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1 はじめに・・・・日本が豊かになったのは二十世紀後半の数十年のこと |
1934年 (昭和9) 東日本冷害 |
山形県伊佐澤村役場の掲示板「娘身売りの場合は、当相談所にお出で下さい。」この時身売りした娘は4万人。 農民は木の皮を剥いで食べた。 60数年前の日本は、ひとたび凶作になると娘を身売りする貧しい社会だった。 日本だけではない。世界中どこでも飢餓は繰り返し起こり、多数の人が死んだ。 今日でも、国連によると飢餓人口は7億9千万人だという。 日本が豊かになったのは二十世紀後半の数十年のことである。 国の豊かさは国内総生産(GNP)で示される。ほんの実質GNPを今のドルで言うと 1820(文政3) 220億ドル 1870(明治3) 260 1950(昭和25) 1570 ・・ この頃、一人当たりはアメリカの5分の一 1994(平成6) 2兆442 江戸時代から明治にかけては約200億ドル、一人当たり700ドルで、今の貧しい途上国なみ。 石井 恂 元読売新聞論説委員・麻布大学名誉教授 (2001.原子力文化5月号 日本原子力文化振興財団) |
2 凶 作 と 飢 餓 の 歴 史・・・・・・ 毎挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほど、災害と食糧不足は常であった。 |
658 | 斉明 (655〜661) |
地震 | 4/地震のため、大和の舎屋倒れ、諸国に地震神を祀る。9/百済より駱駝・シャチ・羊・白雉を献ずる。4/阿倍比羅夫、水軍を率いて蝦夷を討つ。7/蝦夷2百人余朝献する。11/有馬皇子陰謀があるとして殺される。この年、阿倍比羅夫、粛慎(みしはせ)を討つ。 | |||||||
678 | 天武 | 地震 | 11/筑紫に大地震。民家倒壊。 | |||||||
679 | 地震 | 2/飢寒者に物を賜う。10/老病の僧尼の収容所建てる。 |
しばらくは、災害の記載がなかった。・・・・が、。 |
762 | 淳仁 | 天平宝字6 | 飢餓 | 第15回遣唐使 3/三河尾張など九カ国に干ばつ。4/尾張に飢餓発生、正税から米の支給。 | ||||||
763 | 天平宝字7 | 飢餓 | 7/中央から、尾張など六カ国に使者派遣、不作の状況調査。 儀鳳暦を廃し大衍暦(だいえんれき)を行う。春日大社創建。 「般若波羅密多理趣経」:真言密教教典、中国の長安の僧大興善寺三蔵沙門大広智不空(だいこうぜんじさんぞうしゃもんだいこうちふくう)、皇帝の詔を奉じて訳す(〜771年まで)。 | |||||||
775 | 光仁 | 宝亀5 | 飢餓 | 尾張など三国を異常風雨が襲い、川など氾濫、また、国分寺を初め諸寺院が被害を受けた。 | ||||||
802 | 桓武 | 延暦21 | 飢餓 | 三河国その他31ケ国水害あり、租税を免ず。(類聚国史) 胆沢城(いさわ)築城。鎮守府を多賀城から移転。 | ||||||
869 | 清和 | 貞観11 | 地震 | 藤原良房等「続日本後紀」。5/26三陸沿岸地震M8.3。家屋・倉庫の倒壊無数。津波による溺死1,000人。 | ||||||
887 | 光孝 | 仁和3 | 地震 | 8/26五畿・七道地震M8。京都で家屋などの倒壊・圧死多数。津波により沿岸で溺死多数。 | ||||||
905 | 醍醐 | 延喜5 | 税 | 延喜式、醍醐天皇の勅により藤原時平らが編纂を開始。「古今和歌集」成る。班田の廃絶。人身課税から土地課税。 | ||||||
944 | 朱雀 | 天慶7 | 災害 | 京都大暴風雨 |
災害は、そのまま飢餓に結びつく。 |
988 | 一条986〜1011 | 永延2 | 百姓愁訴 | この年、国司藤原元命が郡司・百姓らに告発される。この頃全国に百姓愁訴の動き。 | ||||||
999 | 一条 | 長徳4 | 災害 | 富士山噴火。 |
この間、(およそ100年間)災害や飢餓の記述はなかった。 |
1096 | 堀河 | 永町/11/24 | 地震 | 畿内・東海道地震M8.5。12/17京都・近江・駿河等で、社寺倒壊多数。津波による家屋等の流出400余。 | ||||||
1099 | 地震 | 南海道・畿内地震M8.3。2/22諸寺被害。土佐で田1000余町海に沈む。津波があったらしい。 | ||||||||
1106 | 嘉承1 | 飢餓 | この年、東寺領大成荘に美濃住民ら乱入。 | |||||||
1114 | 鳥羽 | 永久2 | 飢餓 | この年、尾張・三河・遠江などに海賊・強盗横行、「合戦毎日のこと」。 | ||||||
1148 | 近衛 | 久安4 | 日本 | 4/15三春是行解(みよしこれゆきげ):百巻本東大寺文書に、「日本」なる呼称が現れる。 | ||||||
1177 | 高倉 | 治承元 | 災害 | 霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火、「・・・ひとつの峯高くそびえて、煙たえせぬ所あり、日本(ほのもと)最初の峯、霧島のだけと号す」「長時に猛火燃え上がり手、雲に続く、いつとなく黒砂下りて、すゑ何千里とはかることなし」:丹波少将藤原成経が島に流されてゆく途中に立ち寄った島津庄の場面。 | ||||||
1207 | 土御門 | 承元元 | 開墾 | 3/地頭ら、武蔵野荒野を開墾。 比叡山や南都興福寺は新宗教の隆昌を喜ばず、専修念仏を止めさせようと朝廷に訴える。この年、朝廷はこの願いを聞き入れて、安楽・住蓮(御所の女官に帰依者が多かった)を死罪。法然(75歳)と、その門下を土佐、親鸞(35歳)を越後に配流(はいる)。=専修念仏禁止。親鸞・法然流罪。 道元:曹洞宗8才母没。 | ||||||
1230 | 後堀河 | 寛喜2 | 飢餓 | 海部郡美和町法蔵寺鉄地蔵が製作される。諸国大飢餓(〜1231) | ||||||
1231 | 後堀河 | 寛喜3 | 飢餓 | 諸国大飢餓 | ||||||
1244 | 後嵯峨 | 寛元2 | 飢餓 | 2/奴婢養子・飢餓救助・人身等の法制定。永平寺創建(道元招請)。道元「正法眼蔵」。この頃「平家物語」成る。 | ||||||
1251 | 後深草 | 建長3 | 災害 | 赤城山:最後の噴火、今の形となる『吾妻鏡』。 |
1256 | 後深草 | (北条長時) | 康元1 | 三河浄土真宗の始まり | 10/13 親鸞高弟子真仏・顕智ら、関東から上洛の途中、矢作薬師寺において念仏勧進をはじめ三河の専修念仏の起源になるという。その後も顕智、三河に留まり布教活動。真宗は主に在地武士層に浸透。(上宮寺・勝鬘寺・本證寺・妙源氏:岡崎・満性寺:同を中心に布教活動) | |
1259 | 亀山 | 正元1 | 飢饉 | 正嘉の飢饉 | ||
1261 | 弘長1 | 公田売買禁 | 3/諸国盗賊、悪党ほう起につき禁圧を命じる。12/名主・百姓等の公田売買を禁ず。 | |||
1300 | 後伏見 | (北条貞時) | 正安2 | 干魃 | 法然上人絵伝著される。5/25〜7/16大干魃(愛知県豊田市:猿投神社文書)。 10/越訴を停止する。 | |
1310 | 花園 | (北条師時) | 延慶3 | 災害 | 中条景長、衣(金谷)城を築城。 鎌倉大火。 | |
1321 | 後醍醐 | (北条高時) | 元亨1 | 災害 | 京都地震。河川氾濫等災害。 | |
1350 | 後村上 | 崇光 | 観応1 | 一揆 | 僧無文元選、元の国より帰る。(1343渡る)後三河国加茂郡の猿投にはいる。足利直義、尊氏と不和となり、南朝方となる。 7/28 土岐周済、尾張・美濃の兵を率いて足利直義に見方。12/10額田の粟生藤左衛門尉為広ら21人の国人が一揆して直義方に参加する。 足利尊氏、直義と対立(〜51) | |
1361 | 後村上 | 後光厳 | 足利義詮 延文6 |
災害 | 畿内・土佐・阿波地震M8.58/3諸寺等に被害多数。津波で流失1700戸、死者60余。 | |
1428 | 後花園 | 正長35 | 一揆 | 9/正長の上一揆(徳政一揆)おこる。(近江の馬借の蜂起を契機に、山城から畿内一帯の土民が蜂起して酒屋・土倉・寺院などを破却し、私徳政を発して幕府と抗争した。) | ||
1429 | 足利義教 | 永享1 | 一揆 | 足利義教、くじ引きで将軍となる。1/播磨の士一揆(守護赤松氏の家督争いに関連し、国人が土民を率いて守護軍の退去を要求したが、守護赤松満祐が鎮圧した。)。2/丹波の士一揆。 尚巴志(しょうはし)、三山を統一し琉球王国を建国。 | ||
1431 | 永享3 | 荘民等 逃散 |
3/8尾張国六師荘の百姓ら代官御厩野氏の不法を訴え逃散。7/尾張国山田荘の荘民等も逃散。 | |||
1432 | 永享4 | 一揆 | 4/伊勢の士一揆。 日明国交回復。 | |||
1439 | 永享11 | 訴訟 | 尾張六師荘の百姓等訴訟を起こす。 幕府、足利持氏を討つ。 能狂言完成。 | |||
1441 | 嘉吉1 | 一揆 | 6/結城城落城。将軍足利義教、赤松満祐に殺される。 (嘉吉の乱)嘉吉の士一揆。(嘉吉の乱の直後、「代始めの徳政は先例」 と称して起こった数万人の一揆。幕府に徳政令の発布を認めさせて収まった。中世社会では、土地は開発主・農民に返されるべきと観念されており、徳政要求は土地取り戻しの運動となって現れた。) 能、狂言完成。 | |||
1445 | 文安2 | 大地震 | 大地震、11/22〜昼夜20日間。(愛知県豊田市:定光寺年代記) | |||
1447 | 文安4 | 一揆 | 7/山城西岡徳政一揆 |
まるで、別世界のように思う。今の日本はまさに”天国”である。 『もったいない。』等という言葉は「死語」になった。 『いただきます!』の意味が曖昧(あいまい)になった。 |
1449 | 後花園 | 足利義政 | 宝徳1 | 地震 | 大地震、4/10夜、4/12大地破裂、〜11月時々地震(愛知県豊田市:定光寺年代記)。 | |
1451 | 宝徳3 | 一揆 | 10/大和の士一揆。尾張守護代織田敏広、父郷広と守護代職を争う。 | |||
1453 | 享徳2 | 逃散 | 3 尾張大県神社領で代官織田氏を訴え、惣荘百姓等逃散。 | |||
1454 | 享徳3 | 一揆 | 3/京中に盗賊横行。6/醍醐・山科の士一揆。9/山城の徳政一揆。10/徳政令を改める。12/享徳の乱〜82(鎌倉公方足利成氏、関東管領土上杉憲忠を謀殺する。幕府は上杉氏を支持。成氏は、対抗して享徳年号を使用し続けた。) | |||
1459 | 長禄8 | 災害 | 天候異変続く暴風雨・河川氾濫凶作。 | |||
1460 | 寛正1 | 災害 | 永雨・洪水、秋には台風・イナゴ。秋に寛政と改元。 | |||
1461 | 寛正2 | 寛正の大飢饉 | 1/寛正の大飢饉。全国的な食糧不足。越前国河口荘でも9268人餓死。流亡者757人。京都では、餓死者が山となり加茂川をふさぎ、2ヶ月で8万2000の卒塔婆が立てられた。 五条の橋の下で1200余、一日に300〜700の餓死者を出し、山陽・山陰では「人民相食む」状況であった。 蓮如、最初の「御文」かく。 | |||
さぞかしと思う。餓死者が出ないと、”飢餓”とは表記しない。 百姓達は、刈り取った稲の白い根をこいで食べる。こんな記述もあった。 @ 松の皮を剥いで、これを粉にする。 A 稲わらの一番柔らかな部分”はかま”をすりつぶして、これも粉にする。 B 赤い土(昔は、壁に塗った)を水に溶かして良く混合する。しばらく置くと沈殿する。 上のトロリとした部分をとって、これらを合わせて混合する。 C 三日三晩良く煮詰める。 これが、当時のレシピであった。 挙げ句には田畑の耕作は捨てて、山に入る。山のカタクリやクズを砕いてそこから澱粉を採取する。食べる。あるいは他地区に彷徨う。 『山陽・山陰では「人民相食む」状況であった。』とあるが、このような状況は1700年代の”天明の飢饉”にも記録されている。百姓達は窮状を訴えてもらちがあかないと、逃散する。”お上”は、これを抑える。やがて、”一揆”になる。 |
1470 | 後土御門 | 足利義政 | 文明2 | 地震 | 3/22夜半より地震4/10頃終わる(愛知県豊田市:龍渓院年代記)。 | |
1472 | 文明4 | 9/近江馬借蜂起。 | ||||
1474 | 文明6 | 一揆 | 11/加賀一向一揆。守護代を殺す。 12/朝鮮王、幕府に勘合符を送る。一休宗純(1394〜1499)大徳寺住持となる。 | |||
1475 | 文明7 | 災害 | 松平氏、岡崎市井田野に大樹寺創建。大洪水8/3人馬牛損失。(愛知県豊田市:定光寺年代記) 11/18斯波義廉、尾張に下る。 |
1482 | 後土御門 | 足利義尚 | 文明14 | 災害 | 大洪水6/1人馬牛損失。(愛知県豊田市:定光寺年代記) 銀閣寺建立。 | |
1485 | 文明17 | 一揆 | 8 山城国一揆おこる。(南山城の国人・土民等は、畠山政長・義就両軍に対し、両畠山軍の撤退、寺社本所領の復旧・新関撤廃を抗議して迫った。翌年、平等院において掟法を定めて国人による自治支配が8年間続いた。) | |||
1488 | 長享2 | 一揆 | 随応院:愛知県豊田市寺部町4丁目、寺部領主鈴木日向守重時の招きで、力石村に創建した極楽山浄土院不遠寺を、勧学院文護寺跡のこの地に移る。1652年にこの名前に改められる。大洪水尾張両国人馬溺死多し(定光寺年代記) 12 加賀一向一揆おこる。(守護富樫氏が越後に援軍を求めて攻撃するや、本願寺門徒の農民・国人や坊主等が能登・越中の門徒と協力して高尾城を攻め落とし、守護富樫政親を自殺させ、以後1世紀にわたり自治支配を行った。) |
1490 | 後土御門 | 足利義稙 (たね) |
延徳4 | 一 揆 |
京都・大和に徳政一揆。 | |
1491 | 延徳5 | 飢餓(愛知県豊田市:定光寺年代記)。守護斯波義寛、近江六角氏征伐に尾張に兵を出す。 10/朝鮮王、義稙(よしたね)に仏典など贈る。伊勢長氏、堀越の茶々丸を攻めて伊豆を取る。 | ||||
1495 | 足利義澄 | 明応4 | 災 害 |
7/14洪水(愛知県豊田市:龍渓院年代記)。 9/北条早雲、小田原城を襲い城主を追放。 | ||
1497 | 明応6 | 地 震 |
大地震、8/2伊勢地方大津波(愛知県豊田市:定光寺年代記) | |||
1498 | 明応7 | 地 震 |
6/11地震(愛知県豊田市:龍渓院年代記)。8/25東海地方大地震。浜名湖、外海とつながる。津波により家屋流失1000戸、溺死15000人、流死2万6000人。 | |||
1499 | 明応8 | 地 震 |
竜安寺石庭成る。 8/25大地震、人民皆死す(愛知県豊田市:龍渓院年代記)。 | |||
1500 | 後 柏 原 |
明応9 | 7/京都大火。 | |||
1503 | 文亀12 | 飢 餓 |
大干魃飢餓、大地枯渇7月雨降る。(愛知県豊田市:定光寺年代記)。 | |||
1504 | 永正1 | 一 揆 |
9/京都に士一揆10/徳政令。長雨大飢餓人民餓死(定光寺年代記)(龍渓院年代記)。 | |||
1505 | 永正2 | 飢 餓 |
牛久保の一色城主牧野古白、今川氏と結び今橋(豊橋)に築城したといわれる。吉田城。飢餓(定光寺年代記) | |||
1506 | 永正3 | 北 陸 に 一 向 一 揆 |
古瀬間城この頃以前に築城。:志賀町城山、この頃、加茂郡(豊田)に進出を目論む松平氏は、岩津城主長沢松平源七郎勝宗の庶子弥三郎宗忠をして、南古瀬間村に出張り、村長(むらおさ)鈴木左京亮重政ともども、新城街道を押さえ、高橋荘攻略の拠点として築城『愛知県豊田市:竜田院文書』。 今川方伊勢長氏、客将伊勢宗瑞(北条早雲)と共に三河に侵入牧野氏の今橋城(後の吉田城・豊橋)を陥落させ、西三河に侵入、松平一族と戦う。(数年に及ぶ)長親、今川勢を退けるが、岩津宗家が滅ぶなど、松平一族は多くの犠牲を払った。こんな中で、名実共に松平総領家となった安城家でさえ長親・信忠の代には家督をめぐる内訌があった。本願寺の強大な三河教団が形成されていて、戦国大名に対抗する程の勢いであった。今川氏の侵入を撃退し検断不入といって、警察権や裁判権を持つという特権を得ても居た。後に、家康が弾圧を試みて、一向一揆に発展する。 7/北陸に一向一揆 | |||
1510 | 足利義稙 (たね) |
永正7 | 地 震 |
大給城二代乗正は、城の大改修をする。三河木綿が奈良市場に現れる。 4/朝鮮三浦の日本人、富山浦を攻略(三浦の乱)。大地震(愛知県豊田市:定光寺年代記)。 | ||
1511 | 永正8 | 災 害 |
8〜10月降雨。田畑麦損害多し(愛知県豊田市:龍渓院年代記)。 | |||
1512 | 永正9 | 災 害 |
7月落雷犬死に家焼ける(愛知県豊田市:龍渓院年代記)。 | |||
1517 | 永正14 | 災 害 |
7/13矢作川大洪水。(愛知県豊田市:水音寺文書) | |||
1518 | 永正15 | 飢 餓 |
飢餓、人民死(愛知県豊田市:龍渓院年代記)。歌謡集「閑吟集」成る。 | |||
1520 | 永正17 | 一 揆 |
1/京都に士一揆 | |||
1521 | 足利義晴 | 大永1 | この年より1532年まで、猿投神社領の年貢負担について、三方五か村の百姓申し立て。 6/琉球王、種子島忠時に交易を許す。 | |||
1522 | 大永2 | 災 害 |
駿河の今川氏親、尾張那古野城を築き、氏豊を置く。大洪水8/1及び8/4人民流溺多し(愛知県豊田市:定光寺年代記)。 | |||
1524 | 大永4 | 災 害 |
大洪水4/28〜長雨。5/13及び5/28大洪水(愛知県豊田市:定光寺年代記)。7代松平清康(家康の祖父)、安祥城から岡崎城に移る。清康、岡崎城に入城する際し、松平六所明神(京都の加茂明神の神紋を用い、加茂明神とも言い、土地の豪族松平氏も加茂明神の神紋を戴き、我が家紋として氏子氏神の関係となり神に奉仕していた。)を岡崎城下に氏神として勧進した。なお、このときには、衣冠束帯の神像三体、地蔵三体を遷御した。 後に、家康は社領百六十石を寄進し、歴代将軍厚く崇敬した。 | |||
1527 | 後奈良 | 大永7 | 災 害 |
大洪水。8/5人民流溺(愛知県豊田市:定光寺年代記)。12/吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)、野火により六所神社社殿全焼。社殿再建のために松平宗家五代長親は、嫡子六代信忠とともに神社造営奉加帳(寄進状)を松平一門宛に送付。「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり」云々。百疋:道閲(五代長親)・五百疋:祐泉(六代信忠)。この寄進状によって三代信光以来、六代信忠になっても安祥城を根城にして、山間僻地の松平村を領し、六所明神(加茂明神とも称した)を厚く信仰していた。 ☆ 大永7(1527)年12月、野火によって焼失した六所神社の社殿を再建するため、松平長親(松平宗家5代)は、その子信忠(松平宗家6代)と共に献金し、松平氏一族へも寄付すなわち奉加を呼びかけた。奉加帳はその寄付に添えられた文書である。 「そもそも、当社大明神は、当国鎮守の霊苗、郡村加護の明神なり。なかんずく松平一党の氏神・祖先崇敬の霊社なり。」と記している背景には一族の内紛や家臣団分裂などの状況があった。長親、信忠は六所神社への勧進を求めることによって松平宗家としての主導性と権威を誇示しつつ、改めて松平一族に団結と助力を求める意味があったのだろう。この奉加帳の年次はわからないが、社殿が焼失したという大永7年から祐泉が亡くなった享禄4(1531)年の間のものと考えられる。 | ||
1528 | 享禄1 | 災 害 |
旱魃、6/7大地枯渇(愛知県豊田市:定光寺年代記)。 | |||
1531 | 享禄4 | 一 揆 |
清康、加茂郡伊保城(愛知県豊田市)の三宅氏を攻め陥落させる。 加賀大小一揆の乱 | |||
1532 | 天文1 | 災 害 |
6〜7月旱魃、大地枯渇(愛知県豊田市:定光寺年代記)。松平信忠、家督をめぐり一族の内紛となるが、(1532〜1554)信忠が清康に家督を譲り内紛解決。 | |||
1534 | 天文3 | 災 害 |
6/21大地震。8/3大雨/洪水、人民流溺(愛知県豊田市:定光寺年代記)。松平清康、猿投神社焼き討ち。三重塔社殿、神宮寺焼失。 織田信長生まれる(尾張那古野城に)。この頃、紀伊に惣国一揆。 | |||
1536 | 天文5 | 戦 禍 |
この頃、家督をめぐる松平氏内紛。松平信定が岡崎城に入る。松平広忠、流浪の身となり駿河の今川義元を頼る。 7/天文法華の乱(法華の宗徒、延暦寺の衆徒と戦う。比叡山の増兵18万人が、洛中・洛外の法華宗の寺院21カ所焼き払う。応仁の乱を上回る京の町の被害。洛中ほとんど焦土と化した。 本願寺光教、道場を山科に再興。(32年焼失) | |||
1540 | 天文9 | 災 害 |
2/5滝脇城跡を護ってきた一族の墓石と言われている愛知県豊田市:滝脇小学校南西(駒型平石)。 6/6織田信秀、三河進出激化。西三河の拠点安祥城(松平清康死後)を攻め落とす。8/16尾三地方大暴風雨、大洪水・大津波にて被害甚大(参河国聞書)。 諸国に悪疫流行。 | |||
1557 | 正親町 | 足利義輝 | 弘治3 | 旱 魃 |
大旱魃8/26大風(愛知県豊田市:定光寺年代記)。12今川義元、三河山中郷の検地を行う。武田信玄・上杉謙信、信州で戦う。 | |
1558 | 永禄1 | 家康、岡崎城の城主となる(〜1569)。この間に、岡崎城に近い高宮村(現在の明大寺町)の六所神社に、吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)の御祭神六柱のうち三柱の神が勧請遷座(「松平家文書」に、六所神社は永禄年中に高宮村の六所神社へ衣冠束帯の神像三体、地蔵尊三体を遷御した。・・、とある。) 木下籐吉郎、信長に仕える。前田利家、まつと結婚。 | ||||
1559 | 永禄2 | 旱 魃 |
大干魃、山中、東は吉、西国は悪し(愛知県豊田市:龍渓院年代記)。織田信長、岩倉城の織田信賢を攻略し、ほぼ尾張を統一する。この年信長上洛し代将軍足利義輝に謁見する。松平元康(家康)七箇条の定書を出す。 | |||
1563 | 永禄6 | 三 河 一 向 一 揆 |
9 三河三か寺(安城市野寺の本證寺、佐佐木の上宮寺、針崎の勝鬘寺)を中心に三河一向一揆おこる。 7織田信長、居城を清洲から小牧山城へ移す。この年家康ほぼ三河を統一する。寺部城:寺部町1丁目、在地の小豪族鈴木氏は、ある時は自立し、ある時は織田・松平に属して保身を図っていたが、この年松平元康に攻められた。『東照軍鑑』この時、信光寺(豊田市)も加担し針崎にて合戦。家康のとがめを恐れて信州へ逃れたが家康の祖先松平家の由緒の寺であるとのことで、許されて無事であった。 | |||
1564 | 永禄7 | 2三河一向一揆、家康と和睦。後家康、三河本願寺勢力の中心寺院を破壊する。足助の鈴木氏(足助7城築く)松平勢の猛攻にあい元康(家康)の配下に属す。滝脇松平氏三代乗高、この時軍功あり。御船城、秋尾三の乱に賊の為に城郭は焼かれ城主三宅義高は死す。『千鳥寺旧記』より。=御船、亀首、加納の荘園を領す。『猿投村誌:大正4年西加茂郡教育会』より。 | ||||
1565 | 永禄8 | 家康、三河一向一揆を平定し、三河一円を治める。 朝廷に申し出て祖父清康が称した世良田氏の庶流徳川に改正し、三河守に任ぜられる。 | ||||
1569 | 足利義昭 | 永禄12 | 一 揆 |
6/姉川の戦い。信長、浅井・朝倉を破る。9/石山戦争始まる。(〜80)11/21願証寺を中心に長島一向一揆。一向宗徒、小木江城に織田信興をせめて、自害させる。 前田利家、信長の命令で、前田家を継ぐ。 | ||
1570 | 元亀1 | 一 揆 |
6/徳川家康、居城岡崎を嫡子信康にゆずり、遠江浜松に移す。11/21願証寺を中心に長島一向一揆起こる。一行宗徒、小木江城に織田信興を攻めて、自害させる。12/家康、碧海郡小山新市を楽市とする。 信長は、越前に朝倉義景を攻めたが北近江の浅井長政の離反により失敗。 | |||
1571 | 元亀2 | 一 揆 |
4武田信玄、駿河から遠江に侵入し、さらに信濃から遠江・三河の山間部を侵略。奥三河では、4/15足助の鈴木重直を岡崎城に逐い、鈴木氏の勢力下にあった浅谷(旭町)、八桑・阿摺(足助町)及び大沼・田代(下山村)等の諸城は潰れる。作手の奥平氏、田峯・長篠の両菅沼氏の山家三方衆を服属させ、平野部の吉田にまで来襲。三河二連木で家康と戦う。5信長、長島一向一揆討伐のため、津島に兵を進める。9/12信長延暦寺焼き討ち。諸社をことごとく焼き払い、老若男女を問わず、山中に生活する者の大半を殺戮する。比叡山門徒の横暴、それまでとなる。 矢作川に大洪水被害甚大(西加茂郡誌)。 | |||
1572 | 元亀3 | 災 害 |
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1574 | 天正2 | 一 揆 |
1/武田勝頼、三河加茂郡へ攻め入る。 1/12信長、瀬戸に焼き物窯を免許し、他所の窯を停止させる。9/29信長、長島一向一揆を平定。 | |||
1575 | 天正3 | 一 揆 |
滝脇松平氏、大給城の夜襲。仇敵親乗、一時期尾張に追われる。滝脇松平氏遠州二俣城の攻略戦に参戦家康に軍功を認められる。 5/21長篠の戦い。織田・徳川連合軍、武田勝頼軍を設楽原に破る。信長、この時始めて鉄砲を使う。 8/信長、越前の一向一揆を滅ぼす。信長、嫡子信忠に家督をゆずって岐阜城と尾張・美濃支配を任せて、翌年から近江安土の築城し本拠とする。 前田利家、越前府中城の城主となる。 | |||
1585 | 正親町 | 豊臣秀吉 | 天正13 | 地 震 |
衣城々主、余語勝久退城し平松与左衛門がなる。 11/29大地震M7.8、被害地域は、畿内、東海、東山、北陸諸道まで及ぶ。 一宮真清田神社、岡崎城壊れる。余震が翌年2/8まで続く。3/秀吉、紀伊根来・雑賀の一揆平定。7/秀吉関白となる。大坂城完成。 | |
1586 | 後陽成 | 天正14 | 洪 水 |
洪水によって、ほぼ現在の木曽川筋を形成する。この頃までに信雄再検地。12/秀吉(50才)、太政大臣となり豊臣姓を受ける。 | ||
1590 | 天正18 | 一 揆 |
大給城六代家乗のとき、家康の関東入りがあり、これに従って群馬県上野国入りしたので廃城となった。 豊臣系大名:田中吉政、岡崎5万国、池田輝政、吉田(豊橋)15万2千石それぞれ領す。犬山城、三好吉房(10万石)。黒田城、一柳直盛(3万石)。9/三河太閤検地が文禄3年まで実施される。家康の関東移封に従い、足助城は廃城。 6/伊達政宗、小田原で秀吉に降伏。7/小田原攻め。北条氏直降伏。豊臣秀吉天下統一。7/13豊臣秀吉、織田信雄を三河など5カ国に移封。信雄、尾張・伊勢の旧領をのぞみ追放される。豊臣秀次、近江八幡山より清洲城(西春日井郡)に入り、尾張と北伊勢を領す(57万1737石)。8/1徳川家康、駿府から関東8カ国に転封される(約236万石)。ついで、岡崎城主:田中吉政、吉田城主:池田輝政。9/三河で太閤検地実施。 10/大崎・葛西の一揆。 | |||
1596 | 慶長1 | 地 震 |
大地震7/12人多く死ぬ(定光寺年代記)(龍渓院年代記)。9/スペイン船サン・フェリペ号、土佐へ漂着。9/秀吉、明の国書の無礼怒り、明使を追う。11/ 26聖人の殉教。 | |||
1601 | 慶長6 | 諸 国 飢 餓 |
高月院、家康により寺領100石が与えられ明治維新までときの将軍からあつい保護を受けた。鳥山精俊、三河大官となる。滝脇松平4代乗次、関ヶ原合戦後に改めて祖父の旧領滝脇村と額田郡内に併せて600石を賜り滝脇に陣屋(滝脇町西洞)を構える。 1/家康、東海道に天馬制を布く。赤坂宿から2里9町、岡崎宿から1里25町の藤川宿は、この年に東海道宿駅に指定される。江戸時代ここにも、飯盛り女がおよそ300人居て、岡崎から男どもが歩いて遊びに行く。「御油や赤坂・吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と、俗謡に歌われた。10/15松平忠吉、清城主となる。尾張一国を支配。 この年、木曽川御囲堤完成。 本多康重、岡崎5万石、本多泰俊、西尾2万石、松平家清、吉田3万石、戸田尊次、田原1万石、水野分長、知多小河1万石、松平忠利、深溝1万石をそれぞれに領した。木曽川堤が完成。家康、関ヶ原の戦い、石田三成を破る。 Link 高月院関連 | |||
1602 | 慶長7 | 災 害 |
家康は、高月院の祖廟参詣の節に、吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)六所神社に20石の初穂料を献じる。家康、妙昌寺に梁山・曲り村内20石を寄付。 松平(奥平)忠明、上野長根より入封、作手1万7千石を領す。美濃路開かれる。 4/大雨、美濃洪水。人馬多く死ぬ。7/大雨、尾張。 本願寺東西に分かれる(東本願寺創建)。徳川家康、筑波山の知足院中禅寺(筑波神社の前進)に徳川家の祈願書として500石の寺領。 東海道に松並木を植える。この年、三河各村に幕府検地実施。 | |||
1603 | 徳川家康 | 慶長8 | 災 害 |
矢作川に大洪水被害甚大(岡崎市史)。衣郷を、東町、大手町、本町、西町、神明町、中町、竹尾町に分割する。 2/徳川家康(62才)、征夷大将軍となる。江戸幕府成立。 | ||
1604 | 慶長9 | 慶 長 地 震 M 7.9 |
三宅康貞、衣城主となる(衣藩)。 2/ 御油の並木に代表される松並木が東海道筋に植えられる。この年三河各地で検地が行われる。三宅康貞、武蔵瓶尻(埼玉県熊谷市)より入封、挙母1万石を領す。現在の元城町付近に陣屋を構え、これより衣藩が始まった。 12/16慶長地震M7.9。犬吠埼から九州まで太平洋沿岸を津波が襲い、各地で死・流失多数。 朱印船始まる(〜1633以降奉書船(〜1635):日本人、東南アジアへの海外渡航。 | |||
1605 | 徳川秀忠 | 慶長10 | 災害 | 7/20矢作川に大洪水被害甚大(矢作川)。7/22 矢作新川を開く工事が始まる。従来の川は「矢作古川」と称される。 家康、将軍職を秀忠に譲る。 | ||
1607 | 慶長12 | 矢 作 川 大 洪 水 |
3/松平忠吉、江戸にて病死。4/26家康第9子徳川義直、甲府より清洲へ転封され「御三家」尾張徳川家が成立。 8/15矢作川大洪水。 家康、駿府に隠居(大御所)。朝鮮使節来日、江戸に来着。以降外交始まる。 | |||
1610 | 慶長15 | 災 害 |
鳥山牛之助、三河大官となる。 1/24・5/26三河・遠江洪水(矢作川) 1/9名古屋城普請始まる(9月完成)。両国、北国の20大名が命を受ける。堀川の開削工事始まる。清洲から藩士・寺社・町人等、町ごと名古屋への移住始まる(清洲越え)。作手藩主松平忠明、伊勢亀山へ移る。作手藩廃す。 6/幕府、ロドリゴの帰途に、京都の商人田中勝介をメキシコへ派遣。スペインと通商。 | |||
1611 | 後水尾 | 慶長16 | 地 震 津 波 |
この年以前に、尾張藩、国奉行を置く。 11/明商人に長崎貿易を許す。12/2三陸沿岸・北海道東岸地震M8.1。津波により、伊達領内と南部・津軽で死者多数。北海道東部でも溺死多数。 | ||
1624 | 後水尾 | 徳川家光 | 寛永1 | 災 害 |
6/28矢作川洪水。 板倉重昌、深溝藩1.18万石を領す。 日光東照宮陽明門建立。3/スペイン船の来航禁止。12/朝鮮使、家光に謁見。 | |
1625 | 寛永2 | 災 害 |
6/26〜28洪水、加茂郡寺部21ケ村の堤防・田畑被害。(愛知県災害史) 12/尾張領内の農民の他国居住を禁止する。 5/関所駅伝の制改定。江戸寛永寺創建。 | |||
1642 | 明正 | 徳川家光 | 寛永19 | 寛 永 の 大 飢 饉 (18 〜 19) |
5/27尾張藩、欠落取締令を出す。吉田藩主水野忠清、松本7万石に転封。水野忠善、駿河田中より吉田に移り4.5万石を領す。 2/寛永の大飢饉。2年続きの不作。地域によっては3年続きの不作からおこった全国的な飢饉。死者5万人、10万人とも言われる。それ以前の幕府の過度な収奪によって農民が疲弊させられていたこと、幕府役人によって米価の高騰が画策させられていたこと(蔵奉行・代官・勘定ら多数が処罰されている)も重なって被害が大きかった。江戸や京都には乞食があふれ、小屋を建てて収容したり、同じ乞食に統制させたり、出身地を調べて返す乞食管理方法の原型がこのときに作られた。) 人身売買禁止。農民の衣食住にわたる倹約令。井原西鶴生まれる。 | |
1645 | 後光明 | 正保2 | 東宮口(坂上町)の馬祭りこの年より始まる。洪水、梅坪村で破堤(挙母記)。 2/11尾張藩領内の石高が過去10年間の平均年貢の10分の4に改める(概高の制「四つならし」)。 岡崎藩主本多利長、遠江横須賀5万石に転封。水野忠善、吉田より岡崎に移り5万石を領す。小笠原忠知(豊後杵築4万)→吉田4.5万石。新城藩主、水野文長→上野安中2万石(新城藩廃す) | |||
1646 | 正保3 | 佐屋川を開削する。 滝山寺東照宮正遷宮。8/5碧海郡上青野村西の堤防が2〜30決壊。寺院・民家約20戸流失(六美村史)。 | ||||
1652 | 後光明 | 徳川家綱 | 承応1 | 一揆 | 2/熱田船番所を設置。この年、尾張藩家老竹腰正信、自分金で知行地の中に新田を開発。尾張で初の俳諧撰集「尾張発句集」刊行。3/佐渡一揆。5/若狭で年貢増徴反対一揆。佐倉騒動。 若衆歌舞伎を禁止。 | |
1653 | 承応2 | 災害 | 8/3矢作川大洪水。(岡崎市史) 9/尾張藩、百姓婦女子の他所奉公を統制する。 知立祭り、この頃から始まる。東海道の宿場町であった知立神社は、三河国の二宮。隔年に出される山車。文楽とからくり人形。 多摩川から玉川上水を引く。 近松門左衛門生まれる。 | |||
1655 | 後西 | 明暦1 | 災害 | 8/10洪水で堤防決壊し、衣城下浸水(城沿革小史続編)。 鈴木正三没。享年77歳。 | ||
1656 | 明暦2 | 災害 | 7/矢作川大洪水(岡崎市史)。この年、寺部八幡宮、時の社主寛国は、領主渡辺治綱と計り寺部村岩前山に遷宮。(1133年、平安時代荘園高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村(上野町1丁目)の館内に石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりで、この年、子孫の高橋氏が再勧請造営。) | |||
1657 | 明暦3 | 災害 | 江戸大火(死者10万人)江戸市街の55%が焼失。江戸城天守閣も延焼する。(明暦の大火<振り袖火事>)。徳川光圀「大日本史」成る。 | |||
1660 | 万治3 | 災害 | 1/14名古屋城下大火災。死者16名、焼失家屋2,856戸。矢作川大洪水(岡崎市史)。 | |||
1662 | 寛文2 | 地震 | 諸国大地震(M7.2)・被害甚大 | |||
1671 | 霊 元 |
徳 川 家 綱 |
寛文11 | 災害 | 8/東海道諸国大洪水(岡崎市史)。この頃、尾張藩領「寛文村々覚書」がつくられる。この年尾張の人口は375,918人(士は除く)。河村瑞賢、東回り航路を開く。 | |
1676 | 延宝4 | 災害 | 7/関東中の鉄砲改め(百姓等の所持禁止)7/東海道諸国大洪水。尾張国特に大水害。(日本史年表) | |||
1677 | 延宝5 | 越訴 | 5/碧海郡大浜茶屋村庄屋柴田助太夫、助郷役の免除を願い出て、刑死したといわれる。この頃設楽郡部武設村ほか50数カ所の百姓が越訴(おっそ)する。 | |||
1678 | 延宝6 | 災害 | 6/坂上町地蔵堂の六所神社外宮に石灯籠一対『奉寄進』 江戸大地震・諸国大風雨・被害甚大。坂田藤十郎、大阪で和事(歌舞伎)を演じる。 | |||
1679 | 延宝7 | この年、尾張の鳥ケ地前新田完成。 下野鳥山5万石、幕府領となる。 10/越後(高田藩)騒動起こる。 | ||||
1680 | 徳 川 綱 吉 |
延宝8 | 災害 | 8/6・10/矢作川洪水。 赤坂宿、この年飯盛り女を抱える旅籠が、62軒あったと言われる。赤坂宿から2里9町、岡崎宿から1里25町の藤川宿は、この年に東海道宿駅に指定される。江戸時代ここにも、飯盛り女がおよそ300人居て、岡崎から男どもが歩いて遊びに行く。「御油や赤坂・吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と、俗謡に歌われた。 5/将軍家綱、の後継者に徳川綱吉を決定。五畿内・関東大飢餓。シャム船、長崎に来航。 | ||
1681 | 天和1 | 一揆 | 4/渥美郡中山に凶作不漁で一揆。本多忠利(陸奥石川郡=福島県石川郡石川町=1万)→挙母1万石。再び衣藩ができる。本多氏は「衣」を「挙母」と表記することに定め、幕府領時代に埋め立てられた三宅氏時代の堀をさらえ、陣屋を建てる。 この年、三河島原村(新城市)の庄屋菅谷太次兵衛、伊藤仁齊に入門。 江戸大火。芭蕉、新風の俳諧始める。 鉄眼(1630〜1682)「一切経」の刊行を完成。 | |||
1682 | 天和2 | 災害 | 挙母・梅坪・寺部の矢作川堤論争に、幕府裁決する。 江戸大火(八百屋お七の火事) 西鶴の好色一代男なる。 | |||
1686 | 貞享3 | 災害 | 西鶴「好色五人女」。:岩手山2/29〜3/半ばにかけて有史以来の大噴火。大火砕流は山麓から北上川にまで及んだ。 | |||
1690 | 東山 | 元禄3 | 山陰一揆 | 8/10暴風雨、洪水碧海郡領村は矢作川出水のために田畑被害。(愛知県災害史) 山陰一揆。日向延岡藩山陰村の百姓、凶作にもかかわらず過酷な年貢徴収に反対して郡代梶田氏のもとを離れ、高鍋藩へ逃散。1400人には女性や子供も含まれ、馬もつれて村と家を揚げての逃散であった。周辺諸藩を緊張させた。幕府の評定所に裁決が持ち込まれたが、百姓側の敗訴、4名磔、2名獄門。郡代の代官は追放。藩主有馬永純も越後糸魚川に移封。ドイツ人ケンプェル、出島、商館医員として来る。 | ||
1701 | 元禄14 | 水害 | 2/ 幕府の命により「三河国郷帳」つくられる。三河国高38万3千石。3/赤穂城主、吉良義央を江戸城中できる。 8/18岡崎大風洪水、堤を決すること500間田を損すること23,000石。家50戸、破壊22戸(矢作川)。 江戸古着屋・質屋に組合を作らせ惣代を置かせる。京都大洪水。 | |||
1702 | 元禄15 | 水害 | 6/大滝町上河原25-2神明社に、石灯籠『奉造建 三п鮪R村妙昌現住梅』 7/13岡崎大風洪水、堤を決すること660間、田を損すること93,000石(矢作川)。 12/赤穂浪士の仇討ち。大石吉雄ら吉良亭を襲撃。岡崎人胡叟編「かぶと集」、京都で出版さる。 12/タバコ本田畑の栽培許可。伊保城主本多忠晴、寺社奉行となり赤穂浪士の裁決する。 | |||
1703 | 元禄16 | 天禄地震 | 天禄地震(江戸・関東諸国)M7.9~8.2。12/31関東大地震・津波。相模・武蔵・上総・安房で地震大きく、小田原で家屋倒壊8000以上、死者2300以上。津波が犬吠埼から下田の沿岸を襲い死者数千。家屋流失多数。 江戸大火。大石吉雄ら46人に切腹を命じる。近松門左衛門、「曽根崎心中」。 | |||
1704 | 東山・中御門 | 宝永1 | 地 震 、 洪 水 |
6/豊松町宮前の神明社に石灯籠。 田原城下、百姓357軒。 岡崎大風洪水。家50戸、破壊22戸(矢作川)。 浅間山噴火(1〜3月)、出羽地震(1〜7月)諸国洪水。市川団十郎没 | ||
1705 | 宝永2 | 水害 | 豊松町神明下の神明社北に、地蔵菩薩(舟型立像)=二口集会所にある。 6/28岡崎大風洪水、堤を決すること1000余間、田を損すること32,540石。家270戸破壊、92戸流失、溺死13人(矢作川)。 大和川沿岸の開墾を計画。京畿諸国より伊勢お陰参り日々数万 | |||
1707 | 宝永4 | 地震M8.4 | 10/4地震により海岸部津波(紀伊半島から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海沿岸を襲う=家屋流失2万以上、家屋倒壊6万以上)。熱田常夜灯倒壊。6/林花翁著「三河雀」刊行さる。三河を冠する最初の三河誌。著者は、東海道御油宿に土着する郷土の林五郎太夫で俳諧と剣法を行い、剣法門人500人を擁した。 南海・東海大地震(M8.4)、大阪1万戸(3千人)。12/16富士山噴火。宝永山できる。飢饉発生。物資買い占め禁止。 | |||
1708 | 宝永5 | 水害 | 田原城下、百姓401軒。 前年の宝永地震余震。京都大火(13,370戸3千人)京畿風雨洪水麻疹 大阪大火(7400戸) | |||
1711 | 中 御 門 |
正徳1 | 水害 | 3/九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔(角柱)『礼西国三十三所観世音菩薩』。6/24九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門右に地蔵菩薩(舟型立像)。 6/与茂七騒動。8/9尾三地方大洪水(岡崎市史)。8/23岡崎大風雨田畑を害すること6,000石。家400戸破る(矢作川)。11/万石騒動(安房北条藩新役人川井藤左衛門の過酷な検見による年貢増徴策に反対。百姓は国元で訴願したが認められず600余人で江戸藩邸へ門訴。井川は一揆を弾圧し名主6人を入牢。百姓は再度江戸の老中へ駕籠訴を繰り返すが藩は6人の内3人を死罪にする。死罪を知った幕府は百姓の要求を認め、川井を打ち首、藩主屋代忠位ただたかの領地没収。)。 江戸大火。九州・東海道洪水・大風雨。辻で売女取り締まり。近松門左衛門「冥土の飛脚」 朝鮮使節への待遇簡素化。 | ||
1712 | 正徳2 | 長 雨 ・ 洪 水 |
松平信祝、吉田に移り7万国を領す。本多忠良、刈谷より下総古河に転封。三浦明敏、刈谷に移り2.3万石を領す。幕府各所に経費節約を命ずる。7/勘定吟味役再置。 .8/18尾三地方大洪水(岡崎市史)。諸国長雨・洪水(7〜9) | |||
1713 | 家継 | 正徳3 | 火事 | 鹿児島大火(1872戸)、京都大火(1750戸)。貝原益軒「養生訓」。 | ||
1714 | 正徳4 | 諸 国飢饉 |
7/岡崎、風雨により河決壊(矢作川)。8/8尾三地方大洪水(岡崎市史)。 3/絵島事件(7代将軍家継の生母月光院に仕えた大奥女中の絵島(1681〜1741)が歌舞伎役者らとの遊興を咎められて、処罰される。当時、大奥の風紀の乱れを綱紀粛正するという目的と共に、月光院の勢力を削ぐという政治的意図もある。)。5/金銀改鋳。貝原益軒没(85)新井白石、貨幣を改鋳(正徳金銀)。 近松門左衛門「国姓爺合戦」の初演。 | |||
1716 | 吉宗 | 享保1 | 火事 | 巴川の舟運はこの頃から盛んになる。(1716〜35) 享保の改革(第一段階=通貨統一・貿易制限・日本国総図作成・全国の田畑町歩改:耕作面積を命じる。)おこる。江戸しばしば大火。大阪大火(郭3635軒焼失) 霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。 | ||
1717 | 享保2 | 災害 | 2/大岡忠相(ただすけ)江戸町奉行とする。 9/27岡崎藩主水野忠之、老中となり、享保の改革に参与する。後、1万石加増される。興福寺焼失。 享保の改革(第一段階=貿易制限・日本国総図作成を命じる。)江戸大火・大雪。大名火消し制度。武家諸法度改める。 | |||
1718 | 享保3 | 火事 | 8/坂上町朝日山の六所神社上宮に石灯籠一対『六所大明神御寶前。松平縫殿助源乗 奉寄進石灯籠』。矢作川番所、広瀬より細川に移る。三河・伊那地震(M7.0)。 享保の改革(第一段階=通貨統一を命じる。)高松城下大火。 | |||
1719 | 享保4 | 江戸に火除地を設ける。10/吉宗、朝鮮使引見、待遇を復旧する。11/相対済まし令。 岩手山中腹が最後の大爆発。溶岩流は特別天然記念物に指定される。 | ||||
1720 | 享保5 | 火事 | 享保の改革(第一段階=国役普請令を命じる。)江戸に大火。8/江戸町火消しいろは47組設置。12/浦賀奉行設置、キリスト教以外の洋書輸入解禁。 | |||
1721 | 享保6 | 大 風 雨 洪 水 |
享保の改革(第一段階=団畑町歩改・戸籍調査を命じる。)江戸に大火。1〜3月に6度(14.3万戸)。8/小石川薬園設立。諸商人・職人に組合を結成させる。12月江戸大火。大風雨諸国洪水. |
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1722 | 享保7 | 開 墾 |
享保の改革(第一段階=新田開発令により、山林原野などの未開発地の新田開発は幕府領となる原則を明示。第二段階:財政再建策:年貢増徴策、倹約令上米制)7/上米の制。参勤交代制緩和。12/小石川養生所設置。出版統制(著作者を明記)。 | |||
1724 | 享保9 | 火事 | 6/諸大名に倹約令を出す。札差し組合を公認。総数109。大阪大火。大阪に壊徳堂設立。近松門左衛門没。 | |||
1725 | 享保10 | 火事 | 11/新城の商人太田白雪「三河名跡志」を著す。江戸大火。新井白石没。 | |||
1726 | 享保11 | 一揆 | 浅井東軒、藩医となる。岡崎竜海院領農民、貢租半免を求めて一揆。越前荒島嶽噴火。 | |||
1728 | 享保13 | 関東水害、一揆 | 3/久留米藩の農民一揆。(7月も)。荷車で童を轢き殺した車夫死刑。 | |||
1729 | 享保14 | 地 震 |
8/矢作川大洪水起こる(西加茂郡誌)。 松平信祝、遠江浜松に移封。松平資訓、浜松より吉田に移り7万石を領す。 入荷地方別に米問屋組合結成。12/相対済まし令廃止。伊豆地震余震20日間 | |||
1730 | 享保15 | 火事 | 4/上米の制停止。参勤交代制を元に戻す。7/江戸に米会所設立許可。京都大火(130人死者)。麻疹流行。感冒流行。 5/7本居宣長松坂本町に生まれる。 | |||
1731 | 享保16 | 地震水害 | 近江八万・刈谷地震。3/尾張藩主徳川宗春、「温知政要」を著す。8/12梅坪村講談所の横堤切れ、挙母城下浸水(洞泉寺記録)。 9/宗春、常設芝居小屋と遊廊の設置を許可する。(西小路・葛原・富士見原の三廓できる。) 江戸大火。米価下落。 | |||
1732 | 享保17 | 享 保 の 大 飢 饉 |
この年、渥美郡上野田村で質地請け戻しについて村内が紛議する。享保の大飢饉。西日本ウンカ大発生飢餓民2,646,020人。餓死者1.2172万人。 | |||
1733 | 享保18 | 害虫 | 江戸市民に米5万俵、その他イナゴ被害地に男2・女1合の米払下げ。 米価高騰、江戸に打ち壊し | |||
1734 | 享保19 | 火事 | 前年度より飢餓民救済者に報償/小田原城下・対馬城下火災。 | |||
1735 | 享保20 | 地震 | 米価下落により最低価格決める。(江戸1両1石4斗) 4/25刈谷藩が領内の総検見を命ずる。この年までに加茂郡大林村・碧海郡尾崎村などで 貢租減免運動おこる。日光・守山に地震。 | |||
1736 | 桜町 | 元文1 | 災害 | 8/17三州岡崎大雨につき、矢作常水に9尺4寸増水し、田畑21,287石、堤決壊242間、被害多し(矢作川)。10/宮口村、年貢免除の嘆願書。 享保の改革(第三段階=種々の国家制度の充実。制度や儀礼の重視などで安定した幕府体勢の形成。)5/金銀改鋳。米価最低価格引き上げ(昨年より3度目)。米の安売り厳禁。 |
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『宵越しの金はもたねぇ!』と、啖呵を切るほど「江戸」は火事が多かった。いつ燃えてしまうか分からなかったのだ。 そこで、くわえタバコは禁止されたりした。それでも火事はおさまらない。 ついには、屋根を瓦に葺き替えようと、お達しがあった。 |
1737 | 桜 町 |
元文2 | 5月江戸大火 | ||
1738 | 元文3 | 一揆 | 江戸市内宅地でのたばこ禁止。5/磐城平元文一揆。7/尾張藩内の市に市日をたてる。8/関東新田の開墾を勧める。 10/1刈谷藩領の農民、新しい方法による検見に反抗して一揆を起こす。検見中止。藩役人3人処分。 | ||
1740 | 元文5 | 洪水、挙母村破堤(郡誌)。 8/佐野知堯(ともたか:宝飯郡下長山村(豊川市)徳宝院住職であったが、還俗して寺子屋師匠として一生を送る。:三河地域の指導者の、菅沼家の代官・庄屋・御用達の太田白雪に師事。三河各地域の文化的交流の成立基盤となった。)により「三河国二葉松」が著わされる。 | |||
1741 | 寛保1 | 2/松平町稲場下の稲荷社に石灯籠『奉献 稲荷大明神御寶前』 4/17松平町生ケ塚の松平太郎左右衛門家墓所に石灯籠『奉建石灯籠太郎左右衛門 9代信和以降の墓所』 1/2名古屋大火。日置橋から7Km消失。噴火により人家漂没。魚鳥・蔬菜の売り出し時期を限定する。 松前方面に大島噴出。 本居宣長、伊勢の紙商今井田家と離縁。 | |||
1742 | 寛保2 | 洪水 | 2/吉木山東宮口六所神社(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)、奥の院改築。 寛保の大洪水:大阪周辺に上陸し中部・関東を経て東北地方に出、三陸沖に抜けた台風。京畿その他洪水死者多し。江戸洪水。隅田川などが溢れ各所で浸水。3,900人が溺死。また、信濃では千曲川が溢れ流域住民が大被害。特に小諸町では、武家、町方合わせて500人が流死した。東国大風水害諸城大破。京都積雪1.8〜1.9尺。4/公事方御定書成る。 | ||
1746 | 寛保3 | 火事 | 2月江戸大火。 | ||
1747 | 寛保4 | 疫病 | 西尾藩主土井利信、三河刈谷に転封2.3万石(土井氏刈谷に定着)。刈谷藩主三浦義理、西尾に移り2.3万石を領す。 江戸城二の丸全焼。京都風邪・咳病流行〔軽症〕。 | ||
1748 | 桃 園 |
寛延1 | 水害 | 9/17夜、満水。能見村27間きれる(矢作川)。 2/10名古屋に蟹養斉を中心とした官許立の巾下学問所を創設(明倫堂のはじまり)。大岡忠相、西大平藩1万石を領す。 本居宣長、伊勢の紙商今井田家の養子となる。 江戸で女の羽織禁止。竹田出雲等「仮名出本忠臣蔵」。 | |
1749 | 寛延2 | 水害 | 本多忠央、相良へ転封。内藤政苗が挙母藩主となる。 1/長崎の中国船貿易増額。2/吉田藩主松平資訓、遠江浜松に転封。松平信復、浜松より吉田に移り7万石を領す(松平氏、吉田に定着。)挙母藩主本多忠英、遠江相良に転封。内藤雅苗、上野安中より挙母に移り2万石を領す(内藤氏、挙母に定着)。 陸奥・出羽等の一揆続発(武士の窮乏・百姓の一揆)。播磨大水、江戸府内洪水、 | ||
1750 | 寛延3 | 一揆水害 強訴 |
松平橋北川の旧足助街道の路傍に、一字一石経塔。「天下泰平国土安全 大乗妙典石書日本廻国供養塔 願主岩倉村宇野市兵衛親常」。塔の周りには一字一石経の千五百・六百個の小石が埋葬されていた。内藤政苗、本多氏陣屋跡に挙母城(桜城)を築く。 1/農民の強訴・徒党・逃散の厳禁。内ノ子騒動・7/米騒動。京都大雷。姫路水害。関東雹下野・陸奥では人馬死。 |
1751 | 桃園・後桜町 | 宝暦1 | 地震 | 2/坂上町朝日山の六所神社上宮に石灯籠一対『奉建御寶前 願主織源親房』 11/岡崎藩主水野忠辰、藩政改革に反対され、老臣牛尾四郎左衛門らに幽閉され、隠居させられる。善光寺本坊全焼。8/田村騒動。 本居宣長、義兄宗五郎没したため家督相続。京都大地震。越後高田大地震。 | |
1752 | 宝暦2 | 一揆 | この年、加茂郡飯野・舞木・四郷村などで年貢減免の越訴行われる。飯野八兵衛一揆の供養塔:四郷町山畠・雲龍寺:12/3挙母上築城中に、領内の飯野村八兵衛他3名、四郷村磯右衛門はじめ6名、舞木村の林蔵等4名および迫村新七の計15名を総代として、江戸藩邸に強訴。24箇条の訴状を1241人の百姓が竹槍ムシロ旗で挙母城下を通り岡崎城に向かった後、首謀者八兵衛、舞木村清兵衛ら計6名が斬首。処刑後各所に出火があり、同6,7年に洪水。八兵衛の祟りとの風聞が流れた。後に八兵衛は義民として世人から称えられた。 2/松平君山等藩撰「帳州府志」を完成さす。7/吉田藩校時習館が創設される。 本居宣長、医学修行のため上京。始めに儒学を学ぶ。このとき本居に改める。江戸に追い剥ぎ俳諧。 | ||
1753 | 宝暦3 | 宝暦強訴 | 4/28大洪水(洞泉寺文書)。5/矢作川大洪水(同)。8/17洪水破堤、民家流失、救助米下す(藩史)。 4〜6月麻疹流行。米価下落により旗本・ご家人に金を貸す。4/諸大名に備荒米の貯蔵を命じる。新田開発の地代金制度復活する。9/芝村騒動。 本居宣長、堀元厚に医書を学ぶ。 | ||
1754 | 宝暦4 | 水害一揆 | 7/17大風、矢作川満水。田畑浸水(藩史)。9/大滝町覚庵16妙昌寺に、石灯籠『寄進石灯籠壱基』。 薩摩藩、木曽三川の改修工事を行う。(宝暦治水)。醸酒の制限緩和。3/越後・久留米に17万人の一揆 本居宣長、武川幸順に小児学を学ぶ。貞享暦を廃し、宝暦暦を用いる | ||
1755 | 宝暦5 | 奥羽凶作 | 5/尾張藩地方目付役児島徳貫「地方品目解」完成。 6月越後球磨川洪水。 奥羽を中心に凶作・大飢餓(〜56)。10〜12月出羽その他に一揆。 | ||
1756 | 宝暦6 | 水害 | 6/米価高騰につき、米商の買い占めなど禁止。(11月解除)10/1挙母城下大洪水(藩史)。近畿東海洪水。庄内領内、熊本凶作。 本居宣長、有賀長川に和歌を学ぶ。 |
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1757 | 宝暦7 | 洪水 | 11/滝脇町藤治洞の専光寺に手洗石(角型)『水鉢。太租聖人五百回御忌法要造之』。 5/1庄内川・佐屋川・矢作川・豊川決壊(宝暦の洪水)。5/3洪水、城中浸水。流家54戸、炊き出し米受け者270余人(藩史)。5/4浸水丈余。流可4戸(藩史)。6/15矢作川中島が決壊(上郷史)。6/19大雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。三河大樹寺に修理料。美濃・郡上に一揆。7/26 熱田で藩船蔵火災、藩船6隻焼失。11/8田原藩、領内の割替地の慣行を禁止する。 本居宣長、松坂に帰り医者を開業。夏東国に水害。 | ||
1758 | 宝暦8 | 水害 | 4/13九久平町鵜ヶ瀬荒井の松生島弁財天北東に地蔵菩薩(舟型立像)。 5/25矢作川大洪水、国江村流失し村民高台に移る(上郷町史)。美濃・郡上に一揆再発。6月関東・東海道他に河川工事完了。 7/宝暦事件。(竹内式部とらまる。1759追放)長州藩、財政改革。ー肥後熊本藩、松代藩などで、藩政改革実施。 良寛生まれる。本居宣長、嶺松院歌会に加入し「源氏物語」の講釈を始める。 | ||
1759 | 宝暦9 | 火災 | 4月金沢城下に発火、城を全焼。平賀源内、電気を研究 | ||
1760 | 宝暦10 | 火災 | 2/江戸連日火災。4/宝暦事件に関与した公家等7人に落飾を命じる。 賀茂真淵「万葉考」。会津藩、塩専売始める。 | ||
1761 | 宝暦11 | 水害一揆 | 8/洪水、挙母村破堤(郡誌)。美濃・飯田に一揆。12/米価下落につき万石以下の知行米を買い入れる。阿波藩、藩政改革。 | ||
1763 | 宝暦13 | 4/挙母城主内藤政苗、水難を避け樹木台に居館を建てる(内藤家文書)。 治本居宣長、5/25伊勢松坂で加茂の真淵と会い、12/入門を許される。9月大風。 | |||
1764 | 明和1 | 京都雪(1717年以来平地1.4尺) | 矢作川による水害が頻発するため樹木台に御殿を建てる。 12/明和伝馬騒動。三州馬稼ぎと信州馬稼ぎとの争いを幕府が裁許する。 西尾藩主三浦明次、美作勝山に転封。松平乗佑、出羽山形より西尾に移り6万石を領す。(松平氏西尾に定着)。田原藩主戸田忠昌、肥後富岡に転封。三宅康勝、挙母より田原に移り1.2万石を領す。 伊勢山田大火。平賀源内、火浣布(石綿)発明。2/朝鮮通信使、将軍に謁見。3/俵物の生産を奨励。 本居宣長、古事記の研究に着手。 |
1765 | 後 桜 町 ・ 後 桃 園 |
明和2 | 洪水。大暴風 | 4/15大雨、矢作川洪水、破堤、城内町共に浸水潰家数軒(藩史)。4/16挙母堤決壊し、挙母城下に浸水。(陽竜寺過去帳)。4/20大雨、上里村堤破壊。(伊賀八幡宮記録)。6/44月の洪水で、町家130軒が樹木台・児子口へ引っ越し(藩史)。7/5洪水・破堤、城内浸水8日余り(藩史)。8/2矢作川大洪水、挙母城下に流水(陽竜寺過去帳)。8/3三州挙母大風雨、矢作川洪水・1丈3尺8寸余、破堤・城内床上に浸水(藩史)。8/8洪水・挙母村破堤(郡史)。11/17洪水による損耗高5,110石余、御用番に届け出(藩史)。 1098年以来初めて。大津山崩れ。上野・武蔵・信濃3国伝馬騒動(20万人参加)。伊藤屋(今の松坂屋)刈谷城下の商売を許可される。 鈴木春信、錦絵を創始。 近畿大雨洪水。奈良大暴風。 | ||||||||
1766 | 明和3 | 地震 | 6/18矢作川大洪水(岡崎市史)。 7/13矢作川大洪水。渡刈村破堤し6戸流出(上郷町史)。7/10猿投神社観音堂(猿投町大城)に経塚「発起人覚性院峻照、願主酒井儀兵衛氏芳」小石に墨書きされた法華経の一字一石は、甕に納められて保管されている。 弘前凶作。尾張凶作。水戸凶作。弘前大地震(1〜2月)。 チャールス・ダーウインの父(ロバート・ダーウイン1766〜1848)生まれる。 | |||||||||
1767 | 明和4 | 洪水 | 7/11矢作川大洪水、岩滝村の鞍が池堤切れ、市木・寺部・平井の村落を押し流す(平井本郷教会文書)。7/12洪水・破堤。猿投山3・4カ所崩壊。籠川満水で城内浸水。大手門前水嵩1丈9尺3寸・城中床上5尺7寸に及び、城内・村共に流家多数。流死12人(藩史)。7/27洪水挙母村破堤(郡史)。7/庄内川・矢田川・天白川氾濫、死者2,154人(明和の洪水)。8/大雨降り続き矢作川洪水、渡刈堤防決壊。村人水難を避けて高台に移住(上郷町史)。田畑水腐、御用番に届け出(藩史)。 旧碧海郡鴛鴨村の集落は、標高の高い碧海台地に移転。 鳥取凶作。江戸大火。 | |||||||||
1768 | 明和5 | 水害 | 豊松町寺下の公民館に石灯籠。1/水難見舞いとして500両、挙母藩主内藤学文に寄せられる。(内藤家文書) 2/28 大雨矢作川洪水。破堤・田畑浸水(藩史)。 4/14〜20大雨矢作川洪水。堤防破損。城内まで浸水(藩史)。 4/26〜29大雨洪水で浸水、御用番へ届け出(藩史)。5/4〜6洪水、挙母村破堤(郡史)。 5/滝脇町西洞36の春日神社本殿前に石灯籠一対。『奉納 御寶前』。7/滝脇町西洞31の長松院に石灯籠一対。『永代燈明』。 12/大内町長坂80の神明社に念仏塔(自然石)。 江戸城竹橋門に落雷。水野忠友、旗本より大浜藩1.3万石を領す。 越前・福井に大一揆。伊勢亀山に一揆。上田秋成の雨月物語なる。幕府、全国の人口調査。 臨済宗中興、白隠寂。 | |||||||||
1769 | 明和6 | 水害 | 6/8洪水・破堤(藩史)6/26洪水・破堤(藩史) 6/28洪水・破堤(藩史) 7/27洪水・破堤(藩史) 8/19矢作川満水樹木御殿に立ち退き(藩史) 8/21減水・帰城。(藩史)岡崎藩主松平康福、石見浜田に転封。本多忠粛、石見浜田より岡崎に移り5万石を領す(本多氏岡崎に定着)。京畿諸国疫病流行(1〜3月)。江戸大風・感冒流行。 賀茂真淵(1697〜1769)没。 | |||||||||
1770 | 明和7 | 諸国災旱 | この頃、尾西地方に縞木綿の製織技法伝わる。 諸国凶作。諸国災旱、琵琶湖水減少1丈(3.3m)。 | |||||||||
1771 | 明和8 | 旱魃。洪水。 | 2/18九久平粟の谷下の水道中継所北東に如意輪観音(舟型座像)。 4/吉田の町人林正森ら、三河一国の地誌「三河刪補松」を著す。6/26矢作川洪水(岡崎市史)。7/9矢作川洪水。水量9尺余。樹木御殿に立ち退き(藩史)。7/22矢作川洪水。樹木御殿に立ち退き(藩史)。 尾張藩士土岐市左衛門知行地数10カ所が、減免を要求して名古屋城下へ強訴する。名古屋の大野惣八、貸本屋を開く。伊勢お陰参り流行。この年前後、渥美郡高師村で貢租減免運動。大原騒動(飛騨高山領代官大原彦四郎・亀五郎父子の増徴政策に反対し一揆:)。 2〜8月旱魃。関西諸国洪水。4/24八重山・宮古両群島地震M7.4。 京都積雪平地1尺。 越前・唐津、越前、水戸、飛騨に一揆。 霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。 | |||||||||
1772 | 後 桃園・光格 |
安永1 | 九州に津波 | 8/21大風雨、漬家15軒。(藩史)。 江戸火災(目黒行人坂火事)。大阪天満青物市場問屋・仲買株を公認。2/目黒行人坂火事、諸国凶作。 佐藤一斎〈佐久間象山の師〉生まれる。〜1859没。江戸後期の儒学者。美濃岩村藩(現在の岐阜県恵那郡岩村町)の出身で家老の子、江戸幕府の「昌平坂学問所」の儒官を努めた人物。門下生に渡辺崋山、佐久間象山、大塩平八郎など。幕末回天の事業に大きな影響を与えた。(吉田松陰は一斎の孫弟子)名は坦。別号、愛日楼。中井竹山に学び、朱子学 を主とし、陽明学に傾く。林家の塾長、昌平黌シヨウヘイコウの教授となる。経書に訓点を施し、世に1斎点という。著「古本大学旁釈補」「言志四録」「愛日楼文詩」など。 | ||||||||
1773 | 安永2 | 冷気続く。伊勢大風 | 4月冷気続く。6/19大雨、矢作川洪水。(水量1丈3尺)、破堤城内浸水届け出(藩史)(郡史)。6月伊勢大風。7/11矢作川洪水(岡崎市史)。 8/17矢作川通り堤防に横堤を築き竹を植え水勢を弱める。(藩史)。 大原騒動(飛騨高山領領代官大原彦四郎・亀五郎父子の増徴政策に反対し一揆)。秋田凶作。 | |||||||||
1774 | 安永3 | 大風雨 | 8/23矢作川洪水。(藩史)9/1大雨、矢作川洪水。(岡崎市史)。火事見物・見舞いを制する。 京都・大阪1780年以来の大風雨。8/前野良沢・杉田玄白「解体新書」刊。 良寛(1758〜1831)出家する。 | |||||||||
1775 | 安永4 | 洪水 | 6/7大風雨、矢作川洪水。(岡崎市史)8/20大雨、矢作川洪水。(岡崎市史) 4/吉田の町人林正森等、三河一国の地誌「三河刪補松」を著す。この年、尾張藩士土岐市左右門知行の地数10カ村が、減免を要求して名古屋城下へ強訴をする。尾張藩地方目付役児島徳貫「御国法検地古伝」を著す。 宇治川洪水。鴨川洪水。 | |||||||||
1777 | 安永6 | 水害 | 6/矢作川洪水(上郷町史)。 尾張水害。 大浜藩水野忠友、沼津2万石に転封。以後、沼津藩飛地。 長崎大風・津波。大阪大火。新濃貢納延期の一揆。5/農民の江戸出稼ぎ制限。平賀源内、エレキテル完成。 | |||||||||
1778 | 安永7 | 噴火。雷雨。 | 岡崎城火災。京都山崩れで600人死。6/ロシア船、蝦夷地に来航。松前藩に通商を求める。長崎貿易輸出不振につき俵物の生産を奨励。三原山噴火。京都大雷雨。山崩れ。 | |||||||||
1779 | 安永8 | 東国風水害。 | 6/吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)東宮口六所神社、奥の院改築。7/23大風雨、破堤(藩史)。8/川端決壊(上郷町史)。8/25村々大雨、矢作川満水。破堤。田畑水腐(藩史)。11/3度々の出水で破堤。田畑損耗。城内浸水。樹木台へ引っ越し。御用番へ堤修繕費等願書進達。(藩史)。 7/碧海郡高棚村 ほか3カ村で助郷反対運動。10/17旗本領碧海郡安城村庄屋中川覚左衛門、救民を願い出て自害する。8月江戸出水。10月桜島噴火・三原山噴火。12/松前藩、ロシア船の通商要求を拒否。 | |||||||||
1780 | 天明1 | 6月関東洪水 | 6/大水害(平井本郷教会蔵「平井村阿弥陀堂之伝」)。 8/大阪に鉄座、京・大坂に真鍮座。 | |||||||||
1781 | 光格 | 天明2 | 天明飢饉(〜89)。 | 12/石楠町上藪39の津島神社に石灯籠一対。『奉○ 御寶前』。 5/天明改革。国奉行所の機構を改革し、代官の管地駐在により支配強化をする。この年以降、刈谷藩の10カ年賦返済御用金上納の返済要求運動おこる。上野で高崎譲を襲う一揆。カント、「純粋理性批判」。 | ||||||||
1782 | 天明3 | 春〜夏諸国長雨洪水。 小田原地震。 |
1/細川平洲、の巡回講演会を尾張各地で開く。6/23矢作川洪水(水量1丈2尺)、田畑に砂が入る(藩史)。8/21矢作川洪水(水量1丈余)破堤漬家在り(藩史)。 この年、設楽郡鳳来寺山領19カ村の農民が悪政に反対して一揆。碧海郡八橋村で庄屋排斥運動おこる。 紀伊連年不作。漁業不振。小田原80年来の大地震。7/幕府、印旛沼、手賀沼干拓に着手。各地で打ち壊し。天明の大飢饉(〜87)流民化の始まり。弘前町では、「8月18日 :(略)衣服道具味噌等迄安々に売払い雑具牛馬を捨て我も我もと秋田路へ行くこと引きも切られず、皆々幼少の子を負い或いは妊婦は腹をかかえて行き、盲人の手を引くものもあり、十八日より23日迄行く事付限昼夜、暮れに及ば神社に篝かがり火を焚き・・・略 ・・ 老いたるは子に捨てられ明き屋に泣き倒れ、幼は・・、目も当てられぬ事共也。」『平山日記』。乞食手の者は日々城下を巡回し、発見した倒死者は直ちに片付けるよう命じられていた。 藩は、「非人小屋」「施行小屋」を設置。ここには何とか生き延びようとする飢人達が集まり、ここで飢えと寒さと疫病などで死亡するものも多かった。天明の大飢饉(〜87)。 | |||||||||
1783 | 天明4 | 浅間山噴火 | 11/15坂上町丸塚60-1の観音堂に念仏塔(兜巾)。矢作川洪水(倉地米吉集記)。 2/菅江真澄(渥美郡牟呂村生まれ。民俗学の先駆。加茂真淵門の植田義方に学び、名古屋の丹羽嘉言に漢学を学ぶ。)、三河から東北へ向かう。 5/1尾張藩校明倫堂を開講。綱紀の刷新、士風の振興を目指す。総裁に細川平洲が任ぜられる。この年、蘭方医野村立栄、名古屋で開業。宝飯郡八幡村(豊川市)の伝吉は、三河は江戸・大坂から隔たっているので穀物相場が変動し難儀であるので、値段を決めるようにしたいと幕府に出願。幕府勘定所から問い合わせがあったが、田原藩・吉田藩と連絡を取り、結局は「迷惑である」と、商売を考える商人の案を差し戻した。 未曾有の凶作、弘前凶作。奥羽死者数数十万人。諸国に大飢饉(天明の大飢饉:明治維新以前の最大級の大量死。各地で一揆・打ち壊しを起こしたが、飢餓が本格化すると流民化し、食料を求めて城下町や他国・他領、更には江戸に流れ込んだ。)。大阪で打ち壊し。 浅間山噴火死者2万。江戸でも火山灰3p積もる。火砕流によって麓の村はすべて地中に埋もれた。 | |||||||||
1784 | 天明5 | 一揆 | 坂上町丸塚60-1の観音堂に、名号石。 10/日光川の開削工事がはじまる。 会津凶作。秋田飢餓民離散。疫病流行。秋より死者多し。出雲・上野に一揆。筑前で、漢委奴國王金印、発見 | |||||||||
1785 | 天明6 | 大水 | 6/17洪水、挙母村破堤(郡史)。 鞍が池の堤防が崩れ岩滝村、市木村の民家流失(挙母市史資料)。 内藤学文、樹木台に新城、挙母城(七州城)を築く。 11/河村秀根「書紀集解」を刊行。 12/ 新川開削工事がはじまる。 2/蝦夷地調査。 12/大阪町人らに御用金を課す。 江戸大火、7月江戸開幕以来の大水。琉球凶作。 | |||||||||
1786 | 天明7 | 大水 | 9/6夜、大風雨、城内所々破損、村々漬家多数(藩史)。 4/ロシア船、千島に来る。7/江戸開幕以来の関東・陸奥大洪水。死者多し。大凶作。8/老中田沼意次ら失脚、印旛沼工事中止。10/蝦夷地調査中止。江戸大火にて湯島聖堂焼く。大凶作平年の1/3。 天明福山藩一揆。年貢の月割先納などの収奪強化に対して蜂起した。 | |||||||||
1787 | 天明8 | 洪水 一揆 火災 |
2/滝脇町西洞31の長松院に地蔵菩薩(丸彫り立像)『萬霊塔 月日 十方○○○○』。 1/15田原藩、領内にサツマイモの苗を植えさせる。この春、庄内川の分水工事完成。8/25洪水、挙母村破堤(郡史)。10/挙母藩校崇化館設立される。江戸新吉原焼失。 5/米価高く貧民苦しむ。江戸・大坂各地で打ち壊し(天明の打ち壊し)。6/松平定信、老中筆頭となり寛政の改革始まる。 大原騒動(飛騨高山領領代官大原彦四郎・亀五郎父子の増徴政策に反対し一揆) | |||||||||
1788 | 天明9 | 火災 | 4/4吉田藩主松平信明、老中となり後の寛政改革に参画。 京都大火(屋敷18.3万、土蔵8.1千) | |||||||||
1789 | 寛政 | 水害 |
6/17大雨・雷雨矢作川洪水。長興寺村掘り割り水門・山際堤が押し切られ、挙母町浸水。助船で立ち退き(藩史)。6/18終日大雨堤数カ所切れる(藩史)。8/15村々水害のため、漬家40軒に鳥目(銭)50貫文下ろされた(藩史)。9/9矢作川洪水(上郷町誌)。10/7大雨洪水起こる(岡崎市史)。 この年、本居宣長、名古屋に来る。 3/家具、衣服らの奢侈禁止。9/棄捐(きえん)令で、旗本・御家人の負債免除。囲い米の制。 大阪大火。フランス革命始まる。 | |||||||||
1790 | 寛政2 | 水害 | 2/岡崎藩藩医荻須恕因は名古屋の野村立栄を訪問。7/同じく、荻須の門人、碧海郡法性寺村(安城)の本多良作(荻須元良と同一人物=文化13年、法性寺村から堀之内村へ「出医師」となる)が訪問。 5/寛政異学の禁。藩校、多くできる。8/19伊賀八幡宮石垣、上里、西熊村等洪水にて壊れる。(矢作川)。 11/27刈谷藩の先納金等について連日農民集会。この年暮れ一揆。藩主は謹慎、藩領高13,000石を福島藩領・幕領とする。 | |||||||||
1791 | 寛政3 | 大雨 | 8/21村々大風雨、城内所々破損。漬家35軒。郷倉一カ所(藩史)。 6/尾張藩、木綿統制令を発布。 1/江戸市中、男女混浴を禁止。 | |||||||||
1792 | 寛政4 | 噴火、水害津波 | 7/13村々大風雨、矢作川洪水(水量1丈3尺)(藩史)。 尾張藩が藩札(米切手)を発行。 この年、鈴木朖、本居宣長に入門。本居宣長、紀州藩に仕官。 9/ロシア使節ラックスマン根室に来航、通商要求。露人、択捉島に上陸。 江戸大火。雲仙噴火、水害津波死者多し。 | |||||||||
1793 | 寛政5 | 一揆 | 2/伊予吉田藩、吉田領一揆。7/24三州挙母辺大雨、矢作川洪水。堤防破損(藩史)。 寺部村矢作川堤防造築成る(三河国西加茂郡誌)。この年、岡崎藩が財政改革を実施。伊藤屋(今の松坂屋)岡崎に支店を出す。 本居宣長、学問普及のために上京し、近江・美濃・尾張を経て帰る。 江戸大火。 | |||||||||
1794 | 寛政6 | 火災 | 挙母村と梅坪村、矢作川水車利用につき論争となる(豊田市所蔵文書)。6/4尾張藩の国奉行を地方勘定奉行と改称する。尾州本屋仲間成立。 9/幕府、酒造制限令緩和。 江戸大火。 本居宣長、紀州藩主・徳川治宝侯の前で講義する。 | |||||||||
1795 | 寛政7 | 凶作 | 8/合歓木村正願寺西方矢作川堤防損壊(六美村誌)。 東広瀬経塚。 大垣凶作。江戸、女髪結いを禁止。 | |||||||||
1797 | 寛政9 | 火災 | 江戸大火。江戸中、隠密と称して脅迫するものを告訴させる。宝暦暦廃し、寛政暦となる。 | |||||||||
1799 | 寛政11 | 水害 | 8/9矢作川大洪水(郡史)。8/19洪水、挙母村破堤(郡史)。 本居宣長、門人・稲縣大平を養子にする。 | |||||||||
1800 | 寛政12 | 水害 京都愛宕山消亡。 |
寺部領内の矢作川堤、大水による破損のため尾張藩へ普請を願い出る(豊田市史)。 3/赤坂代官所、格下げされ、中泉代官所赤坂出張陣屋と改称。 7/野村立栄のもとに、 12月大阪四天王寺雷で焼失。富士山女人登山許可。伊能忠敬、蝦夷地を測量。十辺舎一九「東海道中膝栗毛」を著す。 幕府、高田屋嘉平衛に択捉航海の針路を試みさす。 | |||||||||
1802 | 享和2 | 地震。諸国洪水。 | 6/29矢作川洪水。民家浸水二階に及び田畑一面水腐、助船で翌日までに立ち退き(藩史)。 8/7矢作川洪水で挙母町大川通堤の切れたところから人家浸水。田畑水腐、籾50石を水害村に与える(藩史)。 名古屋城下と瀬戸、赤津、下品野に窯方御蔵会所をおく。 この頃より、西枇杷島祭り始まる。山車祭り。 畿内名古屋地震(M6.5)。諸国洪水。 2/幕府、蝦夷奉行を置く。江戸大火。連日風邪激しく火災多い。2〜4月諸国に風邪流行。6月江戸周辺長雨。箱根温泉流失。十辺者一九「東海道中膝栗毛」。伊能忠敬、陸奥、出羽、越後を測量。 | |||||||||
1803 | 享和3 | 降雨なく強風。伊豆大島噴火 | 8/16洪水、挙母村破堤(郡誌)。 熱田奉行津金文右衛門等により、熱田前新田が完成。伊能忠敬、尾張・三河を測量。尾張藩内の豪商農に商方会所・農方会所を作らす。 江戸降雨なく強風。10月伊豆大島噴火。 津軽新田の開拓始まる。麻疹で死者多し。伊能忠敬、東海、中山、北陸方面測量。 アメリカ船、長崎に来航、通商求むも、幕府応じず | |||||||||
1804 | 文化1 | 地震 | 8/28矢作川洪水(2丈余)。低地の家屋は1丈1尺余浸水。助船で高所に移し救粥を下された(藩史)。仁木・岩津・西蔵前野村で矢作堤防400間破堤(矢作川)。9/17満水、このとき矢作橋東方50間破堤(矢作川)。11/28風水災害で、8,073石損耗。損耗が5年分収納の3分以上の場合1万石につき3斗5升がは入り、籾10,000俵備蓄するように勘定奉行から御達(藩史)。 6月出羽大地震 これ以降、知多の白木綿販路が拡大して行く。この年、本居大平、吉田(豊橋)で講義。 9/ロシア使節レザノフ、長崎に来航。貿易要求。ナポレオン戴冠。 | |||||||||
1806 | 文化3 | 大雨 | 花園・中根・吉原の3か村の用水を巡って、花園・中根間で論争起こる(花園区有文書)。 熱田では、旅籠に飯守女をおくことが公認される。(遊郭化の進行) 武士などは、役人の目を避けて熱田で遊ぶ者が多く、大須界隈から熱田にかけての地域は遊興を求める人々によって賑わう。 1/文化の撫恤(ぶじゅつ)令。沿岸諸藩に防備を命じる。3月江戸・芝の大火(丙寅の大火)。6月江戸と近国大雨。10/江戸町人らに御用金を課す。大阪町人に買い米命じる。1月歌麿没(54)。 | |||||||||
1807 | 文化4 | 水害 | 7/25領分三州挙母町大風雨、潰家26軒、半壊22軒、怪我人男女35人、内2人即死。矢作川破堤。水腐。(藩史)。 3/幡豆郡矢曽根村の松崎元栄(48)、妻と19才の息子元春らを伴って名古屋の野村立栄に入門。翌年9月まで。元春は、1846年西尾藩医となる。9/尾張藩の年貢米俵、江戸売り払いの便宜のため、四斗俵普及。 九州に渡り磁器焼製法を習得した加藤民吉、帰る。藩の染め付け御用達となる。尾張藩、木綿の直買を禁ず。刈谷領泉田村で騒動。 2/西蝦夷を直轄とする。4/ロシア船、樺太・択捉島に来航。5/ロシア船、利尻島に侵入、幕府船を焼く。 | |||||||||
1808 | 文化5 | 水害 | 1/坂上町朝日山の六所神社上宮南に、石灯籠『奉献燈篭御神燈。伊勢神宮遙拝所』。 3/22九久平町寺前15の吉祥院山門左に地蔵菩薩(丸彫立像)『大源周明和尚』。5月上方洪水。摂津・河内水害。 7/25大風雨、、潰家26軒、半壊22軒、怪我人男女35人、内2人即死。矢作川破堤。水腐。(藩史)。 8月八幡祭で永代橋落ち500人死亡。 4/間宮林蔵樺太探検。8/フェートン号事件。江戸町人5人を町方御用達に登用。 | |||||||||
1809 | 文化6 | 江戸近国大雪 | 6月江戸近国長雨・洪水・米価高等。諸国強風。江戸近国50年来の大雪(2尺余り)。 チャールズ・ダーウイン(1809〜1882)生まれる。 | |||||||||
1810 | 文化7 | 烈風・冬大雪 | 一宮地方で、綛(かせ)糸仲買設置反対運動。 2/相模・安房海岸に砲台築造。12/大阪富商14名に御用金を課す。 江戸降雨なく烈風ふき火災。8月風雨のため死者多し。・冬大雪。 | |||||||||
1811 | 文化8 | 火災 | 2/一宮地方で、綛糸(かせいと)仲買株設置反対運動。3/測量家伊能忠敬一行、名古屋から飯田街道筋を通り四郷村から南下して挙母城下を訪れた。この時四郷村で泊。村々で、机や燭台を用意させ、村人に寝ずの番をさせるなど受入に気を配った。(菅原家文書「測量御用ニ付書物控」文化8年3月)。=この時、九久平村家数89軒内33軒本村、21軒柳郷字菅沼・11軒同山中・24軒同鵜ヶ瀬。その後、「中垣内五七衛門方御泊り、又、九久平村・伴蔵方御宿也、(中垣内で休息し、九久平で宿泊)」。九久平は、馬4疋、人足8人を出して協力。一行はその後足助方面に向かう。5/28大雨洪水(岡崎市史)。 6/ロシア艦長ゴローウニン、国後島で捕らえられる。平田篤胤「古道大意」。式亭三馬「浮世床」。江戸大火。 佐久間象山(1811〜1864)生まれる。〈吉田松陰の師〉 | |||||||||
1812 | 光格 | 文化9 | 水害 | 5/28昼頃より大雨、満水。近年に無き高水なり(矢作川)。 8/ロシア船、国後島で高田屋嘉兵衛を捕らえる。 | ||||||||
1815 | 文化12 | 噴火 | 5/26洪水(水量1丈4尺余)。破堤288間・水門破損。人家浸水。田畑水腐(藩史)。6/7矢作川堤、新村から高落にかけて決壊(西尾市史)。 5月阿蘇山噴火。杉田玄白「蘭学事始」成る。 この年、新城の田中春庵、京都の小森玄良塾(蘭学)に三河最初の門人として入門。 | |||||||||
1816 | 文化13 | 畿内・東海風雨・洪水 | 7/31〜8/4大雨・洪水。挙母村破堤(郡誌)。その他各所にて破堤(西尾市史)。 10/信州中馬が三河馬稼の駄賃荷制限を要求し、津具村などで紛争がおきる。11/吉田魚町魚問屋、領内の独占権得る。12/都築弥厚(弥四郎)明治用水開発に着手(明治用水百年史)。 2/武家屋敷内の賭博勝負禁止令の厳守命じる。4〜8月江戸疫病発生。 | |||||||||
1821 | 仁孝 | 文政4 | 水害 | 8/7洪水、挙母村破堤(郡誌)。 10/16滝脇町西洞31の長松院に供養塔『玉雲全明大和尚』。 2月江戸に風邪流行・御目見以下3.5万人に施薬。飢餓民30万人に銭を与える。9/伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」を完成。 | ||||||||
1822 | 文政5 | 水害 | 林添町寺脇・晴暗寺に、供養塔角柱。7/25洪水、挙母城下潰家25戸、死者2人怪我35人(郡誌)。 3/小田原藩主大久保忠真、二宮尊徳を登用。5/樋口好古「尾張徇行記」の編纂を完了。 この年、名古屋の書店永楽屋、本居宣長の「古事記伝」全巻の出版を完了。 江戸大火。西国でコレラ大流行。イギリス船、浦賀に来る。 | |||||||||
1823 | 文政6 | 水害 | 8/17矢作川大水(岡崎市史)。 10/林添町寺脇12-1晴暗寺に六地蔵(舟型立像)『圓容心誉近善臣禮』。 4/新城、菅沼家家臣池田寛親、小栗重吉の漂流談「船長日記」を著す。勝海舟生まれる。 ドイツシーボルト来朝。 | |||||||||
1824 | 文政7 | 水害 | 2/古鼠の川舟業と小渡村との川下げ紛争和議(古井家文書)。6/矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。 4/大内町三本松松平乗元の墓に、石灯籠。一対。信光寺に手洗石(角型)。 江戸女芸者を禁ず。 | |||||||||
1825 | 文政8 | 水害 | 4/14矢作川堤防破堤。上青野村等で切れる。(西尾市史)青野・安藤・福桶・高畑・三ツ木在家の諸村浸水(矢作川)。 7/西浅井村羽佐坂で破堤(西尾市史)。 初代歌川豊国没(57)。雷電為右衛門没(59)。初代清元没(49) 2/異国船打ち払い令発布。岩倉具視生まれる。 | |||||||||
1826 | 文政9 | 水害 | 5/22矢作川洪水(岡崎市史)。 6/今村渡しの船建造。建造費の3分の1は藩から(今区有文書)。 1/尾張藩、瀬戸村に焼き物御蔵所をつくる。3/水谷豊文、宮宿にシーボルトを迎え植物標本の鑑定を願う。 | |||||||||
1827 | 文政10 | 越後地震 | 5/21矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。 8/碧海郡和泉村の都築弥厚、加茂・碧海両郡一体開拓のため、矢作分水を計画し、願い出る。この年、伊藤圭介(名古屋町医の子。蘭方医・植物学者)、長崎でシーボルトに医学・博物学を学ぶ。三河の羽田野敬雄(三河吉田田町神明、羽田村八幡両社の神主)・吉田熊野神社神主鈴木重野・舞木八幡宮(岡崎)神主竹尾正寛、平田篤胤門・平田大平に入門する。 頼山陽「日本外史」を著す。西郷隆盛(薩摩藩士)生まれる。槍ヶ岳(標高3180m)、播隆(1786年一向宗の家に生まれる。19才で出家。)長年の苦心の末、阿弥陀仏・観世音菩薩・文殊師利菩薩を安置する。小林一茶没(65)。 | |||||||||
1828 | 文政11 | 全国的水害 | 5/9矢作川大洪水(岡崎市史)。6/1矢作川洪水(1丈8尺)破堤数カ所、水門破壊。人家浸水、田畑水腐(藩史)。7/1矢作橋30間落ち、青木・仁木・八町・上青野・矢作・天王上堤等切れる。矢作村では流家死人在り(矢作川)。 伊豆田方山崩れ・新山湧出。6月全国的水害(653万石)。8月九州大雨。 | |||||||||
1829 | 文政12 | 江戸強風火災。 | 12/中島郡苅安賀村で減免を求めて騒動。菅江真澄没。 江戸強風中大火(己丑きちゅうの大火)死者900人余。松平定信没(72)。 | |||||||||
1830 | 天保1 | 7月京都大地震。 | お陰参り流行。板山の獅子芝居:半田市神代町・八幡神社。獅子頭はこの頃につくられた。県指定無形民俗文化財。 金沢不作。吉田松陰(長州藩士)生まれる(1830〜1857)。大久保利通(薩摩藩士)生まれる。シーボルト事件。 | |||||||||
1831 | 天保2 | 凶作 | 鹿児島凶作。百姓町人の過分な葬儀などを禁ずる。10/イギリス船、東蝦夷に来航。良寛(74)・十返舎一九(69)没。 | |||||||||
1832 | 天保3 | 天保の飢餓始まる 水害 |
大内町三本松の松平乗元墓に石灯籠一対。『大給主 松平石見守源乗利之立』。 5/幕府役人平岡彦兵衛、加茂・碧海両郡の新開拓見込み地を検分。9/18大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。12/設楽郡中設楽村などの商人仲間31人、柿、楮(こうぞ)、たばこなどの仕入れについて議定する。これより同郡月村など6カ村(振草七郷)と争論がはじまる。 天保の飢餓始まる。鼠小僧次郎吉死刑。頼山陽没(53)。 | |||||||||
1833 | 天保4 | 天保の大飢餓。美濃西・大垣(M6) | 2/東海道二川宿・白須賀宿の助郷村、負担軽減を求め道中奉行に訴える。12/27田原藩、格高制を実施し、藩士の俸禄を豊凶により増減させる。この年、加茂郡九久平村周辺23カ村薪問屋の割木買いたたきに抗議する。鈴木朖、尾張藩校明倫堂教授並となり初めて明倫堂で国学を講ず。設楽郡稲橋村で古橋暉児が中心となり、杉の植樹開始。 8月関東奥羽大風雨。10月越後出羽大地震。各地一揆。大阪に捨て子養育を命ず。天保の大飢餓(長雨・冷害〜39)。木戸孝允生まれる。 | |||||||||
1834 | 天保5 | 火災 | 4/王滝町覚庵16の妙昌寺に地蔵菩薩(舟型立像)。 4/21田原藩、幕府による渥美郡海岸新田開発計画の中止を嘆願。9月に認められる。9/田原藩、大蔵永常を招き、藩産物取締役に任ず。 2月江戸大火。7月大阪堂島新地大火。冬米価下がる。3/水野忠邦、老中となる(〜43)。近藤勇(浪人)生まれる。福沢諭吉(中津藩士)生まれる。 | |||||||||
1835 | 天保6 | 大地震 一揆 |
7/5大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。11/田原藩、報民倉(救荒備蓄倉庫)を設置。 3月金沢大火。6月関東奥羽大地震以来各地に一揆。 名古屋の植松茂岳、尾張藩に仕官し、やがて明倫堂で鈴木朖の後の国学教育の中心となる。 井上馨(長州藩士)生まれる。坂本龍馬(土佐藩郷士)生まれる。 岩倉具視(討幕の密勅・王政復古画策)没。 | |||||||||
1836 | 天保7 | 一揆(鴨の騒動) 諸国凶作で米価高騰。 伊豆地震(M5〜6)。8月諸国洪水 |
3/大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石(角型)『松平石見守乗利造立之』 1/寺津八幡宮神宮渡辺政香「参河志」を著す。 8/13暴風雨、三河一帯に被害。米価高騰、物価高騰米の買い占めによる生活困難。 9/16九久平百姓のせがれ繁吉・仙吉が下河内村の辰蔵及び松平郷柳助と面談。辰蔵は、世間を「暖」ゆるやかにするために、六所山辺に結集し,お上に米相場引き下げの出願をし、米屋・酒屋など数軒の打ち壊しの流言を流そうといい、柳助と共に「棟梁」となった。<菅沼家文書>より 9/20石亀坂を越えた茅原(ちわら)村地内にある辰蔵の作業小屋に20〜30人集合。主な顔ぶれは木挽き仲間の若者組に属する30歳前後の未婚の青年。要求項目を決める。(一両で6〜7斗くらいの米価。頼母子溝の二年休会。酒その他の価格引き下げ。要求は、事態の進行の中で、小売り米の値下げ。米の地域外持ち出し禁止。質の利率引き下げが加わった。そして、証文・帳簿の破棄による直接行動で貸借の帳消しが目指された。)。 9/21(夜)三河加茂郡一帯で百姓一揆(鴨の騒動)。滝脇村の石御堂に40〜50人が集結。笠をかぶり、めいめい鎌・斧・まさかり・鋸持ち、竹筒を吹き鳴らす。まず、滝脇の庄屋の家に行き村民参加を要求したが断られ、これを打ち壊す。滝脇村から5〜6人参加。村々に参加を呼びかけたが言い継ぎの通りの制裁であった。9/22(朝)一揆勢は、2〜300人となる。造り酒屋・穀屋などを打ち壊し、その日の内に2000人にふくれあがる。その夜、奥殿藩役人、旗本鈴木家代官、及び石川家代官の3人と一揆指導部との交渉。(年貢金納相場一両に8斗の要求に対し、領主側は6斗の回答。指導部これで承諾すると、一揆勢から不満。辰蔵の裏切りであると言うことになり、足助方面からの参加者が辰蔵の家打ち壊す。指導部交代。その日の内に鈴木家から米8斗の回答。) 9/23朝、奥殿藩領内の米屋と米会所打ち壊し藩に8斗を認めさせる。岡崎藩の軍勢が察知し、足助に向かう。午後4時頃足助の入り口に結集した勢力は約4000人。旗本本多家代官が数人の手代わり・同心と待ち受けたが「しゃらくさし」と、たちまち追い払われる。第1に攻撃目標は酒屋、鬨の声を揚げて四方を囲んで打ち壊す。結果、五軒の商家が壊されたが、他は酒食を提供して免れる。代官は、一揆勢の要求を認めた旨の高札を立てた。その夜の内に伊奈街道沿いと美濃国境までの村々に参加を呼びかけた(設楽郡御所貝津村:今の稲武)が村役人の説得で参加しなかった。足助近くの不参加の二か村の庄屋宅は見せしめに打ち壊された。一揆は拡大して挙母に向かう。 9/24曉には矢作川左岸に一揆勢が次々到着。尾張藩家臣渡辺領寺部陣屋に用意させた船で対岸の挙母に渡る。2000人ほどが城下めがける。町の入り口で、町役人らが竹槍。その背後から藩兵が鉄砲を構える。遂に実弾を込めて水平撃ち。死傷者が出て、一揆勢は敗走。足助へ。 9/25遅れて馳せ参じた奥地の一揆勢と足助で合流し、二度目の打ち壊しを開始。 247カ村11,457人が参加。天保9年幕府評定所で判決。獄門:辰蔵ともう一人(すでに獄死していた)。遠島は柳助・繁吉ら4人(江戸送りになる前に赤坂陣屋の牢屋で全員自殺。)他に55人が処罰。240か村・7町が過料銭を課される。 同じ頃幡豆郡地方でも打ち壊し等おこる(頭取:下河内村松平辰蔵)。 諸国凶作で米価高騰。一揆・打ち壊し。洪水後、全国各地で飢餓・死者多し(奥羽地方最も甚だしく死者50万人)。江戸辻斬り強盗横行。 国定忠治は、私財を投じて飢民救済したので、赤城山麓では一人の餓死者も出なかったと羽倉簡堂(忠治を取り締まる立場の者)が記録している。 | |||||||||
1837 | 仁孝 | 天保8 | 飢餓 | 10/尾張藩で給地の租税増大のため、給地百姓から蔵入百姓に転ずる者増加。 2/大塩の乱(大塩平八郎46才)。6/生田万の乱(越後柏崎)、アメリカ船モリソン号打ち払い事件。 大阪米価・物価高騰して餓死者多数。板垣退助(土佐藩士)生まれる。 | ||||||||
1838 | 天保9 | 水害 一揆 |
坂上町茶臼下の神明宮に石灯籠一対『奉献御寶前』。 1/幡豆郡寺津村で助郷役免除を嘆願(平地山騒動)。6/13大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。 4月江戸大火。5/江戸、奢侈禁止令。5月佐渡・三河・駿河・甲斐・越後で一揆。山県有朋(長州藩士)生まれる。大隈重信(肥前藩士)生まれる。 | |||||||||
1840 | 天保11 | 水害 | 6/28菅生川出水、青木川切り込み(郡誌)。8/25大雨、大平橋流失(岡崎市史)。 9/九久平横手の九久平小学校西に念仏塔(自然石)。徳本上人の名号石。 12/小牧代官支配の67カ村、木綿仲買株設置に反対する。 諸大名に質素倹約を命じる。渋沢栄一(豪農・幕臣)生まれる。黒田清隆(薩摩藩士)生まれる。 アヘン戦争(〜42)。 | |||||||||
1842 | 天保13 | 水害 | 3/石楠町下林・公民館南西に地蔵菩薩(舟型立像)。 3/尾張藩、藩内株仲間を解散。木綿製品統制を目的に国産会所を設立。5/18挙母矢作川洪水、水量1丈尺、破堤し田畑損害(藩史)(郡誌)。 7/天保の薪水給与令(打ち払い令を緩和)。農民風俗倹約令を出す(〜1889年)。 | |||||||||
1843 | 天保14 | 火災 | 2/尾張藩撰「尾張志」を完成する。4/尾張藩、藩切手を発行する。この年の代官所による余業調査の結果、四十数戸の稲橋村のなかで38人が山仕事従事者であった。内、杣そまこびき木挽き2人、炭焼き8人。その他、信州行き諸荷物運送者は2人。四十戸の川手村(稲武)では35人。内、杣職人2人、炭焼き稼ぎ15人、猪鹿猟稼ぎ5人であった。その他、仲馬追い稼ぎ4人がいた。農閑期の稼ぎとは言え山で働く人は多かった。9/4挙母矢作川洪水。堤防破壊(藩史)。 7/大阪町人に御用金を課す。12月江戸大火。 | |||||||||
1844 | 仁孝・孝明 | 弘化1 | 水害 | 2/「尾張名所図会」刊行される。4/9領分三州挙母矢作川洪水破堤(藩史)。 12月江戸城本丸大奥上棟式。3/フランス船、琉球に来航。7/オランダ国王、幕府に開国を勧告(翌年謝絶)。この年、尾張藩書物奉行深田正韶監修「尾張名所図会」刊行さる。藩に献納。 | ||||||||
1845 | 仁孝・孝明 | 弘化2 | 火災 | 2/加茂郡21か村の馬稼ぎと足助町問屋が通行料(荷口銭)徴収で争い、馬方ストライキをする。 江戸 青山・高輪・三田大火。 | ||||||||
1846 | 仁孝・孝明 | 弘化3 | 水害 | 九久平町石橋、小野田新八宅西・馬頭観音(舟形立像)。元春は、西尾藩医となる。9/2上伊保村大井土橋完成(保見町細川家文書)。 1月江戸大火(町数290)。4/イギリス船、フランス船、琉球に来航。5/アメリカ使ビットル、浦外来航、通商を要求。幕府拒絶。6月諸国長雨江戸水害。7月京都水害。 | ||||||||
1847 | 仁孝・孝明 | 弘化4 | 大地震 | 7/31九久平町岩谷山・弘法堂に地蔵菩薩丸彫り立像。 信濃・越後大地震死者数万人:別名・善光寺地震 浅草に一揆。天然痘流行。 | ||||||||
1848 | 孝明 | 嘉永1 | 東海畿内大雨 | 等光寺、この年に現地に移築。4/坂上町天下峯「安全寺」西辻馬頭観音(舟形立像)。8/8〜9大風雨洪水(岡崎市史)。 この年、吉田藩、省略仕法開始。 幕府名古屋藩に5万両。江戸大名小路火災。 | ||||||||
1849 | 嘉永2 | 12/伊藤圭介、尾張で最初の牛痘種痘を実施。 佐賀藩楢林蘭法により種痘・領内に種痘奨励。 | ||||||||||
1850 | 嘉永3 | 水害 | 7/21夜、大風雨満水。細川・仁木・岩津・西蔵前・八丁被害。7/22小間村・浅井村・田貫村の堤防破壊。(西尾市史)。8/6領分三州挙母矢作川洪水。水量1丈尺、八幡渡場堤破損人家浸水(藩史)。8/7矢作川九分水となり天白堤200間切れ、その他13カ所破堤。(西尾市史)。8/8挙母城下浸水(陽竜寺文書)。9/2〜3大風雨。堤30間切れる(矢作川)。 8/九久平宮ノ根15の神明宮に石灯籠。『御寶前』ー境内の隅に片づけられている。 名古屋藩に1万両貸す。江戸大火。幕府松代藩士佐久間像山のオランダ語出版許さず。 12/21任侠をもって鳴る博徒国定忠治、脳溢血で倒れついに逮捕される。殺人と関所破り他の罪により上野国大戸の関所で磔となる(41才)。形状には500人を越す見物人。 | |||||||||
1851 | 嘉永4 | 「五拾壱加上」 平勝寺梅童(住職か?)により写書されて今も残る。(杉本時一氏蔵) |
3/名古屋の株仲間ほぼ復興される。4/「五拾壱加上:五拾壱ケ条」平勝寺梅童(住職か?)により写書されて今も残る。(杉本時一氏蔵) 江戸に辻斬り多くその切り捨てを許す。ジョン万次郎上陸す。
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1852 | 嘉永5 | 暴風雨 | 6/九久平簗場の松生島弁財天に石灯籠(一部新しい)。7/21翌日にかけて大風雨。8/16大雨。8/22大風(矢作川)。8/8碧海郡天白地内矢作堤破壊。幡豆郡高落地内でも決壊。(矢作川)。 2/武蔵大森の大砲演習場完成。 5月江戸城西丸全焼。明治天皇誕生。7月京都暴風雨諸国被害多し。8/蘭商館長、米国船来航計画を告げ、鎖国の危険を説く。 | |||||||||
1854 | 安政1 | 安政東海地震(M7.3) 伊賀・伊勢・大和。 |
滝脇町西洞31の長松院古井戸の前に井水神(自然石)。九久平町粟の谷下の、水道中継所北東に、馬頭観音(舟型立像)。8/大内町宮脇の大内神社に石灯籠『奉献 八○大明神』。 11/4、5地震による津波、吉田をはじめ被害甚大。矢作川堤防裂ける。 11/本居宣長の実子(大平)の養子、本居内遠、江戸の紀州藩邸での国学講話の途中、名古屋の植松茂岳邸に立ち寄り、二人で「吾が党の人」について論じる。この中に「大和魂」という言葉が出る。 1/ペリー、再び来航。3/日米親和条約(神奈川条約)。3/吉田松陰、下田で米艦に密航を求め拒絶される。6月福井地震。7/日英親和条約。7/幕府、日章旗を日本国総船印に制定。11月諸国地震被害多大。12/日露親和条約。上野(こうずけ)・陸中等で打ち壊し・強訴多発。 | |||||||||
1855 | 安政2 | 安政南海地震(M8.4)。江戸大地震。 | 林添町寺脇・晴暗寺西に馬頭観音(舟形立像)。 2/尾張藩、米穂の他所積み出し禁ず。7/26この日より二日間大雨。細川堤切れる(矢作川)。7/29矢作川洪水(1丈8尺)、堤8カ所、その他各所に破堤。田畑水腐。救助のために粥を下す。家屋4軒流失、本漬19戸半漬3軒、その他66軒浸水(郡誌)。8/20村々大風雨。漬家5軒、半漬12軒。矢作川堤防8カ所決壊。倒木66本()藩史)。これにより高潮で伊勢湾沿岸の干拓新田堤防91か所破壊される。11/尾張藩、他所米の移入を禁ず。 12/日蘭親和条約。幕府、洋学所を設置。 | |||||||||
1856 | 安政3 | 暴風雨 | 4/26大風雨。矢作川大洪水(岡崎市史)。4/松平東照宮に石灯籠『奉献 市杵島神社前(弁財天)』 外人に牛肉を許す。足軽の飯島良平母の仇を討つ・幕府士籍に列す。7/総領事ハリス、下田に着任。8月東海東山諸国暴風雨。 吉田松陰、松下村塾を開く。二宮尊徳没。 | |||||||||
1858 | 安政5 | 東海その他地震。 | 4/井伊直弼、大老となる。6/19日米修好通商条約調印。これは、尾張藩の藩論を二分した。これを不可とする尾張藩主徳川慶勝、大老井伊直弼等により謹慎。安政の大獄(〜59)。 7/蘭・露・英と調印。9/仏と調印。 8〜9月江戸コレラ大流行(2.8万人死亡)。11月江戸大火。福沢諭吉、蘭学塾を開く。 大原幽学没。 | |||||||||
☆ 村の郷倉(ごうくら) ☆ 安政六年と言えば、
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1860 | 孝明 | 万延 | 水害 | 5/洪水。小栗新田では堤防流失し一面海となる(挙母市資料)。5/12大風雨。矢作川洪水(1丈9尺)市中浸水(高9尺・低1尺6分)救船で立ち退き。漬家109軒、倒木138本、家屋浸水243軒(藩史)。5/17大風雨。矢作川洪水。挙母村浸水(郡誌)。 11/設楽郡川合村で米商人排斥運動おこる。 関東地方の浮浪人取り締まりをず。高知山藩に一揆(1.8万)。3/桜田門外の変。 | ||||||||
1861 | 文久1 | 水害 | 8/21大雨洪水。(岡崎市史)。10/5・6大平川満水。仮橋流失(岡崎市史)。 鍋田町ヒカゲの旧曲がり神明社跡に地蔵菩薩(舟型座像)。 4/第一次東禅寺事件。5月水戸浪士イギリス公使館を襲う。10月種痘所を西洋医学所と改称。12/遣欧使節出発。福沢諭吉、遣欧使節に随行。 | |||||||||
1862 | 文久2 | 水害 | 7/26大雨、屋敷一円浸水。菅生川は格段に水多し(矢作川)。天白・高落西浅井破堤(西尾市史)。1月江戸火災多し。1/坂下門外の変。3/坂本龍馬脱藩。故郷をでる龍馬「日本を今一度せんたくいたしもうし候」と手紙。4/伏見寺田屋事件。4月以降麻疹流行。4/第二次東禅寺事件。8/生麦事件(幕府に幕政改革を行わせた津島久光一行は江戸からの帰途、神奈川の近郊生麦村(横浜市鶴見区)で、騎馬の英人人と出会った際薩摩藩士が行列に対し無礼があったとして商人リチャードソンを殺害、他の2人に重傷を負わせる。英は薩摩藩に謝罪と犯人処罰・償金支払いを求め、幕府は10万ポンド払ったが、薩摩藩は拒否。翌年、薩英戦争後薩摩謝罪。罰金を支払ったが結局、犯人を処罰しなかった。)。12/英国公使館焼き討ち。 京都無頼の輩横行。江戸市中浪人徘徊し辻斬り、豪商を略奪。 | |||||||||
1863 | 文久3 | 火災 | 9/15大和天誅組の乱。旧刈谷藩士松本奎堂、大和天誅組の中心人物として死す。奥殿藩主松平乗謨、信濃国佐久郡田野口村に居城を移す(竜岡藩)。奥殿藩廃す。鳳来寺火災に遭う。 6月江戸大火。二の丸焼失。6/長州藩、高杉晋作ら騎兵隊編成。7/薩英戦争。8/8月18日の政変。七卿長州へ。8/天誅組の変。10/生野の変。大阪大火。 | |||||||||
1865 | 孝明・明治 | 慶応1 | 水害 | 2/額田郡細川、仁木の両村碧海郡配津村との渡船停止を求め、9月和睦(岡崎市史)。5/17岡崎洪水(矢作川)。 9/幕府、横須賀製鉄所起工式。10/紅葉屋事件。 坂本龍馬:長崎に行き貿易商から武器を購入し薩摩藩に渡し、その代わりに薩摩から長州に米を購入しようとする。(幕府に目を付けられていた薩摩藩は、長崎で武器購入が困難であった) 長崎、大浦天主堂完成。 リンカーン暗殺。 | ||||||||
1866 | 孝明・明治 | 慶応2 | 風水害で、諸国凶作、米価高騰。 | 7/1岡崎、大風雨にてにわかに増水し床下へ3寸程入水(矢作川)。8/6昨夜より雨。床上浸水。前代未聞の洪水(矢作川)。8/7矢作川洪水、挙母城内各所破損。田畑に被害。(梅坪村組合7カ村年中御用留)。 11/2岡崎藩の碧海郡用悪水路計画に福島・刈谷藩領民の反対が激化、碧海郡神楽山で一揆。実地検分中の幕府役人を襲撃する。 凶作による米価高騰により外米輸入を自由とする。各地に一揆・打ち壊し多発。 1/8坂本龍馬の斡旋により、桂小五郎・西郷隆盛会談の場を持つが、両者面子に拘って同盟の話を持ち出せない。先に話を出した方が不利になると判断した。それを知った龍馬は、桂のもとに行って問いただす。次いで、西郷のもとに行って、「幕府軍に追いつめられた長州に、高圧的な態度ででれば対等な和解など出来るものではない。」と促す。 1/21西郷は、薩摩側から桂に同盟を申し出る。幕府が長州を攻めたときに、薩摩が長州を援護する旨の薩・長同盟成立。 | ||||||||
1868 | 明治 | 明治1 | 水害 一揆 |
1/20青松葉事件おきる。尾張藩の重臣で佐幕派の渡辺新左衛門等3人、朝命によって斬首、他14人処刑される。東海道・東山道諸国に勤王誘引の使者を派遣。1/24成瀬正肥、犬山藩3.5万石、竹腰正旧、美濃今尾藩3万石が成立。2/8刈谷藩勤王派が家老津田新重郎等を斬り、藩論を統一する。3/五箇条の誓文4/政体書(太政官制発足)。4/3安部信発、武蔵岡部より半原藩2万石を領す。4/29吉田に行政官庁三河裁判所が設置され、三河・駿河・遠江の旧幕僚を管理する。5/13長雨で矢作川増水。5/17入鹿池堤決壊する。死者941人、浸水11,709戸、被害町村133カ所、流没田畑8,480町歩あまりに及ぶ。6/9宝飯郡赤坂に三河県庁設置、三河裁判所は廃止。7/江戸を東京と改称。8/2信州伊那県は足助支庁を置き、三河の一部を管轄下に置く。8/24矢作川増水で城下 七町の田畑冠水。本町庄屋岡田庄三郎より藩役所に提出(竹生町若子家文書)。9/4徳川亀之助、三河の旧幕領・旗本領11万6.000余石を含む76万石を与えられる。9/5矢作川大水。挙母城下四町被害。被害届出される(竹生町若子家文書)。 一揆:丸亀・薩州、岩村田松江、新発田。4月阿片の喫煙を禁止。12月三河幡豆に一揆。 3/21明治天皇大阪行幸。腰に乗って民衆の中にでる。海の広さは今までの天皇の見たことのない景色であった。4/9大久保利通、明治天皇に召し出される。一介の武士が天皇に直接面会するのは異例のことであった。4/11江戸城無血開城。これによって新政府は東日本も(全国)統治する必要性に迫られる。再度、今度は江戸への遷都論が浮上する。江戸は近代化への条件がそろっていた。周囲の反発をかわすために、大久保達は”江戸への行幸”であることを強調する。9/20明治と変わった直後、明治天皇は総勢3300人の大行列を従えて、京都を出発。稲刈り、地引き網を展覧。菊の紋章のついた饅頭を配布。 10/13江戸城を皇居に。大久保はこう書き記す。「千載一時の成典歓喜言うべからず」 長崎、浦上でキリシタンを弾圧。神仏分離令発布。近藤勇刑死(34才)。「宮さん宮さん・・・・」の旋律、「トコトンヤレ節」として流行。 | ||||||||
1869 | 明治2 | 一揆 | 飯田他に一揆。6/17尾張藩を名古屋藩と改称し、藩知事を置く。6/24三河県廃止、伊那県足助支庁の管轄へ。7/12矢作川大水。工事中の渡場・堤防筋破損(挙母内藤文書)。9/藩校設立:岡崎・允文館、半原藩:学聚館、重原藩:養正館、西端藩校。12/20中島郡稲葉宿で農民決起し、村総代を襲い、中島郡・海東郡一体へ拡大。畑村藩、野村藩となる。諸道の関所廃止。 渋沢栄一日本初の銀行設立計画に参加する。「国立銀行条例」起草。いつでも金と交換できるものとし、紙幣の信用を高めようとした。 2/造幣局設置。東京都、風俗矯正布達。全国に世直し騒動。 乗合馬車開始。7/ 外務省を置く。8/蝦夷地を北海道と改称。 公卿・諸侯を華族と改称。新潟・仙台に一揆。人力車創案(1870年営業)。 スエズ運河開通。 | |||||||||
1870 | 明治3 | 一揆 | 4/「名古屋」と名称を統一。6/名古屋藩洋裁学校が開校。11/伊那県足助支庁管下の三河新城を中心に、年貢減免を求めて一揆(簑着騒動)。四、五年来の遺作続きに村々が名古屋藩清洲邑宰所(ゆうさいしょ)に救米願書を提出し却下されたことから始まる。12/20稲葉宿禅源寺の鐘がうち鳴らされると、村々で鐘・太鼓が鳴り、蓑をまとい5〜6尺ほどの竹を手に持ち、たいまつ代わりに大根切り干しのスダレを巻いて火をつけ、鬨の声を揚げ稲葉宿に集まった。その数3.5万〜4.5万人。現在の稲沢市を中心に、一宮市・尾西市・津島市・清洲市・甚目寺町・美和町・大治町・佐織町などを24日までに移動し放火・打ち壊しは7〜80軒に及んだ。 はじめは邑宰所(ゆうさいしょ)役人が出て説諭にあたったがさんざんに打擲された。22日名古屋・犬山・今尾の藩兵も投入。実弾射撃により即死者8〜9人、怪我人3〜40人を出し、体勢は崩れた。 一揆:高松・浜田・仙台・松代、宇和島・新潟・柏崎・名古屋。若松・伊那。彦根・小諸。長野三郡に一揆。大阪・神戸観に電信開始。木造自転車輸入。 5/衆議院開院。8/散髪廃刀許可。「えた」「ひにん」などの称を廃止。9/平民の名字使用認める。10/兵制。海軍は英式。陸軍は、仏式。12/平民の帯刀禁止。大教宣布「神道国教化の詔」 | |||||||||
1871 | 明治4 | 一揆 | 1/1郵便規則制定。 3/8碧海郡鷲塚・大浜村で僧侶・農人門徒ら、神仏分離反対の一揆(鷲塚騒動)。7/14廃藩置県により、3府302県政立。尾張は名古屋・犬山の2県、三河は豊橋・西尾・岡崎・重原・刈谷・挙母・田原・西端・西大原・半原の10県となる。8/エタ・非人の呼称廃止。11/15全国を3府72県に統合。三河10県を廃し、額田郡を設置、伊那県に属す三河地方を額田県に編入す(県庁は岡崎)。11/22名古屋・犬山県を廃し、名古屋県をおく。名古屋鉄砲町に郵便役所設置。名古屋県、英語学校開校。12/岡谷惣助、愛知七宝会社を発足。東京横浜間で郵便開始。挙母・足助に郵便取扱所設置。散髪・廃刀許可。 7/日清修好条規を天津で調印。10/岩倉具視を特命全権大使とする使節団派遣。12/台湾漂着の琉球船乗組員が殺害される。 | |||||||||
1872 | 明治 | 明治5 | 一揆浜田地震(石見・出雲)M7.1 | 六所神社外宮の舞台建立。二重仕掛けの古式を留めている。茅葺き屋根を支持する為、合掌の用材の中間に梁を組む。 1/全国で初の戸籍調査実施。2/田畑永代売買の禁を解く。 東京の博覧会で、出品された名古屋場天守閣の金シャチが人気を呼ぶ。4/2名古屋県を愛知県と改称。5/愛知県、「学問のさとし」刊行。8/学制発布。9/新橋ー横浜間で、鉄道開通。11/徴兵告諭。11/27額田県を廃し、愛知県に合併。一揆:岡山・豊岡・山梨・宮崎・大分。 1/身分族称、皇族・華族・士族・平民とする。 2/陸・海軍省設置。2/田畑永代売買解禁。8/学制公布。9/琉球藩設置。11/徴兵告諭。12/国立銀行条例公布。太陽暦採用。 ランプ普及。文明開化風潮。僧侶の肉食妻帯を許す。福沢諭吉「学問のすすめ」。 愛知県誕生。挙母、平井、東広瀬、足助、小渡などに郷学校設立。 | ||||||||
1873 | 明治6 | 一揆 | 吉木山六所明神を六所神社と改称、社格を「郷社」に列す。 五新学校・国谷学校・三好学校など、各地区に小学校できる。1/9第3軍管名古屋鎮台設置。7/名古屋で、日刊紙「愛知新聞」発行。ウィーン万博に金シャチ出品。12/12愛知県養成学校開校。 渋沢栄一、政府主導の産業振興に拘る政府と意見が合わず、役人を辞め、民間産業の発展に身を投じる。7/20渋沢栄一、日本最初の銀行、「第一国立銀行」開業。しかし、人々は半信半疑で、金を預けたり貸したりする人は殆どいなかった。 仇討ち禁止。外人との結婚許可。1/徴兵令発布。7/地租改正条例公布。8/閣議の結果、西郷隆盛の朝鮮派遣を決定。9/岩倉使節団の帰国。10/岩倉の意見を入れ、天皇は征韓無期延期命令。10/征韓論争の結果、西郷隆盛・副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤晋平辞職・下野する。 11/内務省設置。 12/嘉禄奉還許可。 地租軽減一揆:鳥取・福岡・秋田・岩手など。キリスト教解禁。森有礼ら、明六社設立。 | |||||||||
1875 | 明治8 | 水害 | 8/10西三河中心に暴風雨。被害多し(妙昌寺過去帳)。9/11挙母町大雨水冠(鈴村家文書)。11/矢作川渡船の賃銭を定める(1人2厘、牛馬6厘)。/郵便役所を郵便局と改称。 2/大阪会議。板垣等愛国者結成。2/三菱商会、横浜・上海航路開始。4/元老院・大審院・地方官会議設立。漸次立憲政体樹立の詔を出す。5/樺太千島交換条約を締結。5/軍艦雲揚釜山に入港し威嚇。8/琉球藩の清国への使節派遣廃止を命じる。9/江華島事件(軍艦雲揚、江華島守備兵と交戦、大砲占領)。12/黒田清隆を特命全権弁理大使として朝鮮へ派遣。福沢諭吉「文明論之概略」。東京気象台設置。新島襄、同志社英学校設立。「第一国立銀行」:渋沢栄一:の危機。インフレをおそれる、人々は次々に金に交換する人が増加した。このまま行けば、銀行は破綻することは明なであった。そこで、銀行条例を改めることを決意。このころ政府は職を失った氏族に「秩禄ちつろく」=年金を支払っていた。これが国家予算の3割を超えるようになり、政府は一定額の債権を氏族に発行し利子を支払うことにし、現金支給を停止しようとしていた。これでは氏族の生活が立ちゆかなくなるので、これをうまく生かす方策を工夫した。支給する債権を銀行の設立資金に投資させる条項を作成。これで氏族は使い道のない債権を現金のように扱うことが可能となる案を思い立った。 | |||||||||
1880 | 明治13 | 大風雨 | 郡界川ガラ紡始まる。3/名古屋で愛国交親社結成。4/8明治用水竣工。7/最初の名古屋区会議員選挙。9/額田郡大平村に官営愛知紡績所が設立。 1/交詢じゅん社結成。4/集会条例制定。7/刑法・治罪法公布。11/地方税規則改正。天長節に「君が代」。新潟で大火(5,500戸)。大阪大火(二度)。東京大風雨死者120余人。 | |||||||||
1882 | 明治15 | 水害 | 東加茂郡脇立病院開院。足助で仔馬のセリ市。1/軍人勅諭発布。3/三河に三陽自由党結成。5/平戸橋架設。7/23名古屋銀行開業。10/1洪水。被害は碧海郡・幡豆郡・額田郡。浸水家屋2,000軒流失30軒余、溺死37名(矢作川)。巴川洪水(宇野善康家文書)。10/尾陽立憲改進党創立。日本銀行開業。12/愛知立憲改進党結成。 1/軍人勅諭。3/伊藤博文等、憲法調査のため渡欧。立憲改進党・立憲帝政党・結成。4/板垣退助、岐阜で遭難。7/壬午事変。10/日本銀行開業。郵便料金を全国統一。11/福島事件(〜12月)。東京専門学校(後の早稲田大学)創立。 4/17チャールズ・ダーウイン没(73才) | |||||||||
1884 | 明治17 | 水害 | 6/西枝下・越戸間の水路工事着手(前年より)するも、洪水のために破壊さる(挙母市資料)。 岩倉東・柿田:御嶽山、このころ御岳大神他10柱を祭祀。毎年火祭りが行われ、火の中を渡る神事が行われた。同、柿田の「弘法さん」、西国の八十八ケ所にちなんで、88体の弘法さんを安置し、信仰した。松平地区には九久平(菅沼)・岩倉(柿田)・加茂川(川向)・松平(松平)・石楠(所石)の五カ所に祭祀。 至西加茂郡教育研究会発足。枝下と四郷開墾。4/林市兵衛、時計製造に成功、名古屋に製造所を設立。8/12平田橋事件。12/村松愛蔵らを中心に飯田事件発覚する。この頃自由党過激派らによる強盗事件続発。名古屋事件発覚。群馬・加波山・秩父事件起こる。 5/群馬事件。7/華族令制定。9/加波山事件。10/秩父事件。10/自由党解党。12/甲申事件。12/名古屋事件・飯田事件。東京商業学校(後の一橋大学)創立。 | |||||||||
1885 | 明治18 | 水害 | 築平・市平間の渡船開始。3/31名古屋紡績会社操業開始。4/22吉田城後に名古屋鎮台豊橋分営設置。半田の中埜又左衛門、初めてビール製造する。7/矢作川等諸河川氾濫。多くの被害出る。12/内閣制度創設。 4/天津条約。11/大阪事件。12/太政官制を廃し、内閣制度を採用。 「縮刷大蔵経」成る。尾崎紅葉等硯友社結成。 | |||||||||
1886 | 明治19 | 信越国境地震(M5.3) | 東加茂郡に蚕糸組合。東加茂郡炭業組合。3/1武豊ー熱田間に鉄道開通(武豊線)。5/1熱田ー一宮間鉄道開通。国立銀行(第8、第134)合併。11/愛知紡績所、民間に払い下げられる。 1/北海道庁を置く。6/静岡事件・甲府雨宮製糸工場女工、スト(日本最初のスト)。10/ノルマントン号事件。 東京大学と工部大学を併合、帝国大学創立。帝国大学令。師範学校令。小学校令。中学校令交付。国際赤十字条約加入。 | |||||||||
1889 | 明治22 | 大風水害 | 大日本帝国憲法発布。県下各地で町村合併。7/矢作川堤防決壊。挙母浸水家屋365軒(浦野家文書)。7/東海道鉄道が全通する。9/11尾張・三河に台風による大風水害(県下で死傷者955人。家屋倒壊流失14,323戸)。名古屋に初めて電灯がつく(灯数400余)。名古屋区は、名古屋市となり、人口157,000人。 森有礼刺される。3/土地台帳規則公布(地券廃止)。7/東海道線新橋ー神戸間全通。9/大阪天満紡績賃上げ争議。10/大隈外相、襲われ負傷、黒田内閣総辞職。12/山県内閣成立。 熊本市付近地震M6.3。 | |||||||||
1890 | 明治23 | 水害 | 枝下用水工事完成。足助村町制を施行。足助町となる。10/5・6矢作川筋の仁木・細川地内、その他破堤(愛知県災害誌)。10/教育勅語発布。11/第1回帝国議会召集。11/11豊田佐吉、豊田式木製人力織機を完成。 5/府県制・郡制公布。7/第1回総選挙。9/立憲自由党結成。10/教育勅語発布。11/第1回帝国議会。大日本労働者同盟結成。足尾銅山の鉱毒で魚類多数死滅。北里柴三郎、破傷風血清療法発見。森鴎外「舞姫」。 | |||||||||
1891 | 明治 | 明治24 | 濃尾地震 | 4/郡制施行。5/大津事件。10/28揖斐川上流を震源に濃尾地震。中島郡・葉栗郡を中心に死者2,459人、負傷者6,736人、住家の全半壊58,426戸に及ぶ。枝下用水石垣大破する(西加茂郡誌)。12/足尾銅山鉱毒事件。 1/内村鑑三の不敬事件。3/立憲自由党、自由党と改称。9/日本鉄道、上野ー青森間全通。10/濃尾大地震。幸田露伴「五重塔」。 | ||||||||
1892 | 明治25 | 濃尾地震(M8.1) | 挙母町となる。5/帝国議会で、額田県設置に関する法律否決。 2/第2回衆議院選挙で流血事件(松方内閣の選挙干渉)。6/国民協会結成。11/千島艦事件。 | |||||||||
1893 | 明治26 | 水害 | 8/16矢作川増水し、第三代米津橋破堤。矢作橋・美矢井橋流失(西尾市史)。40年ぶりの大雪。挙母地区で積雪60p。 2/衆議院、内閣弾劾上奏案可決。4/集会・出版・版権法公布。7/陸奥宗光、条約改正案決定。10/文官任用令公布。 | |||||||||
1894 | 明治27 | 地震 | 九久平・岡崎間乗合馬車営業開始。8/4日清戦争で、第三師団に動員令。 1/大阪天満紡績工場スト。7/日英通商航海条約調印(治外法権撤廃)、各国とも相次いで調印。8/日清戦争勃発(〜95)。8/朝鮮と攻守同盟。8/軍事公債条例公布。9/黄海海戦。11/旅順口占領。高等学校令公布。 東京湾北部M7.0庄内地震M7.0。北里柴三郎、ペスト菌発見。樋口一葉「大つごもり」。 | |||||||||
1896 | 明治29 | 地震 | 挙母町に公設消防組織設置。3/18愛知銀行8/明治銀行10/額田銀行設立。6/19愛知馬車鉄道、動力変更により名古屋電気鉄道と改称.7/熱田湾築港着工。「中京新聞」創刊。7/26名古屋に日本車輌製造会社創業。8/明治銀行設立。9〜10三重紡績名古屋、尾張紡績で、同盟罷業おこる。9/11大暴風雨、全壊家屋4戸、半潰6戸、大破損12戸(挙母市資料)。10/知多紡績設立。12/1大3師団歩兵33連隊を東春日井郡守山町におく。この年、豊田式木製動力織り機発明さる。 3/進歩党結成。航海奨励法。造船奨励法公布。酒造税法、葉煙草専売法。4/日本勧業銀行法・農工銀行法・銀行合併法公布。7/日清通商航海条約調印。9/第二次松方内閣成立。黒田清輝ら白馬会結成。 明治三陸地震M5.5、 陸奥地震M7.2 | |||||||||
1898 | 明治31 | 水害 | 額田銀行挙母支店設立。挙母町に農会設立。2/津島に片岡毛織設立(我が国初の毛織物製造)。4/1愛知県三部経済制復活。5/6名古屋鉄道の市内電車笹島ー県庁前の四区間開通。「広小路歩けば、電車が通る。チンチン御園か柳橋かすテンションか」と唄われた。5/23豪雨。乙尾、白川の堤防が決壊する。(高岡村誌)。6/4豪雨により枝下用水の堤防が決壊(挙母・長興寺・御船・西枝下)(西加茂郡誌)。10/11名古屋市内電話開通。市内加入者200余人。 1/元帥府を置く。選挙法改正期成同盟会同盟会結成。4/朝鮮に関する日露協商調印。6/自由・進歩両党調印。憲政党結成。保安条例廃止。8/尾崎文相、共和演説事件。10/憲政党分裂。孝徳秋水・片山潜ら、社会主義研究会結成。12/地租条例改正(2.5%→3.3%)。岡倉天心ら、日本美術院創立。徳富蘆花「不如帰」。日本初の実景映画。 | |||||||||
1899 | 明治32 | 地震 | 2/豊橋に「参陽新報」11/「新潮報」創刊。8/4武豊港が開港場に指定さる。貸本屋大惣廃業。この年、外人宣教師が名古屋で娼妓解放運動。勝海舟(幕臣・無役)没。 1/第二次恐慌起こる。2/東京ー大阪間長距離電話開通。3/北海道旧土人保護法公布、文官任用令改正。4/八幡製鉄、清国鉄鋼の輸入契約。6/大井憲太郎、小作条例期成同盟会結成。7/改正条約実施。第一回ハーグ平和会議終了(国際紛争の平和的処理条約調印)。10/普通選挙期成同盟会組織。 紀伊半島南西地震(M7.0)。「中央公論」創刊。土井晩翠、「天地有情」。 | |||||||||
1900 | 明治33 | 干ばつ | 干ばつのため、明治用水と枝下用水間に紛争発生(明治用水資料集)。小原の下流で発電所竣工。1/23葉栗郡光明寺村で織物工場火災、31名焼死。県下初の私鉄尾西鉄道が開通(弥富ー一宮間)。2/尾西織物同業組合設立。3/愛知県庁、南武平町の新庁舎に移転。4/木曽・長良・揖斐川分流工事竣工。7/25中央西線名古屋ー多治見間開通。 1/社会主義協会結成。3/治安警察法公布。選挙法改正。6/清国義和団鎮圧のため陸軍派兵決定。8/孝徳秋水「万朝報」に、非戦論発表。9/立憲政友会結成。 黒田清隆(五稜郭の戦いで活躍)28才で没。福沢諭吉(三度幕府遣外使節に随行)34才没。与謝野鉄幹ら、「明星」創刊。高峰譲吉、アドレナリン発見。第三次恐慌起こる。 | |||||||||
1902 | 明治35 | 東北地方凶作 | 枝下で、用水農民騒動。三河産牛組合を改称、東加茂郡牛組合とする。3/瀬戸自動鉄道設立。8/豪雨浸水。13年来の洪水。11/逢妻川、吉原堤防決壊する(高岡町誌)。この年、豊田商会、織物製造に着手。 1/日英同盟調印。3/商工会議所法公布。4/衆議院議員選挙法改正公布。 | |||||||||
1903 | 明治36 | 水害 | 矢作川に高橋架かる。不況により松平ガラ紡景気落ち込む。西加茂の石粉県下の9割を占める。3/1愛知県立高等女学校開校。6/2大雨。矢作川堤防挙母町他で欠損(愛知県災害誌)。7/9大須の旭遊郭で大火。9/愛知県で我が国初の乗合自動車営業取締規則を制定。 1/閣議、海軍拡張決定。6/東京帝国大学7博士、対露強硬論を建議。7/伊藤博文、枢密院議長に就任、西園寺公望が政友会の後任総裁。8/対露同志会結成。日露協商基礎案をロシア政府に提示。10/小村・ローゼン間で、日露交渉開始。10/「万朝報」海戦論に転ずる。11/幸徳・堺ら、平民社設立。国定教科書制度制定。「平民新聞」創刊。 | |||||||||
1904 | 明治37 | 日露戦争勃発 水害 |
2/日露戦争勃発。東・西加茂郡造林計画に着手。挙母町、愛国婦人会を結成。1/1日本陶器設立。3/6第3師団、日露戦争に出征。7/9/10伊賀川・乙川数カ所で決壊。(愛知県災害誌)。11/15覚王山日暹寺(後の日泰寺)落慶。釈尊分骨を迎える。露軍捕虜、東別院名古屋別院収容所に入る。 1/対露交渉最終案決定。2/対露交渉打ち切り、開戦を決定。宣戦布告。韓国の独立保持に関する日韓議定書調印。旅順口閉塞作戦。4/非常特別税法・煙草専売法公布。5/政府、社会主義取締教化方針発表。5/遼東半島に上陸開始。8/黄海海戦。第一次日韓協約調印。9/遼陽会戦。10/沙河会戦11/旅順総攻撃。与謝野晶子「君しにたまふこと勿(なか)れ」。青木繁「海の幸」 | |||||||||
1905 | 明治38 | 芸予地震(安芸灘M7.5) | ガラ紡景気回復。挙母町金谷に、挙母信用購買利用組合設置。東加茂郡、日露戦争記念林の造林に着手。3/29名古屋高等工業高校開校。6/各地で戦勝祝賀会。6/10・14伊賀川堤防破壊。八丁一帯で浸水。流失家屋5戸、橋一カ所流失。(愛知県災害誌)。8/尾張紡績・名古屋紡績が、三重紡績に合併。9/ポーツマス条約締結。日露条約講話反対愛知県民大会開かれる。 1/旅順のロシア軍降伏。1/相続税法・塩専売法公布。3/奉天会戦。5/平民社で、日本初のメーデー茶話会開催。5/日本海海戦。7/日本軍、樺太に上陸。8/第二次日英同盟新協約調印。9/日比谷焼き討ち事件(講和反対)。東京市内戒厳令。講和反対の新聞発禁。平民社解散。9/ポーツマス条約調印。11/第二次日韓協約調印。夏目漱石「吾輩は猫である」。 日本海海戦で、初めて無線電信活用。 | |||||||||
1909 | 明治42 | 姉川地震M6.8(滋賀県) | 高岡、一本木で移住開拓始まる。藤岡及び西加茂郡、青年団設立。郡立学校、寺部に移転。2/豊橋瓦斯、4/一宮瓦斯設立。5/15愛知県医師会設立。11/9鶴舞公園開園。伊藤博文(松下村塾出身、討幕派)27才没。 4/種痘法公布。5/新聞紙法公布。6/国技館落成。7/大阪北部ほとんど全焼。7/閣議、日韓併合の方針確定。8/近江大地震。10/伊藤博文、ハルビンで射殺される。12/米、満州鉄道中立化案提議。 | |||||||||
1911 | 明治44 | 水害 | 額田銀行九久平代理店設立。中央線が全通、矢作川筋の川舟の運行減少する。8/4豪雨、矢作川増水1丈8尺、長興寺堤防破壊、枝下用水梅坪地内堤防破壊、耕地被害甚大。商家は、徹夜して避難(挙母市史資料)。10/安城で、第1回畜産共進会開催。西尾鉄道(元の西三軌道)岡崎ー西尾間で開通。 1/大逆事件被告12名、死刑執行。2/貧民救済に関する勅語発布。2/日米通商航海条約調印(関税自主権回復)。以後同様に各国と調印。3/工場法公布。5/中央線全通。7/第3次日英同盟協約調印。11/東京市に職業紹介所設立。西田畿太郎「善の研究」。野口英世、スピロヘータの純粋培養成功。 | |||||||||
1912 | 大正 | 大正1 | 水害 | 久澄橋完成。2/18愛知電鉄熱田伝馬町ー大野間開通。2/21一宮電気設立。4/ふん尿汲み取りの名古屋市営が実施。5/30三河鉄道設立。8/9川口音海創案の菊琴(大正琴)発売さる。8/22台風により、日光川決壊。伊勢湾北部高潮で死者155人、家屋全半壊11,150戸。9/22台風により旧平戸橋流失(愛知県災害誌)。 1/中華民国成立。7/第3回日露協約調印。7/30明治天皇崩御。乃木希介夫妻殉死。9/全国にコレラ流行。タクシー営業始まる。12/第一次護憲運動起こる。美濃部達吉・上杉慎吾、天皇機関説論争。第5回オリンピック初参加。 | ||||||||
1914 | 大正3 | 大噴火大戦景気・米騒動・地震M7.1 | 足助畜牛市場開設。尾三自動車・足助自動車株式会社設立。バス運行開始(明知・小渡間)。1/24東海商業会議所連合会、営業税全廃決議。2/6名古屋国技館開館。2/〜8/名古屋勧業協会、営業税撤廃を決議し、県下商工業者は営業税廃止建議書を、地主らは地租軽減期成同盟会の支部をつくり減租運動。8/20明治・愛知・名古屋の3銀行で、取付騒ぎ。9/1名古屋上水道給水。9/6鶴舞公園で名古屋電気鉄道会社糾弾市民大会、値上げ反対運動暴動化。11/ドイツ軍捕虜、東本願寺名古屋別院収容所にはいる。この年、名古屋でタクシー業始まる。 1/桜島大噴火(大隅と地続きとなる)。 2/日比谷の内閣弾劾国民大会騒擾化、軍隊出動。3/大正博覧会。3/山本内閣総辞職。4/第二次大隈内閣成立。6/28オーストリア皇太子暗殺(サライエボ事件)。7/28オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦起こる(〜18)。8/1ドイツ、ロシアに宣戦布告。8/3ドイツ、フランスに宣戦布告。8/4ドイツ、中立国ベルギーに進入。イギリスドイツに宣戦布告。8/6オーストリア、露・仏・英と開戦(〜8/12)。8/23日本ドイツに宣戦布告。10/14日本軍、赤道以北の独領南洋諸島占領。11/7日本軍、青島占領。 東京駅開業。高村光太郎「道程」、夏目漱石「こころ」 霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。大戦景気・米騒動秋田仙北地震M7.1。 | |||||||||
1917 | 大正6 | 静岡地震(M6.3) | 11/名古屋兵器製造所が熱田にできる。12/25鳴海町小作争議はじまる。 3/11ロシア革命。4/6アメリカ、ドイツに宣戦布告。9/銀輸出禁止・金輸出禁止。11/6ロシア、11月革命。ソビエト政権成立。 菊池寛「父帰る」萩原朔太郎「月に吠える」 | |||||||||
1918 | 大正7 | 米騒動 | 藤岡村で、タクシー開業。挙母で米騒動。4/1名古屋鶴舞公園付属動物園開園。8/10〜25米騒動名古屋に波及。その後、豊橋・一宮・瀬戸・挙母・岡崎・蒲郡・岩倉・刈谷・猪高など県下に広がる。8/24第3師団、シベリア出兵。10/名古屋造船所設立。11/名古屋市が公設市場を設ける。 1/8米大統領ウイルソン、「平和14原則」発表。3/3ブレスト・リトフスク条約、独ソ単独講和。8/2日本政府、シベリア出兵宣言。8/富山県に米騒動(全国に波及)。11/11独、休戦協定調印。第一次大戦終結。武者小路実篤「新しき村」創建開始。 | |||||||||
1919 | 大正8 | 水害 | 六所神社外宮拝殿新築。2/9名古屋で普通選挙要求市民大会。5/1名古屋布池にアメリカ呂時間設置。9/16大雨のため、河川増水し道路冠水・橋梁流失広範囲にわたって交通途絶(松平村誌)。この年労働争議頻発(115件、参加人員15,367人)。板垣退助(会津戦争で大隊指令)31才没。 パリ講和条約。5/戦後の不景気始まる。6/28ベルサイユ条約調印。ILO加盟。和辻哲郎「古寺巡礼」 | |||||||||
1922 | 大正11 | 島原半島南部地震M6.9 | 吉木山六所神社を県社に改める。 1/中部労働組合連合会結成。6/26東邦瓦斯設立。東邦電力設立。7/1〜4乙川・早川堤防決壊、田畑142ha、桑園420ha浸水(愛知県災害誌)。7/28大同精鋼・電気精鋼所合併、大同電気精鋼所設立。11/10愛知水平社設立。9/田原町吉胡貝塚発掘307体の縄文人骨出土。 2/6ワシントン海軍軍縮条約、九カ国条約調印。4/治安警察法改正。4/日本農民組合結成(神戸)。7/日本共産党、非合法に結成。10/25日本軍、シベリアから撤兵か完了。 山県有朋(松下村塾出身、騎兵隊総督)30才没。大隈重信(肥前の尊攘派として活躍)30才没。 | |||||||||
1923 | 大正12 | 関東大震災 | 4/1郡制廃止。5/1鶴舞公園で、名古屋初のメーデー。6/愛知電鉄神宮前ー東岡崎間全通。9/29鶴舞に名古屋市立図書館開館。 9/関東大震災(M7.9)。死者・行方不明者13万余人。11/国民精神作興に関する詔書発布。「文芸春秋」創刊。横山大観「生々流転」。トルコ共和国成立。 | |||||||||
1924 | 大正13 | 地震 | 関東大震災震(M6.8)、 丹沢山塊地震M7.3。 5/米国の排日移民法に抗議。6/11愛知出身初の内閣総理大臣、加藤高明内閣成立。7/小作調停法。12/婦人参政権獲得期成同盟会結成。谷崎潤一郎「痴人の愛」。レーニン没。スターリンが変わる。 | |||||||||
1925 | 大正14 | '北但馬地震M6.8。 水害 | 1/東海道稲沢操車場開設。5/1豊橋の第15師団、軍縮により廃止。7/15名古屋放送局(JOCK)、中区南外堀町でラジオ放送開始。(加入者3,291人)。8/豪雨により、大水害(籠川、逢妻川、枝下用水決壊)。 1/日ソ基本条約。国交回復。2/治安維持法・労働争議調停法反対労働者大会4/日本労働組合評議会を結成。4/治安維持法公布。5/普通選挙制。11/東京環状線電車全通。細井和喜蔵「女工哀史」。孫文没。 | |||||||||
1927 | 昭和 | 昭和2 | 北丹後地震(M7.3)。金融恐慌 | 3/金融恐慌起こる。4/22県下の銀行、金融モラトリアム実施に伴い3日休業。4/県内に金融恐慌波及。5/立憲政友会,6/立憲政友党愛知県支部発足。6/1愛知電鉄、神宮前ー豊橋間全通。9/本田利三郎、六所神社下宮:狛犬「吽」寄進する。9/25普通選挙最初の県会議員選挙。11/19北原泰作、天皇直訴事件起こす。 3/全日本農民組合結成。金融恐慌勃発。4/三週間のモラトリアム(支払猶予令)実施。4/徴兵令を改め兵役法公布。5/第一次山東出兵。6/立憲民政党結成、総裁浜口雄幸。ジュネーブ軍縮会議。東方会議。12/初の地下鉄、上野ー浅草間開通。芥川龍之介自殺。 | ||||||||
1928 | 昭和3 | 水害 | 5/8名古屋の第3師団、山東出兵により動員令。6/張作霖爆殺事件。7/18愛知県下に大雨。枝下用水・越戸付近で決壊(愛知県災害誌)。9/15御大典奉祝名古屋博覧会開催。 2/初の普通選挙(衆議院議員)。3/共産党全国的に検挙(3.15事件)。4/第二次山東出兵。4/日本商工会議所設立。5/全国農民組合結成。6/張作霖爆殺事件。治安維持法改正(死刑罪・目的遂行罪追加)。7/特別高等警察新設。8/パリ不戦条約調印。蒋介石、国民政府主席に就任。 | |||||||||
1929 | 昭和4 | 世界恐慌(〜32) 水害 |
世界恐慌始まる。4/15名古屋無線電信局依佐美送信所開設。7/19名古屋を中心に防空演習行う。8/14台風通過により、矢作川上流で300mm降雨。挙母警察所管内で床下浸水10戸、田畑25ha被害(愛知県災害誌)。8/16矢作川洪水で南奥田新田の海岸堤防が20m決壊。矢作古川堤防が決壊(西尾市史)。9/10台風により大雨。保見村の橋流失、高橋村地内の県道決壊(愛知県災害誌)。9/20愛知県教化動員委員会設立。10/1東春日井郡瀬戸町、市制施行。10/7劇団名古屋小劇場設立。 3/元労農党代議士山本宣治暗殺。4/日本共産党大検挙(4.16事件)。6/中国国民政府を正式承認。7/改正工場法で、婦人及び少年の深夜業廃止。9/労働組合全国同盟結成。10/アメリカの株式市場暴落の影響で、生糸価格崩落。10/犬養毅、政友会総裁に就任。11/金解禁令公布。11/内務省、全国の失業者数268,590人と発表。12/清水トンネル開通。島崎藤村「夜明け前」。小林多喜二「蟹工船」フレミング、ペニシリン発見。 | |||||||||
1930 | 昭和5 | ファシズムの台頭北伊豆地震M7.3 | 2/1名古屋市営バス、4路線で営業開始。9/5名古屋鉄道、名岐鉄道と名称変更。10/中川運河の開削工事終わる。11/大隈鉄工所・日本車輌・愛知時計電機・岡本自転車自動車製作所共同で、国産車開発(7年完成:試作車アツタ号)この頃、県下の農産漁村不況深刻。 1/金解禁実施。1/ロンドン軍縮会議開催。4/ロンドン軍縮会議調印、のち統帥権干犯問題。10/米価大暴落で、大阪・東京穀物取引所立会休止。労働争議多発。11/浜口首相、東京駅で、狙撃さる。 |
1377年 (永和3年) |
創建:1377年(永和3年)8月19日松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)、吉木山(又は芳樹山と記す)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。 ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。猿田彦神(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。 |
1602 | 後陽成 | 慶長7 | 家康は、高月院の祖廟参詣の節に、吉木山六所神社に20石の初穂料を献じる。 | 家康は、高月院の祖廟参詣の節に、吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)六所神社に20石の初穂料を献じる。家康、妙昌寺に梁山・曲り村内20石を寄付。 松平(奥平)忠明、上野長根より入封、作手1万7千石を領す。美濃路開かれる。 4/大雨、美濃洪水。人馬多く死ぬ。7/大雨、尾張。 本願寺東西に分かれる(東本願寺創建)。徳川家康、筑波山の知足院中禅寺(筑波神社の前進)に徳川家の祈願書として500石の寺領。 東海道に松並木を植える。この年、三河各村に幕府検地実施。 |
1734 | 中御門 | 享保19 | 前年度より飢餓民救済者に報償/小田原城下・対馬城下火災。 | ||
1735 | 享保20 | 日光・守山に地震 | 米価下落により最低価格決める。(江戸1両1石4斗) 4/25刈谷藩が領内の総検見を命ずる。この年までに加茂郡大林村・碧海郡尾崎村などで 貢租減免運動おこる。 | ||
1736 | 桜町 | 元文1 | 8/17三州岡崎大雨につき、矢作常水に9尺4寸増水し、田畑21,287石、堤決壊242間、被害多し(矢作川)。10/宮口村、年貢免除の嘆願書。 享保の改革(第三段階=種々の国家制度の充実。制度や儀礼の重視などで安定した幕府体勢の形成。)5/金銀改鋳。米価最低価格引き上げ(昨年より3度目)。米の安売り厳禁。 | ||
1737 | 元文2 | 5月江戸大火 | |||
1738 | 元文3 | 江戸市内宅地でのたばこ禁止。5/磐城平元文一揆。7/尾張藩内の市に市日をたてる。8/関東新田の開墾を勧める。 10/1刈谷藩領の農民、新しい方法による検見に反抗して一揆を起こす。検見中止。藩役人3人処分。 | |||
1739 | 元文4 | 1/尾張藩主徳川宗春、将軍吉宗から隠居蟄居を命ぜられる。5/陸奥・安房・伊豆沿岸に異国船出没。監視と警戒を強める。 | |||
1740 | 元文5 | 三河各地域の文化的交流の成立基盤 | 洪水、挙母村破堤(郡誌)。 8/佐野知堯(ともたか:宝飯郡下長山村(豊川市)徳宝院住職であったが、還俗して寺子屋師匠として一生を送る。:三河地域の指導者の、菅沼家の代官・庄屋・御用達の太田白雪に師事。三河各地域の文化的交流の成立基盤となった。)により「三河国二葉松」が著わされる。 |
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