夜中の行軍(ミャンマー)



     「ミャンマー」と聞いただけでその国を容易に想像できる人は果たして何人くらいいるだろうか?おそらくそんなにたくさんはいないと思う。普通の人は、「あぁっ、アウンサン・スー・チーさんが監禁された国のことね」、と、チラッと脳裏に浮かぶ程度である。僕もほぼそんな感じの一人であった。だが実際にミャンマーに訪れてみるとその印象はがらっと変わる。軍事国家とはいってもそれらしき人はどこにも見当たらなく、平和そのものである。ロンヂーという巻きスカートを男女共に身に着け、赤茶色のような袈裟をまとったお坊さんがよく見られ、そうした光景をパゴダというお寺の塔が何百年という月日の間見守っっている。「ビルマの竪琴」という本があるが基本的にあの頃とほとんど生活の営みが変わっていないような感じさえしてしまう。馬車や牛舎がまだまだ現役だ、という点も驚きである。

     そんなミャンマーの生活観がとても気に入ってのんびり見て回りたかったのだが、あいにく時間がないの旅であったので首都ヤンゴンからバガンまでバスで一気に移動することになった。丁度この時期はミャンマーの人々も休日に入るらしくなかなか切符を取るのも難しく、やっとの思いであるバス会社の切符を手に入れることができた。「エアコンが効いている、広い、外人しかいない」、と、いいこと尽くめのことをいっていたが、いざバスターミナルに行ってみるとそんなバスは1台もなく、日本や韓国の払い下げになったようなぼろぼろのものしかない。どうみても製造後30年は経っているとしか思えないようなもの多い。今回僕が乗ると思われるものも「富士急行」と思い切り書いてある。ただ、唯一救いだったことはミャンマーのホテルで仲良くなった末森君が偶然同じバスに乗るということである。話を聞いてみると末森君もこの会社しか空いていないとのことだ。末森君もバスのことをかなり不安に思っているみたいで、「だまされたー」って何回か言っていた。「まあ、日本製だし大丈夫だろう!」と、かなり楽観的に考えて僕たちはバスに乗り込んだ。旅では余計なことを考えても無駄である、なんとかなるものだ。今までの経験から今回もかなり楽観的に考えていたが、これがこの後大きなしっぺ返しをもらうこととなる。

     バスの道中は補助席まで埋まるくらいいっぱい(これも騙された)ではあったがいたって楽しかった。外国人はどうやら僕と末森君と僕の隣のマーティンというドイツ人だけみたいだったが右隣のミン・ティンというミャンマーの大学生とその友達をも交えていろいろな話を聞けて幸せなひと時を過ごすことができた。マーティンにはドイツ事情を聞くことができ、ミンにはミャンマーの現状やBGMで流れているこちらの有名な歌手について聞くことができた。出発して1時間くらい経った頃だろうか?マーティンが「窓を見てくれー」って僕に言ったので覗いてみるとバスの周りからものすごい煙が立ち込めていた。そして徐々にバスの速度が落ちていき、ついに路肩に止まってしまった・・・。どうやら故障してしまったみたいである。「まあ、トラベルにトラブルはつきものさ」って軽く考えてみんな降りていくので後に従って降りてみるとブレーキの背後から煙が出ている。多分ホースが破損してそこからブレーキフルードがもれているようだ。運転手とあと2,3人の乗組員がさっそうとジャッキアップして直し始めたので写真を撮ったりして気軽に眺めていた。(写真館へ飛ぶ)ぼおっとその様子を眺めていたが、ふと、遠くから牛車がやってきてわれわれを追い越していった。とてものんびりとした2頭の牛が「ぶふん、ぶふんっ」と息をしながら追い越していくのを見ていたら妙な混沌とした気分になった。

     そのうちにマーティンがどうしようもないので反対にある店で夕飯でも食べようと提案してみんなでカレーを食べたが、そのカレーがまたおいしかった、とろみもなく酸味の多い日本の感覚からすると不思議な味だが、魅力的な味である。そこでしばらく雑談をしていると日もとっぷりと暮れて闇が到来してきた。それから一時間くらいたったころだろうか?突然バスのエンジンがかかり、何回も空ぶかしをし始めた。「ぶうん、ぶうぅんっ」っとアクセルを吹かすたびに車体が揺れるこの光景を僕は一生忘れることはないだろう。しかしこれは失敗だったらしく、再び分解し始めた。その後バスが直って出発したのはさらに30分くらい経った頃であった。

     出発してからは再び平和なときがやってきた。このとき午後10時を回っていたので寝始めた人も周りに何人か出始めた。僕もそれに習って目を瞑って時を過ごした。1時間くらいはそのような「平和」なときを過ごしたが、再び故障がバスを襲った。高速道路の料金所付近で再び止まってしまったのである。例の修理工が再びジャッキアップを始める。みんなが降りていく中あきらめて寝ようと思いごろごろするが暑さのせいでまったく眠れなかったので30分位してから降りていくと、そこにはライトの光に吸い寄せられてきたおびただしい数の虫に歓迎された。その虫をよけつつ末森君を捜して話を聞いてみてもどれくらいで直るかはわからないという答えのみが返ってきた。さっきまでエンジンルームにいた修理工もどこかに消えてしまったのでエンジンルームを覗いてみたのだが、よくもまあこれで走っているなあ、というような雰囲気だった。ホースはつぎはぎだらけ、ベルトも擦り切れそうで、オイルキャッチタンクのようなものはたんなる空き缶で代用されている。日本の感覚では壊れないほうが不思議かもしれない。あきらめて末森君を見てみると、彼はほかのミャンマー人数人とビルマ語を勉強していた。彼の前向きな姿勢に心から感動した。「自分も前向きに生きなければ」、とそのときは思った。これもいい経験だなあと今振り返ってみれば考えることも出来る。。

    再び壊れてから2時間くらいは経過した頃だと思う。突然バスのエンジンがかかり、転回した。直ったのかな?、ともおもったがそれはまったくの見当違いであった。なんでもここでは修理不可能なので隣の町に行って修理をしてから再びここに戻ってくるとのことだ。ならば荷物を出そうと思ったが、運転手は“No Probrem”を連発してそれを制し、乗客を降ろした挙句走り去ってしまった。あたりは再び静寂が訪れた・・・。なんだか本格的にピンチに陥ったような気分であった。カメラの入った荷物がな苦なってしまったのでそれがとても気がかりだった。ほかのものはどうでも良いけどこれがなくなっては旅の意味がなくなってしまう。   

    それから2時間半くらいわれわれ一向は置き去りにされてしまった。仕方がないので3人で飲み屋を捜して近くの店に入ったがあいにくそこにはジュースしか置いていなくそれを飲みながらさらに話を続けた。店といってもすべて木で出来ている。屋根も葉っぱで葺いている作りで、土作りのかまどまである。ご主人は眠そうにハンモックでまどろんでいた。こんな遅い時間までやっているのは驚きだが、なんともいい加減なものだ。もう午前の3時に差し掛かった頃みんなで店を出て、星を眺めた。こんなに綺麗な星々を見たのは何年振りであろうか?天の川こそは見えなかったが宝石をちりばめたような空を見ると、このような絶望の中においても一瞬気がまぎれた。そうしてまもなく問題のバスが到着したのである。

    バスに乗り込みながら僕は2つの選択に迫られていた。ここでバスを降りて引き返すか、バガンまで強行突破するか、である。引き返す場合には一番近くのバゴーまで徒歩でいかなければならない。窓を見ていた限りでは6〜8キロ程度で一本道だったように思えた。ヤンゴンまで戻れば運がよければ航空券のリファウンドもできる。(バガンから国内線に搭乗する予定だった) もしバガンまでいったらバスの到着時間はかなり遅くなることは必至である。しかも夜中に到着した挙句次の朝早く(6時20分)にはもう空港へ行かなければならない。しかも、所持金は現在わずか20ドルくらい。はっきり言って無謀である。ここまで考えたときやはり引き返すことを考えた。バガンまではどうしても行きたかったが、いまこそが引き返す勇気を試すときなのでは?という気もしたのでやはり降りることにした。マーティン、末森君に簡潔に別れを告げ、荷物を持ってドアに急ぐ。降りる瞬間に運転手の顔を見たがハンドルに突っ伏して眠そうにしているのが妙に印象的であった。僕が降りたその瞬間にバスはマンダレーに向けて発車した。窓際のマーティン、末森君に名残惜しいが手を振ってただ一人バスのテールライトを見送っていた。  

     それからというものはタダひたすら歩きに歩くこととなった。ちょっとバスから降りたことを後悔しつつも15キロくらいのザックを担いでひたすら前に進む。疲れてくるとこのザックの重さには答えた。重いというよりも直接骨に打撃が来ている気分になり、「このままだと骨が砕けるのではないか?」、と、思わず考えてしまった。このような感じで本当に闇の中を一人で歩ききった。熱帯の人たちは夜中も結構盛んに遊んでいる人も多く、時々ビリヤードをやっている人がいたり、焚き火をしている人もいた。頭に何かを載せて朝市に売りに行くような人もいた。不思議な生活空間である。どことなく夢を見ているようでもあった。そしてこんな荷物を担いで歩いているとなんだか戦時中の日本兵になった気分になった。敗走する気分っていうのはもっと悲惨なものだったに違いない。(今の気分もみじめではあるけど)このような夜中の行軍の果てにバゴーに着いたのは2時間後、午前5時のことであった。徹夜をした挙句つかれきった僕はこの後、電車の駅で無謀にも野宿をするのであった・・・。



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