名所・旧跡(1)
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1.野見山
標高116m、平野部から一挙に86mの高さのある野見山は、豊田市街やトヨタ自動車の工場群の絶好の展望所となっていて、冬季の快晴日には、遠く雪をかぶった木曽の御嶽山、中央アルプス、恵那山なども望まれる。眼下には、矢作川の清流が蛇行、一帯は鵜の首と言われるように、急に渓谷状のネックとなって水流が走り、素晴らしい景観が見られる。野見山へは、左岸沿いの県道からドライブコース1.8Kmが結び、山頂には観光展望台、駐車場、TV中継所のほか桜木、カエデなどが植えられており、桜の満開時、新緑の頃は豊田一の絶景が広がります。また、夕涼みがてらの夜景も見事です。
2.野見神社
野見神社は、延喜式(えんぎしき)加茂7座の一つでその主神は相撲と土師(土器造り)の祖と言われる野見宿弥(のみのすくね)です。野見宿弥の事跡で著名なことが2つあります。1つは当麻蹴速(たいまのけはや)との相撲のことです。『日本書記』垂仁天皇(すいにん)7年の条に当時、力士として知られる伝説上の人物・当麻蹴速があまりにも自身の腕力を誇り、力比べの相手の生死に関わり無く勝負を挑んだため、天皇が出雲国の野見宿弥を招して相撲を取らせました。宿弥は蹴速の腰骨を踏み砕いて勝ちます。これ以降、野見宿弥は相撲の神様として尊崇をうけるようになりました。今でも、社の前に土俵があり、
秋祭り
には、神相撲・子供相撲が奉納されている。今一つの有名なことは埴輪考案の事跡です。やはり『日本書記』垂仁天皇32年の条によれば、垂仁天皇の日葉酢媛(ひばすひめ)の葬儀にあたり、宿弥は土で造った人物、動物などの埴輪を献上し、それまでの近習者が殉死する習俗の廃止を図ったとされ、その功により土師部(はしべ)の職に任命されたとあります。現在、野見町9丁目の墓地(新池隣)の南端に「土師塚」の石碑がある。この土師塚は元の位置より少し移動されているが、壺形で窓のある須恵器が発見されている。
3.野見宿弥の石碑
野見宿弥の神様としての名は甘美乾根命(あまみかしきぬのみこと)と言い、その祖先は天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(うけい)から生じた5つの神様の1つ、天穂日命(あまのほひのみこと)であると『日本書記』にあります。神社の東、150m程行った所に野見宿弥の由緒書きの石碑がある。大正15年に建てられているが、何故この時期に建てられたかは不明である。
4.野見山山頂の石碑
野見山山頂駐車場の西に5本の石碑が建てられている。向かって右2本が相撲関係の碑、左3本が高橋南部地区(野見古瀬間学区)の忠魂碑である。毎年3月には
招魂祭
が行われる。
5.豊田テレビ中継所
テレビの写りが良くない豊田市街地のために、野見山山頂に放送各社が共同で昭和54年にテレビ中継所を設けた。設備は無人化されており、受信範囲は市内約79千世帯である。
2012年デジタル化により停波したと思われる。
6.土器窯跡
野見山パターゴルフ場の前の山(墓地より、20m程上)に「土器窯跡」の石碑が建っている。建てられた時期は不明である。
7.石鳥居
宮前町1丁目(室団地の上)地内にある石鳥居は大正2年9月に建てられた。明治の始め頃に野見神社の帰属をめぐって野見町と争ったと言う話を聞いたことがある。「お宮は下野見の方向を向いている。」「いや、鳥居は野見側にある。」このような経緯もあったため、下野見側にも鳥居を建てたかったと思われる。
8.県道完成記念碑
明治17年5月、郡道・東岸道路(幅9尺)の完成(明治16年9月起工)を記念して野見山町4丁目の県道脇に完成記念碑が建てられている。
9.お不動さん
宮前町と野見山町との境界・野見山4丁目の矢作川左岸に、昔からお不動さんと呼ばれ親しまれてきた不動明王がある。このお不動さんは元々「浪切り不動」であり、風波を鎮めると信じられている不動明王で航海の安全を守る。この岩場に何時から安置されているか不明である。この岩場の横に大正の始め頃、石屋さんの家があったそうで、この方が祀られたかも知れない。現在のお不動さんは15年程前に新しくされたものです。
しかし、2010年6月、移転?。移転先不明です。
10.弁天さん
前記のお不動さんの隣りに弁財天が祀られている。この弁財天は野見町の鵜飼忠雄さんが昭和48年頃ここに持って来られた。この弁財天は鵜飼さんの祖先が琵琶湖の竹生島から受けて来られ、長く野見町9丁目の竹薮に安置されていたものだそうです。
お不動さんと同時期に移転、移転先は不明です。