思索の庵 その3

編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃)
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3 ["不自然=悲しみ"を考えるの章]
   11月9日 
 今回は、”戦争”について、短歌を挙げさせて頂きます。      ‥・・・                  
 
 私は、母親の背に負ぶさって逃げた頃でした。・・で、戦争の悲惨さ哀しさを知らない。
還暦を過ぎて、尚、”悲惨”、”哀しみ”なる言葉の、本当の意味を、知らないと言うことだ!
 しかし、
 小生よりも年輩の方々は、これを知っている。
 まだまだ、沢山の方々がいる。
 伝えなければならぬこの言葉の意味を、沈黙したまま・・・・、
敗戦後の復興と急速な『発展』と言う
 大きな波に飲み込まれて、いつしか・・・アメリカナイズ(Americanize)されて・・・、伝えるべき大切なモノを、忘れ去ろうとしているように思う。

 今も、
どこかの国で、銃弾が飛び交い、或いは難民が泣き・・・、どこかでは権力によって集団虐殺さえ起きようとしている。

 人間は、かくも哀しきものか?!戦争は、絶えたことがなかった。
 どこの国も、民族も・・・。

 戦争の責任をとやかく言うこと自体が、いまだ、”戦争”の次元に居ると言うことなのだ。

 これが、『人間』の、限界なのだろうか?!
                     ・・・ 苦縁讃
 ☆ 下記の被爆体験者の手記に出会った。
    Link  
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S5-1.html

 
    
 1 戦争:昭和万葉集から S54 編集 NHK TV
 あなたは 勝つものと思ってゐましたか 
         老いたる妻の さびしげにいふ    
土岐善麿
  あかだもの 葉末(はずえ)ゆすりて 吹く風の
         涼しき夏に また逢えるかも

注: 質問に答えて・・湯川秀樹氏は、下記の意味で、枕詞として使われたと思います。・・ 苦縁讃
                  ******************
  
”枕詞”
 李寧熙(イ ヨンヒ)さんの「枕詞の秘密」  文藝春秋社 に依ると・・・、
◇ 赤玉能(あかだまの)は、祝詞・出雲国造神詞
  従来の意味→赤い色の玉。「あからぶ」にかかる。
◇ 「韓国語読みでは、アガタマヌンがある。」と。この、韓国語読みで理解すると、
   『幼君は・・』『赤ちゃんである総督は・・・』と言う意味だそうです。
    アガ→ 幼児    タマ(タム)→ 最高権力者 の意。
湯川秀樹 S17
北支で総攻撃命令の前に詠んだ歌
 
いささかの 愛惜(あいせき)を絶ち 焚き捨つる
        万葉代匠記
(だいしょうき)の 炎よ 赤し
山中貞則
 この年のただ一枚の年賀状
        肺病やみの役者より来る
徳川無声 S20
 英霊を迎ふる 半旗 ひっそりと
        まひる日中を 垂れて動かず
杉本苑子 当時高等
女学校三年生
 夜は蚊ぜめの地獄 昼は蝿ぜめの地獄
        地獄  地獄  地獄

     S17 フィリピンを転戦 ・・ 腕・顔に群がってくる・・・手を動かす力はない
野間 宏
 一線は全滅せりと 喚(さけ)びつつ
        熱に狂ひし 若き隊長
田中富雄
密林にさまよう:マラリア
 帰らざる 十七人程の兵ありて
        静かなる村の 一つの嘆き
菅原俊治
 人人の背後(うしろ)にありて もの言わず
        見送る人は顔白かりき
堀内雄平
 生きて再び逢ふ日のありや
        召されゆく君の手をにぎる  離さじとにぎる
下田基洋子
 さがし物ありと誘ひ(さそい) 夜の蔵に
        明日征
(い)く夫(つま)は 吾を抱きしむ
     家中がてんやわんやの大騒ぎ、見送りの人の世話に忙しい妻に・・
               「後を頼む」とぞ,そっと抱きしめる。
成島やす子
 夫とのる 最後とならん 夜の汽車に
        温かき牛乳 わけてのみたり

      群馬県老人健康村の村長を努める
              夫は東大助教授、フィリピンで行方不明となる。
                  今も(S54当時)、夫の帰りを待っている。
神戸照子戸照子
 沈みゆく 鑑もろともに 死なんとす 
        感極まりて 甲板に座る 
矢野善喜
(水平)駆逐艦「弥生
 明日出で征く 湯屋の息子が 会釈して
        下足の札を 渡して呉れぬ

<銭湯の番台の息子:中国に参戦・戦死>
駒 敏郎
 土煙を被ると 土の匂ひがぷんぷんする
         鋭くあたる 敵弾の音を聞いてゐる
宮崎信義
 発射音 打撲感 左掌(ひだりて)鮮血
         いまだ死なざる 吾を自覚す
山田政次
 掃射受けしあとの 静けさ しましくを
         幕舎の上に 合歓の葉は散る
山上 次郎
 敵襲を退けたれば 闇なかに
        威嚇
(いかく)射撃を のびのびと撃つ
久我思秋
 棒杭に鉛筆なめつつ ひたむきに
         死馬の墓標を 兵は書きたり
御旅屋 長一
 首斬(き)らるる匪賊ら三人(みたい) 
       目かくしをされつつ並ぶ 枯野の丘に

              警備隊長が捕まえてきて、翌日、
田中政蔵
 戦死せる弟の日記に 食べたきもの 観たきもの
         読みたきものありて 泣かしむ

     中国にて戦死。弟21歳。弟の日記にはこう書いてあった。
           「食べたきもの:トウモロコシ、リンゴ、水、水、水・・
              観たきもの: 高原の秋草。映画「たそがれ」他

岩波香代子
 ふるさとの秋としるして 野の花を
       送り来れり 愛しきかなや
駒田信二
 子のしゃべる かたことを 写す妻の手紙
       便壺にまたがり くりかへし読む
司代隆三
 あが唇(くち)を うつつ欲(ほ)るがに
    汝
(なんじ)が圧せる唇型の やや開きて紅(あか)

   毎日、絵手紙を・・
敷島弘美智
(画家)
 汝が熱き息吹き まぢかにあるごとく
       ふとおどろきぬ 文よみをりて
敷島弘美智
 命生きて帰りし 基地に待つものは
       一人子 悠理の 死にしという文
松本富治
 召されたる 夫の使ひし鶴嘴に
       馴れて石炭
(すみ)掘る 女坑夫われは
下田綾女
 征く日まで 夫の握りし 鎌(かま)の柄(え)
       手ずれ親しみわれは稲刈る
 かたくなに債権買わぬ 会員ありて
       電燈暗き 常会終わりぬ
金子千鶴
 衣料切符の使ふすべ 問う年寄りに
       判るまで答へて 九点きりぬ
山田千代子
 飯米を案ずる老母(はは)に 説き聞かせ
       米一俵の 供出をせり
篠原久太郎
S19 中支
 
戦死者の屍体(したい)収容 出来難し
       それぞれ 小指持ち帰れとぞ
阿部守男
S19 ビルマ
 
流れつきし 兵の半裸屍体 魚につつかれ
       睾丸
(ふぐり)すでになし 斯かる死(しに)も見つ
宇沢甚吾
S19 北支
 戦友を焼く大き炎の ひとところ
       火炎変わりて 革の匂ひす
内藤幸政
S19 ニューギニア
 
わが腿の肉 なほ落ちず 終(つい)の日に
       削り食らへと 宣
(の)る戦友(とも)を抱く
橋本勇之助
S19 ニューギニア
 八十里 二十日かかりて 行き着かず
             脱落の兵 三万を超ゆ
堀内雄平
S20 満州
 
閃光と砲音のなかに 母を呼び
       空
(くう)を掴(つか)みて 戦友は死したり

    周囲は火の海、一心に土を掘る。フッと冷めた空気がでる。
    それを嗅ぐように吸い込む。背には衣服に火が移る。
野中貞三郎
S20 フィリピン
 餓死したる 友の袋に 一合の米
       包まれてありたる あわれ
森 誓夫
S20  北支
 
ぐるぐるねぢて 掌(て)を切っていく
       叩くやうに 戦友の掌を切っていく

    遺骨を作るため。思わず『南無阿弥陀仏』と、
           「お母さん」でも「天皇陛下万歳」でもなかったという。
宮崎信義
 をさなどち猛火のなかを 獅子舞のごとく
       布団をかぶり泣きゆく
浜田幸子
 機銃掃射の炸裂音(さくれつ)に 小さき掌は
       吾
(あ)が乳房(ちぶさ)握り 顔を埋る
大久保礼子
 布団かむり ゆらゆら来る 女あり
       あはれ一夜に 気やふれたるか
平崎三郎
 食う草よ 草よ草よと 誰も皆
       花見にと来て 草を摘むなり
山田尚子(13歳)
後、過労死
 きみが手に 成りし高菜(たかな)は 採り惜しみ
       五月の畑に 花を咲かせたり

       出征前に彼は彼女の家で、庭に高菜を蒔いた。
              高菜を見ると当時を思い出し、採取し得ず。
石川まき子
  君が機影 ひたとわが上に さしたれば
      息もつまりて たちつくしたり

        空軍の夫について任地へ・・・。妻には解った。・・・・。その日、夫は
              妻が見上げる空を旋回して戦地に発つ。
              飛行機の陰が一瞬、自分の体に被さる。
川口汐子
 五年生 山田茂と 言ひし児は 
      母の写真に声かけて 寝
(い)
野沢学人
  アー 水ヲ クレマセンカ 咽(ノ)ド 痛イイ
      夜ガ 明ケンノー
豊田清史
       歌集「さんげ」  著者 原爆症   S38 乳ガンの宣告 S40死亡
 酒あふり  酒あふりて 死骸焼く
                          男のまなこ 涙に光る

 大き骨は先生ならん そのそばに
                        小さきあたまの 骨あつまれり

 子と母か繋ぐ手の指 離れざる
                      二ツの死骸 水槽より出ず

  ズロースも付けず 黒焦げの人は 女か
                     
乳房垂らして 泣きわめき行く
 焼きへこみし弁当箱に 入れし骨
                     これのみがただ 現実のもの
正田篠江
   詩『ヒロシマというとき』より
        被爆者 栗原貞子
  ヒロシマというとき           
   「あぁ 広島」 と
    優しく応えてくれるだろうか

 ヒロシマといえば
   パールハーバー
  ヒロシマといえば
     南京虐殺
  ヒロシマといえば  
   女や子供を壕の中に閉じ込め
    ガソリンをかけて焼いた
       マニラの 科刑

  ヒロシマといえば 
   血と炎のこだまが帰ってくるのだ。

  ヒロシマといえば
    「あぁ 広島」 と
      やさしくはかえってこない。

   アジアの国々の死者達や
     無国の民(たみ)が

   いっせいに犯された者の
      怒りを吹き出す

 ヒロシマといえば
   「あぁ〜 ヒロシマ」 と

  やさしく 返ってくるためには
   捨てたはずの武器を
    本当に捨てねばならならない

  ヒロシマというとき           
  「あぁ 広島」 と
    優しく応えてくれるだろうか

 ヒロシマといえば
    パールハーバー
 ヒロシマといえば
    南京虐殺
 ヒロシマといえば  
  女や子供を壕の中に閉じ込め
    ガソリンをかけて焼いた
     マニラの 科刑

 ヒロシマといえば 
  血と炎のこだまが帰ってくるのだ。

 ヒロシマといえば
   「あぁ 広島」 と
    やさしくはかえってこない。

 アジアの国々の死者達や
       無国の民
(たみ)
 いっせいに犯された者の
       怒りを吹き出す

 ヒロシマといえば
   「あぁ〜 ヒロシマ」 と
    やさしく 返ってくるためには
   捨てたはずの武器を
     本当に捨てねばならならない

 


 
 2  長崎原爆の被爆者の短歌から
長崎の被爆者 竹山 広(ひろし) 氏  歌人        15年6月9日
 長崎県在住の歌人・竹山さん。原爆の体験を長い歳月をかけて深く掘り下げ、根底から、人間と社会を見つめる詩を詠み続けてきた。
 くろぐろと水満ち水にうち合へる
        死者満ちてわがとこしへの川
 この詩は、原爆の体験を詠んだ第一詩集「とこしへの川」の一首である。
 この詩集が出版されたのは、戦争から36年を経た昭和56年氏が61歳の時です。
 歌人:竹山広の代表作として知られている。原爆が投下された時は、竹山さんは25歳。結核で療養中のことであった。
 ☆ 経歴概略 ☆
  大正9年、長崎県・隠れキリシタンの家に生まれた。12歳の時に神父の薦めで、長崎の神学校に進学(長崎公教神学校)。
 16才で神父になる夢を断念。
 転校した中学生で短歌と出会った。中学を出て就職したが、21才で肺結核を患い入院。療養中の25才で被爆。
 その被爆体験を歌集にする。
 氏の家は、代々続いた隠れキリシタンの家であった。
 村の中心には、瀬戸山天主堂がある(大正7年建立)。
                
 一冊の短歌集としてまとめるまでには、実に36年の歳月が掛かっていた。
 平成14年『竹山広全歌集』で詩歌文学館賞、迢空賞、斎藤茂吉短歌文学賞受賞。
 「わがとこしへの川 」 S56年 61才にして初巻歌集発刊 魂の歌

 戦後、2年ほどして役場に就職。結婚。
 喀血。死を覚悟して、カトリックが死に臨んで行う「終油の秘蹟」を授けてもらう。
 妻には、医者は後3ヶ月と宣告された。妻と二人の子供のことが心配であった。
 
 昭和39年に、姉と家族を連れて長崎を離れる。
 畑二反歩、鶏を200羽の経営規模であった。それらのすべてを売却して一大決心をして家を出た。
 町に出て名刺の印刷業を目指す。
 売却した家は、まだ新しかった。しかし、”結核患者の住んでいた家”と言うことで、二束三文に買いたたかれた。
 「売った物の中で、鶏が一番高かった。」と、氏は言う。 二反歩の畑の馬鈴薯は収穫間近であった。

 十字架も
   聖画もはづし
  この家に主
(あるじ)たりにし
   一切終わる
 病むわれに代わりて
  妻が守
(まもり)り来(こ)
   この二反歩の
     畑も売るべし
 もの言わず
   寝
(い)ねゐし妻が
  残しゆく
    畑の馬鈴薯を
      ふいに惜しみつ

               
 
☆ 被爆前後の顛末 ☆
  長崎に原爆投下: 25才 結核で療養中のことであった。
 「村上第一病院」に入院中、原爆落下の日に退院することになっていた。
 時刻は、朝10時。兄が病院に迎えにくるのを待っていた。・・・が、約束の時間に兄は来なかった。
 その頃であった。
 原爆は投下された。翌即の時刻に兄が来ていたとすれば、原爆投下の地点に兄が居たことになる。
 だが、兄は、何かの都合で迎えに来る時刻を遅れたのだった。
 そのために、二人ともそのときに命拾いをしたと、いま、振り返るとそう思う。
 翌日,氏は兄を捜すために投下地点を歩いた。
       

 その日は朝から空襲警報が出た。その後まもなくして解除されたので、飛行機の音にはあまり気にしないで、病院内で談話に夢中になっていた。そんなときに飛行機の音。
 B-29の音であった。
 飛行機は、病院に向かって急降したように聞こえた。
 氏は、「これは、狙われている。」と、思わずベッドの下に頭をつっこんで、構えた。・・・・・・。その後のことであった。その瞬間に熱い光が・・・・・。まるで、大量のマグネシュウムを炊くような・・・・・・・、そんな感じであった。熱い光であった。ちょうど熱い光の中に体が浮き上がったような感じであった。生きた心地もなかった。その直後に衝撃波が襲った。
 病院全体が身震いする様な振動。ガラスが割れ、壁の漆喰が落ち飛んでくる。部屋中のものが飛びかう。瓦礫と砂埃の状況下であった。
 その時に、自分の体の上に何かが乗っかった。そんなに重いものではなかった。
 しかし、記憶して忘れられないのは、息ができなかったことであった。空気の固まりをのどに突っ込まれた感じであった。氏は、必死で呼吸した。
 なにものの重み
  つくばひし背にささへ
      塞がれし息
       必死で吸ひぬ
 血だるまとなりて
   縋
(すが)りつく看護婦を
    曳
(ひ)きずりはしる
      暗き廊下を
 辺りは暗かった。しばらくして、廊下に出て歩いていたら、白衣を血で真っ赤にして、看護婦の手伝いをしていた少女が縋りついてきた。それを引きずるようにして廊下を走って、階下に降りると、そこに主治医が居た。『逃げろ!』と言う彼の声に促されて裏の畑に走った。しかし、自分は白いシャツを着ていたので、狙われると思い直し、また、一階の長い廊下を走り病院の外に出た。周囲はすべて原爆で壊れていた。全部燃えていた。それを見て体が震えた。周りの人々の中で、自分が一番傷が軽かった。

 傷軽(きずかる)きを頼られて
  こころ慄
(ふる)ふのみ
   松山燃
(も)ゆ山里(やまざと)燃ゆ
     浦上天主堂燃ゆ
 被害は軽い方であった氏は、しかし、為すすべもなくおののいていた。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 。
 病院を出て、畑に入った。
 あたりの民家は皆ぺしゃんこになっていた。  
 町全体が火に包まれていた。人類が滅んでしまうのではないかと思った。
 自分は軽い方であった。
 周囲のみんなから頼られていると思うと、一瞬逃げ出したくなる様な思いでもあった。

               
 翌日のことであった。
 兄を捜して・・・・、やっと兄を捜し当てた。山の中であった。

 兄は、長崎に爆弾が投下されたその日、10時に病院の氏を迎えに来ることになっていた。来なかった。
 翌日昼まで待っても来なかった。
 自分は兄を捜しに出かけた。
 兄は、退院する氏を迎えにリヤカーを引いてくることになっていた。

 探し当てると、兄は毛布を被って金比羅様の境内にいた。
 聞けば、兄は空襲の気配で、逃げる子供達とともに防空壕に入ろうとした。
 一瞬、後ろを振り向いた瞬間に、光に照らされたという。

 そのとき
 兄は「水が飲みたい」という。
 近くにあったヤカンを拾って、山から下った。
 少し下って50m程奥の方にきれいな水のでるところがあった。

 
事前に知っていた。
 しかし、ここが一番すざましかった。
 皆、きれいな水のでるところであることを知っていた。水を求めて多くの人々が集まっていた。

 飲んで安心して息絶えたヒト・・・・。 あるいは、飲めずに順番を待っている人・・・・。 飲みきれずままに息絶えた人。
 その光景はものすごかった。
 皆、集まった人々は紫色にふくれあがっていた。
 「着の身着のまま」ではなく、むしろ裸ん坊の人ばかりであった。
 着た物は皆焼けてしまっていたのだ。そして、身体は丸出しになっていた。
 紫色に膨れあがっていた。
 「人間とはそんな風に大きくなる物か?!」と、思った。
 そんな人々が、・・・・、死んだ人や喘いでいる人がたくさんいた。

 兄に飲ませる水を汲みたいがなかなか、思う様にはいかなかった。
 そんな状況下で、踏み分けて進んで、山から直接落ちる水をヤカンに汲んだ。
 ヤカンに一杯に入れて、50mほど進んだところで、下を見るとおよそ12〜13才くらいの女の子がいた。
 うずくまって、顔だけ上げて、『水を〜』と言う。
 階段を下りて水を少女に差し出した。
 両手でヤカンを持って、二口ほど大きく飲んだ。
 『オジさん!アリガトウ!!』といった。この言葉を今でも思い出す。
 死の前の水わが手より飲みしこ
    飲ましめし ひとつかがやく

 
もう一度、水を汲みに行って、兄の居場所に向かった。・・・・・・、途中、下を見れば、少女は石段の上に顔を伏せて亡くなっていた。
 「誰も見ぬ間に一人で淋しく逝ったか ・・!?」と思い、何とも言えぬ気持ちで、その場にうずくまって泣いた。
 水を飲ませてやったことが、「良かった!!」と思った。
 他の人に請われても見向きもせずに水を与えなかった自分は、何故かその少女に飲ませた。

 兄は、その日10時に来ることになっていたが来なかった。
 翌日昼まで待っても来なかった。
 自分は兄を捜しに出かけた。兄らしい・・とおぼしき死体を一体ずつ確認しながら進んだ。
 そう言えば、
 兄は、退院する自分を迎えにリヤカーを引いてくることになっていた。
 探し当てると、兄は毛布を被って金比羅様の境内にいた。『兄さん!!』と、呼んだが、兄はうつろな顔をしていた。
 聞けば、空襲の気配で、逃げる子供達とともに防空壕に入ろうとした。
 一瞬、後ろを振り向いた瞬間に、光に照らされたという。

 見つけたときには、兄は、・・・
 顔半分はやけどして、背中はただれていた。

 川に死体が折り重なって浮いていた。      代表作
 くろぐろと 水満ち水にうち合へる  
   死者満ちてわがとこしへの川

兄は、はじめは元気であった。
 二人で、被爆の現状を話し合った。
 星空を二人で眺めながら二人で話し合うことができた。星空はとても美しかった。木々には葉は一枚もなかった。
 暗がりに
  水求めきて
   生けるともなき
  肉塊を
     踏みておどろく
 夜に入りて
  なほ亡骸
(なきがら)
   焼くほのほ
    遁
(のが)れしものを
      呪
(のろ)ふごとくに
 人に語ること
     ならねども
  混葬
(こんそう)
    火中
(ほなか)にひらき
       ゆきしてのひら

 だが、
 四日目から、兄はちょっとおかしくなってきた。幻聴とか幻想が出てきた。
 何かおかしなことを言う様になってきた。
 はじめは、「やけどには水は良くない。」と聞いていたので、制限していたが、
 それ以後は、兄の求めるまま、欲しがるだけ水を飲ませてやることにした。

 思いようによっては、自分が側にいて、飲みたいだけ水を飲ませて、
 自分が側にいてやって死んだことは、良かったと思う。付き添ってやれたことを、良かったと思う。

 他の多くの人々は、飲みたい水も飲めずに、孤
(ひと)り忽然と死んでいく人が多かった。

 兄は、敗戦の日の翌日死んだ。
  ふさがりし瞼(まぶた)
     もろ手におしひらき
        弟われを
          しげしげと見き
 息喘(いきあえ)ぐ兄
   かたはらに
     暗
(くら)みゆき
  よるべもあらぬ
       山のしじまぞ
 まぶた閉ざしやりたる
    兄をかたはらに
  兄が残しし
    粥
(かゆ)をすすりき
 ☆ 終戦後のこと ☆
 昭和39年に姉と家族を連れて長崎に転居する。
 鶏200羽、田畑2〜2反歩。体力もない。このような状況下で、この先を考え悩んだ結果である。
 入院中の友人に印刷屋の経験者が居た。農業以外には、印刷業の仕事を知るのみであった。
 すべてのものを売却して長崎に出た。
 家も田畑も、すべてを売った。
 結核を病んだ者の家は安く買いたたかれた。稲も畑の産物も実ったまま売却した。

 十字架も聖画もはずし
   この家に 主
(あるじ)たりにし
    一切終わる
 病むわれに代わりて
      妻が守り来し
  この二反歩の
    畑も売るべし
 もの言はず
    寝ねゐし妻が 残しゆく
  畑の馬鈴薯を
     ふいに惜しみつ
  
 
「苦労して作った馬鈴薯も置いていくんだねぇ」と、妻が一言呟いた。

 ☆ 印刷屋開業 ☆
 最初の二日間ほど夫婦で活字拾いを練習した。最初に、自分の名刺を作った。
 間口一間、奥行き二間の小さな印刷屋。『竹山印刷店』
 お客を待ちながら、内心怖さがあった。自信がなかったからである。
 2年間くらいは経営が苦しかった。固定の客が無かったからであった。
 けふ得たる
   銭
(ぜに)にてけふを
        生きしかば
      満ち足りて子の眠りは早し
 言ひし値(ね)
   びた一文も引かずきと
    あくがれて子の
      憶
(おも)ふ日あれよ

  
『あなたは、商売人に向かないね』と、妻に言われた。
 はじめから値引きした値段で商売をしていた。

 
この頃には歌集を作る気持ちはなかった。

 ☆ 歌集のこと ☆
 生活で精一杯で、こころの余裕がなかった。しかし、しばしば原爆の夢を見た。
 原爆の詩を詠むと、必ずその夢を見た。
 しばらく短歌を詠まなかった。
 一句詠むと、その状況を夢に見て苦しんだからだ。脳裏に焼き付いていたのであった。
 およそ10年ほど短歌を詠まなかった。
 しかし、やがて詩を作った。
 つらい思いを歌にして、はき出すことがこころを安らぎに導くことになった。
 誰かに伝えておきたくなった。原爆が胸を塞いでいる。それを歌わなければ先へ進めない気持ちがしたのである。
 ”わがとこしへの川”とは、自分の中に一生続けて流れる川である。
 追ひ縋(すが)りくる死者生者(せいじゃ)
   この川に残しつづけて
           ながきこの世ぞ
 くろぐろと 水満ち
    水にうち合へる  
      死者満ちて
        わがとこしへの川

 
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