3 日本人のルーツは ??
祖先は、3つに大別できる! |
・・・・「日本人遙かな旅」 NHK より |
人類は、20万年前 アフリカ大陸で誕生し、その後、10万年前にある集団はヨーロッパ大陸へ、或いは東南アジア大陸へと移動を始めた。 |
@ シベリアにはぐくまれた知恵
A 大海原を越えた南の海の民
B 中国大陸からイネを携えそして日本へ |
従って、
アジアの様々な顔を持つ日本人となった。 :複雑に混じり合うDNA。それが日本人の姿である。
世界平和を願わずにはいられない。
元は、皆、一人の母親なのだから!! |
(1) 一つは、シベリアから・・ |
縄文人の歯で検証された |
○ 縄文人29体の調査 ○
佐賀医科大学は、縄文人29体の骨(縄文人の歯)からDNAから検出してみた。
・・・・結果・・・
縄文人29体の骨は、人それぞれの固有の分子構造を持っていたが、これを国立遺伝学研究所に所蔵される世界各国132の民族500万件のデータから照合・調査した。
それらは:
韓国・台湾・タイが各々一名で・・・・
他27人はシベリアの現ブリアート人と一致した。
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驚くではないか?!
ここで出土した縄文人の29体の内、27体がブリアート人と一致したのだ。
祖先の多くがシベリアからやってきたことを示しているのだ。
このころは・・・・・
☆ 2〜3万年前は・・・ 海面は100m下がっていた。
従って、この時期には、北海道とサハリンとが直結されていた。
この頃の気候は、氷河期だった。日本列島は、今より10℃程低い温度であった。
東京の辺りは針葉樹点在する平原であった。
☆ 日本列島には、これ以前に人類の住んだ確実な痕跡がない。 縄文人は、氷河期にやってきた人類の末裔である。
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@ 現在のブリアート共和国人
マクソホン村(バイカル湖周辺)の住民は、古くから遊牧生活をしてきた先住民である。
不思議なほど、日本人の顔とよく似ている。
このブリアート共和国人の、居住地近くで、マリタ遺跡(23000年前のもの)を、イルクーツク大学のG・メドべーシェフ教授らが1928年に発掘した。
→ |
☆ この遺跡には、石器の材料と思われる、くさび形石核(材料)があった
そして、
これと同じ型の石器が、北海道嶋木遺跡からも出土〈札幌大学(考古学)木村英明教授〉したのだ。
これによってDNA以外にも、人類の繋がりの証拠を発見したのだ。
シベリア(バイカル湖周辺)が、日本人の源郷土であると言うことが、アキラかとなった。 |
この遺跡には、
7戸の家があった。それは40人ほどの集落であった。
家は、木の骨組でパオに似たテント状の構造であった。
トナカイの角や骨が出土した。この毛皮は活用されたであろうと、推測される。
また、
首飾り(動物の骨を細工)
シベリア特有の石器 石のナイフ等が発見された。
氷河期のシベリアに人類が生活した証拠である。
また、くさび形石核(材料)があった。 |
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○ 人類は、20万年前 アフリカ大陸で誕生し、その後、10万年前にある集団はヨーロッパ大陸へ、
或いは東南アジア大陸へ、移動が始まった。
このときに、この逆に極寒のシベリアへ移動する集団もあったことを、マリタ遺跡(23000年前のもの)のマリタ集落によって知ることになる。
○ 骨や土中の花粉などで、マリタ遺跡分析の結果
マリタ遺跡(23000年前のもの)は、骨や土中の花粉分析の結果、トナカイやマンモスを食べていたことが分かった。 |
あ・ら・かると |
☆ 女優 天海祐希の持つミトコンドリアDNAのタイプが、千葉県下太田遺跡の人骨と同じであった。 ! |
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ミトコンドリアDNA
国立遺伝学研究所
斉藤成也教授 |
◇ 千葉県茂原市 下太田遺跡4500〜2500年前の遺跡:
縄文時代中期から晩期にかけての遺跡
ミトコンドリアDNAの、タイプ8が 24体中8体存在した。
このタイプは、中国やロシアなど東ユーラシアに多い。
また、
中国・雲南省のチベット族に一人いた。 3万年前の母親は同じだった。
女優 天海祐希の1200世代前の母親が同じ人であったということである。
ロシア医学アカデミー :バイカル湖周辺には15人中3名存在するタイプ という。
(ブリアート博物館に発掘品が保存されている。)
◇ 1万年前〜5万年前に遡ると、日本人は9人の母から生まれたということになる。
ゲノムDNAとは異なって、ミトコンドリアDNAは、母親からしか子孫には伝わらない。 |
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☆ |
気候は |
・・・・短い夏の寒い気候であった。当時の数百種類の植物と動物が、検証された。
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☆
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食べ物 |
当時の様子は以下のとおりであった。
食べ物:数百種類の植物と動物。マンモス(3.5m重さ6t) 洞穴ライオン 毛サイなど、絶滅した多様な動物が生息していた。
マンモスの骨にマンモスの絵画があった。・・。また、マンモスの牙に防寒頭巾をかぶる人間の像が描かれていた。
マンモス(3.5m6t)の牙は、2mもあり、かなりどう猛であったと思われる。
永久凍土にマンモスの子供の遺体を発見した。この胃に大量の泥が詰まっていたので、溺れて死んだものである。
これは、当時のヒトが、マンモスを湖に追い込んで狩りをしたことが想像できる。
☆
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E・ギーリャ博士 物質文化史研究所(実験考古学)は、マンモスの化石の骨を貫いている槍を発見した。(この槍は特殊な構造をしていた。)
また、動物の骨を削って、側面に埋め込まれた細石刃も見つかっており、極めて独特な道具であったと思われる。これは、「替え刃式カミソリ」の様であった。
尖った骨の道具を使って、押圧薄利によって細石刃作成し、骨と細石刃の二つの異なる素材を併せた道具といえる。技術革新が認められて、当時のヒトの知能の発達状態を知ることができた。 |
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☆
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狩りの
方法
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狩りの方法は? ・・ 大勢で威嚇して、集団で水辺へ追い込み数時間、あるいは、何日もかけて狩ると言ったものであったらしい。これによって、彼らの間にはコミニュケーション能力が育成されたと思われる。 狩りをして、これを食べて永い冬を乗り越えたと、推測できる。
だが、マリタ遺跡には、2万年前に異変が起きたようだ。ここで、生活の痕跡は途絶えている。 |
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Aオボンキ遺跡発見。
サハリンエニセイ川河口付近で
ここで細石刃を発見。 |
エニセイ川河口付近には、氷河期のまま溶けない50m厚さの氷が存在している。
この氷中の酸素によって、氷河期の空気を分析して、過去の気温変化を知る。
調査の結果、
2万年前、地球上でもっとも寒い最寒冷期を迎えていた。平均気温10℃下がる。植物のまったく生えない極地砂漠であった。そこで、動物も移動。食物の採取できない寒冷の地から移動を余儀なくされたと思われる。
ベーリング海峡を経てアメリカへ、或いは中国方面へ、また、ある集団はサハリンから日本列島へと、移動したと思われる。 |
B 柏台T遺跡 |
北海道千歳市 柏台T遺跡:ここに2万年前のたき火の跡。
そこからオボンキ遺跡と同じ 細石刃を発見した。 マンモスの骨も発見
本州へ移動したことが判明した。2万年前をピークに、彼らは移動。
この時、氷河期の最寒冷期(ー30℃)であった。
津軽海峡は、水深があったが海峡が凍る時に本州への移動は可能であった。また、対馬海峡を経由しての移動もあった。
この頃の日本列島は、富士山は活発な活動中で、ナウマン象 ヘラジカ バイソン 様々な大型動物が居た。 |
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○ 新たな試練
その後、急激な温暖化が始まり、50年間に7℃気温が上昇。現代のような形になる。
それとともに、草原が減少、森林化し、大型動物は居なくなり、ブナ・ナラなどの広葉樹に変わった。
人類の窮地がやってきた。食料が確保困難となった。 |
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C 帝釈峡遺跡
(広島県油木町) |
急激な森林化による動物の生息状況の変化(帝釈峡遺跡:広島県油木町)
愛知教育大学(動物学)河村善也教授等によって、広島県油木町で、化石が発掘された。
大型動物の激減が認められる。獲物は鹿・イノシシ・狸・ネズミに変わる。
同時に、大型動物を狩り尽くして、食糧不足となった。
新たな狩りの道具を作り、長さ2cmの矢尻:弓・槍などを使って。動きの早い小動物をとらえる事になる。また、同時に新たな食料探しを行う。
ドングリ(成分:でんぷん質に富む。しかし、タンニンが多く、渋いので食用に適さない。が、栄養価は米に匹敵。)を、食べる方法を考え出した。
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D
百人町三丁目遺跡
(新宿) |
百人町三丁目遺跡(新宿):ここの遺跡には、数十点の土器の破片(1万2千年前)が発掘された。
煮炊きの道具にしたと思われる。この土器によって、エジプト・メソポタミヤより数千年前から土器を使用していたことが判明した。我が祖先達は、土器によって、食糧危機を乗り越えた。
〈参考: 世界最古の土器の破片土器の起源:1万3千年前 シベリア・アムール川の流域 魚の脂貯蔵に使用説が有力である〉 |
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☆ 土器は、日本列島に持ち込まれてからその形態が変わった。 → 厚さ5mm
この土器の厚さは、最初の出発の場所である、シベリアの1/3であった。
極限まで薄く作成:熱伝導がよい。しかし、作成は困難であった。
彼らは、粘土の性質を改良した。→顕微鏡によって検査した結果、鹿・イノシシの毛を粘土に混合したことが判明した。壁土に、藁を混ぜたようなモノである。
シベリアのアムール川流域のもの |
厚さ厚く樽状(ビールのカップ状)で、食物の貯蔵用としたようであった |
日本のもの |
薄く 底が丸い(茶の湯飲み状) 煮焚き用
煮ることによって食料に変えるという・・・以後、1万年にわたって続く縄文時代・土器の文化を築いた。 |
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(2) 黒潮に乗って、南から北への、海のハイウェイを渡る祖先 |
貝殻文様の土器 |
@ |
南九州の民・・・・・縄文時代の初め花開いた民族
・・・現代人や、後の縄文人よりも背丈は小さい
(男155cm女144cm)。 |
約2万年前。時は、氷河期の日本列島であった。 |
縄文時代の初め花開いた民族 |
○ 沖縄本島 港川遺跡 ほぼ完全な9体分と化石。
18,000〜16,000年前のモノだ。
港川人 |
ワジャク人 |
柳江人:中国 |
山頂人:中国 |
後頭部後ろに突き出ていない |
同左。ジャワ人の特徴 |
後頭部後ろに突き出ている |
後頭部後ろに突き出ている |
眉間張り出している
頬骨張り出している |
眉間張り出している
頬骨張り出している |
※ 中国の遺跡と比較すると、ジャワ人・南方系のワジャク人とよく似ていた。 |
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○
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南からやって来た人々がいた。
桜島:250mの高台に、9,500年前の遺跡→ 上野原遺跡がある。ここは鬼界カルデラの火山灰層。
50余りの住居跡が発見された。 たて穴住居で、広さ8畳ほどの一軒の家に5人くらいの人。
集落全体では50人程の人口であった。
熱く焼いた石による蒸し焼きが調理の方法であった。燻製(くんせい)作りも行われた設備跡が発見された。 |
○
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また、7,500年前のもので、一般に弥生時代かと思われる土器が発見されたのだ。しかし、弥生より5000年以上前のものであった。
独自の文様を持った土器 → 縄文時代の土器は縄の紋 ここは、貝殻文様
海に近い人々の暮らし振りがわかる。
発見された丸ノミ石斧は、丸木船を作る道具であった。現在のノミと同じ形である。
鹿児島より南の沖縄の列島でも同様なものが発見された。 |
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6,300年前、薩摩硫黄島に大噴火がおきた。→ 南九州一帯を、土石流
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○ ジャワ島のワジャク人:ワジャク洞窟 |
オランダ学者が、 1889年に発掘。 |
? |
石灰質の土の中から発掘 地球が氷河期だった頃ここでは温暖で過ごしやすかった。
100を越える人類化石発見・・・多くの人が集まっていた。
◇ 海を隔てたところに何故集まったか??
島周辺の海底地積調査の結果、かつて、この辺りは、今より100m海面が低かく、陸続きの「スンダランド」だった。 |
○ |
ジャワから北へ1,000キロ→ボルネオ島のニアー洞窟:スンダランドの北部 |
巨大な洞窟 |
ジャワ島 スンダランドの民 ・・・ サイやイノシシを狩猟する
3万年前に人類が生存した証拠の痕跡である。
巨大な洞窟(東京ドーム2つ分を納める大きさ)。
ここで、 1958年に人骨とサイやイノシシの骨を発見した。
* 北のシベリアと並んで人類繁栄の拠点となっていた。
しかし、約2万年前の最寒冷期以降、海水面は上昇→そして、地球温暖化 → 島は水没 →
そこで、遠くの海に乗り出す智慧をあみださざるを得なかった。・・・。
|
◇ どのようにして海に乗り出したか? アラン・ソーン博士は述べた(元オーストラリア国立大学)
東南アジアは、1,000種類を越える竹の宝庫である。
竹の筏(いかだ)で何千本もある河を・・・、そして海岸へ、やがて海を越えるようになったのであろう。
○ バジャウ の人々→ 最近まで海上生活が主体だ。今でも、600Km離れた海に漁に出る
彼らは、潮の流れや海鳥の動きで方向を見る能力を持っている。
竹の筏(いかだ)から、やがて丸木船にと、製造技術は進歩したのである。 |
○ 造船の技術進歩によって、
民はオーストラリアへ、そして
フィリピン方面へと向かった |
◇ |
例えば、ドゥマガット人であえる。
彼らはホモサピエンスの顔立ちと髪の毛を持った人々である。
→ スンダランド水没の頃の、海を渡った人類だ。
血液の分析結果から、スンダランド水没の頃ここに移動したことが判った。
・・・このように、多くの海洋漂流民となって移動したのである。
だが、しかし、丸木船のみでは、不可能であった。
|
○
黒潮 |
黒潮 (幅200Km 水深1km)
黒潮は、フィリピンから5000キロに渡って流れる、いわば、海のハイウエイであった。
この、黒潮が、フィリピンと1000キロ隔てた沖縄とを結びつけたのだった。
|
◇ |
フィリピン タラワン島で、 丸木船 & 丸鑿石斧 が発見される!これは、4,000年前のモノであった。
その丸木船は、 沖縄のそれと共通点が多かった。。 |
A |
沖縄人の暮らしぶり ・・・ 熟年男性骨格9体の港川人骨発見。
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港川人 |
○ 港川人は、 身長153cm。 小柄で華奢(きゃしゃ)であった。
栄養失調であったらしく、X線で調べると、横に走る線・ハリス線が見える。腕、肩が細い。
しかし、足は丈夫。このことから、採集・狩猟の民 と、推定することが可能である。
調査の結果、獲物は、イノシシ、鹿(琉球鹿)であった。
琉球鹿は、体長1m未満の小動物である。狩りはし安かったので、狩りをしつくし、鹿はすぐに絶滅した。
民は、飢えと背中合わせの生活であった。かれらは狩りの獲物を探しながら移動するのが常であった。
・・・が、しかし、彼らは琉球にとどまって、南九州にたどり着いた痕跡はない。
南九州まで黒潮は達していなかったのである。
この頃は、まだ、氷河期だった。
2万年前、黒潮は親潮の影響で、沖縄の北で方向を変えていた。
その後の温暖化の結果 ・・親潮の勢いは弱まる。・・・が、
やがて、1.2万年前には、南九州まで黒潮は達するようになるのであった。 |
B |
9,500年前 鹿児島・上野原で定住生活 日本の他の地域に先駆けて・・・。
|
◇
上野原人 |
鹿児島を中心に、九州の十カ所以上で、丸鑿石斧が発見される ・・・ 丸鑿石斧
調査の結果、祖先たちは南九州地域で3,000年の繁栄を示す。
彼らは、照葉樹の椎の実を食べていた→ 上野原人。
そして、斧で、照葉樹の森を切り開く技術をもっていた。 ヤマモモ、シイ等を食糧に得ていたことが判る。
65個の磨製石斧が発見された。
表面を磨き上げた石器→敲打技法で、表面をたたいて丸い棒状にし、表面全体を磨き上げて強度を高める。
ここで開発した技術は、その後、様々に形を変え、森の道具に変貌することになった。
|
○ この地域で、7,500年前の土器も発見された。 口狭く、胴部広い土器であった。
発見された壺型土器(弥生人と同じ形を、5,000年も早い時期に・・)は、 高さ50cm。
弥生人は、
この形の土器は、穀物運搬用に使われたと思われる。 → 穀物栽培か??
そこで、プラントオパール分析結果、
アワの様なエノコログサ属、ハトムギなどのジュズダマ属、ヒエ属が確認された。
他の地域に先駆けて雑穀の栽培をした痕跡があったのであった。 |
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○ 6,300年前。 鹿児島沖の火山(ピナツボ火山の15倍の規模であったと推定)噴火!
水面下100mで噴火した。上空3万mまで噴煙が立ち上がったと、推定できた。。これが南九州を襲った。
(注:1997年団地造成工事で発見される。)
3,000年の間繁栄し、しかし、6,300年前の火山噴火によって滅びることになったのである。 |
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○ |
高知県(木屋ケ内遺跡) |
高知県(木屋ケ内遺跡) に 磨製石斧 貝殻文様の土器が発掘された → 黒潮の民が、ここで、先住民と交わったことを証明した。 |
○ |
和歌山(黒潮の混じり合うところ) |
和歌山(黒潮の混じり合うところ)でも・・・。
港川人 骨の分析結果から、縄文人に混じり合ったことが判った。
そして、更に北へと・・・。 |
○ |
東京・多摩ニュータウンNo.72遺跡 |
4,500年前のこの遺跡には、 磨製石斧249本が発見された 。
南九州のモノと同じ形のモノが、これらの土器に混じっていた。 |
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13,000年前 〜 2,300年前の縄文時代は、およそ1万年間 |
日本人遙かな旅 海が育てた森の王国
8,000年前の縄文時代の木はハンノキ。
鬱蒼とした森の中に生活を営んでいた。
地球の温暖化。そして、海底に沈む・・。 |
縄文人の中に日本人の原点を探りたい |
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(3) |
東京 多摩ニュータウン
1,000を越える住居跡 土器も多い。 |
たて穴住居 |
関東ローム層
○ たて穴住居 丸いくぼみ 深い穴に柱 およそ10畳程の家 屋根を茅などでふいた。
しかし、これより、南九州の方が遺跡は古かった。南九州の方が、古い遺跡であったのである。
20〜30の住居跡 6,000年前からこの地に生活した。 標高100mの場であった。
スリ石と石皿で、ドングリを磨り潰す作業の痕跡が認められた。
森で採集生活をして、一カ所に定住したようである。
縄文時代の初めは、樅(もみ)・白樺などの限られた木の実を食し、移住採集生活であった。
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気候の
変化 |
○ ある時、劇的な変化:日本海の変化 ・・・海底の泥の調査(産業技術研究所)結果による。
秋田県男鹿半島沖 海底2,000mの泥 過去9万年に渡る海底の土の色変化を調査
氷河期の終わりから黒→ 氷河終わりより灰色 → 1万年前から深緑色
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深緑色は、植物プランクトンの増殖を示している。・・・ 8,000年前頃から急激に暖かくなる。
これは、地球温暖化の証であった。
温暖化により、海面が上昇して、島は大陸から切り離されることになった。
ここは黒潮の源流(津島暖流)。
シベリヤからの気流が大量の雪をもたらし、太平洋側には大量の雨が降った。
春・夏・秋・冬の季節がはっきりとし、森の姿を変えることとなった。 |
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針葉樹 落葉広葉樹であった森も、
11,500年前より、温暖帯落葉広葉樹(クリ・コナラ)、照葉樹(かし・シイ)となる。
やがて、樫・椎の樹林が列島全体に覆う。・・・・ 東京多摩も同様であった。 |
食糧 |
○ 様々な食糧
春:ワラビ・ゼンマイなどの山菜 夏は 魚
秋:ヤマブドウ・栗・ドングリ 保存して冬へ |
定住化 |
森に定住化して 住居
石の斧 磨製石斧(オノ) この石斧で森を切り開いた
福井県で出土:5,500年前のものでは、
ユズリハの柄で、ソケット状の頭に、ひもで縛り付けてあった。
1軒の家で約32本の木材を使用してあった。
20年ごとに立て替えられていた。→(これは、森が復元する年数であった)
自然のリズムに合わせた生活を行っていた、と考えられる。
世界で一番多様な種類の木を持つ森=日本列島であった。 |
|
東京都立大学(山田昌久助教授)で実証 → 柄の作り方が重要である。 |
○ 石の斧の破壊力:
直径10cm木材 で 5分
30cmならば 30〜40分ほどで伐採可能である。 |
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@ |
青森県山内丸山遺跡・・・ 5,500年前 |
|
巨大集落 5,500年前忽然と表れた 青森県山内丸山 35ha(35万u)の広大な集落であった。
○ 集落の中心部:中心部に直径1mの柱6本=物見櫓?
○ 32mの住居 200人以上収容可能 集会所か?
最盛期には、人口を500人も擁す大きな集落であったと推定できる。
○ 土器 ・・ 細長い円筒形
○ 土偶:様々な表情のものが1,500点も出土した。 リンク 山内丸山遺跡
☆ 国立民族博物館 辻誠一郎助教授によると ・・・・
土壌サンプルで、花粉の歴史を調査した結果、以下のことが判明した。
集落の始まりと共に、5,500年前頃からブナ・コナラの花粉が激減したようだ。そして・・
その頃から栗の花粉が急増している。このことから・・
森林を伐採し開発したと見られる。・・栗の栽培かと思われる。
↓
自然界では、ここのように栗の花粉がその50%以上を占める等と言うことはあり得ない。
☆ 佐藤洋一郎助教授 静岡大学(植物遺伝学)によると ・・・・
この場所の5,000年前の栗の実からDNAを調査した結果。 パターンが同じであった。
野生の栗は、個体ごとにDNAのパターンがそれぞれ異なっている。→ これからも、
栗の栽培の事実を物語っている。
当時、栗の実は人口を支え、樹木は住居の資材となった。
○ 編み篭(高さ15cm程) 等様々なものを作る
○ 漆の栽培も実証:漆の器 耳飾り・・磨製
○ 遺跡のシンボル 15m(5階建てビル) の高さ 6本柱
海も見える・・・海からもよく見える
○ 翡翠 ・・・ 新潟より500kmの遠距離をここに運ばれてきたのである。
○ 黒曜石・・・ これは、北海道十勝および佐渡から・・・・
日本海側に数多い集落があったようである。数多くの多様な交易の跡が見える。
各地からここに集まり、幅15mの大通りを通り、資産を交流したことが伺われる。
ここからは、漆の器・栗の実を持ち出す
◇ 1,000年に渡り、この集落は維持され続けた
○ 盛り土(ど)もあった。・・人工の丘が複数→ 1,000年以上の時をかけて2m積み上げられる
盛り土(ど)は、集落の中央の広場を囲むように、数カ所あった。
盛り土(ど)の一番下に先祖の墓らしき痕跡・・・岡田康博 青森県教育長文化財保護課
これは先祖供養の場所が年月と共に 聖なる空間となった。
◇祭礼の場所・・・人々の結びつきは強まり、一層の繁栄をもたらすことになったと思われる。
完全な土器を壊して、埋葬してある。
女性の土偶は、実りを祈るためのモノであったろう。
このように、この場は祭りの場所として機能した。 土器を割り大地に戻す
しかし、4,000年前に暮らしの痕跡が消えた。・・集落の衰退。 |
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A |
・集落の衰退 |
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○ 遺跡の西側から直径50cmの栗の大木を発見した。
これの年輪調査によって、4,200年頃から成長悪くなったことが分かった。
○ 環境変化 小川原湖(三内丸山遺跡の西・三沢市の北)の泥の調査
プランクトンの調査から、4,000年前のチューブ状のものが丸くなっていることが分かった。
・・・ 3〜4度の気温変化(低下)があったと思われる。
プランクトンは、固い殻を作り冬眠状態になっている。
(東京都立大学 福沢仁之教授・環境変遷学)
収穫が低下し、人々は集落から離れて、周囲の森へと分散していった。・・人工の森は消えた。
このころ、日本列島の他の地域にも、この傾向があった。(分散)
|
B |
小高い丘から平野に移動を始めた。
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各地に広大な平地が現れた。・・4,000年前、小高い丘から平野に移動を始めた。
竹を編んだザル。栃のみをアク抜きする施設。平野の水辺。
埼玉県川口市・・9×2.4m 筧を渡した施設。 (金箱文夫 川口市教育委員会)
村人が集まって共同で作業・・アク抜き
等距離のところに3つの集落を発見。共同で施設管理。
栃の実を拾って、灰汁抜きの共同作業を行った形跡が認められた。・・森と共生する暮らしの原型である。
そして、・・・
やがて、 稲作が始められた。 |
(4) |
稲の栽培を・・ |
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○ 中国・運南省 多種多様の米(数千種)が栽培されている。
ここが、従来、稲作発祥の地と言われてきた。
納豆・豆腐も存在し、日本文化のルーツと言われてきた。
しかし、 雲南省の遺跡から出土した炭化米の分析結果から4,000年前のものと判明した。・・・・・?!
では、日本の米の由来は中国からであろうか??
↓
ところが、日本列島の稲作の歴史の方が雲南省のそれよりもはるかに古いことが分かった。 |
|
さて、・・・・ 他に目を転じると・・
************************
○ |
徳島県頓原町 板屋V遺跡:縄文時代の遺跡には、稲作の痕跡があった。
地層の中にイネのプラントオパール(40ミクロン) |
○ |
岡山県の朝寝鼻貝塚、島根県など、西日本の遺跡9カ所に稲のプラントオパール発見。
中でも朝寝鼻貝塚のものは6,000年前のものであった。
(我が国の稲作は、縄文時代早期〜前期初頭から、
今日まで途切れることなく続いて来たと言うことだ。) |
************************
△ |
中国湖南省で、玉せん岩遺跡が、1995年に発見された。
(袁 家栄所長 雲南省文物考古研究所)
ここが、最初に稲作を始めた人々の里であった。。
12,000年前頃から人の住んだ痕跡があり、この頃は、日本では縄文時代が始まった頃である。
この地層から、土器と共にイネ籾出土した。世界最古の稲である。
狩猟採集生活から、稲作開始したことを知ることができる。
芒(のぎ=籾の先から伸びるヒゲ)が退化しているので、栽培種と思われる。
自らの生活を豊かにするために稲の栽培を始めたようだ。 |
△ |
淅江省(雲南省の東、長江を1,000km下ったところ)河姆渡(かぼと)遺跡
湿地に多くの柱を打ち込んで造られた住居跡を確認した。
7,000年前のここは、海岸のすぐ近くに位置し、動物の骨によって作られた銛や釣り針数百個発見。
:漁労生活を行っていた。 注:近年、黄河文明よりもずっと古い長江文明の存在が明らかとなった。
木製の舟のオール。 移動式竈(かまど)も出土・発見される(7000年前のものだった)。
今でも、竹で編んだ舟で漁労生活・・・・ 時々、九州あたりにまで流される漁民が居る。
☆ 数百人が暮らす集落・・・イネが重要な食糧 土器にイネの絵が・・・
腐らずに残った米150tを(静岡大学 植物遺伝学者 佐藤洋一郎助教授)DNA分析。
塩基配列は、 CCCCCCC(7)AAAAAA(6) 熱帯ジャポニカ特有の配列であった。
(今、日本人が食べているものの原種米。今より原始的な米であった。) |
そして・・・ さらに・・
○ |
佐賀県 菜畑遺跡出土の炭化米(縄文時代晩期) ・・・ これも、また、熱帯ジャポニカのイネであった。
(DNA分析による。)
河姆渡(かぼと)から日本列島までは、東シナ海を隔てて800kmあまりである。
祖先は、中国大陸から渡来した漁労民であろうと思われる。
対馬・佐賀貝塚から出土した縄文人骨は、6,000年前以降の対馬に縄文人がいたことを物語っている。彼らは海に生きる漁労民であった。
頭蓋骨を調査してみると、外耳道骨腫(潜水の跡)が確認できた。外耳道骨腫は、度重ねて潜水を繰り返す人にできるものである。水圧などの刺激によって外耳の軟骨が隆起したものである。 |
今も、対馬の人に受け継がれている。 素潜りで海底のサザエ・アワビ取りもする。
半農半漁 。耕地の一部に赤いイネを、今でも作り続ける。「古代米」と、呼んでいる。
「絶やすと、家に不幸が訪れる」と、言い伝えられている。
秋、俵に入れて、天井につる し、祭りに祈る。 |
☆ 水稲の前に陸稲(おかぼ)栽培か・・・・!
△ |
熱帯ジャポニカ 人口1,000人のナムガワ村 (ラオス奥地)今も作り続けている。
やや赤みを帯びている。粘りけが多く、餅米のような食かん。蒸籠で蒸して食べる。
原野を焼いて(焼き畑)、数日後に播種〜5ヶ月後に収穫。・・・・焼き畑のスタイルの陸稲である。
縄文時代に水田がないので、稲作はないと思われていた。
日本列島で稲作が始まった6,000年前は、今より2〜3度高温であった。
南九州や中国地方では、ヒエやアワなどと混植されていたことが、プラントオパールで判明した。
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(5) |
水田技術の伝来 |
△ |
中国 こうそ省 7,000 6,500 6,000 5,500年前 迄の4種類の炭化米を発掘。
調査の結果、5,500年前から急に大きな米となる。それは現代の米の大きさであった。
6,000年前から、人工的な湿地で、稲作を開始したと思われる。→ 温帯ジャポニカ
これが中国大陸で北上し、およそ3000年前には朝鮮半島南端でも作られるようになった。 |
△ |
サンチョンチョン(対馬から海を隔てて50km)この地まで、縄文人たちが来ていた。
縄文土器や縄文人の生活道具が、この場所から出土したのである。
独自の土器を持つ朝鮮半島の人々が縄文土器を作ったことは考えられないので、縄文人自らこの地に来ていたのである。交易が盛んに行われ、朝鮮半島から水田の技術を持ち帰ったと思われる。 |
○ |
2,600年前の水田の跡。佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡(九州北部)から縄文土器出土。
日本最古の水田跡も発見された。水稲作はやがて、九州北部に広がってゆく。
吉野ケ里遺跡(佐賀)は、水田稲作を基盤とする生活であった。 弥生時代の幕開けであった。
本州最北部までに広がるのに、いご300年の時間がかかった。 |
○ |
九州北部から北へ2,000km 稲作は、従来、青森県津軽平野 平安時代、今から1,000前と思われていた。
2,000年前の遺跡に、水田の跡があった。田舎館村(北緯41度 世界最北端)。2000年前の炭化の米が発見された。
そこで、弥生時代中期:西暦元年頃には、ここに達していたことがうかがわれた。
中国大陸や朝鮮半島では稲作の北限は39度以北にはない。稲は、もともと熱帯性の作物である。従って、品種改良の結果そうなったと思われる。(静岡大学植物遺伝学 佐藤洋一助教授)
DNA分析の結果、熱帯ジャポニカの遺伝子も、混植の結果雑種ができることが判明した。
雑種のイネの方が成長が早い。しかも、収穫が1月早まるのである。
熱帯ジャポニカは、日本各地に栽培の跡が12カ所の弥生時代の水田跡に観られる。
混ぜて植えられていたのではないか(混植)と、推測できた。(生物の多様性が有効に活かされていたのである。)
水田のところどころに、地力回復のための休耕田も認められた。 |
☆ ア・ラ・カルト ・・・ 朝日新聞 ’8,7.7より |
日本のイネ「南にルーツ」 遺伝子変異手がかりに推定 |
日本や中国で栽培されるイネ「ジャポニカ」の起源が、インドネシアやフィリピンまでたどれることがわかった。
農業生物資源研究所(茨城県つくば市)の井澤毅・主任研究員らが、もみの大きさを決める遺伝子の変異を手がかりに突き止め、6日付の米科学誌ネイチャー・ジェネティックス(電子版)に発表する。
もみの幅が広くて米粒が大きいジャポニカは、これまでの考古学的な調査によると、約1万年前の長江中・下流域が起源との説が有力だ。
研究チームは今回、ジャポニカの「日本晴」とインディカの「カサラス」の2品種を比べ、米粒の大きさの変化にかかわる遺伝子(qSW5)を発見。この遺伝子が変異してジャポニカが大きくなったことを確かめた。
この変異と、もみを穂から落ちなくする遺伝子変異、もちもちした食感にする遺伝子の変異の計3種類についてアジア各地の古い栽培品種142系統を調べた結果、フィリピンやインドネシアの品種で変異のないものと、もみを大きくする変異のみをもつものがみつかった。このため、この地域で他の二つの変異が組み合わさってジャポニカができた。(米山正寛) |
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(6) |
渡来人 稲作技術 |
○ |
二千数百年前 小さな国が生まれる。 新たな人々であった。
九州福岡 集落発掘された。2、400年前の10戸集落。堀に囲まれた環号郷集落。
深さ2m 幅10mの堀に囲まれていた(環号郷集落)。
畦や水路完備した、大きさが現在のものと変わらない本格的な水田の跡であった。
焼けて炭になった米も見つかった。 |
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福岡空港(板付遺跡から近い)に、1994年に発掘された。 (中橋孝博 九州大学教授)
一体の人骨があった。 これは、2、300年前のものと分かった。
水田稲作が始まった頃の集落から人骨が発掘されたのは初めてのことであった。
九州大学と名古屋大学共同研究によって、CTスキャンによる骨の分析が行われた。
その結果、以下のことが判明した。
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顔の輪郭 |
特 徴 |
縄文人 |
四角い顔 |
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渡来人 |
面長の顔 |
縦の長さは、2cm長い
横から見ると扁平であった。(眉間から鼻にかけての隆起小さい) |
全く別の遺伝情報っを持ったヒトであった。両者には、大きな断絶があった。別な人々である。 |
○ |
山口県「土井ケ浜遺跡」で、福岡と同じ性質の骨(350体)を発見した。
福岡の100年後の遺跡かと思われた。
しかし、福岡と埋葬方法に一致点があった→ 皆同じ方向に顔を向ける
そして、西からおよそ20度北を向く。→ 朝鮮半島・中国方面を向く埋葬の方向であった。
このことから、大陸からの渡来したと考えられた。 |
△ |
山東省文物考古研究所 魏 成敏 氏は、3,000〜4,000の墓を調査し、ここで400体の人骨を発掘した。
松下孝幸(土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)氏は、中国に渡って調査した。
計測の結果
このころの中国各地の人骨と、「土井ケ浜」の人骨と類似していることを確認した。
・・ 当時の日本人、縄文人とは特徴がかけ離れていた。 |
?日本列島を目指した理由は何か ??? |
中国は、春秋戦国時代であった。
小さな国々が次々と滅ぼされ、7つの強国に統一される時代だった。
(秦 韓 楚 魏 趙 斉 燕(えん)の七国)。
春秋戦国時代の戦乱は、500年にわたって続いたのであった。 |
三年汝に任ふれども 我をあへて顧みるなし
ここにまさに汝を去り 彼の楽土へ逝かむとす
楽土 楽土
ここに我が所を得む ・・・ 「詩経」より |
◇ |
血液による分析(HLA:ヒト白血球抗原)→ 分子構造の違いによって1万を超えるタイプに分けられる。
徳永勝士 東京大学教授(人類遺伝学)
B52-DR2 |
北中国 朝鮮 北九州 近畿 |
弥生時代の間に、何度かにわたって日本列島に渡ったと思われる |
B46-DR9 |
長江流域 北九州 近畿 |
B54-DR4 |
中国南部 九州 |
B44-DR4 |
朝鮮半島 沖縄 九州 四国 |
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何回かに分けて日本列島にやって来た様子である・・・戦乱を避けて・・・・?!
あるいは、新天地にロマンを求めて・・
数百年にわたって渡来したようだ ・・・ この辺りの時期に急速に人口を増やしている。
そして、東へ広がった。
九州の「隅西小田遺跡」の墓は、 50年間に2倍に増加し、百年の間に数倍に増加していた事が解った。
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(7) |
渡来人の持ってきたもの。 |
戦いの
遺伝子 |
○ 大阪平野 河内湖
ここには、周囲に未開の森・湿地があった。 ・・・当時のヒトの足跡と・鹿の足跡の化石を認めた。
鹿を追っていたらしい。
縄文系の人々の集落が点在していた。ここに渡来系の人々がやってきた。→集落を作った。
その集落は、数十年で、縄文系の人々の人口を上回わった。
鏃(やじり)の長さ5cm=縄文系の人々のそれの倍の長さであった。
それは、戦いの武器であった。→縄文系の人々との間で戦いがあったことがうかがわれた。
1991年発掘・・縄文系のヒトの人骨を発見した。
これは17個の鏃を打ち込まれて死んだ様子であった。
春秋戦国の乱世を生きた人々の持ってきた戦いの遺伝子がうかがわれる。
これは、現日本人の行動様式・精神文化に、大きな影響を及ぼしたと思われる。
☆ 彼らは、日本列島に「戦い」の遺伝子をもたらした。
石の材質は、サヌカイトだった。
近畿地方で使われた武器は、四国の香川県より入手したものらしいと思われた。
このことは、当時の交易の範囲の広さを物語っていた。 さて、・・・・
武器の発達とともに戦いはいっそう凄惨になった。各地で戦いが繰り広げられていたらしい。
戦いと共に渡来人は、さらに東へ拡大していった・・・・ |
○
西の渡来系:
東の縄文系 |
渡来人の拡大は、濃尾平野の東まで拡大し、ここで留まっている。
ここの深い森が影響しているようであった。
縄文人の遺跡の分析から、縄文人の85%は、東海北陸以東の東日本にすんでいたことがわかった。
水田を切り開くことの困難な深い森、縄文人の大きな人口密度→東日本は渡来系の人々にとって容易に入り込めなかった様子であった。
西の渡来系:東の縄文系・・・この状態は、これから200年ほど続くことが判明した。
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○ 兵庫県伊丹市 ○ |
5cmに満たない土器のかけらが出土した。
文様が深い溝を複雑に組み合わせたものであった。
小林青樹教授 國學院大學栃木短期大学専任講師(考古学)は、
「長野県を中心にする氷式土器に似ている。」という。
東日本から運ばれてきたように思われたが、材料の粘土が兵庫県のもの。
↓
縄文系の人々が、ここまでやってきて作ったものらしい。
岡山県の土器は、岩手県の土器に似ている。
他に、50を越える遺跡から、同様な結果が得られた。
○ 青森県→ 近畿 淡路 北九州
○ 関東 → 北九州
○ 群馬地方 → 近畿 中国 四国
1,000kmを越えて、人が移動したことを示している。
こぞって西日本に稲作技術を会得しにやってきた。そして、交流が生まれていた。
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(8) |
交流と通婚 |
中里遺跡 |
○ 箱根の山を越えた小田原 「中里遺跡」が調査された。 これは、2,100年前のものであった。
1998年に、渡来系人の遺跡発掘が行われた。そこは、6万hm(東京ドーム二つ分の広さ)であった。
ここは、水田を備えたものであった。
それまでの関東地方にはなかった規模だった。 多いときは200人ほどの人口であったと思われた。
神殿と思われる建物があった。ここには、縄文人も暮らしていた。 巨大な水田集落であった。
多くの縄文系の土器に、弥生土器土器が混在した。
渡来系の斧に混じって、石の鍬があった。これは縄文人が使ったもので、土地の開墾に使われた。
ここには武器はない。平和な集落であったと思われる。
(戸田哲也 玉川文化財研究所 所長)
水田稲作の技術と開墾の縄文人の技が交流し、互いに融和していた。・・・・と言う。 |
アバクチ
洞穴 |
○ 岩手県北上山地のアバクチ洞穴(岩手大迫町)を1996年に発見した。
ここで、2,000年前の人骨が一体分発掘された。 これによって全身像の復元が可能であった。
結果、身長1m 子供の骨であった。 しかし、これは、・・・
弥生人のものとは異なったものであった。 ・・・ 混血の証拠であった。
眼窩 |
丸い |
渡来系の特徴 |
人類学者・松村博文 国立科学博物館研究官
2,500人の歯を分析。 |
大きな歯 |
鼻の付け根 |
頑丈 |
縄文系の特徴 |
短い小さな歯 |
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○ 歯を分析 ・・大きさと形は、ヒトの系統を探る有力な手がかりとなる。
ヒトによって大きなばらつきがある。混血の度合いは地域によって様々である。
その後、西日本を中心に巨大集落を核にした小さな国がいくつも生まれたことが判った。 |
纒向(まきむく)遺跡 |
○ 幾つかの争いを経て、奈良県(桜井市)の大和盆地に古代国家が芽生えた。 纒向(まきむく)遺跡
この場所から、東海・山陰・瀬戸内・北陸 など広い地域から持ち込まれた土器が出土した。・・・
これにより、各地から人々が大和の地に集い巨大国家を築き始めたことがうかがわれた。
日本という国の原型が作られた。
2009年2月、新たな発掘調査が始められた。 |
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注: ☆ 後の日本・古墳の話題・・・・・ ☆ |
古墳の数 ('8年現在) |
今後、発掘調査が進められて、新しい歴史の真実が明らかとなってくることであろう。
埴輪の特長;(特徴の違いがはっきりとしていた。 静と動。)
関東:馬・武人像・太刀などの武器が多い。
近畿:家・家財などが多い。 |
関東地区
(利根川流域に多く分布) |
大和王権・古墳数 |
38,000基 |
29,900基 |
埴輪発掘数 913点 |
埴輪発掘数 812点 |
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