請(こ)いたてまつる。
 随喜
(ずいき)し懺悔(さんげ)し、諸善根(しょぜんこん)を、衆生(しゅじょう)及び仏道(ぶつどう)に廻向(えこう)す。
 礼拝と供養と懺悔により、われわれを悦ばせるように求め、懇願することにより、
 私が、どれほどの善きこと(功徳)を、どれだけ積み上げたにせよ、私は、そのすべてを<さとり>を得るためにふり向けたい。(十二)
 著者は述べる。
 「ここで”さとり”(bdhi 仏道)というのは、意味がすっかり変わりました。
 古い時代には、自分の煩悩や悪徳がなくなるのが「さとり」でした。
 ところがいまここでは、人々を救うことが「さとり」の中にふくめられているのです。」
十三  ・略
 我は願う、 ー

 普
(あまね)く三世[の仏]に随(したが)いて学び、速(すみ)やかに大菩提(だいぼだい)を成就(じょうじゅ)することを得(え)んことを。
 有
(あ)らゆる十方の一切の刹(くに)(国土)は広大に、清浄(しょうじょう)にして妙荘厳(みょうしょうごん)ならんことを。
 衆会
(しゅうえ)は諸如来(しょにょらい)を囲遶(いにょう)して、悉(ことごと)く菩提樹王の下に在り、十方(じっぽう)の有(あ)らゆる諸(もろもろ)の衆生は、願わくは憂患(うかん)を離れ常に安楽(あんらく)ならんことを。
 十方(じっぽう)にどのような国土がどれだけあろうと、それらはいつも清らかで広大であれかし。
 そして、これらの国土は、菩提樹なる樹木のもとにまします、勝者(仏)たちと仏の子らに充ち満ちてあれ。
(十四)
 十方にどのような衆生がどれだけいようと、かれらは常に安楽で無病息災であれ。
 世間の人々は、理法にかなった目的を達成し、彼らの願いはめでたく栄えよ。

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 著者注:栄えよは、不空訳では「願得随順如意心」。