いってらっしゃい北海道



     この話は1997年、9月1日から2日に掛けての話である。今は昔、と話をはじめても不思議ではないくらい昔のことになってしまったのだがそれだけこの私も歳を重ねてきたのかもしれない。

    この日われわれ「ちだてつし探検隊」一行は北海道に向けて旅立とうとしていた。探検隊といっても私とYの二人だけであるが、前回の北海道のたびから結成された由緒あるプライベート探検チームなのである。話が少しそれてしまったのだがとにかくこの日、われわれは北海道に向かって出発すべく昼の12時に集合した。荷物、その他の準備はバイトが忙しすぎて(当時飲食店でも成長率が高かった○○壱、死ぬほど働かされた!)当日に行なうというなんとも切羽詰った行動をしていた。今思えばこれが私の旅に対する荷物の準備概念を作り上げてしまったのかもしれない。荷物を積んで、タバコの臭いがたまらないから掃除をしたりしてようやく発できたのは14時半ごろだった。     それでも寝袋などを途中で調達したり寄り道も多く、しかも交通費の節約のために高速道路を使用しないで豊田市から岡崎に出て国道一号線をひたすら北上していったので進路は遅々として進まなかった。「時間より金」、なんとも学生らしい考え方であった。豊橋、浜名湖といった普段でも来ているようなところを渋滞に巻き込まれながら進んでいたので「本当に北海道まで行くのだろうか?」、というような疑念まで抱くようななんとも実感のない旅になった。「旅にはムードも必要なのかもしれない」、ということをこのとき感じてしまった。このときのことを当時の探検日記には『「なんだかドライブだね・・・。」こう隊員のY君がつぶやいた』と記してある。

    このような渋滞にも次第に飽きてしまい浜松インターから高速道路にて一路東京を目指す。途中で休憩をかねて今回の探険号「カリーナED」のボンネットを開いてエンジンルームの点検をしてみたがかなり焦げ臭い臭いが立ち込めてわれわれをの周りをまとわり付いたりといった小さなトラブルはあったが特に気にもしなかった。「トラベルの語源はトラブルなのだあ」などと考えつつ首都高を道に迷って3周まわたっりして東北自動車道へと足を運んだ。このとき夜も更けつつあったが宿については当然決めていない。そう、「ちだてつし探検隊」はかなり行き当たりばったり的な旅することも目的の一つなのである。その日も夕食時の会議にて12時まで走り続けてそのときに止まったSAにて野宿という結論がやっと決まったばかりだった。

    トラブルとは唐突にやってくるものである。会議の後順調に走り続けて23時ごろとあるSAにわれら一行は降り立った。何気なくサービスカウンタの近くにコンピュータのようなものが置いてあったが、それは高速道路の走行距離と料金を計算するものらしく当時としてはまだ物目面しいものであった。おもしろそうだったので自分たちの距離と料金を調べてみると、「東名三好ー青森:1041キロ、川口東ー青森:680キロ」であった。これを見たY隊員は愕然となっていた。この地点ではまだ川口東から300キロほどしか走っていないのでまだ相当の距離が残っていたからだ。「まあ、どっち道走るのだからいいじゃあないか」と隊長自ら励ましつつ再びED号まで戻ってみるとなにか車に異変が起きていることに気が付いた。心なしか車が傾いているように見える。精密検査の結果右後輪のタイヤがつぶれている事が発覚した!!パンクである。深夜12時の就寝時間をを目前にしてわれわれの前に巨大な壁が立ちはだかった・・・。 

    このパンクを目の前にしてわれわれは二つの選択に迫られた。つまり、パンク修理をしてもらうか強行突破をするかである。パンクとはいえ幸い1時間に一回空気を入れれば何とかは知れそうな程度であった。お金がもったいないということでわれわれは強行突破の道を選ぶことにした。後から考えるとこれが誤りのもとになった。そこから出発して2時間くらいはサービスエリアごとに空気を入れて快調に走ってきたが激しい眠気がわれわれを襲ってきた。野宿もしたかったのだがもう少し進んでからにしたいと考えたわれわれは交代で仮眠を取り一人一時間ずつ運転をすることになった。
    この交代を機に眠さが倍増してしまった。この狭い空間で眠っている人がいる状態で一人で運転するという行為がこんなにもつらいとは思わなかった。はっきり言って拷問である。一旦眠くなるともう何をしていてもだめである。音楽は効果がなく、ガムを噛んでも咀嚼が止まってしまう。歌を歌ってもだめ、おまけに古い車だったので105キロをこえると子守唄のように「キンコン」というアナログ的な音色のアラームが「寝なさい」といわんばかりに鳴り響く。道路はまっすぐで周囲に誰もいないのがますますいけない。このような悪条件が重なり私の眠気は運転していながら最高潮を迎えた。まぶたは自動的に下りようとしてくるが、気合でそれを阻止する。それを超えると目は開いているが、脳は眠っているという状態に突入する。まるで無音の映画を見ているかのように音は遮断され映像だけは目に映っている。不思議な感覚であった。そうなってしまっているので当然居眠りなのだが本当にどうしようもなかった。次のパーキングエリアさえまでもまだ相当距離があったのでそのような状態は続いた。数分が経過したころであろうか、突然私の眼前にガードレールと縁石、そしてトラックが迫っていたのである。「うわっ」という独り言が自動的に口をついて出てきて急ハンドルとブレーキでなんとか回避することができた。まさに危機一髪!!本当にこのときは怖かった。今思い返しても身の毛がよだち心臓がどきどきする・・・。

    このような一大事が起きてもやはり眠くなってきたので限界を感じ、すぐにY隊員と交代してもらった。交代して1分も経たないうちに  私は深い眠りに落ち、気が付いたら夜は明けてどこかのサービスエリアに止まっており、Y隊員が運転席でタバコを吸っていた。助かった、という気持ちがこのとき胸の中に広がった。
    その後高速道路を降り、昼ごはんを食べにとある食堂に入ってテレビを観ていたら「ダイアナ妃事故死」という記事がトップニュースに取り上げられてわれわれは大いに驚いた。「生きてて良かった」とこのときに心底思ったものである。

     北海道への旅はその後順調にことが運び愛知県に帰ることができた。何年かの年月が過ぎふとY隊員に「あの時実は居眠り運転しちゃったよ」と恐る恐る告白したらちょっと答えにくそうに「俺もだよ」といっていた。あぁ、本当に生きていてよかった。旅に出て死ぬかもしれないという体験はいまこの段階で4,5回あるが、これがはじめてである。けど、旅はこのような危険を冒してもやめられない魅力があるのも事実である。


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