韓国への旅 その1
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ミトコンドリアDNA(佐賀医科大学篠田謙一助教授の研究等)の移動説によると、性細胞のミトコンドリアDNAは、女性のものが子孫に伝えられるとのことだそうだ。それによると、日本には9系統のミトコンドリアDNAが存在するという。いわば、現存する日本人ルーツ(母親)は、9系統だということだ。この内の6系統が、朝鮮半島を経て渡って来たという。尚、全世界には、35系統。
LINK 日本人のルーツを探る
 私は、以前にも韓国にお邪魔したことがあった。今回の旅は、日本人移動の道を逆に辿るような気持ちで、懐かしさも加わって参加した。
 
 平成15年8月18日 曇り。
折り畳み式の傘が、カバンに在ることを再確認。
名古屋国際空港で昼食。そのときにチケットの記載。
 ちなみに機内食も、ちゃんと戴いた。
 KOREAN AIR にお世話になった。飛行機内では、イヤフォーンでクラシックなどを楽しむことにしているが、KOREAN AIR には設備されていなかった。全国から18名の参加。愛知県からは6名。名古屋空港に顔を合わせ予定通り出発。釜山に着いて、1万円をウォンに両替 → 9、7500W。
 福岡などからの他の参加者は、もう釜山空港に到着して、我々の到着を待っていてくださった。参加者は、滋賀県、京都府、愛媛県、から各1名。大阪府、神奈川県、広島県、鹿児島県から各2名。それに東京の「教育家庭新聞」記者。 来るまでに、2〜3分。あたりの様子を写真に撮ってみた。釜山。
 他府県からの参加者は、随分と待ちくたびれたことと推察し、申し訳なく思った。
これは慶州ののホテル。
 空港から、高速道路を走ってホテルに向かう。日本の風景とはあまり変わらない。
・・・、が、高層の見事な日本で言うマンション(アパート)が多い。 程なくして、バスが来て、全員が合流。いや、東京空港からの参加者は、遅れてコンコードホテルで合流となった。
 蒸し暑さはないが、天候曇り。
○ コンコードホテル 普門湖の畔  17:20 頃着
 
平成15年8月18日 小雨。
コンコードホテルの玄関 普門湖の畔  慶州
(キョンジュ)市 http://www.concorde.co.kr/(韓)

翌日
  さぁ、出発だ。今日も雨。
  ホテルマン達は、皆、丁重な応対であった。若い職員の澄んだ眼の輝きが、何故か眩しかった。
 バスは、石窟庵ソックラムに向かう。
ホテルの玄関を出るところに沢山の手動式石臼が置いてあった。ハンドルはなかった。そういえば、こんな物で、小生のばぁちゃん、大豆を粉にしていたなぁ。日本のものには、確か??このような溝はなかった。
 韓国では、きっと水に浸けたあとジュース状のものを造ったのかも知れない。
 子供の頃、夜なべに忙しかった祖母を思い出した。
窓から普門湖を眺める。こう見れば韓国に来た感じがしないが、玄関・ロビーには英語の通じない職員が懸命にサービスに励む。

  710号,机上に果物サービス リンゴ・ブドウ・キウイ・バナナ・ミカン。嬉しい気遣いに感謝。
コンコードホテル
慶州
(キョンジュ)市 http://www.concorde.co.kr/(韓)
ホテルの一階ロビーは広く、イルミネーションツリーが輝いていた。
 フラッシュを焚かずにシャッターを切った。ぶれてピンボケだが、・・。
 ホテル内の施設を案内していただいた。広いスペース・小会議室もあり、修学旅行には、適した構造に思えた。家族連れで来たか?子供達がなにやら韓国語で話して、はしゃいでいた。
 夕食は、いったんホテルから出て、新「瑤石宮」Yosukkung ヨッソッグン にて韓定食。「新羅千年の伝統の味」との解説。蔚山。
 外は雨。韓国も同様に、例年とは違い、冷夏で、田圃は稲の穂が出ている気配がなかった。
キムチ用の赤唐辛子が、長雨と冷夏の影響で、立ち枯れて、腐敗しているところも多かった。その方が、韓国人にはもっと心配だと、ガイドさんは言った。


 さて、石窟庵ソックラムの入り口
釈迦如来座像が、待っていて下さる。
 説明によれば、標高が700mを越えていた。
 ここから、緩やかな樹木の間の傾斜道を1Km程は歩いたかな?!
 吐含山に位置する韓国の代表的な石窟寺刹。神々しい。正式名称は、石窟庵石窟。
 植物は、日本と変わらない。同じものばかりのように、小生には思えた。
 写真のこの門の、左下に売店がある。
 儒教の信者が30%、クリスチャン30%。確かに、静かなたたずまいでした。しかし、日本の寺とはやはり違います。風土のちがいでしょう、・・・、きっと。
国宝第24号に指定を受ける。1995年世界文化遺産に指定される。花崗岩で作られた人工石窟寺院。大城 は現世の父母のために佛国寺をたて, 前生の父母のために石窟庵を建てたという。
石窟庵の全景です。
 しばらく歩くと、このような光景。
 階段を上がっているところ。上がってこの階段を上がると左手に、構造図。
観光の客は、我々以外に2〜3人でした。

構造図が掲示して有りました。華厳経思想に基づいて、一心に造ったというガイドさんの説明でした。
 戦争のために、一度破壊されたものを再建。しかし、石のブロックが、何故か数個余ってしまったそうな?!
 完全な復元とは言えないのは、今以上に複雑な建築技術であったに違いない。
 それにしても、戦争はいかん!

標高は高いし、小雨のために、雲上人になった気分?!
○ 石窟庵ソックラム 釈迦如来座像
 吐含山に位置する韓国の代表的な石窟寺刹。神々しい。正式名称は、石窟庵石窟。国宝第24号に指定を受ける。1995年世界文化遺産に指定される。花崗岩で作られた人工石窟寺院。大城 は現世の父母のために佛国寺をたて, 前生の父母のために石窟庵を建てたそうです
 ここを右手に出ると階段。

 聴きかじった華厳経の四法界(ほっかい)・・、
自法界
(じほっかい)・理法界・理自無碍(むげ)法界・事事無碍法界等と、胸中に繰り返した。・・・・、常に恨み多い哀しき人間の性を自戒しないでは居られなかった。
 いつも、どこかで内乱や戦争が起きている。
 我が身の中も、常にさざ波ばかりで、穏やかなときは少ない。
 LINK 
華厳経
階段を下りると、御堂がありました。

 御堂の中その中の正面に、このような荘厳な絵画が・・・。魅せられて、カメラを・・。
 しかし、撮影禁止の処が多いので、フラッシュを焚かないで、撮りました。(フラッシュを焚かなければ、画像を痛めない。と、勝手な判断。)
 もう少し近くから・・・。
密教の曼陀羅とは違う。

鮮やかな色彩の中に、悲しみのすべてを、包み込んで癒してくれそうな、暖かな・・穏やかな・・何ものかを感じた。
 門の近くの売店で、筆を購入。箱入り・二本セットで25,000W。
 次いで、仏国寺ブルククサへとバスは向かった。
位置を変えて、横も撮影させていただいた。
 更に上の山もある。しかし、ここが標高700m以上ある。
 創建当時、資材をここまで運搬した。さぞかし苦労と作務の人夫の犠牲もあったに違いない。

 次の向かう。
仏国寺(ブルククサ) 528年、法流寺として創建。ここは、無量寿経 阿弥陀如来とのこと。
 雰囲気のちがいか?日本の寺院を見慣れているせいか、何故か清楚で荘厳な気持ちが湧いてこない?!
 「過去の歴史的な建造物」として、観覧した。しかし、不遜な態度に自戒の念しきり。
仏国寺(ブルククサ) 528年、「法流寺」として創建。無量寿経 阿弥陀如来。 朝鮮 1593年 宣祖(在位 1567?1608)の時に壬辰倭亂(日本による朝鮮侵略戰爭/ 1592~1598)に 建立後819年目に木造建物全部が消失した。

仏国寺(ブルククサ)へのアクセスは、慶州バスタ−ミナルが 慶州駅から仏国寺行き バス(11, 12, 101, 102番)に乗り仏国寺で下車(35分所要)
 仁王像ではなく、四天王が出迎えてくれました。色彩が華やかに、左右に四体。

 美しい!
門を経て少し歩くと、大きな池。濁った池の中の石に亀が甲羅干し。
橋を渡る。大雄殿 華厳経 釈迦牟尼物佛
門をくぐって入ると、池があり、石橋を渡るとここに至る。昔は、ここも池になっていたという。
 今、水が枯れてこの状態。そういえば、建造された頃の地球の気温は0.5℃高温だったそうな。そのときにはきっと水量ももっと多かったに違いない。
今から、右の階段を上って中にはいる。
木魚とのこと。角の生えた架空の魚。おつとめの前に叩くとのこと・・。今、使用している形跡はない。
 HP:http://www.bulguksa.or.kr (日本語もあり)。1969年 仏国寺 復元委員会が構成され跡だけ残っていた 無説殿 ・観音殿 ・琵盧殿 ・經樓 ・廻廊 等が 復元(1973年)され,大雄殿 ・極?殿 ・泛影樓 ・紫霞門 等が古くなったり壊れた部分が 修理されました。
この裏に無説殿がある。奈良の薬師寺に似ているとの解説だった。その裏に、毘盧殿。751年に建立。この左横に極楽殿。
極楽殿には、阿弥陀仏が安置されている
 一番、右の男性は、お世話下さった観光公社の職員権 章旭Kwon Jong-Wook氏。本当に感謝。お世話様でした。
階段の上は、大雄殿。
 右の塔は多宝塔。左に釈迦塔がある。
 一対となっている。
 この多宝塔からこちらに向かって、左側に先にご紹介した”木魚”が、掲げてある。

 この裏に、無説殿(奈良の薬師寺に似るとの解説)。

 そしてその奥に、毘盧殿 。
 大雄殿の中。
僧が勤行中。神々しさに思わずシャッターを。フラッシュは焚かなかったが、右脇に控えていた壮年のご婦人に諫められました。左脇には、僧が座って”記帳”を受け付けていました。このときの寄進された資金で、毎年保全管理。従って、いつも金色に輝いている。
新羅 第23代 法興王(在位 514〜540)15年(西紀 528年)に建てられ、その当時華嚴仏国寺, あるいは法流寺と呼ばれていました。
 大雄殿から下を望むと、元は池であった庭が望まれる。石段に蓮のがくが彫り込まれている。一般人は、これより上には入ることが、許されなかったとのこと。
 今は、中からパチリッ。 
次いで、古墳公園の古墳群へと向かう
古墳群。大陵苑は新羅王朝の王族の大規模な古墳群。広さ12万坪の敷地に23基の古墳が集まっていますが、目に見えない地下の古墳まで合わせるとその数は200基に登ると言われています。
これらの中で最も有名なのは天馬塚と皇南大塚。アジアのピラミッド。 石と砂の文化圏のあのピラミッドとは違う、「安らぎの場所だ。」と言う心持ちになる。 売店がここにだけ在った。
 行く先々で、売店が気になった。

 修学旅行の生徒達には、史跡以上に関心が高いのが、土産売り場である。
 
家で待つ家族のために購入する。一人あたりが結構な金額をみやげ物に使う。
 さて、発掘のために、ここに居住していた人々は、この周辺に、今、居を構えて日常生活をしているそうな・・。

 古墳群。大陵苑は新羅王朝の王族の大規模な古墳群。広さ12万坪の敷地に23基の古墳が集まっていますが、目に見えない地下の古墳まで合わせるとその数は200基に登ると言われています。
 これらの中で最も有名なのは天馬塚と皇南大塚。アジアのピラミッド。
 しかし、緩やかな曲線は、優しく美しい。
棺のあった、発掘当時の再現。
大陵苑の中で唯一内部を公開されている。内部には11,526点の文化財と王冠まで復元されており古代の王の華やかな生活の様子を窺い知ることが出来る。
 現日本人は、9人の母親の末裔であることが、ミトコンドリアDNAで証明された。このうち7名(人口の約68.6%)が朝鮮半島を経て日本列島にやってきたそうだ。 
王の日常被る帽子とその飾り。
 ミトコンドリアDNAは、女性のものを子孫に受け渡す。二万年をスパンに特徴が変化するという。日本人は、韓国を経てこの大陸に移り住んだ。
 日本人のタイプの9分の7が朝鮮半島を通ってきた。最初の一人はシベリアから樺太経由(人口の34%)。その後である。・・と言う。ルーツは別々だが、朝鮮半島を経て、きっと何世代もかけて南下した。この間に、混血もあったに違いないのだ。
王妃の腰飾り。豪華な黄金製。
 韓国とは、どう見ても兄弟だ。「どちらが兄で、どちらが弟か?」そんな論議はナンセンスだ。
 日本人の、半数以上が韓国の地から、フロンティア・パイオニア。新天地を求めて、日本大陸にやってきた。2万3千年前には日本列島に人類はいなかったという。
 しかし、共にDNAを今も途切れずに繋げている。
  王冠の上の飾り。権威を示すもの。とかく権力を持つと、腐敗が始まる。しかし何故か、人類は上へ上へと、向上の夢を持つ。競い合い・・・、群雄割拠の戦争が、相変わらずに絶えない。
かくも哀しき動物。人間。
 LINK :  慶州・・・新羅国王の歴史のこと
 んまぁ・・。ともかく・・・。
 ウォンプン食堂で韓定食。
さぁ、昼食だ! (*^_^*)
バスは目的地に向かって走る。 何処の家にも、キムチの壺と味噌の壺がある。家の味があるようだ。
 「ばぁちゃんがいた頃の我が家はそうだったなぁ!」と、もう、とっくに爺になった吾は思う。Fast Foods(ファースト フーズ) が流行っている日本。
 小生には、しかし懐かしい思いだ。
 個々の家庭の味は、まず、文化の基本だと思うが、如何なものか??
 Slow Foods が故郷の味だ! 昼食は、鍋も皿も、皆でお互いにつついて、それを喰う。これが良い。
「皆、家族なんだ。」と、・・・、これならば、『お父さんのパンツと一所に洗濯しないで〜!』等と、娘の不謹慎な発言はないぞ!?

 スプーンも箸も、各自使用しているものをそのまま使って、共通の副食をつまむ。
 日本人は何でも滅菌する程に、『純』が好きだ。国民性か?

ここは、高速道路のサービスエリア。
市井の民の集落。安東・河回(カヘ)
  Andon Hahoe Maeul
普通の農村のように私にはおもえた。懐かしく感じた。
 (私は、標高350mの中山間地の農村に居住している。)


 未だこの時期になっても、稲には穂孕みの様子が伺われなかった。今年は、キット不作だぞ!
 8月19日(火)
 
河回村は、突き出した親指のような土地を、河が囲むようにぐるりと回って流れている。名前のとおりだ。

 ここに立つと、後ろは一段と低い場所で、砂場になっていて、朝鮮松の林となっている。そして河が流れる。
長雨で、水量も多く濁流であった。
 ここに韓国のハングルと中国語の説明があった。
 さぁ、見せていただきます。お邪魔します。

史跡として、保護されているが、住民はこの中で通常の生活を営んでいる。そのせいか、他の街より旧式な家が多い。村には、昔の医者の家もあり、村長の家もあった。
何故か、何処を見ても”故郷”を見る思いがした。懐かしさが込みあがってくるのは、何故だろうか。
 写真のように、日常は町に住みながら、別荘として使っている住民もいる。
 写真の女性は、日本から同行した新聞社の記者。
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 市の観光課の職員も駆けつけて、説明に加わった。TV局の取材も行われていた。
お世話下さった職員は、皆、日本語が上手かった。事前に韓国語を勉強して少しくらいは、対話ができると良かった。

 ところで、今回の日本からの参加者に「教育家庭新聞社」の記者小原氏が同行した。この新聞初耳(失礼)だが、考えてみれば”基本”は家庭での教育だ!
 ポリシーのようなモノの存在を感じて心強い。
 草屋根の家は、稲藁葺き。茅と違って
20年はとても保たない。日本では、普通茅葺きが多かったと思う。大半の家は、個々に土塀か又はこのように石で造ってあった。土製の場合には、稲藁で屋根がついていた。
 「沖縄の村」と言った風情も感じる。
 釜山空港に着いて、それからソウルの街までの旅でした。(見にくい写真で。お許しを・・)テーマは、「高校生の修学旅行を韓国にした場合、どのような観点で修学させるべきか?」である。韓国観光公社の主催で、案内を戴いた。

 国際化・高度情報化の時代の波の中で、有意義な修学旅行を検討したいものだ。懇切なガイドさんの案内を頂いて、楽しく有意義な旅であった。関係者の皆様に、心より感謝をしている。
 それにしても、韓国の変わり様と、更に発展を指向する意欲とエネルギーが、眩しい程であった。

『韓国の旅 その2』に続く。
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