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仕事の仲間の有志が集まって、木曽福島の在る宿で、『松茸つくし』とて宴会を行った。 現地集合とて、ある者はゆったりと鉄道で、或いは自家用車でめいめいに小旅行を楽しんだ。 小生は、車でゆっくりと風景を楽しみながら気ままに、ノタリノタリかな・・・と、出かけた。 お宿の近くまで行くと、『ホッ!』とした。そんなときに神社らしき建造物があった。 (1) 『御嶽教 木曽大教殿』 そこは、『御嶽教 木曽大教殿』であった。「ご自由にどうぞ!」と、白い紙に解説があった。 向かって右前に、写真の立像。 帰宅後、じっくりと読ませて頂いて、管長(当時) 大桃吉雄氏の解説文に惹(ひ)かれた。 以下、一部分を抽出してここにご紹介します。 |
「衆善奉行 諸悪莫作 自浄其意 是諸仏教」 ・・・・である。 「良いことは多く成し、悪いことは寸事も成すべからず、という意味だ。 ここで、白楽天が立腹したというのも、慢心からのことで、「そんなことは三歳の童子でも知っている !」 ・・・・・・・・・・・・・・と言い返した。 御嶽教第十一代管長 大桃吉雄 |
補: 昔、中国に白楽天(本名は白居易、772年(大暦7年)- 846年(会昌6年)、中唐)という詩人がいた。その白楽天が、これまた仏教で名高い道林禅師(鳥?道林(741年
- 824年)、中国・唐代の禅僧)を訪ねた。 道林禅師は松の木の上で生活しながら、仏教の真髄を追及したと伝えられる高僧。白楽天はこの禅師に会う機会を待ちかねていた。 「白楽天と道林禅師」 http://ryokeiji.net/howa/ht-hakurakuten.html |
私が 私になるために 人生の失敗も必要でした 無駄な苦心も 骨折りも 悲しみも 必要でした 私が 私になれた 今 みんな あなたのお陰です 恩人たちに手を合わせ ありがとうございます ・・・・と独り言 おさ はるみ |
つらいことがおこると 感謝するんです これでまた強くなれると・・・ ありがとう つらいことも悲しいこともピンチものりこえて 生きることが人生だと 言いきかせるのです 自分自身に ありがとう 作者不詳 |
たどりつき 振り返り見れば 山川を 超えては 超えては きつるものかな 河上 肇(政治学者) |
躾(しつけ)とは 物事をし続ける事であります。 裁縫(さいほう)では仕付けは着物の仕立てが狂わぬように、粗く縫っておく事で、 その後を追うように崩さないで真似ていくのを本仕立てともうします。 いわゆる「学ぶ」は「真似ぶ」こと。 御嶽教第十一代管長 大桃吉雄 |
蛞蝓(なめくじ)の先は見えねど跡残す 作者不詳 |
女あり 二人ゆく 若きはうるわし 老いたるは なおうるわし ホイットマン |
「充実した一日が、さわやかな眠りをもたらすように、 立派に使われた一生が、心地よい死をもたらす。」 ・・・・・・・・・ レオナルド・ダ・ヴィンチ |
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勅使門をくぐると緩やかな坂。 左に、上の写真の路が空いている。 正面には『大悲殿』観音堂。 注:・・平安末期の古代様式。S2年焼失、9年再建。 治承4年(1180)源行家が以仁王の勅使として平家追い討ちの令旨を、この門を通り観音堂において義仲公に伝えたので、この名前が付いた。 |
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治承4年(1180)・・・尾張・三河の源氏蜂起する。 8/頼朝、伊豆より挙兵し、 10/京に入らず鎌倉に入る=京に入ると、平氏のごとく貴族の思うままになってしまう。ここに侍所(さむらいどころ)を設置。 平氏との戦いには、弟の義経を派遣。一ノ谷の戦い・屋島の戦いで、平氏を伐つ。兵火は興福寺・東大寺を焼亡。 等があった。 |
V | |
○観音堂・・本尊は義仲公が深く帰依した。金銅仏で、推古朝時代の作。S30年再建。 ○本堂・・ 「方丈」の看板。12間×10間木曽檜造り。前廊下は木曽檜の通し板。中央の合天井は義仲公お手植えの三本檜の根杢。 ○ 下の石碑は種田山頭火。 ”たまたま 詣でて 木曽は花まつり” |
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女あり 二人ゆく・・ |
思い出した。 山頭火と言えば、 「からす泣いて 私もひとり」 ・・と、言う句があった。 一人で歩きながら、そう思った。 |
☆ ”二十億光年の孤独” 詩:谷川俊太郎 | |
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御嶽山 MHK:週刊 「日本の名峰」より 2008.12 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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