「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指したい・・・・・・。
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(1) 「ひとり」という言葉 ・・山折哲雄 京都造形芸術大学院長 MOKU 2001.MAR.42頁より 本来の意味で「個」を言うのならば、日本の大和言葉には、「ひとり」という良い言葉があるんです。これは『万葉集』の中にすでに出ていて、柿本人麻呂にこういう歌があります。 「衣手にあらしの吹きて 寒き夜を 君来まさずば ひとりかも寝む」 ひとりでいて、自然と対していると、自然に歌が生まれる。 短歌とか詩の世界というのは、やはりひとりの時に心の内に火花が散り、魂が燃え上がる、そういう世界を表しているわけです。 十三世紀になって親鸞の『歎異抄(たんにしょう)』にも出てくる。 「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)」、つまり阿弥陀如来がわれわれを救ってくれる誓いというのは、「自分ひとりのためだ」と言っている。 この「親鸞ひとりがためなり」というのは、非常に強い言葉です。そしてそれが本当の自立の思想というものであり、最近あちらこちらで鶏の鳴き声みたいに言っている、横並びの「個人」とは全然違うわけです。 (2) 放浪の俳人・尾崎放哉(おざきほうさい)そして種田山頭火(たねださんとうか) 近代になると、放浪の俳人・尾崎放哉。一高、東大を出て、一流企業に入ったのに、すべての財産、職を投げ捨てて奥さんとも別れて、ひとりで放浪の旅に出た。最後は結核を病んで、四国の小さな寺のさびれた庵で息を引き取るわけですが、そのころ 「咳(せき)をしても ひとり」 という俳句をつくっている。 大宇宙を前にしてたったひとりの自分がそこにいる、そういう感覚というか自覚だったのではないでしょうか。 その放浪の句を聞いて、種田山頭火が感動して、 「からす泣いて 私もひとり」 と和しています。 (略) われわれは、もうそろそろ近代的な「個」という概念からもう少し自由になって、いわば日本の伝統に立ち戻って、「ひとり」の世界を追求したり、確立したり、考えたりする、そういう時代に来ているのではないかと僕は思っているわけです。
一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只だ一燈を頼め。 ”提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。” 言志晩録 林(佐藤) 一斎 ここで暗夜というのはお先真暗な人生行路をいっているのであり、 一燈とは自己の堅忍不抜の向上心ではなかろうか。・・・。 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長) 弟子の阿難が、釈尊に最後が間近いことを知って、 「私はこの先、誰に頼ったらよいのでしょうか」と泣きながら訴えた。 釈尊はいわれた、 「阿難よ、汝自らを灯火とし、汝自らを依り所とせよ。他を依り所とするな。 真理を灯火とし、真理を依り所とせよ。」と、・・・・。法句経(160) に歌っていう。 「おのれこそ おのれのよるべ 他の誰に たよられようぞ よくととのえし おのれこそ まこと得難き よるべなれ」 |
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(2) 真の自己と仮の吾 「言志後録」 真己と仮己に、佐藤一斎は、 本然の真己(しんこ)有り。躯殻(くかく)の仮己(かこ)有り。 須(すべからく)く自(みずか)ら認め得んことを要すべし。 ”有本然之真己。有躯殻仮己。須要自認得。”
宇宙の本質と一致して、自己善悪を判断できる真の自己があり、身体を備えた外見上の仮の自己がある。 このように自己に二つあることを自ら認めて、仮の自己のために真の自己を駄目にしてはならない。 ・・・ 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
真の自己を悟ることは一般には大変難しい問題である。これを真正面から取り組むのが禅である。 真の自己を自覚した人は、真の自由人である。 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長) (3) 真の自己とは・・・ 同じく、佐藤一斎(佐久間象山(1811〜1864)の師:佐久間象山は、吉田松陰(1830〜1857)の師である。)は、「言志後録」にいう。
佐藤一斎
人は生まれつき仁義礼智信という性分をもっているのであって、このような性分のもとよりしかるべき道を尽くすべきものである。 また、孝悌忠信という職分をも持っていて、それらの当然の務めも果たすべきである。 人間はただこうすればよいのだ。」 ・・・・・・川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長) 後に、佐久間象山(佐藤一斎の門下生、吉田松陰の師)は、 謗(そし)る者は、汝(なんじ)の謗るに任(まか)す。 嗤(わら)う者は、汝の嗤うに任す。 天公(てんこう)、本(もと)、我を知る。 他人の知るを覓(もと)めず。 と、揮毫している。 |
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(4) 背骨があった。ホネが有ったのだ! 世の中個性無く、画一化したのは何故だ?!・・苦縁讃 @ 福沢諭吉は、 「人生は芝居の如し。 上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。 とかく、あまり人生を重く見ず、棄身になって何事も一応になすべし。」
A 西郷南州遺訓より。 「人を相手にせず、天を相手にせよ。 天を相手にして己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。」 と、・・。
「大丈夫(だいじょうぶ)事(こと)を成(な)す 唯(ただ)自己の独立之(これを)恃(たの)む。 決して他人の力をからず。便宜(べんぎ)の地位を求めず。」と、・・。 |
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(1) 「言志後録」 やむを得ざるの勢 その1 佐藤一斎 雲烟(うんえん)は已(や)むを得ざるに聚(あつま)り、風雨已むを得ざるに洩(も)れ、 雷霆(らいてい)已むを得ざるに震(ふる)う。 斯(ここ)に以(もっ)て至誠(しせい)の作用を観る可(べ)し。 ”雲烟聚於不得已、風雨洩於不得已、 雷霆震於不得已、斯可以観至誠之作用。”
雲は自然の成り行きでやむを得ずして集まり生じ、風や雨の同様に、やむを得ずに天からもれてくるし、雷も同様にやむを得ずに轟(とどろ)きわたる。これらを見て、至誠(しせい)の作用を考えるがよい。
本文は自然現象がやむを得ざる状況で発生することを述べたが、人間の行動も、それが止むにやまれぬ至誠より迸り出るときに、人を感動せしめ、世を動かすことができることを示唆(しさ)したものと思う。 ・・・・・ 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長) (2) 同「言志後録」 やむを得ざるの勢 その2 佐藤一斎 已(や)む可(べ)からざるの勢(いきおい)に動けば、則(すなわ)ち動いて括(くく)られず。 枉(ま)ぐ可からざるの途(みち)を履(ふ)めば、則ち履んで危(あやう)からず。 ”動於不可已之勢、則動而不括。履不可枉之途、則履而不危。”
十分に考えて、これが最善であると決定して、止むにやまれない勢いで活動すれば、いささかも行き詰(つ)まらない。 曲げることのできない道(正道)を突き進むときは、決して危険なことはない。 ・・・・川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
付記: 南州遺訓 『道を行く者は、固(もと)より困厄(こんやく)に逢(あ)うを免(まぬが)れざるものなれば、 (3) 志と名声
名を求むるに心有るは、固(もと)より非なり。 名を避くるに心有るも亦(また)非なり。 ”有心求名、固非。有心避名、亦非。” 佐藤一斎
また、名声を無理に避けようとする心があるのもよろしくない。 (身分不相応な名誉を求める心はよろしくない。 また、当然受けるべき名誉を受けないと言う心もよろしくない) ・・・・・ 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長) A 謾言 と題して 佐藤一斎 注:一斎の門弟である 佐久間象山の「漫述」は、先に示した。 「落々たる乾坤(けんこん)またなし 誰ぞや古(いにしえ)より是(こ)れ真儒(しんじゅ) 唯(ただ)名と利と多くは累(るい)をなす この関を一過すれば僅(わずか)に丈夫(じょうぶ) と言いましたそうで・・・・。
「広大な天地に、人は多いが、真の人物はいない。 昔から真の儒者といわれる人は誰だったろう。 ただ、名誉と富とが多くの場合さまたげをなしている。 この名と利をはねのける関門を過ぎれば、 まあ、まあ、丈夫と言えるかな。」 と、・・・。 |
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(4) 向学の趣(おもむき) @ 「言志録」 6. 学は立志より要なるは莫(な)し 佐藤一斎 学は立志(りっし)より要なるは莫(な)し。 而(しこう)して立志も亦(また)之(これ)を強(し)うるに非(あ)らず。 只(た)だ本心の好む所に従うのみ。
学問をするには、目標を立てて、心を奮い立てることより肝要なことはない。 しかし、心を奮い立たせることも外から強制すべきものではない。 ただ、己の本心の好みに従うばかりである。 ・・・・・ 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長) 少而学。則壮而有為。壮而学。則老而不衰。老而学。則死而不朽。佐藤一斎「言志晩録」 ・・・・とも言う。 壮年期に為すこと有って期待され、老いても衰えず、 A 大志と遠慮 佐藤一斎 真に大志(だいし)有る者は、克(よ)く小物(しょうぶつ)を勤(つと)め。 真に遠慮(えんりょ)有る者は、細事(さいじ)を忽(ゆるがせ)にせず。 ”真有大志者、克勤小物。真有遠慮者、不忽細事。”
真に遠大な考えをもっている者は、些細(ささい)なことをもゆるがせにしない。 ・・・・川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長) ・ |
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(5) 胆識(たんしき)の趣(おもむき) 「言志晩録」 佐藤一斎 @ 独特の見識・見方というものは <読み> 独特の見は私に似たり。人其の驟(にわか)に至るを驚く。 平凡の議は、公に似たり。世其の狃(な)れ聞くに安んず。 凡(およ)そ人の言を聴くには、宜(よろ)しく虚懐(きょかい)にして之を激(むか)うべし。 苟(いやしく)も狃(な)れ聞くに安んずば可なり。
凡聴人言。宣虚懐而激之。勿苟安狃聞。可也。”
独特の見識見方というものは、個人の偏見のように見えるものである。 それで人々は今まで聴いたことのないものを突然聴くので驚いてしまう。 これに反して平凡な議論というものは、あたかも公論のように受け取られがちである。 世間の人々は聞き慣れていて安心しきっているからである。 すべての人の言を聴く時には虚心坦懐、即ち心を空っぽにして受け入れるべきである。 かりにも耳慣れた説ばかりをよしとして、これに安んじてはいなければ結構である。 A 学徳を修める・・とは <読み> 自得は畢竟(ひっきょう)己に在り。 故に能(よ)く古人自得の処を取りて之を鎔化(ようか)す。 今人(こんじん)には自得無し。故に鎔化も亦能(あた)わず。
今人無自得。故鎔化亦不能。” 佐藤一斎 「言志晩録」
学徳を修める場合、自ら得るところがあるのは、つまり自己の努力にあるのである。 ◇ 教育は・・・ 学校に伝えたいことがあり、生徒に学びたいものがあり、それを相互に伝え合いたいという意欲の接点があるという、教育本来の姿が必要なのです。今、意味も考えずに、横並びに皆、学校に行く。”学問”とは、良い言葉だ。クモンすべし!・・・・ 苦縁讃 B 克己の工夫 佐藤一斎 「言志耋録」 気象を理会するは、便(すなわ)ちこれ克己の工夫なり。 語黙動止、都(す)べて篤厚(とくこう)なるを要し、和平なるを要し、舒緩なるを要す。 粗暴なること勿(なか)れ。 激烈なること勿れ。急速なること勿れ。
要舒緩。粗暴。勿激烈。勿急速。
自分の気性を把握することは、即ち己に克つ工夫である。 語るも黙るも動くも止まるも、すべて手厚く親切であり、おだやかであり、ゆるやかであることが必要だ。 あらあらしくてはいけない。烈しくてもよくない。気ぜわしくてもよくない。 ************************** |
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中国南宋の随筆家『鶴林玉露(かくりんぎょくろ)』1252年 羅大経(ら たいけい)編集 <詩人”載益”の作と思われる>
また、 注:禅宗では、 「帰家穏坐(きけおんざ)」ということを言うが、道も、真理も、悟りも、別処にあるのではなく、 則今そのまま足下に、あなた自身という家の中に、こころの中に在ると教える。 ・・・ 「幸せ」は、今・・ここに在る。それが見えるかどうかに掛かっている。・・・ 苦縁讃 |
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(2) 幸福について @ 2,500年前のペルシャ王サイラスの言葉。
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A 逞しく生きる原動力について・・・・ それは、こころの若さ ・・ かな ?! ・・苦縁讃 |
" Youth" ・・・・ Samuel Ullman Youth is not a time of life,it is a state of mind. It is a temper of the will,a quality of the imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love of ease. ------------------------------------- You are as young as your faith,as old as your doubt; as young as self-confidence,as old as your fear, as young as your hope,as old as your despair. |
"若さ" ・・・・ サムウェル・ウルマン "若さ"とは、人生の一時を言うのではない。 それは心の状態を言うのだ。 逞しい意志、優れた想像力、炎ゆる情熱、怯懦を乗り越える勇猛心、安逸を振り切って冒険に立ち向かう意欲、こういう心の状態を"若さ"というのだ。 ------------------------------------- 人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。 人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。 希望在る限り若く、失望と共に老い朽ちる。 <訳> 松永安左エ門氏 |
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