観音さん
観世音菩薩の由来
観世音菩薩の由来は次のようです。
昔、牛野村(ごのむら)の山間地に七堂迦藍の観世音菩薩を本尊に祀った天台宗のお寺があったが、天正年間に織田信長の徒によって焼失される。時が移り、天保11年庚子(1840)6月16日、領助の長女「とき」が芝刈りに出掛けたところ、土の中より光が出ているのを見つけ、そこを掘って見ると二寸五分の十一面観世音菩薩が出てきました。そこで、村の行徳寺に持って行きました。ところが、6月21日、菩薩さまがいなくなってしまいました。みんなで捜すと、6月28日、本尊の阿弥陀如来の蓮台の上に鎮座しておられました。以来、寺の霊宝として庫裏に別殿を設け、お内仏として安置し、村の信仰の対象となってきました。
観世音菩薩が発見された場所は野見山の石切り場の奥の宇野良一さんの畑と聞いているが、実際に七堂迦藍の天台宗のお寺は、御立町に隣接している野見町1丁目で、昭和46年6月、圃場整備の工事中に発見されている。昭和48年6月に発掘調査が行われ、遺構として主要柱穴五ヶ所、その他の柱穴二十が発見され、白鳳時代の古瓦及び平安中期の土器片が出土し、濠址も発見された。
野見町の口碑伝承には、往古、野見神社神宮寺天台宗弥勒山牛寺がこの地にあり、住僧が野見神社へ灯明をとぼしに登ったという。永禄年中(1558〜1565)、織田勢の兵火によって焼亡したと伝え、その後(年代不詳)焼亡を免れた迦藍は真福寺(岡崎市)に移されたという。
牛寺から野見神社へ行くのは遠いため、お社の近辺南西谷という所へ観覚法印師と申す者が隠居し、ここより朝暮の勤めをしたと言われ、観世音菩薩はこの隠居家と関連するものと思われる。