"The hermitage of the speculation" 「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指したい・・・・・。 |
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一燈(いっとう)を提(さ)げて暗夜を行く。暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ。 只(た)だ一燈を頼(たの)め。
ここで暗夜というのはお先真暗な人生行路をいっているのであり、一燈とは自己の堅忍不抜の向上心ではなかろうか。・・・。 弟子の阿難が、釈尊に最後が間近いことを知って、 「私はこの先、誰に頼ったらよいのでしょうか」と泣きながら訴えた。 釈尊はいわれた、
法句経 (160) に 歌っていう。
****************** 同 訳;
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『法句経』 165から・・・ 自己について
訳: 宇宙の本質と一致して、自己善悪を判断できる真の自己があり、身体を備えた外見上の仮の自己がある。 このように自己に二つあることを自ら認めて、仮の自己のために真の自己を駄目にしてはならない。 (川上正光 訳) ・・・ 氏は、更に、次のように付記している。 付記: 真の自己を悟ることは一般には大変難しい問題である。これを真正面から取り組むのが禅である。 真の自己を自覚した人は、真の自由人である。 ・・・と。 |
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--------- ダンマパダ(真理の言葉または法句経) 5番 には・・・・ 「まこと この世において、怨(うら)みに報(むく)いるに怨みをもってしたならば、 ついに怨みの息(や)むことがない。 怨みをすててこそ怨みは息む。 これは永遠の真理である。」 ・・・・・・・とあった。 |
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新約聖書のイエス様のように、釈迦が民衆に向かって唱うように諭した言葉であるという。 真の自己と”法(人生の理)”を拠り所とすれば、迷いも悩みも無く「寂静(じゃくじょう)」であるというわけである。 さて、・・・・・、人生は、果てしない自分探しの旅。 ・・・・苦縁讃 ・・・ ところで、 |
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フリーライターの長谷川 綾氏は、 「人間が、自己の在りようを、一生かけて創造していくものであるとするならば -青春は、もっとも純粋かつ妥協なく、自己存在と向き合うときであるかもしれない。 ー 自分は何者であるのか。 ー なぜ生まれ、生きて呼吸し、何処へいこうとしているのか。 その問いかけに、数学の方程式のように整然と用意された万民共通の答えなどないこと を知りながら、限りある自分の命を、意味あるもの、価値あるものたらしめたいと、 人が願わずにはいられないのはなぜなのか?」 「Ideal Familiy」 August 2001 (医師:津田塾大卒、神谷美恵子 =らい患者のケア の紹介文) |
「法句経」原訳 | A・スマナサーラ氏の解説 |
[自分を拠り所とする] 自分こそ自分の救済者である。 他人がどうして自分の救済者であろうか。 自己をよくととのえることで、 得難い救済を得る。 (160) |
「わたしは道を説くけれども、それを実践するのは、あなた方一人ひとりの自由意思です。みずから実践して、それを体験としてつかめばよい」 これがお釈迦さまの基本姿勢です。つねにみずからを拠り所とするのが、仏教の教えの根本なのです。 この言葉が、前述のものと同じ意味であろうか? 自分の努力次第で、皆救われると説いている。 釈迦は、自らを救済者とは言っていなかったそうだ。”指導者”と言っていた。 ・・・ 苦縁讃 |
[決して失われないもの] 白檀(びゃくだん)、ジャスミンの花の香りは 風に逆らっては広がらない。 しかし、善き人の徳の香りは 逆風にあってもひろがってゆく。 (54) |
(略)
わたしたちは、なにかを得ることで満たされようとしています。 (中略) 人生はその繰り返しです。(略) |
[勝つ人は一人もいない] 勝利者が勝ち取るものは敵意である。 敗れた人は苦しんで萎縮(いしゅく)する。 心穏やかな人は、勝敗を捨てて 安らかに過ごす。 (201) |
(略)
日本の社会は、日常の暮らしを戦いの場にしています。 実はそれが人間のありようだからです。 |
[ものに依存しない生き方] 現世利益(げんせりやく)に達する道と、 涅槃(ねはん)に達する道と、 まったく相反する道がある。 このことわりを知っている仏弟子たちは、 名誉を喜ばないほうがよい。 そして離欲の道を歩めばよい。 (75) |
「建物が必要だ。道路が必要だ。飛行場が必要だ。」 (中略) ずっと燃えつづける炎のようなものです。 |
[不安の消えた状態が悟り] 渇愛(かつあい)から憂(うれ)いが生じ 渇愛から恐れが生じる。 渇愛を離れたならば、 憂いは存在しない。 どうして恐れることがあろうか。 (216) |
生きているかぎり、わたしたちは「好き」「嫌い」という二つの感情から逃れることはできません。 |
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[自分が 自分にたいしてひどいことをする] 敵同士、憎しみ合う同士が とろうとする態度よりも恐ろしいことを、 邪(じゃ)に育った心は、 自分にたいして行うのだ。 (42) 浅はかな愚かな者たちは、 自分自身にたいして 敵のように振る舞う。 悪い行ないをして、苦難の結果を得る。 (66) |
(略)心は、あたかも原子炉のようなものです。 |
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[心を具体的にとらえるには] あらゆるもののなかで、 先立つものは心である。 あらゆるものは、心を主とし、 心によってつくりだされる。 もしも汚れた心で話したり 行ったりするならば、 苦しみはその人につきまとう。 荷車を引く牛に車輪がついていくように。 ( 1 )
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わたしたちは、生のおおもとにある心をないがしろにしています。 心よりもかたちあるものを大事にします。 金や健康や建物を大事にして生きています。話したり食事したり、歩いたり仕事をしたりする働きは、心によるのです。 人間関係がうまくいったりいかなかったりするのも、すべて心によるのです。 どうしようもないと諦めることも、チャレンジするのも、心の働きです。 いくら健康でも、心にストレスがたまれば健康を害します。過酷な仕事をしていても、生き甲斐をもってやっていれば疲れないものです。 建物をつくるのは心、飛行機をつくるのは心、宇宙船をつくるのも心です。 幸不幸、成功不成功は、心次第で決まります。心がすべての創造者なのです。 ものごとは、無意識の心が願うとおりに進んでいくのです。心が現実をつくっているのです。 心のなかにネガティブな志向が在れば、現実はそのようになるのです。 「これは大変なことだから、自分にはできそうもない。」と心が決めてしまうと、もうできなくなります。 わたしたちは、心をないがしろにしています。 心よりもかたちあるものを大事にしています。 金や健康や建物を大事にしています。 これでは、物質が神様で、心は物質の奴隷になっているようなものです。 わたしたちは、心によって生きているのです。 心が自分の支配者であり自己の管理者なのです。 |
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心はとらえ難く、 軽々とざわつき、 欲するがままにおもむく。 その心は制御したほうがよい。 よく制御した心は、 安らぎをもたらす。 ( 35 ) |
心はあまりにもその動きが速いのです。 |
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[自我は苦しみを生むおおもと] 「一切の事物は我にあらず」 (諸法無我) と明らかな智慧をもって観るとき、 人は苦しみから遠ざかり離れる。 これが清浄なる道である。 ( 279 )
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なにかを見たり、聞いたりするとき、 |
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[どんな極悪人でも 立ち直る可能性がある] 怨(うら)みをいだいている人びとのなかにあっても、 われわれは安穏に生きよう。 怨みをもっている人びとのあいだにあっても、 われらは怨み無く安楽に過ごそう。 ( 197 ) |
(略) 仏教ではどんな極悪人でも、立ち直り可能性があると教えます。お釈迦様の弟子には、かつて千人もの生命を奪おうとしたアングリマーラがいます。つぎつぎと人を殺し、「あと一人殺せば千人」というところで、お釈迦さまに出会ったのです。そんな男でも、出家して悟ることができました。 よく考えてみれば、罪を犯した者だけが悪いのではありません。わたしたちにもその責任の一端があるのではないでしょうか。その男は、殺人を犯すところまで孤立していたのでしょう。かれが怒りでこりかたまっているとき、なぜ周囲の人が彼の気持ちを理解してあげられなかったのでしょうか。なぜ未然に殺人をやめさせることはできなかったのでしょうか。 結果として、それができなかったということは、わたしたちの社会も、同じように罪があるといえるのではないでしょうか。 ましてや未成年者が罪を犯したのなら、大人の社会にも責任があります。少年は、犯罪者であって、同時に被害者でもあります。何とか助けてあげなくてはいけないのです。 キリスト教の「聖書」にも、こんな話があります。法律学者達が、イエスの前にある女を連れてやってきました。それは姦通の現場で捕らえた女でした。かれらはイエスに、「姦通した女は石で打ち殺せと、律法(神との契約によって、神から下された命令)にある。あなたはどう思うか」と詰め寄ります。 イエスはこう言いました。「あなたたちのなかで罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい。」すると、一人また一人と立ち去って、その場に残った者はイエスと罪を犯した女だけになりました。 そして、イエスは言います。「わたしはあなたを罰しない。帰りなさい。もう、罪を犯してはならない。」と。 「あの人が悪い。」「上司が悪い。」「社会が悪い。」「政府が悪い。」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない。」と思っている人です。自分のことをかえりみずに、他人を責める生き方をしているのです。しかし、よく自分自身を観察してみれば、自分もまた批判する者と同じようなレベルなのです。 |
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