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人間:イエス・Jesus

       

編集・管理人: 本 田 哲 康
 ー ヘブライ人への手紙 ー  
 
 神は、かつて予言者たちによって、

 多くのかたちで,また多くのしかたで

 先祖に語られたが、この終わりの時代には、

 御子によって私たちに語られました。

 注:
 ヘブライ人への手紙は、

 教会で朗読するために

 書かれたもの
 
 多くのかたちで また 多くのしかたで

 かつて 神は 語ったが

 先祖たちに 予言者において、

 この日々の終わりには

 彼は語った 我々に

 御子において。
注:ギリシャ語で書かれたもの

 であるが、ギリシャ語そのま

 まを語順を変えずに日本語

 に置き換えたもの。

 雨宮教授は「築語訳」と

称される。
 
注:部分的に、こころの時代「福音書のことば -旧約聖書から読み解く- 1〜12回 をおぎなっております。
 
解説:上智大学教授 雨宮 慧 より



      
  「人間・イエス/ 謎に包まれた生涯」  TVによる報道をまとめたものです。 
                                              
  番組のタイトルを失念しました。

1  3年に満たない伝導の生涯だった   短い歳月で、イエスは何をしたか?

  イエスは、時の祭司達を激怒させた。結果、殺人者達と同じに扱われ、十字架にはり付けられた。
処刑されることになった。
・・・                                
   ☆ 福音書には・・・・・
                                                        
  新約聖書には、四人の弟子が書いた福音書(イエスの生涯)が収められている。

   その中に、              

 
○ 数々の”奇跡”が述べられている。例えば・・・・                                 
マタイによる 8章の26 湖で、嵐を鎮める。
マルコによる 6章の30 五千人に食べ物を与えた(五つのパンと二匹の魚)
マタイによる 15章の29 大勢の病人を癒した

  イエスに従っていた十二人の使徒達は、裏切りを行った。
ここ(福音書)には、イエスを取り巻く十二人の使徒達の心の経緯ではない。

イエスが処刑が決定されるに至った経緯を中心に説明がされている。



  さて、
  
◎ ローチェスタ大学考古学者  モルデハイ・アヴィアム氏は、
「イエスは、心のアーティストである。」  と言った。

 「イエスは、こういう処刑にいたるあらすじ(経緯)を予見していた。

      ・・・すべてを予感した上で、最後の晩餐会を行った。

  ・・・・処刑に至る経緯。

  そして、刑が決定した後の十二人の使徒の心を読み切っていた。」

 ・・・・・というのである。
     また、                     

  ◎ エルサレム大学  セイジン・コウ学長は、
      「イエスの時代は、戦乱が続き、市井(しせい)の民達は当に”絶望の時代”で在った。」という。

○ 時の祭司達が怒った結果、イエスは、殺人犯などと並んで、同じ場所で共に処刑 されることになった。
    ☆ 処刑された理由は何か?
  処刑された理由は、・・・・・イエスが、ユダヤ教の律法(トーラー)を否定したからである。
  例えば、

 当時の法律によれば、「姦通
(かんつう)」は死に値する重罪であった。

 新約聖書の中に述べられている場面は、姦通或いは売春婦に対して、人びとの扱いはとても厳しいものであった。

 だが、その状況に出会ったイエスは、
 「・・・・。では、最初の石は、一度も罪を犯したことのない者が投げるが良い。」

                         ・・・・ヨハネによる福音書 8章の3
   ・・と、呼びかけた。
 イエスは、当時民衆からさげすまれていた人たちの立場に立った。

 人目をはばからずに、女・売春婦そして徴税人の家にまで赴いたのであった。


 そして、イエスは・・・

 こんな行動を批判する者達に対して、


 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、

            正しい人を招くためではなく、罪人を招く為である。」

                              ・・・・ マタイによる福音書 9章の11
  
        と、述べた。

☆茨城県笠間市西念寺

   親鸞上人  
 『善人でさえ救われるのだから悪人はなおさらである。』:意訳

             ・・・歎異抄(唯円 著) 
 歎異抄 第三条
 一 善人なほもつて往生(おうじょう)をとぐ、いはんや悪人をや。

 しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

 そのゆゑは、自力作善
(じりきさぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀(みだ)の本願にあらず。

 しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

 煩悩具足
(ぼんのうぐそく)のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成

(じょうぶつ)のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

 よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

 管理人意訳:
 
 善人でさえ救われるのだから悪人はなおさらである。

 だが、常識では、人々は『悪人でさえ、弥陀の本願によって救われるのだから、善人はなおさらである。』と

、言うであろう。

 この言葉は道理に叶っているようであるが、本願他力の意趣にそむく解釈なのである。
 
何故かならば、清濁併せもつ人間・限りなく業
(ごう)多き人間である。これが現実の我らの姿である。
 
 このような煩悩深き人間が、「新聞やTV報道によると、あのように犯罪者が沢山いる。恐ろしいことだ!だが

、私は生まれてこのかた悪いことなどしたことはない。」とか「生い立ちも良く、永年慈善事業に率先して参加

して励んでいる。」とか、或いは、「自分は得度をして”○△宗徒”として励み、厳しい修行して自分を磨いて

いる。」とか「有名大学を卒業し、一流企業に勤務して・・・」等々・・・・・・・、ついつい「自分は特別だ。」と思う。

・・・。

 このような”善人”には、苦難に喘
(あえ)いで居ても自覚できない。・・が、しかし、数え切れない程の煩悩の

中に包まれ、気づかずに誰かのこころを傷つけたり、知らない人のお陰様で今の自分があるという現実に、思

いを巡らせられない儚
(はかな)い命でしかない。

 <阿弥陀様の眼で見れば、そのような人は、実は決して善人ではない。「自称:善人」。

            このような善人には、遍
(あまね)等しく差し出している大悲の仏心が目に入りにくい。>

 どこかで・・・・、何時からか・・・??・・・「つい脱線して、他人
(ひと)の真心を傷つけたと悔いている人。」とか「生活苦からとは言え法律を犯してしまった人。」とか、・・・・、「己
(おのれ)の醜さに気づかされて、慚愧(ざんき)の念に自らを戒めている人。」・・・・・等の、小さな我が身に溢れる程の煩悩に汚濁(おだく)した自分の存在に気づかされて、萎縮(いしゅく)している”悪人(阿弥陀様の眼には、どちらも同じ衆生)”が居る。
 善人も悪人も、共に凡夫!
 だが、『南無・・・・!!』と叫べば、真実報土の安心
(あんじん)の世界に導かれるのである。
 生
(しょう)・老・病・死の、その時の孤独の苦しみ等、四苦八苦。・・・・・、どのようにしても、これらの"苦”から解放されることの出来ない人間。
             
(自然界には。樹があり虫がおり魚が居る。彼等には”煩悩”の苦はない。生・老・病・死の四苦は無い。・・・。

 ところで、この中の『生』の苦は、何だろうか?書物を捜したが、この苦しみについて自分の納得の出来る説

明はなかった。

 産まれるときには、母親が代わって苦しんでくれた。狭い産道を通るときの苦しみは記憶にない。

 私(管理人)は、「生苦」は自分自身を生み出す苦しみではないか?!と、思うのだが・・・?煩悩だらけの自

分の中に居て、自分の在処
(ありか)と行方(ゆくえ)を見つけることだと思うのである。そうして苦しみながら自分・己

を生む。与えられたいのちの本源を知ると共に、本然の自分を発見する。

             
 このような衆生を、大きな慈悲ですべてを温かく包み込んで癒
(いや)そうとするのが阿弥陀様の本意なので

ある。
 これを信じきることが『他力』なのである。「どうしてもどうにもならない?!」と、途方に暮れて、なお、希望を

見失わないで喘いでいるときに、必ず、光明が見えてくるものである。

 ”善人”には、信じることが難しい。それでも阿弥陀様は衆生を遍
(あまね)く救い尽くして下さる。

 ”悪人"は、たった今苦しんで、藁
(わら)をも掴(つか)む想いでもがいている。阿弥陀様の暖かい御心に接する

のは近い。往生に間近いところにいる。

 「そのように心得ると、先の言葉に納得するであろう。」・・・・・と、親鸞様は述べられました。   唯円
 今もユダヤ教の律法は、ユダヤ教の人たちに尊重されている。
 この中には、安息日や沐浴、断食などのユダヤ教の人たちの日々の暮らしが示されている。
 ローマ人に支配されていたユダヤ達は、当時は、かたくなにこれらを守っていたのである。


2 処刑場へ ・・ そして十字架に架けられる。  そこまでの行程順に、イエスを追ってみよう。
(1) 聖墳墓教会(エル・オマリエ=イエスの裁判が開かれた場所) ・・・ここからゴルゴダの処刑場まで800m。

         処刑場までは、悲しみの道であった。                     

    いまここ”聖墳墓教会”に、イエスが眠っている。 壁には沢山の十字が描かれている。

   
(注:ここは、後の十字軍発祥の場所でもある。)

○ ここで、イエスは死刑の宣告を受けるのであった。 
  
   
イエスは、当時ユダヤを支配していたピラト提督に裁かれた。

   (ユダヤ教の祭司達から提督へ、強い働きかけがあったからであった。)

その主な事情は、以下のとおりである。                       

当時、祭司達は、特別の権威を持っていた。          

祭司達は、豪華な家を持ち、自宅に10を越す沐浴場を持っほどに汚れを忌み嫌った。

また、病人や障害者は、自らの犯した罪や汚れから起こったものとされ「差別」されていた。

彼らは神殿にはいることさえ禁止されていた。

(病人や障害者への差別は日本にもあった。   ・・・・管理人)
 だが、イエスは、そんな時代に、厭わずにこれらの病人達に癒しを行った。

そんなイエスは、祭司達に嫌われることになったのだ。

ペデスタの池で、多くの病人や障害者達に対して癒しを行った。

後のマザー・テレサのように、・・・。
  イエスは・・
ここで癒しによって病人の罪や汚れを除去しようとしたのだ。

ここ「ペデスタの池」で、眼の見えない者をも、イエスは癒した。

(2) むち打ちの教会
   
彼らは、見せしめにできるだけ、イエスを痛めつけてから十字架にかけようとしていた・・。

   この”むち打ち刑”は、ローマ人が考えたものであった。

いわば人類史上もっとも残酷な刑罰であった。

    イエスは、この教会から十字架を背負って、ヨボヨボと歩
(あゆ)み始めたのである。

(3) イエス、十字架が重くて倒れる・・第3ステージ

   
石段を登りながらイエスは倒れた。

十字架の重さに耐えられずに倒れたのだった。

   かつてイエスの元に集まった弟子達は、この時、口々に言っていた。

それは、次のような陰口だった。

 (これが、現実の人の心理だと思う。真の信仰とは何だろうか?
・・・・管理人)

 「人の子(イエス)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で、大酒のみだ!』」と。

                                    マタイによる福音書11章の19

 イエスは、社会からさげすまれた人々に話しかけた。

そして・・彼らと共に飲み食いをしながら、

そこでイエスは説いたのであった。

 さげすまれた人々の食事を、イエスは拒むことなく、親しみをこめて快く食べたからだった。

 
         (当時の人びとの目からすれば、この行為は理解しがたい許せないことであった。 ・・・管理人)



 「はっきり言っておくが、金持ちが天の国にはいるのは難しい。

   重ねて言うが、金持ちが神の国にはいるより、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。」

                              マタイによる福音書19章の23
 イエスは、”汚れた人々”と共に、臆せずに彼らと同じものを食べた。

 遠慮せずに食べた。

 十字架を背負ったイエスに対して発せられるのは、追い討ちを掛ける、見物に集まった人々の陰口であった。

イエスの弟子達の陰口であった。 (「信じる」ということは、本当に難しいことである。 ・・・管理人)

 
富めるもの達の眼から見たら、貧しい未亡人の献金は、「些少(さしょう)の献金」でしかなかった。

貧しい
未亡人の
献金
 
 「言っておくが、あの人は誰よりもたくさん献金した。」

                           
ルカによる福音書21章の1
    

このイエスの発言は、「差別」の眼で世の中を見る祭司や市井(しせい)の民の耳には、意表をつく言葉であった。
 

 
イエスは、また、・・・

 「もし完全(弟子)になりたいのなら、

          行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施
(ほどこ)しなさい。」

                      
    マタイによる福音書19章の21
  ・・・・・と、差別の眼でる人びとへ「施し」を指示した。

 (これは、簡単に従えることではなかったに違いない。
 ・・管理人)
 何故か???

 人は、知らぬ間に誰かを見下げて、非難・批判して、己のこころの「内に潜む空しさ」を忘れようとする。

 社会問題化している「いじめ」も、それほど簡単に無くなるものとは思えない。

 これが『衆生』の性癖である。 ・・・・ いつか無くなって・・・?? 差別はなくなるであろうか???
 ・・・管理人 

アンドリュー・
カーネギー

 「『神の国は汝等の内にあり』と言うキリストの言葉が、私にとって正しい意識をもたらしたのである。天国は、過去にで

もなく、また将来にでもなく、現在私たちの内にある。」
マザー・
テレサ

 「誰からも愛されず、必要とされないと言う心の痛み。これこそが最も辛いこと。本当の飢えなのです。パンへの飢えが

あるように、豊かな国にも思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。与えて下さい。あなたの心が痛むほどに・・・。」
アインシュタイン
 「私が信じるのはただ一つ、他人の為に生きる人生のみが、生きるだけの価値があるということだ。」



(4) 第4ステージ  母、十字架を背負うイエスを見送る

  聖母マリアは、十字架を背負ってゴルゴダに向かう我が子に出会うのだった。


☆ イエス誕生と時代背景                                          
イエス

誕生の

こと
 婚約者の大工ヨセフが父親である。

 イエス一家は洞窟に住んでいた。弟四人・妹二人。7人兄弟の長男であった。

 ガリラヤ地方の人口500人程度の小さな村ナザレでイエスは生まれた。

 
(聖書では、ベツレヘムで生まれたことになっているがこれは疑問。ここからはこの頃の遺跡はでてこないから

だ・・。)

 イエスとは、ヘブライ語で「神は救いなり」の意で、この名前は、当時のユダヤ人の間ではよく付けられたあり

ふれた名前であった。
 実は、イエスの誕生日は明らかではない。
  ”B C 6 ?” ・・と、「旧約聖書物語」 犬養道子 新潮社 

 イエスは、幼い頃からユダヤ教の律法を学んでいた

 その場所は、 ユダヤの会堂シナゴーグである。

 それは今もある。

 イエス19才の時、父親の死を迎えた。

 ここで、彼に人生の転機が訪れるのであった。

 彼は大工となって一家を支えることとなった。


  その13年後、イエスは救世主として活躍しだすことになる。・・・。
時代背景  この頃は、クレオパトラがローマに敗れ、エジプトのプトレマイオス朝が崩壊して間もない時であった。
 
☆ ア・ラ・カルト ☆
 ☆ 暦(西暦)はどのようにして作られたか 東京大学大学院教授 池上俊一氏 ☆ 
 1,  ユリウス・カエサル(B.C100〜44)<ジュリアス・シーザー>:20050年前、強力なローマ帝国の基礎を作った。ローマの暦は月を基準に定め

られていた。月の満ち欠けを12回繰り返すごとに、これを1年とした。しかしこれだと暦と季節が1年間に10日程のずれが生じる。

 そこで、当時の神官達は、このずれを修正するために臨時の日や月を挿入することに決定した。しかし、神官の都合で操作した

ために、社会で度々混乱が生じたのだ。国家の秩序を保つために、カエサルは修正の必要に迫られた。

 B.C,48、カエサルは同盟国であったエジプトに渡る。当時、エジプトの人びとは一年の長さをほぼ正確に把握していた。それを

可能にしたのは、”巨大な暦”とされていたナイル川の存在であった。

 ナイルは、毎年決まって6〜10月まで氾濫した。人びとは10月〜2月の間に農作物を育成し、2月〜6月までは収穫の季節とし

て、毎年規則正しい1年のサイクルを体得していた。更に、エジプトの天文学者達は、太陽と月の観測結果から、1年の長さを356

日+4分の一と、突き止めていた。きわめて正確なものにカエサルは驚いた。そこで、
1月   2月 3月  4月 これでは、1年が366日となる。

当時の最古の天文学者達が集められ討議が繰り返された。
その結果、春が来る前の2月で日数を調整することとした。
 例年は29日とし、四年に一度は閏年として30日にすることが
決まった。
 B.C.45年1月1日、カエサルの名前をとって、これをユリウス歴とした。
 31日  29日  31日  30日
5月   6月  7月  8月
31日   30日  31日  30日
 9月  10月  11月  12月
 31日  30日  31日  30日

2,  オクタビアヌス(B.C.63〜14)<通称・アウグスティヌス>:カエサルの後継者となった。 B.C.31年に、アクティウムの海戦。(ローマ軍とエジプ

ト軍が地中海の覇権を巡っての戦い)

 B.C.30年、クレオパトラ毒蛇に自らを噛ませて死ぬ。

 これによって、エジプトを下したローマは、地中海全域を制覇することとなった。

 B.C.27年、オクタビアヌスはアウグストゥスという尊称を得てローマ帝国初代の皇帝に就任した。

 これを記念して、8月は「アウグストゥス」と呼ばれるようになった。しかし、カエサルJuliusの名前の7月(July)よりも1日短かった。そこ

で、アウグストゥスは、8月を31日とし、9月以降の日数を入れ替えたのである。
1月   2月 3月  4月  こうすると1年の総日数は1日多くなってしまう。

 そこで、もともと短い2月を更に減らして28日として調整した。
 (四年に一度は閏年として29日にする)

 
 31日  28日  31日  30日
5月   6月  7月  8月
31日   30日  31日  31日
 9月  10月  11月  12月
 30日  31日  30日  31日
 てもともとは、月の名前は神々の名前を付けていたのであるが、7月と8月は、「神に近づきたい!」という、二人の権力者の名前

が付けられたのである。

 暦はローマの為政者の権力の象徴であった。

3,









 さて、12月25日はイエスキリストの誕生日という根拠に基づいてはいない。

 ローマの最後なる偉大な皇帝コンスタンティヌス1世(272〜337)は、これまで異質な宗教とされていた「キリスト教」を、彼は国の宗教と

して公認した。(313年)

 宗教の力を借りて帝国の権力を維持しようとしたのであった。

 当時、キリスト教は、様々な宗派が混在していたが、345年に、それを統一するために「ニケーア公会議」。

 ここで、議題の一つになったのは、国の祝祭日のことであった。

 キリストの誕生の日は、宗派によって様々な日に行われたり、或いは、誕生日を特定していない宗派もあったのである。

 コンスタンティヌス1世は、復活祭なども含めて同じ日に祝日とするように促した。

 これは、異教徒や異民族をまとめて取り込む巧妙な作戦であったと言われている。

 12月25日は、それまでのローマ土着の太陽崇拝の信仰「ミトラ教」の最大の祭り、『太陽の誕生』の祭りが、この12月25日に行わ

れていたのであった。皇帝は、この日をキリストの誕生・即ちクリスマスとしたのであった。

 この他に様々な宗教や民族の風習を取り込み、クリスマスは更に広まっていった。

 例えば、農耕の神をたたえる収穫祭「サトゥルナリ祭」も、クリスマスに取り込まれた

 また、ゲルマン人が冬至の頃に祝った「ユール」は、冬が厳しくならないようにと願って、丸太を火にくべる祭りである。これには、

緑の木に飾り物をして、常緑樹に対する信仰心を現した風習であった。これもクリスマスに取り入れられた。丸太の形のケーキ”

ブッシュ・ド・ノエル”もユールからの伝統であった。

 サンタクロースも、悪を取り払うトルコの聖人:聖ヌコラウスが行っていた子供達にプレゼントを配る風習であったが、これも取り入れら

れたのであった。

 クリスマスは、宗教や民族を越えて世界中で執り行われる行事となったのである。

 こうして、キリスト教の普及と共に、ユリウス歴は世界標準になったのであった。
 

   その後の微調整 
 ○ ユリウス歴は、地球の公転よりも1年で11分ずつ進んでしまう。
  
ローマ教皇・グレゴリウス13世(1502〜1585)が、1582年に、閏年にある法則を加えてその誤差を正した。

  1582年グレゴリオ歴。
グレゴリオ歴のしくみ   四年ごとに閏年が来る中で、
 100で割り切れる年は閏年にならない。
 西 暦
1600年  1700年   1800年  1900年
 2000年  2100年 2200年 2300年
 2400年  2500年 2600年 2700年
 2800年  2900年  3000年  3100年

 @ 四年ごとに閏年が来る中で、100で割り切れる年は閏年がない。・・・とした。

 A 但し、400で割り切れる年は、例外的に閏年にする。

  ・・・ということで、11分の誤差を修正したのであった。

 西暦2000年は、400年に一度の例外的な閏年であった。
  



(5) 第五ステージ  イエス、シモンの助けを受ける。

  
イエスは、背負った十字架の重さに耐えられずに、道ばたの岩に手をついて一歩も動けなくなった。

重い十字架を背負ったまま、イエスは立ちすくんだ・・・。

  ローマ兵は、田舎から見物にやってきた一人の男に手伝いを命じた。
それはキレネ人・シモンだった。  
    

 
☆ 貴重な資料の発見! ・・・それは・・                         
1947年2月 羊飼いの少年が、クムランの洞窟(死海近く)から多数の瓶を発見した!
死海写本の

発見
 タールで封印された瓶から多数の巻物が出てきたのである。

 「死海写本」を発見した。

 これによってイエスの生きた時代の様子が明らかになった。


 資料によって検証した結果、この時代は、何度もローマ人が反乱を起こしたが、

いずれも成功せず。すべて鎮圧されたことが判明した。

 彼らは、その度に鎮圧され、その末、処刑されたのであった。処刑・処刑。・・・・

・・。この頃の世の中は暗かった。

 そして、終末論が世論を巻き込んでいたのだった。・・・

 人々は希望を失い、僅かな望みを救世主に託すようになったのであった。

注:

救世主 → メシア
(ヘブライ語)
キリスト(ギリシャ語)


 「イエスが宣教を始められた時は、およそ30才だった・・・」・・・・ルカによる福音書3章の23

 ・・とある。

○ イエスは、ユダの荒野に赴いた。そこには、洗礼者ヨハネがいた。

        (ヨハネは、エルサレムの郊外エンカレムで、祭司の子として生まれた。)

ヨハネは、・・・・・                          

 
「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、貴方が、私のところへ来られたのですか」と、

                         イエスを迎えた。


                                   
マタイによる福音書3章の13
   
 2年後、イエスは・・・・・                    
 

○ 40日の断食をする。 ・・・・・・ この時32才。           
    イエスは、すべてに攻撃的な洗礼者ヨハネに疑問を感じた。

そこで、ひとり誘惑の山に登った。

  ”誘惑の山”でのこと・・・

  
サタンが忍び寄る                                          
サ タ ン イ エ ス
 「神の子ならこの石をパンになるように命じたらどうだ?!」

 聖なる都につれていって、

  その時高みに連れていき

  「神の子なら飛び降りたらどうだ。

 神は天使を使わし、お前を守ることだろう。」

   と、叫んだ。
「人はパンのみで生きるものではない。」


「あなたの神である主を試してはならない。」

         マタイによる福音書1章の7
 更に,サタンはイエスを伴って、一瞬のうちに世界

中を回り、その富と権力を見せて、

 こうささやく

 「もし、ひれ伏して私を拝むなら、

      これらをみんな与えよう。」
 

 「退けサタン。神である主を拝み、

           ただ主に仕えよ。」

                マタイによる福音書1章の10

ヘレンケラー  「私たちにとって敵とはためらいです。自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしか

なれないのです。」
野口英世

 「家が貧しくても、体が不自由でも決して失望してはならない。

 人の一生の幸せも災いも自分から作るもの。
 
周りの人間も、周りの状況も、自分自身が作り出した影と知るべきである。」



(6) ヴェロニカ、イエスの顔をぬぐう 第6ステージ
人々が驚く中、ヴェロニカは自らのハンカチでイエスの顔をぬぐうのであった。

  イエスは、彼女に対し祝福の言葉を贈った。


 殺人者と同じ扱いを受けているイエスに対して、彼女は思わずイエスにいたわりのこころを示した。女性の直感力と本能的な純な母性で

あろう。女性の偉大さがここに現れている。 ・・・管理人


  この時、共に十字架を背負う者以外、誰もイエスに従うものは居なかった。   

          

 ◇ 荒野をでる時には、イエスに従った者は二人居た。

   <その一人は、ガリラヤ出身の アンドレであった。>

○ 後の福音書作者 ヨハネ・・・・・ 十二使徒は、この二人から始まった。
長い旅の末、

故郷・ナザレに、

 イエスは、生まれ故郷のナザレで、苦い洗礼を受けることとなった。

 世俗の常識からすれば、あまりにも独走的なイエスの考えを聞いた故郷の村人達は、怒り出すので

あった。

 怒った村人達は、イエスを村の外へと連れだした。
 
そして、村はずれの崖の上からイエスを突き落とそうとした。

カヴァルナウム
 難を逃れて、イエスはガリラヤ湖畔の小さな村、カヴァルナウムにやってくる。

 弟子のアンドレの兄シモンが居た。
 「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」・・マタイによる福音書1章の11


 シモンはやがて「岩」という意味のペトロと呼ばれるようになった。

 彼はイエスの最も重要な弟子となる

 様々な癒
(いや)しが行われた。

 イエスは、「誰にも話さないように」と、厳しく伝えたが・・・しかし、大勢がそのことを聞いて、ここに押

し掛けた。
ガリラヤ
◇ ガリラヤの地で、イエスは彼の師「洗礼者ヨハネがヘロデ王に捕らえられる」との

 知らせを受けた。

◇ 世は相変わらず乱れていた。
  多くの反乱が起きる中、反乱軍の兵士の中の一人の新しい弟子を迎えた。

  彼は、イスカリオテ
(刺客の意)のユダであった。 彼に、イエスは財務係を担当させた。

  ユダは、いずれイエスがこの暗い世の反乱軍の指導者となってくれることを

 夢見ていたようであった。 


(7) 二度目に倒れる。 ローマ兵、イエスを鞭打つ。
  それを見る人々は、                               

「なぜこの奇跡を起こした程の人(イエス様)が、このような形で、

これほどにまでに、囚われの身に甘んじ 苦しむのだろうか?」と思った。

<数々の奇跡を起こし、多くの人たちを救ったのに・・・・、今、何故、イエスは自分自身を”救えない”のだろうか?>

   ◇ ここは、処刑の場所に至る最後の坂道。・・・ここは五千人に食べ物を与えた(五つのパンと二匹の魚)所だ!!

  弟子も民衆も「奇跡」のみを待ち、心の中でそれが起きることを、期待し求めていた。

  
(ここで、彼らは洗礼者ヨハネが処刑された事を伝え聞く。)

 
人々は、大いなるものを信じることよりも、直接、イエスの示す奇跡による利益(りやく)を求めた。


  「どうして、今の時代の者たちは”しるし(奇跡)”をほしがるのだろう。」    注:()内は、管理人の追加。

                                ・・・マルコによる福音書8章の12
 「はっきり言っておく。今の時代の者達には、決してしるしは与えられない。」
(イエスの嘆きは深く大きかったに違いない。 ・・・管理人)


   ◇ 山上の垂訓 。・・・このために、やがて多くの弟子達が離れ去り、もはや、イエスと共に歩まなくなった。

 
「心貧しい人々は幸いである。天の国はその人達のものである。」

                                  
マタイによる福音書5章の3

 「悲しむ人たちは幸いである。その人達は慰められる。」
                         
・・・マタイによる福音書5章の1

 
 「柔和な人々は幸いである。その人達は地を受け継ぐ。」
                                 
・・・マタイによる福音書5章の5

 
「あなた方も聞いているとおり、『目には目を歯には歯を』と命じられている。

 しかし、私は言っておく、悪人に手向かってはならない。

 誰かが右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。

 あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し敵を憎め』と命じられている。

 しかし私は言っておく。敵を愛し自分を迫害するものの為に祈りなさい。」

                              
・・・・マタイによる福音書5章の38

 「このために多くの弟子達が離れ去り、最早(もはや)、イエスと共に歩まなくなった。」

                                 
ヨハネによる福音書6章の66

 
やがて、・・・イエスに従うのは12人の弟子と僅かな女だけになった。

  神への使命感か?! ・・・イエスは、やがて殺されることを知っていながら、          
 
エルサレムに向かうことを決めたのであった。


(8) エルサレムの娘達を慰める。そして言った。 第8ステージ

  十字架を背負ったイエスは、エルサレムオリーブ山「主の涙の教会」に辿(たど)り着いた。

  ここは、十字架を背負うイエスに哀れみ、心から悲しんだ娘達に、イエスが語りかけた所であった。


 
「エルサレムの娘達よ。私の為に泣くな。むしろ自分と自分の子供達の為に泣け。」 ・・・と。

                                    
ルカによる福音書23章の28
注:入滅するときに端で泣きながら問いかける阿南に釈迦が言った言葉と「同じ気持ち」のように思われる・ ・・・苦縁讃
LINK ダンマ・パダを覗く

  
40年後、ローマ軍の虐殺(ぎゃくさつ)と破壊によってエルサレムは廃墟に変わることとなった。

   ◇ ここは、死を覚悟して赴(おもむ)いたエルサレムであった。
   東の門から、エルサレムに入る。

   大神殿があった。 3日後、ここで、最後の晩餐会が行われた。

晩餐会の配置


著名な画家によって、最後の晩餐会が描かれている。

 
「一体、イエスを裏切ったユダはどこに描かれているか?」…・と、推測も多い。



 12人の内、四人は位置が検証されたようである。



       ヨハネ

      イエス  ユダ(ナンバー2の席)   

 ○ 

 ○  ☆  ◇       

 ○
 ○ 

 ○ 

 ○

 ○ 

 ○ 

 ○ 

 ○ 

 ○  
 ○ 

 ○ 

 ○

 ○ 

 ○ 

 ○ 

 ○ 

 ○  














ペトロ

撮影:横川 誠 氏

パウロPaulos,Paul, ? - 65年?)はこの中には居ない。
 イエス死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではない。
  注:
 レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」(サンタ・マリアデッレ・グラッツィエ教会とドメニコ会修道院)の絵は有名であるが、ここでは12人は横列に並んでいる。

 裏切りを行って、イエスの居場所を告げたのは、ユダであった。
しかし、イエスが一番信頼すべき立場を担わせたユダの
裏切りの本心は、一体何だったんであろうか?

 
   ◇ ユダの内心  「万国民の教会」マイケル・ロウム神父は、次のように推測する。
 
「ユダはイエスに政治的な力を求めていたのです。

              ローマに立ち向かう救世主として、力を試したのです。」


 ユダは、内心こう思ったと、推測できる。

 『きっとイエスは、捕まれば今までのように何か奇跡を起こしてくれる。

          そしてイエスはたやすく敵からだって逃げてくる。』

           『そして、支配者ローマを滅ぼしてくれるに違いなかろう?!』



 

   ◇ ゲッセマネの園 ・・ ここは、晩餐をとって後、休息をとった場所だ。

             それは「万国民の教会」であった。
    
弟子達に見張りをさせて、イエスはひたすら祈った。

     イエスは、神に祈りながら、襲いかかる運命を予感しておののいていた。

苦しみもだえて
血の汗を流した。

   (事実、身を削り取るほどの恐怖と、孤独の中に置かれると、人は血の汗を流すと言う。

  人間・イエスは、この後に起きることを予期して、恐怖におののいていたに違いない。)
      この夜、
  しかし、見張りを命じられた弟子達は、皆、眠ってしまっていた。・・・・・この様子を、イエスは嘆いた。
  「あなた方は、このように僅かな一時も、私と共に目を覚ましていられなかったのか。」



   ◇ イエスを捕らえにやってくる。・・ そして、イエスは囚われの身となる。


(9) 三度目に倒れるゴルゴダノ丘(処刑の場所)


(10) イエスは衣服をすべて剥ぎ取られた


(11) 十字架に釘付けされる。  これは、イエスが「すべてを許す」事であった。

     12時頃

  
「父よ、彼らをお許し下さい。

   彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」


              






                 ・・
・・ ルカによる福音書23章の34

Eli, Eli, lama a sabthani !
エリ、エリ、 ラマ ア サパクタニ !
注:

この部分、ヨハネとルカにはない。

と、解説された。
 我が神、我が神、

  なぜわたしをお見捨てになったのですか ! 

                  マタイによる福音書
 

(12) 十字架上に死す。午後3時頃。
 解説:上智大学教授 雨宮 慧 より
  
 昼十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

 三時にイエスは大声で叫ばれた

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」

 これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」という意味である。

                  - 
マルコによる福音書 


  既に昼の十二時頃であった。

 全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。

 神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。

 「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」 

        こう言って息を引き取られた」

                  - 
ルカによる福音書 
 
        これを最後に,イエスは息をひきとった ・・・。

       注:こころの時代「福音書のことば -旧約聖書から読み解く- 第1回 わたしの神、なぜわたしを見捨てたのか

                 
解説:上智大学教授 雨宮 慧 により
「築語訳」
  絶望の中で,イエスは息をひきとったというように想像されるのであるが、しかし、
 
  
「旧約聖書の詩編-22」の冒頭句にによれば・・・

「私の神よ,私の神よ。

 なぜわたしをお見捨てになるのか。

 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 
2節
 
 わたしの神よ

 昼は呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」 
3節 と、

  そして、

 「遠く離れないでください 私から なぜなら苦難が 近い、

 なぜなら ない 助ける者が。 」 とある。   -
 12節

   ・・・。 イエスは、旧約聖書を記憶していたに違いない。

 ”絶望”であったならば、死の間際にイエスは、『わが神、わが神』と、繰り返すであろうか? 何か、

我々が言うところの「絶望」・「不安」とは違ったものがあるのではないだろうか?!

 イエスは、十字架に掛けられて死を迎える時に、旧約聖書のこの言葉を思い出したに違いない。

 
・・・と述べる。
 
  旧約聖書の詩編の部分の、作者は解っていない。 13節から19節までは、苦難の道が説かれて

いる。神にすがり寄る力として”苦難"が描写されている。

 多くの学者達は、「蔑
(さげす)まれて集落共同体には入れない皮膚病を患った人ではなかったか?」

と、推測している。

 作者は、神を絶対的な守護者と信じ切っていた。「しかし、この苦しみは、私を新たな境地に導い

てくれる一つの手段なのだ。」と、信じている。
 
 と解説された。また、次いで・・・
   詩編22 -20節
 
「そしてあなたは、主よ、

 
遠く離れないでください 私の力よ、 私の助けのために 急いでください。」

    
-21節

 「
救済してください 剣から 私の魂を 手から 犬の 私の唯一のものを」
    -
22節

 「
救ってください 口から 獅子の そして角から 野牛の あなたは 私に答えた。」 ・・・。 と、

・・・。
   詩編22 -23節
 
「わたしは兄弟たちに御名(みな)を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。

  
詩編22 -24節
 「主を畏
(おそれ)れる人々よ、主を賛美せよ。 ヤコブの子孫は皆、 主に栄光を帰させよ。


  
”絶望"の中で、神に呼びかけた。

 しかし、呼びかける対象がない”絶望"とは、少し”絶望"の種類が異なる。


 -31節
  
まことの神、主よ、

 御手に霊をゆだねます。

 わたしを贖
(あがな)ってください。

(13) 十字架からおろされる。マリア達によって石の上で香油が塗られた。



(14) 墓に葬られる  三日後、イエスは復活する。



3 語録:

 「私は十字架にかかったキリストこそ、神の最高の表現だと考えています。神は私たち各人の中

で、実際に日ごとに十字架にかかっていたと思うのです。」

ナイチンゲール
1961.11.17没

 「キリストの静かな姿、あれほどまでに忍耐強く、やさしく、愛に満ち、そして,ののしられ、ぶたれ

ても、復讐するのではなく、もう一方の頬を向けよと、弟子達に教えた。

 赦しに満ちた人格は、完全な人間の美しい実例だと、私は考えていました。」

マハトマ・ガンジー
1991.9.15没

 「私は弱かった。正直を言えば、死ぬことは恐怖だ。だが、信じていることのために生きなければ

、なんの価値があるだろう。」

キング牧師
1992.3.8没
 「人間の真価は、彼が死んだ時、何を為したかではなく、何を為そうとしたかである。」
山本周五郎
1996.9.8没

 「人間は永遠の同伴者を必要としていることを、イエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみ

を分かち合い、共に涙を流してくれる母のような同伴者を必要としていることを・・・。」

遠藤周作
1997.3.16没

 「人間への信頼が私の希望を支えている。私は信じようと思う。

 自らの苦しみを救われたが故に同じ苦しみにある人々の為に、働くことを惜しまない人間がたくさ

ん見いだされるであろう事を。」

アルベルト・
   シュバイツァー

 1991.1.20没


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