即 心 記 |
意訳(管理人): |
三国(さんごく)の人、
かたちは同して、詞は別也。
心ヲ一ニするは、佛の御教(みおしえ)によれは<ば>也。
死をいとふ<厭う>は、死をし<知>らぬ故也(ゆえなり)
人は直に佛なれともしらす<ず>。
若しれは佛意に背<き>、
し<知>らさ<ざ>れはまよひ也。
作偈(げ)いは<曰>く、
識二得於根元一、離二別於萬法一、
誰知言句外、佛祖不傅處
生死をし<知>る人あらは<ば>、心のたね<種>とやならむ。
いやしき詞をまきおくも、かつは身のとか<咎>をかえりみぬなるへ<べ>し。
つくはねの木葉の雫もみな川の淵となれは<ば>、わらは<童>へのたすけにもやとおもふ故也。
延宝乙卯孟春書之
至道庵主 印
注:延宝乙卯は、1675年である。
孟春は、早い春の意。
注:ここの文はいわゆる序文である。 |
三国<仏教の伝わった国>の人は、
姿形は同じであるが、話す言葉は別である
注:三国・・密教の伝わった日本と唐土と天竺(インド)か? |
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こころが一つで違わないのは、佛の御教えに依るからである。<共にこころは三国共通して同じだ>
<さて、人は「死」を嫌だと>死を怖がるのは、「死」というものを知らないからである。
人は、そのまま佛になれるということを知らないからだ。
佛のご意志に背いたり、あるいは<仏のご意志を>知らぬが故に<死を考えると、四苦八苦して>混迷する。
経論の中に、次のように書いてあった。
識二得於根元一、離二別於萬法一、
誰知言句外、佛祖不傅處
注:傅・・補導の補とは縁が近い。傅はそれを音符とし、
人を加えた字で、ぴったりとつきそうおもり役。 |
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生・死について、明らかに知る人が在れば、余人のよるべとなろう。
<ここに筆者の>拙い言葉を書き示すのは、敢えて、畏(おそれ)れ多いこととは存知の上である。
木の葉からしたたり落ちる雫でも、寄り集まれば川となって、岸の草木の命を保っているように、後世の人々の一助になればと願うからである。
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しれば迷い
知らねば迷う 法の道
何が仏の
実(まこと)なるらん。
この歌の心明らかならば、
大道現るべし。 |
知れば迷い、知らなければ尚迷う
仏法の道を尋ねれば、<実に奥深く難解である。>
佛の真実とは、一体何であろうか?
この歌の、真の意味するところを理解すれば、大道を知る<不退転な寂静の世界に棲む>ことができよう。
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注:大道・・
○倶舎論→大きな通路
○法華経・維摩経(ゆいまきょう)→大いなる道の意
○正法華・上宮維摩疏→偉大な悟り。大きな悟り。さとりの道。
○正法眼蔵→偉大な真理
○その他→優れた教え。仏教。
○ 「仏教語大辞典」中村 元著 →大乗の教え。 |
一 仏眼<を>開き<いて>見るに<と>、日本の衆生は仏に近し<い>。
悪気少き故なり。
悪気という<の>は、身を思ふ<う>なり。迷いの根本なり。
しかも、我身にあらず。それをわがものと思ふ<う>は、至りてあさましくかなしき事なり。
誰も知る事なれと<ど>も、死するなり、病むなり、貧苦をうくるなり、これ我物にあらさ<ざ>るしるしなり。
かかるうき世に生をうけて、苦しみおほ<多>きをわきまへ<え>ず、命なか<が>からん事を願ふ<う>。
大方人を見るに、齢七十に及ぶは稀なり。 |
一 仏眼を開いて見ると、日本の衆生は仏に近い。
<何故かならば>悪気少ないからである。
悪気というのは、自身を思い<無我になりきれない>と言うことである。このことが迷いの根本である。
身を思う・・が、けれども、その身は「我が身」ではないのだ。身・肉体を”我が身”と思うのは、極めて浅ましく儚(はかな)いことなのである。
いずれは、皆、必ず死ぬことは誰でも知っていることだ。また、病気に苦しみ、貧しさにくるし<「もっと欲しい」と、求めてあえぐ>のだが、<これらの苦は、「我」が身体とこころに潜む”我欲”があるからである。>
これら、誰でもが、皆、受ける運命を思えば、いま、この肉体は<借り物で>「私の物」ではない証なのである。
このような浮き世に命を頂いて、苦しみの多いことを、<”自分だけに襲った苦しみ”の様に思って>悲しんだりして、 <万人共通の>定めだと諦観しないで、唯、命永く生きたいと願っている。
大体、周囲を見渡せば、そうさなぁ年齢70歳に達するまで生きながらえる者は希なことだ。
<皆、いつか必ず死ぬ。皆同じだ。> |
一 ある老人の物かたり<語り>をきくに<と>、あはれのおほ<多>きを書<き>ととむ<留め>るもおこがましけれど、むかしの友は先立ち、今の人にまじはらんとすれは<ば>きたなまれ、若きはさって座になし、秋の夜なか<が>きに、眠る事なく、かへらぬむかしを思ひ<い>、しらぬ行末をねかふ<願う>。
じごく<地獄>・がき<餓鬼>・ちくしょう<畜生>・しゅら<修羅>をすみかとしてめく<ぐ>る事のかなしさよ。
今は、ひたすら仏道を学はん<ぼう>と思ふ<う>て、予にむかひ<い>、なみた<涙>をなか<流>してたつぬ<訪ね>るを、いとあはれに思ひ<い>、宗旨をとへは<ば>、禅と答ふ<える>。若年より此の道こころさ<志>し探しといふ<う>。
予、大道を問へは<問えば>、中々念仏唱へえ数珠つまくりいとあやしくて、いかやうの人に法をたつねたまふ<う>と云は<え>ば、古は法門なと<等>ならひし<習った>が、15年此方<このかた>は、いやいや、法門いひ<い>ても、只今身まかり行末しらぬは大きなるあやまりと思ひ<い>、ある或僧にあひ<い>たてまつり、死して行末をたつ<ず>ねしに、悟りて知ることなり、悟らんと思はは<わば>、身の業つくすべし、業つくさんと思はは<わば>、経よみ念仏となへ<え>よと、仰せにまかせてつとむるといふ<う>。
予云、只今死して何方に行<くのか>、いかやうにならんと思ひ<い>たまふととへは<ば>、極楽へ行きほとけにならんと答ふ<え>た。
ごくらく<極楽>はいづくそ<ぞ>ととへは<問えば>、業つきてあらわれんとをしえ<教え>にまかせ、かやうかやうと答ふ<え>る。
予またとふ<う>、業つきぬさきに死しては何となるべきととへは<ば>、こたへ<答え>なくして、なみた<涙>ながし、手をあわせ、教えへたまへ<え>と云う。
あはれにおもひ<い>てうちむかひ<い>、萬事はみな心のなす事なり。かれ、さなむと云う。
心のもとはなにかあるととへは、なにもなし、と答ふ<える>。
予云う、それこそ直に極楽せかい、それこそ直に佛、それこそ我が宗の悟<り>なり。
常に守り給えといへは<言えば>、さすがつねつね<常々>こころかけ<心掛け>ししるしにや、生もなし死もなし、萬物一もなし、なしと思ふう事もなしと悦ひ<び>、手を合わせておか<拝>む。
禅は第一悟をさき<先>にして、悟にまかせ修行すれは<ば>、日々夜々安楽なり。
うたがふ<う>事なかれ。身の業つきてさとるは、尤もにしていた<至>りがたし。
さとりをさきにして身の業をつくすは、安して安し。
かるがゆえに日本は身を思うふ事かるし。
さて佛にちかし。身なければ直に佛なる故也。
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一 ある老人の話すのを聞くと、誠にお気の毒で文字に現すことは、さしでがましく愚かであるが、こんなことを言っていた。
『昔馴染みは先立ち<話し相手が亡くなった>、若い人たちと話しでもと近づけば、汚いものを見るように疎(うと)まれ、若者たちの中に自分の仲間入りする場所はない。
秋の夜長に、よく眠れもせず、返らない昔の事々を思い出し、まだ見ぬ今後の行く末を願うのだ。<六道の内で>地獄・餓鬼・畜生・修羅を、ぐるぐると巡り尽きない自分をふり返り悲しむ。
今は、<唯>ひたすら<安心立命をもとめ>仏道を学ぼうと思う』
・・・と、この私に向かって、懇願するように涙を流して言うのを見れば、とても気の毒に思って。
「宗派は?」と聞けば、『禅』と答えた。
<聞けば>若い頃からこの道を志し探求してきたという。
私は、彼が大道<に、どの程度到達しているか>を問うように対話を進めてみた。
彼はひたすら念仏を唱え始めたが、数珠の扱いがあまりにもおぼつかなさそうであったのを見て、「どなたの基で法の道を学ばれたか?」と、お訪ねした。
彼は、『昔は、法門に入って習ったが、もうかれこれ15年このかたは、いやいや、法門に入ったとはいっても、たった今死して何処へ行くのか知らないのでは、法門どころではないぞと思い、或僧に合って”死んだら何処に行くのか”を訪ねたら、その僧は”それは悟りを得て解ることだ。まだ悟りに至ろうと思えば、<一心に修行し>身に着いた業を滅するのだ。そのためには、ひたすら経を読み念仏を唱えたまえ。”と言われたので、言われた通りに行っている』と述べた。
私は、
「今、死んで何処に行くか?どう成るのでしょうか?と聞かれれば、極楽に生き、仏になるでしょう!<そのように信じています。>と、断言する」と述べた。
彼は、「では、極楽とは何処にあるのか?」と
問われたので、『修行を積んで、業が尽き果てた暁に見えてくる。等々』と、答えた。
私は、また、更に返して彼に問うた。
『修行が終わらないで、業が尽き果てぬ前に死んだらどうなると思われますか?』
彼は、応えられずに涙を流して手を合わせて、「どうか教えてください。」と懇願した。
私は、ついつい、しみじみとかわいそうに思い、彼に近づき「すべて皆、あなたの心の成すままですよ。」と言うと、『そうですか?!<そうあってほしい>』と答える。
私は、「その心の根源は何か?」と問うと、
『何もありません。』と、応えた。
私は言う。「それこそ当に”極楽世界”ではありませんか!?!それが、それ仏なのです。
それこそが我が宗の”悟り”ですぞ。
常々、それを忘れず心に期すべきです!」と告げると、彼は、流石、常々仏道を心がけて居た人物らしく、合点して喜び、手を合わせて私を拝みながら、このように応えた。
「生もなし死もない。萬物一も無し。無しと思う心も無し」・・・と。
禅は、先ず悟りこそを目標にして、悟ると信じて修行すれば、日々日夜、心安らか安楽である。
このことを疑ってはいけない。
我が身の業を去ることを第一義とすることは、尤(もっとも:とりわけ)至り<悟り>にくい。
「悟るぞ!悟るぞ!」とばかりに、我が身の業を忘れて励むと、苦しまずに励むことができましょう。
このように日本人は、我が身を思う心「我」が強くない。
従って、仏に近いといえよう。
無我であれば、すなわちすでにそのままが仏であるからだ。 |
一 ある法師の弟子、夜ひる昼座禅して、人我のへた<だ>てなし、生死なしという。
さとりをとへは<ば>、中々おそれて、われこ<ご>ときの及ふ<ぶ>所にあらずといふ。
かりにも師は大事なり。
ことに仏道<は>、師な<無>くしてなりかた<難>し。
座禅と常のちかふ<違う>事をくるしむ。
只今目前に何のへだてかあるといへども、愚なり。
みそ<味噌>のみそ<味噌>くさ<臭>きは、食にい<忌>むなり。 |
一 ある法師<出家僧>の弟子が、夜昼いとまなく座禅し、生死もいとわず没頭し無我夢中<石仏のごとし>であったという。
悟りについて聞けば、恐縮しながら「私のごとき者の及ぶものではない。」と、こたえた。
どんなことがあっても、師は大切である。
ことに、仏道は師無くしては成就することは困難である。
座禅と常の座居とは違うのだが、説明しがたい。
ここで今、その違いを問われても、言葉にて説明を求めるのは愚かである。
<例えば、>味噌臭い味噌は、熟成前の味噌で、食しても旨くないようなものである。
<仏道(信仰の話)は、言語での説明は不可能である> |
一 予、弟子にむかひて。
かならず修行とげがたくは還俗せよ。
其の罪は少し。法師の身としていやしき心あらは<ば>、ちくしょうと成る事うたかひ<疑い>なし。
此<この>世はわづかのうちなり。とてもかくても光陰をくるにはや<速や>し。
<還>俗はむくひ<報い>ありとても、出家のむくひにくらへんや。 |
一 私は、日頃、弟子に向かってこのように言っている。
修行をやり遂げる自信が持てないようであるならば、門を出て俗に帰れ。
帰ればその罪は軽い。<だが、>法師の身でありながら,<熱心に修行しようとしないような>卑しい心があるならば、来世で畜生となることは間違いない。
この世は、つかの間でしかない。<とやかく何やかやと目まぐるしく毎日を送って、知らない間に、>光陰は矢の飛ぶがごとく過ぎるものである。
志を翻して俗に帰るのは、<不名誉であり、>その報いはあるが、しかし、卑しい心のまま出家を継続することの罪への報いに比べれば、些細なものである。 |
「法句経」ダンマ・パダより A・スマナサーラ 佼成出版社 |
「一切のかぶりものを取る」
心の汚れを捨てていない人が、
黄褐色の法衣をまとって、
自制しようとしないならば、
法衣にふさわしくない。
(9)
LINK 思索の庵 - 7 |
(略)
世俗間を離れて袈裟を着ていても、心が世俗の汚れに満ちているならば、
それは自分も他人もあざむいていることになります。その者は、袈裟を着るにふさわしいとはいえません。
わたしたちは法衣を着なくとも、「立派なかぶりもの」をつけようとします。いろいろなかぶりものを身につけます。会社や組織の名前、肩書き、学歴というかぶりものです。体の美しさや、才能や財産も含まれるでしょう。それはありのままの自分を隠そうとしたり、立派だと認めてほしいから着るのです。
外のかぶりものにだまされてはいけません。大会社の社長とか、一流大学の教授と名乗ると立派な人格者と思われます。しかし、それらは所詮かぶりもので、中身は普通の人間かも知れません。
(略)
人間に必要なことは、外のかぶりものではなく内の心の清らかさです。心の清らかさとは、嫉妬・憎しみ・怒り・貪りなどで心が汚れていないことです。
仏教では「捨てろ、捨てろ」と言います。
それは「一切のかぶりものを取りなさい」と言うことなのです。 |
一 無といふうに<は>二つ<の意味>あり。
悪をしてとが<咎>なしと見るはあし<悪>し。
善悪邪正よりつかぬは、釈迦之法也。 |
一 「無」という言葉には二つの意味がある。
<人知れず>悪を行ってもお咎めは「無い」との思い込みをするのはよろしくない。悪である。
善悪・邪正の区別の枠の外に在るのは、<凡夫の届かぬ>高邁な釈迦の説く「無」の法である。 |
一 念仏はりけん(離見)なり。
かならす<必ず>仏になると思ふ<う>べからず。仏にはならぬが仏也。
身の業のつきはてぬれは<ば>何もなし。
かり<仮>にほとけ<仏>といふ<言う>は<ば>かりなり。 |
一 念仏は、離見(りけん)である。
>注:離見=自己の目を離れて客観的に見ること。(世阿弥の用語)世阿弥 父観阿弥の通称観世カンゼの名でも呼ばれ、法名は世阿弥陀仏(世阿弥・世阿)。 |
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念仏は、我が身の業を取り去るにはよい。
だが、必ず仏になると思ってはならない。
仏にはならないのが”仏”なのである。
<「成ろう!なろう!」の念も業である。>
身の業が尽きはてれば、<こころが空になれば、”佛”も”悟り”も>何もないのだ。
仮に”仏”と称して目標に置いているが、これは仮の呼称である。<これに拘るな。> |
一 八万四千の悪業あるは身也。
水火のせ<責>めにあふ<遭う>なり。
これを思ふ<う>はおそろしき也。 |
一 <人・凡夫の身には、>八万四千の悪業が備わっている。
<このまま、業を背負っていては、あの世で>水火の責めに遭う。
<八万四千の業に応じた地獄が待っている。>
これを考えると、実に恐ろしいことだと思うべし。 |
一 つみ(罪)のをもきかるきあり。
虫より魚はをもし。
鳥よりけたものはおもし。
けたものより人はをもし。 |
一 罪には、重い罪と軽い罪がある。
虫を殺すのは、魚を殺す方が罪は重い。
鳥よりも獣が重い。
獣を殺すよりも、殺人の場合は、<更に>重い。 |
注:管理人の感想
この「罪」の説明は、法華経などでよく使われる”方便”ではなかろうか??
虫を捕って食した。野の動物を狩りして食した。そうして人間は生きてきた。いのちを繋げてきた。
飢餓の時には、人肉をも食した地域がある。これは、そんな時期のお話しである。
釈迦は、「殺生」を恥じて山にこもって荒行を行った。
『何故、ヒトは植物や動物を食べなければ生きて行けないのだろうか?』と・・・・・。やがて、里に出てきて、スジャータから牛乳の粥をもらって食した。
共の者達は、木陰からその状況を見て、『崇高な志を抱いて家を捨てた主人が、挫折してしまった。』と思い、彼を非難した。
しかし、釈迦:ゴーダマ・ブッダは、この時点で”悟り”を得ていたのであった。
虫を殺したり、魚を捕ったり、家畜を殺して、人びとに食糧を供給している職業の人びとは、その人びとから、肉や魚を購入して食する人びとよりも罪深いという論理は如何なモノであろうか?
もちろん、身勝手で自己中心的な思いで殺人や暴力をする者は罪である。 |
一 教えには、大きにあやまる。
それを習うふは猶あやまる。
只直に見、直に聞け。
直に見るはみるものなし。
直にきくは聞くものなし。
見す<ず>きかす聞かす<ず>
おもは<わ>す<ず>しらぬ思ひいてをなにとてをのかほかになすらむ |
一 教えには、大変な誤った教えがある。
それを<信じて>学ぶと、尚、更に誤ることになる。
唯、己の眼で直に合って、直に聞くが良い。
<すると、>直に見ても見るもの(形)はない。
直に聞いてみれば、聴くもの(音)はない。
<己の内なる佛に逢い訪ねるのである。>
見ず聞かず ひらめき出(い)でし声を聞け
訪ね巡りしも 他に術(すべ)は無し |
一 伊勢の国に、一代座禅して死せり。
其身のためにはたうと<尊>し。
かつは其身坐して死せば可也。
病苦をうけは<受ければ>おほ<ぼ>つかなし。
わが師は、
一坐の座禅は一世のざぜん<座禅>とのたまふ。
ありかたし。 |
一 伊勢の国に、一生涯座禅をして亡くなった方がいる。
その人自身のためにはとても尊いことである。
その身が座禅して死に果てるも良い。
だが、病に苦しんでいてはそれはおぼつかないことである。<自力行も可なり>
私の師は、「<一人静かな、小さな座布団の上の、>坐禅は一世の座禅である。」と仰せられた。<ごもっともで>恐れ多く尊いことである。
注:一世:仏教で、過去・現在・未来の三世サンゼの中の一。 |
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一 ある人、釈師のをとろえし事をとふ<う>。予云<う>、中々詞(ことば)にのべかた<難>し。
かしらをおろせば、われも出家の二字をけがす。をそろしき事なり。
常の家を出、三衣一鉢にして樹下石上の住居するさへ<え>、真の出家といひかた<難>し。
真の出家にのそみふかくは、我が身は八万四千の悪あるものなり。
其<の>中に大将とかしつく、色欲・利欲・生死・嫉妬、名利、此<の>五つ也。よのつねにして退治しか<が>たし。
昼夜悟<り>を以て一々に身の悪をほろほ<滅ぼ>し、清浄になるへ<べ>し。 悟<り>といふは本心なり。
ものの是非邪正をよく知り、邪を去り、正をたもってふかく護り、常に坐禅して如来をたすけ、くふうしてあくをさり、年月功つもってかならす心安くなるへし。
いよいよおこた(怠)らす<ず>つとむ(努)るに及びて、五欲をほろほ(滅ぼ)し、悟<り>成就して、ぢごく、がき、ちくしょう、しゅらの苦をはなれ、平常を守り、其の功つもり、後にはなにもなくなり、萬法にまかせてとか(咎)なし。
つとめてここにいたり、世間の人をすすめ、上根機の人には、直に目前を以てをしへ、中根機の人には、方便を以て坐禅させ、下根機の人には、念仏を以て後世をねがはせ、かくのごとく人をたすくるを、真の出家といふなり。愚にしてなりかた(成り難)し。 |
一 ある人が私に、講釈師の不満を述べた。私はこう言った。なかなか言葉で説明しがたいことなのだ。
上に立つものを更迭(こうてつ)すれば、私自身の”出家”の二字を汚すことになる。非常識で、トンでもないことだ。
俗の世界から脱して出家し、三衣一鉢注:1(さんえいっぱつ)になって、樹下石上注:2(じゅげせきじょう)出家行脚の境遇となっても、それでも真の”出家”とは言えない。
注:1三衣と1個の鉄鉢。共に僧侶の携えるべきもの。 |
注:2樹の下と石の上。山野・路傍など露宿する
場所をいい、出家行脚の境涯をたとえる。 |
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”出家”というものの本当の意味は深く、反面、我ら凡夫の身には八万四千もの業悪(罪)を内在しているのである。
その業悪の中で、より目立ってやっかいな大きな罪業は、色欲・利<物>欲・生死に関わる苦しみ・嫉妬<ねたみ>、名利欲<出世欲>と、この五つである。
これらはなかなか常人では退治しがたい。
四六時中悟ることを志して、ひとつひとつこの身の悪業を滅し<こころの闇を滅ぼし>清浄になるよう心がけることである。
悟るというのは、うわべでない、本当の心・本意、或いは、もちまえの正しい心のことである。
これには、物事の善し悪し・よこしまなことと正しいことをよく弁(わきま)えて、邪(よこしま)な心を去り、正しいことを見極めて、心に深くわりこませて、常に座禅をして、如来、すなわちありのままの真実(=如)に到達した状態を維持して、手段を講じたり、思慮をめぐらして悪を退けることに勉め、やがて年月が経過する内に必ず心静寂な安心な心を得るようになるであろう。
ますます怠りなく勉めればやがては五欲を滅ぼして悟りの境地に到達して、地獄・餓鬼・畜生・修羅の諸苦を去って心中波立たない。
常日頃、これを努めて行く内にその功なり、ついには心の中に何も無くなり、言動はあらゆる法に叶う様になって、咎(とが)を受けないようになる。
努力してこの境地にいたって、世の人々を導き、優れた教法を受けるべき性質・能力ある人には、直接言葉で教え諭し、中位の能力の人には比喩を用いるなど巧みな手段で座禅をさせ、下位の人々に対しては、来世への希望を抱かせるよう念仏を唱えさせて・・等、世の人々に法に近づけようとすることを本当の出家というのである。
講釈は、簡単であるようだが、中々難しいものなのだ。 |
一 予がわかきとき、ある侍のつかひ<い>し童子、われにむかひ <い>、わか主にことはり、でしにしてたべとたのむ。
やさしくいへるとおもひ、なにとてかくはおもふととへは、出家は世わたるにたのしからんといへる一言にをとろき、此<の>童子此<の>心にて法師にならは、かならすちくしょう<畜生>となるへし。
初発心より仏法一筋に心ざしあるは、はや菩薩の行なり。かりにも世わたりに心かけしは、ちくしゃうに成<る>事、うたがひなし。 |
一 私がまだ若かったときに、ある侍に従っていた童子が、私に向かって「侍に伝えて、自分を弟子にしてくだされ!」と懇願してきた。
気楽に頼むものだなぁと思いながら、
私は、「何故、弟子になりたいのか?」と問うてみたら、『出家すると苦労せずに食べられ、それに、楽しそうだ!』との一言に驚いた。
この子供が、そのような心持ちで法師になったら、来世は必ず畜生になって生まれ変わるであろう。
悟りを求める心をはじめて生ずるとき、その心が純粋に仏法を求める気持ちであるならば、それがそのまま菩薩である。<出家は、最高の仏の悟りに結びつく行である。>
だが、かりそめにも人目を考えたり、「楽をしたい」等と、世渡りのための出家では、来世は、畜生になること疑い無い。
>注:「華厳経梵行品」:初発心時便成正覚(しょほっしん‐じ‐べんじょうしょうがく) |
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一 ある人にしめしていはく、仏法、今世とりみだし、他に佛をもとむ。
たとへは妙は元来無一物。法は妙のうごく所也。
法にあらされは妙あらはれず。
故に妙法とつつく。
法の是非につけて其の人をしる。
見性して、行住坐臥(ぎょうじゅう‐ざ‐が)、性にまかせて身をつかふとき、仏法と云へり。 |
一 ある人にこのように説明したことがある。
仏法とは何だろうか?今、世の人々は誤解しているようだ。
本来無いところに仏を求めているようだ。
例えば、”妙”とは真っ白な紙のごとく本来何も無く、無一物なのである。
法は、その真っ白な紙のごとく無一物なものに、造化の妙(不思議)が行われる処なのである。
真の法でなければ、そこには”妙”は現れない。
このことにより「妙法」というのである。
注:法・・梵語 dharma 達磨・達摩・曇
法によって、言い換えれば人の立ち居・振る舞い、
例えば、道路の法(のり)のように姿・規模で、
道の姿を知りうるように、法によってその人を知ること
ができるのである。 |
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見性、すなわち本来の心性を徹見して、行住坐臥(ぎょうじゅう‐ざ‐が)すなわち戒律にかなった日常の起居動作することにより、性すなわち、常に変わらない自分の本質に任せて、これに身を処すときに、「仏法の中に浸されている」といえよう。 |
一 見性することかたし<難し>といふ<う>。
かたきにあらず、萬物のよりつく所にあらず、是非に応しじて是非をはなれ、煩悩に住じて煩悩にをはなれ、死して死せず、生じて生せず、見て見ず、聞きて聞かず、うごきてうごかず、もとめてもとめず、とがをうけてうけず、因果におちておちず、凡夫は不及、菩薩も行じかたし。
故に佛と云う也。 |
一 見性することは難しいことだと言われている。
注:見性(けんしょう):自己の本来の心性を徹見すること |
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難しくはない。<よく観れば良い。しかし、簡単でもない。>
皆が関心を持って寄りつくような処には<その求めるものは>無い。
よしあしの判断・批評の是非、「常識」に即しながら、それでいながらそこから離れ、持っている種々の煩悩を否定せず、煩悩を飼い慣らして、その中に居ながら、それでいて煩悩に翻弄されないで苦しまず、死んでも死なず<己を殺しながら己を忘れず>、生じて生ぜず<自分の考えを的確に述べて、しかも、それに拘らないで>、見て見ず<見たことを認識するが、しかし、<千変万化の世の中。常ならず>見たことだけで諸物を断定をせず>、聞いても同様に、それがそのことのわずかな一事象であると存知し、動きて動かず<役割をつとめるが、お為ごかしにならず>、物を求めて求めず<物を欲して、しかし、与えられることに感謝し:不求自得>、咎を受けて受けず<非難中傷・災難を受けたとしても、それを受け止めてみるが、不退転の境地に居れば、これもただ一つの成長の糧である>、因果に落ちて落ちず<因果に応じた応報がある、苦を苦と思わないことである>、こういう事は、凡夫では及びがたいことである。
菩薩でも行いがたいことである。だから、これができるお方を仏というのである。
注:『観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄』 |
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一 迷いては、此<の>身につかはれ、悟りてはこの身をつかふ。 |
一 迷っているうちは、この煩悩具足の身を扱いかね、悟りを得たあかつきにはこの身を自在に制御し得るようになる。
<煩悩と言う波に浮かび・沈みしているよりも、煩悩を以てそれを舟としてしまえば、それで良いのだ。> |
一 ほとけ仏のをしへ<教え>は、何の事もなきを、人の心の愚かさよ。世人、名にまとはぬはなし。
色に迷ひい真にまよふは、ことはりなれども、それさへ、あたなる物としらは<知れば>、さのみはいかかあらん。
ほとけをねかふ<願う>心にひかれて、後になにとかならん。
をほ<ぼ>つかなし。 |
一 仏の教えを身に感じ取れない心の愚かしさを憂う。
世の中の人々は、皆、名声を得ることに四苦八苦する。
また、色(物)欲に迷い真の実(まこと)が分からなくなっている。これは通常の事であるが、その事態こそが、間違いであると知ればどうしたものであろうか。
ひたすら仏に願う心が有れば、後は何とかなるものである。
浅はかな人智では何ともしようがない。
名利に拘る この世の中の 大馬鹿者達よ
<「奴が出世した!?」「彼がこんなに立派な車に乗っている!!」『なのに私は・・・・??』等と羨んだり、妬んだり、「どうだ、俺様の力の程を思い知ったか!?」等と驕慢に浸っているのは愚かなことであるぞ。>
自分が一体何なのかさえ知らないで
短い一生を終わることよ。
<その様なことに明け暮れていれば、自分に与えられた能力を磨くことも、自分は何かさえ知らずに一生を終わることになる。> |
一 をのれを以て人を見るものなり。
愚人のみるはおそろし。
をのれに利欲あれは、人をも其<の>心を以て見る也。
色ふかき<者>は色を以て見る也。
聖賢の人にあらさ<ざ>れは<ば>、見ることあやうし。
大道人ありても、みしる人まれなり。
いたつら<徒>にすたれり。
かしこき人は、をのれにあはぬをも、其<の>人の心得をつかふ<う>。
その人すたらす<ず>。
かりにも、ものの大将たらん人、心得あるへし。 |
一 <人は>自分の物差しで、自分を基準にして他を見るものである。愚人は実に哀れな程である。
自分に利欲が強ければ、他も自分同様にそのような人と観る。
<或いは>色即ち諸欲が強いものは、相手もきっとそうだと思って疑わない。
知徳の傑出した聖人や賢人でないかぎり、とりまく世界は在るままに見えないものなのである。現実は、実に危ういものだ。
世間の往還道には大勢の人々が行き交(か)っているが、顔見知りに会うことはまれである<かくのごとくである。聖賢にはなかなか逢えないものだ。>。<多方の人は、>真実を観ないままに、徒に齢を重ねて衰えていく。
<だが、>賢い人は、交わる人の品格に応じて相手の心得(心情)を理解して対応し、自分とは合わない相手でも、相手を活かす。そんな人が信望を得る。
仮にもリーダーたらんとする者は、このことを心得るべし。
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一 ものをよせつけぬ事はやすし。
もののよりつかぬ事はなりか<が>たし。 |
一 物事や世間の諸事雑般を寄せ付けないでおくことは難しくはない。簡単なことである。
しかし、いろんな事が起こり、寄りつかないではいないものだ。 |
一 たとへは火はものをこがす<物を焦がす>。
水はものをうるほす<物を湿らせる>。
火は物をこがすと、其<の>火はしらず、水はものをうるほすと、其<の>みずはしらず。
ほとけはじひして、じひをしらず。 |
一 例えば、火は物を焦がす。水は物を湿らせる。
・・・が、火は「物を焦がすぞ!」との心はない。
<火は火だから物を焦がし燃やしてこそ火なのである。>
物を湿らせる水は、それを知らない。<他物に浸み込む本姓を持っているに過ぎない。>
このことのように、仏の慈悲は、差別なく平等に、ふれる者を活かし、潤して・・・、慈悲を施して尽きないものである。 |
一 念のふかきはちくしゃう、念のうすきは人、念のなきはほとけ。 |
一 念の多いのは畜生に等しい。
念の薄いのは人、念の無いのが佛である。
注:念には、・・悪念・一念・憶念・怨念・概念・観念・祈念・紀念・記念・疑念・懸念・御念・雑念・残念・失念・思念・邪念・執念・十念・正念・情念・信念・軫念・専念・想念・俗念・存念・他念・丹念・断念・通念・道念・入念・不念・放念・無念・妄念・欲念・余念・理念など、言葉はいろいろとある。この場合、八万四千の業から生じる様々な想いを指していると思われる。 |
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補: 「定本 妙好人才市の歌」序文(鈴木大拙)の抜粋 法蔵館 より |
うみ<海>にわ<は>、みず<水>ばかり、
みずをうけもつ
そこ<底>あり、
さいち<才市>にわ<は>あく(悪)ばかり、
あくをうけもつあみだ(阿弥陀)があり、
うれしや、
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ |
「『あくのそこがあみだでうけもたれてゐる』という思想には、甚深(じんしん)な意味がある。
煩悩は實に大悲の中より湧き出ているのである。
ただ凡夫はそれに気づかぬままに、煩悩を大悲から切り離して見んとする。
それ故、意馬心猿は鎖を離れて無軌道に跳(おど)り狂うのである。娑婆(しゃば)におけるすべての煩悩は何れも此処(ここ)から出てくる。 (略)」
・・・ 鈴木大拙 |
一 人はおろかなるものかな。
法師のをしへて<教えで>、念仏となへよ、ほとけ<佛>になるといへは<言えば>、尤<もっとも>と請<う>けて、念仏となへし人のみありて、そのほとけはいかやうなるものとそととふ人なし。 |
一 人間とは、実に愚かなものだ。
仏法によく通じた出家僧の教えに従って、「念仏を唱えなさい。そうしたら仏になれる」と言われて、「はい。ではそうします。」と、素直に聞き入れて念仏を唱える者は多いが、
しかし、その”仏=真理”とはどのようなものかと追求する者は居ない。<名利欲の利益のみを求める。残念なことだ。> |
一 をのれが<己の>さほう<が>みだるる<乱れる>とき、天よりかならずばち<罰>をうくる也。
天下のぬし<主>は、天下即家なり。 国家は国即家也。
大小によらず、家の中の悪事は、あるしのとが<咎>也。
治むる事ならねば、天災をうく<受け>るなり。 |
一 自分の作法(授戒・仏事など仏事で行う法式)が、軽視され乱れると、大いなるものより天罰を受けることになるぞよ。
天下(現世)の主(あるじ)は、現世であり、それはすなわち各々の住家(すみか)であるのだ。
国の主は国そのものであり、それも即ち各々の家集合体なのである。
天下のこと国家のこと、大小はあっても、家の中の好ましくない悪い事は、その家の主の落ち度であり、負うべき責任でもある。
もしも好ましくないことがあって改善の努力が行われなければ、大いなるものから災難を受けることになるであろう。 |
一 清浄心(しょうじょうしん)はことはれるものなり。
清浄もなくなりし処は、われならではしらぬなり。
我しるうちは悪し。
しらぬ所のしらぬに有り。 |
一 清浄心(しょうじょうしん)とは道理が極まって矛盾が無いことである。
清浄なこころが失せたときには、<他人の目ではない、>自ら自覚しなければ分からない。
自覚して、尚、改めざるは悪し。自覚がなく、これを改めようがないから手に負えない程に悪いのである。
注:清浄心(しょうじょうしん)・・妄念を離れた清らかな心。 |
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一 さとりは、念を滅却するを云ふ<う>。
念を以て身をなす。さとれば、いきなか<が>ら身なし。 |
一 悟りとは、<人間の悪業に由来して内在する様々な>”念”を滅却することを言う。
<だが、人は八万四千の悪業がありそこから生じる>”念”があるから生きて生活できているのである。
<さて、分かるかな?だが、>悟りを得れば、生きながら様々な”念”を去れるのである。 |
一 大道に入る人、たしかなる師にあはず、いろをくるしみ、寶(たから)このむをくるしむ。
大きなるあやまりなり。大道を心かけん人は、萬法のあくはみな身のなすわさとして、天外地外、古今未来、へだてなきものあり、これをよくしりて、その一をまもれは、をのずから身の業つきて清浄になる事、うたかひなし。 |
一 大道に入ろうとする人でも、<なかなか>確かな師に逢えないもので、外見や外聞を気にして悩んだり、利害得失に右往左往する。
<これは>大変な間違いである。仏法を求め悟りに達しようとするならば、身の回りに起こる諸悪・不都合は、皆、我が身の行いの結果であると理解して、天神地祇、過去も未来も将来も変わらない普遍の障りである<みんなそれに苦労して来た>と心得るべきである。<「自分の手には負えない」等と怯んではならない。>
このことを良く理解して、そのこと一つを心に留めおけば、自然、雑念を去り心平安になることは間違いないのである。
注:大道:人のふみ行うべき正しい道・根本の道徳をわきまえようとすること。仏門に入る事。 |
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一 人と生まれては仏道つとむへし。
外にあらす。その人に応じてよきは、みなその身の師のするわさなり。 |
一 めでたく人と生まれたからには、正しい道、即ち仏道を極めなくてはならない。
仏道と言っても、これは他にはない。各人の個に応じて良いのである。・・と言うのは、皆、頂いた心に内在する”佛”の声・指示に従えばよいからだ。 |
一 ある人、大乗をとふ。
予いはく、身をたたしく<正しく>して、守る事なきを、大乗といふ。 |
一 ある人が、「大乗」について問うた。
私はこのように言った。<身を任せる大きな舟のような乗り物である。大波・小波は押し寄せても心配はない。>
正しいと思う生き方をして、しかも、すべてを任せて、とやかくと「何が得か?」とか「人が見たら何と言うだろうか?」等々を案じ、<愚かな>策を案じない生き方こそ大乗である。 |
一 最上乗をとふ。
予いはく、身をたたしくして、守り事なきをいふ。故に大事なり。
かるかゆへに世にまれなるもの也。 |
一 最も確かな乗り物は何か?と問われた。私は、次のように答えた。
思うままに欲するままに生きて、任せることを言う。従って、大いに難しいことである。
このような訳で、この世に希有な生き方である。・・・と。 |
一 予が弟子に。いろいろに工夫とて、むつかしき事をこのむそや。
平常はみな佛、直に見、直に聞く。
臨濟禅師は、聴法無依の道人有り、無依をさとれはほとけも又無得とのたまへり。
六祖大師は、応無所住爾生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)を聞召(きこしめ)て、さとりをひらきまたへり。
注:六祖大師:中国禅宗の第6祖、慧能エノウの称
達磨大師の150年後の弟子になる。達磨から数えて六代目。応無所住爾生其心:「金剛経」の有名な一節である。 住まる所がないとは、心が一つ所にとどまらないことで、何ものにもとらわれないこと、執着しないことである。 |
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一 私は、弟子向かって「君たちは、いろいろ思案して・・、何故そんなに事を難しく考えるのだ。」「日頃の生活・お前達を取り巻く山川草木が、すべてが佛・師である。<難しい言葉は必要ではない。>
日常生活から、環境・風土を直に見て、そこから聞く。そこから学び、教えられよ。」・・と。
臨濟禅師は、「聴法無依の法師が居る。この『無依』の意味を知って行えれば、佛もまた意味がわかるではないか。」と仰った。
禅宗の第六祖・慧能は、「応無所住而生其心」は、即ち、心は、見聞きすることにそのまま感じ、囚われず、拘らず、森羅万象から学び取れと感得し悟りを開かれた。
<これを、”すみ所無きを心のしるべにて
そのしなじなにまかせぬるかな”と、
私は理解した。> |
補足:六祖・慧能(638〜713)貧しい農家に生まれる。中国禅宗は、彼によって一気に広まった。厳しい修行は必要とせず、「頓悟禅(とんごぜん)」と言われ、誰でも即座に悟りの境地に至れるというものであった。人には,もともと仏生が具わっていて、それに気付くことは重要であると説いた。「菩提はもとより樹(じゅ)なし 明鏡(めいきょう)も亦壇(だん)に非ず 本来無一物 何れの処にか 塵埃(じんあい)有らん」 読み書きの出来なかった彼が街で薪売りをしていた20歳代のときに聞いた偶然聞いた経。これを耳にして突然に悟りを得たという。広州・光孝寺にて出家、禅を広める。「自分の中の仏生に気付けばよい。」=頓悟禅。
座禅の心:『外相(そとそう)をはなるるを禅と為(な)し 内心乱れざるを定(じょう)と為す 外若(も)し相に着せば 内心即ち乱る』:外から見える形に捕らわれないことが禅であり、心が乱れないことが定である。形に捕らわれてしまうとたちまち心が乱れる。達磨からおよそ150年後、厳しい禅の形を変えた。後に、南華寺を拠点とした。農民たちにも教えを広めた。「修行しようと思うならば、寺に在ってもよろし 寺におらねばならぬということはない。 家にいてよく修行するならば、ちょうど東の国にいて 心がけの善い人のようなものである。 寺にいて修行せねば 西方にいて心がけの悪い人のようなものである。
心さえ清ければ そのまま自己の本性という 西方にいることになる。」:農作業もまた、禅の修行になると言うものである。 |
一 世の末になるといふ事、知る人まれなり。
釈迦如来の法、二千六百年余になり、日本にわたりて千年に及<び>て、ことことくすたるにつけて、慥にしれり。
萬物のすたる本は、我智なり。智あるもの、大かた信すくなし。
萬事のもとは信なり。信のすたるもとは智なり。此<の>智より何のみちもすたれり。
是を世の末といふ<う>なり。
大道はつとめてつとめぬ所にいたるはつよし。
大かた、師の道をわがものにしてつとむるもの、まれなり。 |
一 末世と言うこと、知る人は稀(まれ)である。
釈迦如来のお説きになった法は、すでに2600年以上経過しており、日本にこれが渡ってから1000年になる。法の本当のこころが、加速度的に廃れるように思う。
<あらゆるあらゆる方面に、このようなことを感じるのである。>廃れるのは人の我智にある。智のある者は大方「信」が少ない。<頭の中でとやかく「悟り」とは何かとか、理屈を弄んで、本当に大いなるものを信じない。
大いなるものの前に『我こそは』の”我”を置く。>
すべては信じることから始まるのである。
信仰が薄くなるのは、このような<愚かな>智が原因である。この<愚かな>智により、あらゆる道が<浅はかとなり、形骸化したりして>廃れることになる。
このようなことを、末法というのである。
大道、即ち本来の修行と言うは、無心に「修行している」等とも思わないで継続するすることが、本当の修行なのである。
これは疑いない。
大方、釈迦を信じひたすら行じる者は少ない。
<『俺様は、ここまで到達したぞ!』とか、『この、私の行っている方法しか、真の教えには近づけない!』等と、軽率な我智をひけらかす。> |
一 大道行ふう人は何も心得んといへり。
余云う、萬法のもとなり。そのもとをしりて、わが家の法をたつる事なり。
法師はほとけのほかは心得ぬもの也といへとども、くちなる人は、聞き得る事なし。
たとへは侍の道、我が家々の事なれとども、あまたはしる事かたるへしといへとも、聞こえぬ。あさまし。 |
一 大道を求め修行する人は、その趣意をすこしも理解していないように思う。
私は<常々>このように言い聞かせている。
<修行は、別の世界ではない。>すべての道理の礎である。その礎を心得た上で、自己の日常の生き方・生活を確立・実践すべきである。
修行僧は、他に眼をくれないで、専心、佛の悟りを求めるものであるとは言え、修行は形のみで問うてみれば何の心得も見えてこない。<慣れて日常の些事に埋没してしまっている。>
例えば、侍の道も同様である。個々の侍自身の事ではあるが、日々同じような心持ちで宮仕え、いろいろと事務に励むことのみで、<己が無く>聞くに値するほどの信条がない。
呆れるほどに情けない事である。 |
どうやら、今に始まった事ではないらしい。『衆愚』と言う言葉がある。公務員も寺の坊様も”腐って”居るように見えたようだ?!
「継体守文」「因循姑息(いんじゅんこそく)のうねりにいるか・・・・?
LINK 歴史の大きなうねり |
一 つねに逢ふう事ならぬ女に法
語を書きてやる。
一 人は家を作りて居す。
佛は人の身をやどとす。
家のうちに亭主つねに居所あり。
ほとけは人の心に住むなり。
一 じひにものことやはらかなれは、
心明なり。
心明なれは、佛あらはるるなり。
一 心を明にせんとおもはは、
坐禅して如来にちかつくへし。
一 くふうしてわが身のあくを如来
にさらせよ。
かくのことくつとむる事
たしかなれは、
佛になる事、うたかひなし。
年月日と書きておくる。 |
一 平素逢う事のできない女性に、仏の教えを平易に説いた手紙を書き送った。
○ 人は、家を造りその中に居住するが、佛は、人の
中に住んでいる。
家の中には、常に亭主が居るように、人の心に佛
が鎮座しているのだ。
○ 慈悲を知りたければ、物事に穏やかに当たれば、
やがて心に曇りなく安らかで明かるくなろうものである。
心に曇りがなければ、そこには”佛”が出現する。
○ 心をすっきりと明らかにしようと思えば、坐禅して如
来に近づく努力をすべしである。
○ 努力してひたすら如来に祈願して、我が身の業念
(悪)を去らせる工夫をしなさい。
このように、確かに努めれば、必ず、佛になれるよ。
年 月 日 等書いて送った。 |
一 物にじゅくする時あるへし。
たとへはちいさきとき、いろはをならひ、世をわたるとき、文書に、もろこしの事も、書のこす事なし、いろはにじゅくするなり。
佛道も、修行する人、身のあくを去るうちはくるしけれとも、去りつくしてほとけになりて後は、何事もくるしみなし。又慈悲も同事なり。じひするうちは、じひに心あり。
じひじゅくするとき、じひをしらず。じひしてじひしらぬとき、佛といふなり。
じひはみなぼさつのなせるわさなれは身のわさはひのいかであるべき |
一 物事は、習熟・熟練する時期がある。
例えば、幼少時、「いろは」を学んでおけば、長じた後社会に処すときに、文書に漢字(漢書)を書く必要がない。それは、イロハをを知っているから、日本の言葉で直に表現することが可能である。
仏教の道も、修行中はいろいろな雑念(業)に苦しむ時期があるが、寂静(じゃくじょう)を得て悟りの境地に到れば、<そのあかつきには>何も苦しみはない。
また、「慈悲」も、同じ事である。慈悲を志しているうちは、「自分は、”慈悲”を行っているのだ。」との、気負いや自負の心がある。
慈悲の行いが熟するとき、慈悲しながらそれを意識する事がない。心掛けずに慈悲を実践して、意識の内から”慈悲”のこころが消え去ったときに、そのときを、その人は佛に限りなく近づいたという。<熟したのである。>
慈悲は 皆 菩薩ならばこそ できること
心中に「念・業」の 微塵も無きなり |
一 此<の>道にあたる事、つよきあり、よわき有り。
予わかきとき、つよくあたれり。
ある時孔子のことは<言葉>を見るに、天下国家をもじたいすへし、しゃくろくをもじたいすべし、やいはをもふみをとすへし、大てきをもかたぶくべし、中庸は用かたしと云へり。
我思ふうに、まことなるかな、大道あたりよわくしては、我<が>身のあくを何として去<り>つくすへきや。 |
一 仏道の実践には、強硬な姿勢と穏やかな心構えとがある。私が若かった頃には、己に対しても、弟子に対しても厳しかった。
ある時、孔子の書物<論語か?>によると、天下国家の要職も辞退すべきであるとか、地位や俸給も求めず、身の危険を物ともせず、大敵にも負けずに相手を押さえ込むとか・・中庸は成しがたく難しいと言えよう。
私は思うに、これは確かな事だと思う。
注:「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されたのがその文献初出と言われている、それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。
古代ギリシャでは、アリストテレスの「メソテス」ということばでそれを倫理学上の一つの徳目として尊重している。
また、
『中庸』の「中庸」について
「中庸」の「中」とは、偏らない、しかし、決して過不及の中間をとりさえすればよいという意味ではない。よく、中途半端や50対50の真ん中と勘違いされている。
「庸」については、朱子は、「庸、平常也」と「庸」を「平常」と解釈しており、鄭玄は「・・・庸猶常也言徳常行也言常謹也」と「庸」を「常」と解釈している。「庸」が「常」という意味を含んでいることは二人とも指摘している。現在、多くの学者たちは「庸」が「平凡」と「恒常」との両方の意味を含んでいると見ている。中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
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補足:現在「四書」の一つとして広く知られている『中庸』は、もともと『礼記』の中の一篇文章として伝えられてきたものである。子思の作であるという。古くから有名な作品として人々に読まれてきた。『大学』が四書の入門であるのに対し、『中庸』は四書の中で最後に読むべきものとされ、初めて『中庸』を表彰したのは南朝宋の戴?(378〜441)であるとされている。彼が『礼記中庸伝』を書いた。宋代になると、有名な学者、政治家などが次々と『中庸』の注釈を著した。司馬光、范祖禹、蘇軾、程、著名な人びとの専著は十指にのぼる。この中で、もっとも知られているのは朱子の『中庸章句』である。 |
補足2:中道・・「法句経」ダンマ・パダ A・スマナサーラ 佼成出版社 154頁より |
(略)私のところに学びに来る人のなかで、よく『命がけで仏教を学びます。仏教に命をかけます』という人がいます。
けれども、そういう人で修行が進んだ人はいません。『命がけ』とか『必死でやります』という人は、そのことにしがみついているわけです。
”仏教に依存している”といえましょう。
ものごとは真剣すぎるのも良くないし、いい加減でもよくない。だから中道が大切なのです。 (略) |
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一 大きにほっしんして山にいらんとおもへる人にいはく、ありかたき御心さしなり。
おこたりたまふな。
たとへ山のをくなれはとて、うき世のほかならす。もとの心をはなれすは、住所かへたるはかりにて侍らんといひてよめる、
心よりほかに入るへき山もなし
しらぬ所をかくれかにして |
一 一大発心して、修験者として山に入ろうと決意した人に向かって言った。
「奇特な志である。頑張って欲しい。」
<だが、>たとえ山奥に入り人里を離れても、そこも浮き世・俗世の中には違いない。発心しようとした、その初心を忘れ無いようにしないと、住所を変えただけになってしまうように思える。
志(こころざし)より 他に依るべは無かりけり
山奥の 人目を離れて 道求めるも |
一 ある女にいさなはれて、
黒谷を過ぎ、清水のかたへおもむきしに、ひだりにほそき道あり、行きて見れは、かきまはらなるに、
柴の戸ほそをおしひらきてみれは、をくにあれたるゆかのあたりは、ちりにうもれ、すたれにむくらしけり、あさけのけふりたえたえに、
あかたなかたぶき、かうはなをたむくるにもあらす、佛とおはしくて、御手あしもかけそんし、それとも身わかず、佛となふる声うちしはがれ、よはひ五十にもやあまり侍らん、
けたかく、いにしへよしある人のなれるはてとおほしきがひとり居て、いつくよりととひしに、このあたり過ぎがてにゆかしく思ひ<い>、此<の>草庵にたつねきたるも、縁ふかきなるへし、
いろいろものかたりなとし、
いにしへ今の人のうへ、よしあしにつけて、とさまかうさまにほむるもそしるも、ともに世にとどまらず、ついのわかれをなけきて、みたのなをとなへ、ゆうへのかねを聞きて、
いのちつれなくいけるよとおもひけるとかたりけれは、ふとあはれもよほされて、
世の中をおもひはなれてきくときは
いりあひのかねは はまのまつかせ |
一 ある女性に案内されて、出かけた。
黒谷を過ぎ清水の方に向かうと、左に細い道があった。
そこを行ってみると、剥がれて疎(まば)らになっている垣の家が見えた。
柴の戸を押して、家の中に眼を投じると、奥の床は塵に埋もれるほどになっており、腐るほどに朽ちていた。朝餉(あさげ)を煮る煙が今にも消えそうな程に細くそよいでいた。
<また、>閼伽棚注:(あかだな)は、今にも壊れそうに傾き、花は手向けられても居なかった。
仏像らしきものには手や足が欠損しているが、その様な事には一向にお構いなしの様子で、しゃがれごえで経を唱えている男の年齢は、推測するに50歳を越えていようか。
品格が高く、昔は由緒ある人であったろう独居の男がいた。「何処からおいででしょうか?」と訪ねると、当て所なく行脚している内に、この辺りが何となくしたわしく、心がひかれるたので、この小さな草屋根の庵に住みついたとの事である。ご縁であろう。
いろいろと語り合い時を過ごした。
つかの間の、過去の事や昨今の人の世の事、世の移り変わりの事など、ああだとかこうだとか思うままに語り、感謝したり愚痴を述べたりするのであるが、これもお互い諸行無常の身の上に共感し、一時の出会いであったが最後の別れになるかも知れぬと、弥陀の名を唱えている内に、もはや夕べの鐘の音が聞こえてきた。
「お互い、いく先短い身の上であるが、もうここに来て合う事も無かろうと思う。」と述べて、ふと悲しくふびんに思った。
俗世去り 終焉(しゅうえん)近し我が身には
日暮の寺の鐘の音は 遠い浜の松風のごと |
一 人はかり、かしこからぬものはあらし<じ>。
行住坐臥、くるしみかなしみ、むかしを忍ひ<び>しらぬ行く末をなけ<げ>き、ねたみそねみ、をのれを立ててもの思ふ<う>、かなしみなから世にからめらるる。
此<の>世一生は、とやかくと過ぎぬへ<べ>し。
来々世々、生をかへかへてくるしめと<ど>も、捨つ<て>る事ならず。まことにまよひ<い>のふかきなり。
ぢごくがきちくしょうしゅらは世の中の
ぼんぶのつねのすみかなりけり |
一 人程に、賢くない者は無い。
日常のなにげない行為に、苦しみ・悲しみ、昔を懐かしく想い、未知の未来を嘆き、妬みを抱いたり嫉んだり、自己を中心に置いて世間を見て物事の判断をする。
このように悲しみながら、俗世間に埋もれて人生を過ごす。
とかく、この世の一生は、このように過ぎてしまうものである。
死んで生まれ死んで生まれ・・、生まれ変わって、更に苦しんでも、これら<の苦を>捨てる事ができない。
実に、<人間は>迷いの深いものである。
地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界
まさに この世の生き場所ぞ
凡夫が故の住処(すみか)なるべし |
一 佛の教<おしえ>のそのまますなほ<お>なるをうけて、
ぢきに萬物を放下して、如々の体になりて、
大安楽をうくる事、更に別あらず、
身をおもふとおもはぬとの二つ也。
此<の>をしへを実にとおもふ<う>人あれと<ど>も、つとめて我物にする人かたし。
本来の物となりたるしるしにはをかすことなきみのとか<咎>としれ |
一 仏の教えをそのまま素直に受けて、そのまますべての雑念を放下(ほうげ)して、<他力の心に>成りきれば、心は穏やかで安楽な境地に慣れること、これは間違いないことであるが、我執に囚われるか、それとも我執を去るかの二つである。
この教えを「本当にそうだ。」と思う人はあるのだが、努力して実践し習いとする者は少ない。
在るべき姿に成れたかどうかは、身に備わった咎を、そのまま受容しているかどうかでもある。<忘れるな。> |
一 出家は、内外打成一片とて、かたちのすくやかなるをいふ<う>なり。
ひっきゃ<ょ>う死人のいきかへることくなるを云う。
死人は物をほしがらず、人にこひ<い>せず、人をきらは<わ>ず、大道成就して、人の是非をよく知り、その人をすすめ仏道にいたらするをいふなり。 |
一 出家とは、内外打成一片(たじょう‐いっぺん)であり、様子が健やかな状態を云う。
注:打成一片:坐禅に徹底して差別対立を離れること。
転じて、一切を忘れて専心すること。 |
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畢竟(ひっきょう:結局は)、死者が生き返えったような状況を云うのである。
死人は、ものを欲しがらない。人に求めず、人を選ばず<好き嫌らい言わず>、人々の品格を見極めて、その人に応じた方法によって仏道に到らせる状態を言うのである。 |
一 世<の>中の人のならひ<い>として、めなれぬ物をねかふ。大道つとめて平常無事なる人、その道々によろしくすなほ<お>なるをきらふ。 |
一 世の人の常識として、見慣れない奇抜な物を好む。
大道を求めて、心穏やかな境地にいる者は、それらの常識・風潮を好まない。 |
一 ある人、平常大道つとめやうをとふ<う>に、いはく、凡夫即佛、ほとけとほんふ<凡夫>と、もと一体なり。しるを以て凡夫、しらさ<ざ>るを以てほとけと云ふうなり。 |
一 常々の大道を求める心構えは?と問われたので、それに応えて言った。
「凡夫は、そのままで佛だ。佛と凡夫は一体不二である。『もう、大道の悟りに近づいたか?』等と、我に返ったその時には凡夫、知らないで、無心に勉めるときには我を忘れている。そんなときには彼は佛なのだ。」 |
ゆめをとふ人に
ねてもゆめをさめても夢の世<の>中を
ゆめとしらねは<ば>ゆめはさめけり |
夢を問う人に<応えて>
人は、寝ても夢を見る。
また、目覚めて居てもここは無常の世界、
所詮、人生は現(うつつ)の世界だ
寝床の中の夢の如しである。このことを知らなければ
夢は覚めて、苦しい現実が身に凍(し)みてこようぞ
注:
伊勢物語「君や来し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか」のようなものだ。 |
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あまた人をつかふに
心得しみちにつかへはつかふ人のあやまることはつねになきなり |
大勢の使用人を雇う人に<申しました。>
大道を心得て佛に仕えるがごとく、企業経営の目標を違わなければ、任用の心は常に誤らないはずである。
<「任用」とは、仕事の使命を見失わず、人は信じ任せて用いること。経営とは、経を営むなればなり> |
ものゝふ<武士>の道たしなむ人に
いきしに<生き死に>を
のかれはてす<逃れ果てなければ>は
ものゝふの
みちもかならす
あやまるとしれ |
侍の武士道を志す人に<申しました。>
”斬られるか斬るか”との「生き死に」の
心を捨てきれなければ
武士といえども
武士道を 踏み外すと思いなさい |
仏道ありかたしといふ人に
ものこと<物事>に心とむな<止めるな>ととく<説く>のり<教え>の法にこころをとむる人かな |
仏道は行じ難いという人に<申しました。>
物事に拘り囚われるなと、
説く教えに忠実に従おうと、何時しか
この一点に囚われて居ないかな・・?! |
しゐて佛をねかふ人に
さかさまにあびぢごくへはをつるとも
佛になるとさらにおもふな |
「<苦しい現世・・・。>いっそ死んんだら、
極楽浄土に行けるでしょうか?」と言う人に
<現世を逃げて死んでも>
行き先は阿鼻地獄だ!
佛国土に行けるとは、微塵も考えるな!・・と。 |
大道のもとをとふ人に
おもはねは
おもはぬ物もなかりけり
おもへはおもふものとなりけり |
大道への修行の先を求める人に大道へ
願わねば ”願い”は心にも存在しない。
<一心に>願えば叶う<これ、佛の慈悲なり> |
大道聞<き>得て行はぬ人に
とく法に心のはなはひらけとも
そのみとなれる人はまれなり |
大道を求め得ても
修行を継続しない人よ・・・
説く法のこころは理解できようが・・・
それが、新しい芽を出す実となって
他に及ぼす人は稀(まれ)である。
<他力道の実践者は滅多に居ない。> |
じゅしゃ<儒者>に
主に忠おやには孝をなすものと
しらてするこそまことなりけれ |
儒学を学ぶ人に・・・
上司には”忠”、親には”孝”をと教えている。
だが、教えに従ってしている「善人」に成ろうとする間は
それは、善行に見えても、本物の”忠”・”孝”ではない。
意識しないで心の内から実践できてこそ、
それは本物の”忠”・”孝”といえよう。 |
直に見直にきく事を
主なくて見聞覚知する人をいきほとけとはこれをいふなり |
日常生活の中で、仏のお姿が直に見え、仏の声が直に聞こえる。
<学識が無くともよい>講釈師の教えに頼らずに、身の周りの人や山川草木の中から、仏のご意志が見聞きできる人のことを、「生き仏」と言うのである。
<後年、こんな人のことを『妙好人(みょうこうにん)』とも言った。> |
修行におもむく人に
身のとがををのが心にしられては
つみのむくひをいかてのかれん |
これから修行に赴こうという人に・・
我が身の咎を己の心が気づいたら
罪の報いはどうしたら逃れられようか?! |
さとりはならぬといふ人に
さとらねは佛の縁はきるゝなり
一さいきやうはよみつくすとも |
「私には、”悟り”は不可能です。」という人に・・
悟らなければ、あなたは仏との縁が切れますぞ!
あらゆる経典を読み尽くしても、・・・。
<『悟ろう!悟ろう!』と、念じ続けたまえ。> |
念仏行者に
となへねは
ほとけもわれもなかりけり
それこそそれよ
なむあみた佛 |
念仏行者に対して
念仏を唱えなければ、仏も吾も何もない。
そうそう、そのようにひたすら唱えなさい
『南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏』と・・・・。 |
ある人佛をねかひ<願い>て夢に見るも起きても佛のあたりにゐる心地するといふ人に
おもふまゝになせりぬる心にて
後世ねかふ人そはかなき |
あるお方が「常に仏を心に描いていると、寝ても覚めても、私は仏様の近くにいるような心地がします。」と言われた。
その人にこう言った。
願うとおりに成ると言うことは幸いです。だが、後世(死後)もその願い通りに、仏様のお側に行けるものと思いこむことは、はかない願いです。
<御心に従うままです。> |
ごくらくをねがふ人に
ごくらくの玉のうてなはほかになし
いきなから身のなきをしるへし |
極楽往生を願う人に・・
極楽浄土は、他の場所にはないぞよ。
いま、生きながらこの現世にて”我”を去れば、そここそが極楽浄土なのです。 |
法をとく法師に
ころせころせ
わか身をころせ
ころしはて
なにもなきとき
人のしとなれ |
人びとに仏法を説く法師に対して・・・
滅しなさいひたすら<我が身の咎>自我を滅しなさい。
<仏法を言葉によって説くうちは、聴衆の人びとよりも自分が仏に近いと思いこんでしまいます。従って、>
「説くのだ!教えるのだ!」と言う、自分の立場をも忘れて、『無』の心境で人びとに対面できたときには、その時にこそ「法師」です。
<法師とはいえ、立場の違いはあるものの凡夫の一人に相違ない。> |
道ををしへて
でくるぼうをまはすは人のまはすなり
人をまはすは一物もなし |
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坐禅の大事
せぬときの坐禅を人のしるならは
なにかほとけのみちへだつらん |
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心
佛神また天道となをかへて
たゝなにもなき 心をそいふ
なにもなき 心をつねにまもる人は
みのわさはひは きえつるなり |
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念仏行者に
佛とは何ばかや つかいひそめて
なもなきものに まよひこそすれ |
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あまりに よくふかき人に
ぼんぶめら あまりにものなほひしかりそ
わか身さへ わかものとならぬそよ |
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法師に
衣は こくうになりて きれはきる
坊主のきるは はちうくるなり |
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