思索の庵 18
                     

"The hermitage of the speculation
" 
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幕末の鴻儒から学ぶ  ー”佐藤一斎”の教え
   川上正光氏の訳による ・・・・・ By 苦縁讃


 はじめに =  日本人の心の糧 =
 幕末の日本の先覚者といわれた、佐久間象山をご存じだと思います。彼の門下から、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰等の志士が輩出されました。
 今回は、象山の師で、幕末の鴻儒
(こうじゅ)と言われる佐藤一斎(1772~1859)の著書『言志四録』を、ご紹介させていただきます。
 そもそも、”佐藤一斎”先生を知ったのは、ある雑誌に紹介・引用されていたからである。
 早速、以下にご紹介する『言志四録』を入手した。
 読んでいくと、ところどころで、昔、真顔で子供の私にお説教してくれた祖父(利三郎)の顔・声を思い出すのが不思議です。私を覗き込む厳しい祖父の眼の輝きが、脳裏に蘇って、とても懐かしい思いがするのだ。
 訳者・川上正光氏は、序文でこう記述している。
 
「一般に修養書と言われるものは、昭和初期、我々学生の頃はかなり出版されていたように思う。その代表的なものをあげよと言われれば、『菜根譚(さいこんたん)』と『言志四録』ではなかろうか。
 菜根譚
(さいこんたん)」は幸にして現在でも二・三種類出版されているが、わが佐藤一斎先生の「言志四録」は絶版ものばかりで、一冊も現在出版されていない。私も一遍通読してみたいし、また他人様にもおすすめしたいと思っても、出版されていなければどうにもならないわけである。それで、私は後記文献を古本屋で探して購入したり、購入できないものは二、三の図書館から借用したりして、とにかく「言志四録」を世に出したいと思うに至った。・・(略) ・・この本は江戸末期の大儒である佐藤一斎先生が十分な社会体験を経られた後半生の四十余年にわたって書かれた語録であり、我々にとり、修養の糧として、また処世の心得としてまことに得難き好指導書であると思うものである。」
と述べておられる。
 この本に出会って、ぜひ多くの方々に、その一端をでもご紹介したくなった。 ・・・・・ 苦縁讃 本田哲康

 (「言志四録」(一)~(四) 佐藤一斎著 川上正光全訳注 講談社出版、に基づいて、偏見を顧みず独断で管理人の心に響いた部分のみを一部を抜き書きしたことをお許し頂きたい。
 また、場所によっては、管理人による注も付け加えた。興味を持たれた方はぜひ購読の上、本文をお読みいただきたい。)
 Ⅰ 幕末の鴻儒・佐藤一斎(1772~1859)のこと
同書によれば、・・
 
「先生の名は坦(たん)、字(あざな)は大道(だいどう)、通称捨蔵(すてぞう)、一斎はその号、別に愛日楼(あいじつろう)、老吾軒(ろうごけん)などの号もあり、江戸に住んでいたので江都(こうと)とも称した。
 曾祖父周軒が始めて儒学をもって美濃の岩邑(いわむら)藩に仕えて家老となり、祖父信全、父信由も相次いで藩政を執った。先生は父を信由、母を蒔田氏として、1772年(安永元年)10月20日、江戸浜町の藩邸に生まれられた。先生は幼より他童に秀で、つとに聖賢の経書に親しみ、12・3歳にして殆ど成人のごとしといわれた。
 19歳にして士籍に上がって、藩主松平能登守乗蘊(のりもり)の第三子(先生より五歳年上)とともに学んだ。<この公子は後、幕命により擢(ぬき)んでられて当時官学の泰斗(たいと)大学頭(だいがくのかみ)林 簡順(かんじゅん)の養嗣子となり、大学頭林述斎(じゅっさい)となった人である>
 21歳の時、願いによって士籍を脱し、大阪の易学の大家間(はざま)大業を訪(おとな)い、またその紹介で中井竹山(ちくざん)に学び、京都に皆川淇園(きえん)に見(まみ)える等その見聞を広め、
 22歳、江戸に帰って、林 簡順の門に入り、儒をもって身を立てることを決意された。まもなく簡順卒して嗣なく、幕府は述斎をその後継者にしたので、先生は改めて子弟の礼をとり、文化二年34歳の時、林家の塾長となられた。
 55歳、先生は岩邑侯の老臣に列した。
 1841年7月、述斎が卒去(そっきょ)したので、11月、先生は擢(ぬき)んでられて昌平黌(しょうへいこう)の儒官(現在の大学長に相当する)となられた。時に先生70歳であった。以後先生の学徳、年とともに高く、余は泰山北斗と推称して景仰(けいぎょう)しないものはなかったが、1859年享年88歳にて官舎に没せられた。墓は麻布六本木の深広寺(しんこうじ)にある。
 一斎先生の門に学びし人々は数千人を数えるが、その中でも有名な人物は、例えば佐久間象山、安積(あさか)艮斎(ごんさい)、大橋訥庵(とつあん)、横井小楠、中村正直などである。
 特にこのうち、幕末日本の先覚者といわれる象山の門下から勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰、小林虎三郎などの志士が輩出したことは有名である。
 また、吉田松陰の門下からは高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)などが輩出して、輝かしい明治維新を形成することとなる。」
Ⅱ 「言志四録」のこと 
 ① 「言志録」:文化二年(1805)に林氏の塾長となられ、塾生に講義をされた。
   その余暇に感想を述べられたのが最初の「言志録」である。文政7年
(1824)に刊行された。
 ② 「言志後録
(こうろく)」:先生57歳以降、約十年間に亙(わた)って書かれた。嘉永3年に刊行。
 ③ 「言志晩録
(ばんろく)」:67歳より78歳までの約12年間に書かれた。
 ④ 「言志耋録
(てつろく)」:80歳の時に起稿し、筆力衰えず、340条を2年後に出版。
                    
以上の四篇をまとめて「言志四録」という。 
Ⅲ 訳者:川上正光氏のこと
 1912年栃木県生まれ。1935年東京工業大学電気工学科卒業。東芝を経て、東京工大助教授、教授、横浜国大教授、東京工大学長、長岡技術科学大学長歴任。先行は電子工学。工学博士。紫綬褒章受章。
 昭和57年、文化功労者として顕彰される。    著書に『電子回路Ⅰ~Ⅴ』『基礎電気回路Ⅰ~Ⅲ』などがある。1996年5月没。
Ⅳ 「言志四録」の紹介 ・・・ 通読して、心に響いたものをメモするつもりであった。しかし、読み進む内にメモをやめた。
 ほとんどすべての章に、いつしか親しい気持ちを抱き、「懐かしさ」とも言えよう”本当の輝き”を視たからである。
 私は、胸のポケットに入れて、常時所持して余暇に読んだ。そして、本に印を付けた。
 従って、紹介の順序は、一斎先生の著述の順序になっていない。
 メモを先ずご紹介し、次に小生が印を付けた章の中から部分的に選んで、ここにご紹介させて頂きます。際限がないが・・・・・・。


 「言志耋録」 33 得意と失意 その2 
「訳」
 
平常得意の事が多く、失意の事が少なければ、真剣に考える事がないから思慮分別(しりょぶんべつ)が減少してゆく。
 実に不幸といわなければならない。
 これに反して、得意の事が少なく、失意の事が多ければ、まずい事をはねのけようと種々思いをめぐらすから、智慧
(ちえ)や思量(しりょう)が増えて行く。却(かえ)って幸いであるといって良い。
得意事多。
失意事少。
其人減
知慮
不幸矣。

得意事少。
失意事多。
其人長知慮
幸矣。

<読み>
 得意の事多く、失意の事少なければ其の人知慮を減ず。
不幸と謂
(い)う可(べ)し。        
 得意の事少なく、失意の事多ければ、其の人、知慮を長ず。
幸いと謂う可
(べ)し           

      
 古歌にいう。                 


 憂きことの
  なおこの上に 積もれかし
    限りある身の 力ためさん
         
☆ ひとこと ☆
若いころから順風満帆で、ことが思いのままに進んだ者は、概して、お調子者で軽薄であった。
(とげ)はない。しかし、それだけのヒトだった?! 風見鶏のように世の中を上手く泳ぐ。
順風満帆に事が上手く運び,己をまるで勝者であるかのように思いがちである。 
苦労知らずでも、そのような類が、いわゆる”出世”をする。  ・・・だが、・・   
内心を伺うと、・・・・、ちょっと、神経質な小心者であった。
そんな社会・時代も有った。 ・・・のである。
  これがヒトの世の中だ。
       ・・苦縁讃

 
「言志晩録」   175 心は現在なるを要す
【訳】
 時刻は一刻一刻移り変わっていくものであるが、我々はいつでも心を現在の一刻に集中しておかなければならない。
 事柄がまだ出現しないのに、これを迎えることはできないし、また、過ぎ去った事を、追いかけても追い付けない。
 わずかでも、過去を追ったり、来ない将来を迎えるということは、ともに、自己の本心を失っている状態である。
 
必要現在
事未来。
邀。

事已往。
追。

纔追纔邀。
便是放心。
 <読み>
      
 放 心

  心は現在なるを要す。
  事未だ来たらざれば
       邀
(さから)ふべからず。
  事己に往けば
       追うべからず
  わずかに追い
       わずかに邀ふれば
  すなわち 是れ 放心なり
【語義】

 ○ 現在:自分の本心が自分に離れずに現存すること。

 ○ 放心:本心を放し失っていること。

 
『孟子』告子上篇に、

  「学問の道は他なし、その放心を求むるにあるのみ。」

    とある。

☆ ひとこと ☆
人生は、自分探しの旅。
過ぎ去ったことを、あれやこれやと苦にしながら歩いていては、
今、自分の置かれている景色が目に入らない。
これから先のことを、とやかくと思案しながら旅をすれば、・・・・、これも「今」をうつろに過ごしてしまう事になる。
大切なのは、ここ。個々。今.

ちょっと、ここで西洋の風を・・・、かの有名なパンセから・・・。
   ・・苦縁讃

「パンセ」  パスカル(1623~1662)  より   田辺 保 神戸海星女子学院大学教授(2008年3月18日 逝去) 訳・解説                   
「私たちは少しも生きていない。ただ、生きようと望んでいるだけである。」
 「現在、何を為すべきか」を考えるよりも、これから先どんなことが起きるだろうか?とか、何をしようか?と言う、
先のことを考えて、儚
(はかな)い先の希望に掛けながら、今を忘れようと、視線を”今”から避けている。
 歳を取ると、先が無くなってくるから、過去のことばかりを考えるようになってくる。やはり、”今”を観たがらない。
 結局、現在の自分を生きないで一生を終わってしまう。
 現在の自分自身を赤裸々に観ようとしない。
 人間には残酷で耐えられないことだからである。
 何故ならば、どんな人間にも「死」が待ち受けているからだ。
 「人間が死ぬときは一人だ。」パスカルはいう。
「人が死ぬときは、ひとりだ。だから、人は、自分がひとりであるように行動しなければならない。」
 この断片の出てくる辺りには、死刑囚の比喩
(ひゆ)が出てくる。
 鎖につながれた多くの人びとがいて、悲しそうに死刑執行の順番を待っている。
 これは、また、自分の死に近づく人間の姿でもあるのだ。
 人間というものは、目隠しをして断崖に飛び込んでいくようなものか。
 自分の姿を見ないで、しかも、先に死が待っていることを見ないで、大急ぎで走っていくようなものである。
 「こういうパスカルの姿を、「実存主義の先駆け」というのであろうか?」と、聞き手の白鳥元雄アナ。
   田辺 保 神戸海星女子学院大学教授(2008年3月18日 逝去) 訳・解説
注:ブレーズ・パスカル      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日~1662年8月19日は、フランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家。
 早熟の天才で、その才能は多方面に及ぶため、カテゴリー分類するのが困難な人間である。「人間は考える葦である」という『パンセ』の
中の言葉によって広く知られている。ポール・ロワイヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。

 
「言志後録」  198 人君の学
【訳】
  長たるものが学ばなければならないのは、智仁勇の三字である。
 即ち智者は惑わず仁者は憂えず勇者は恐れず この三字を心得たならば、
 一生涯この三徳を受け用いて尽きないばかりではない。
 驚天動地の大事業を成就し、手本を後世に残すことのできるものも、また、この三徳を実行に移す他にはない。
 
人主之学。
智仁勇三字
能自得之
特終身受用不尽。
而掀天掲地事業。
憲於後昆者。
亦断不此。
<読み>

 人生の学は智・仁・勇の三字に在り。

 能
(よ)くこれを自得せば、特に終身受用して尽きざるのみならず、

 而
(しか)も掀天掲地(きんてんけっち)の事業、憲(のり)を後昆(こうこん)に垂(た)るべき者も、また断(だん)じてこれを出(い)でじ。
 ☆ ひとこと ☆
 
学問とは、本来、こういうものである。
 この「志」がなければ、学問とは言えないのだ。
 そもそも、学校教育は、これを前提として開始されたのであった。
 ・・苦縁讃
                             

「言志耋録
(てつろく)」 203 才ある者への注意
【訳】
 少しばかり才がある者は、しばしば人を軽侮したり、からかい笑ったりすることを好む。
 なんと徳義にはずれたことだろうか。
 侮りを受けた者は、その場限りでまず、きっと恨んでその人をそしるに違いない。
 こうなると侮った人は自分で自分をそしっていると同じことである。
 我々と学問をする若い人々はこんな悪い習慣に染まらないが良いぞ。 

才者。
往往好軽
侮人
調咲人可謂失徳矣。
侮者。

徒已
必憾而譖之。
是我自譖也。
吾党少年。
此習
    可。 
   
<読み>
 少しく才有る者は、往々(おうおう)好みて人を軽侮(けいぶ)し、人を調咲(嘲笑ちょうしょう)す。
 失徳
(しっとく)と謂(い)うべし。
 侮
(あなど)りを受くる者は、徒(いたずら)に已(や)まず、必(かなら)ず憾(うら)みてこれを譛(しん)す。


 
(こ)れ我れ自ら譛(しん)するなり。
 吾が党の少年、此
(こ)の習(しゅう)に染まる勿(な)くして可なり。
【語義】

 ○ 已:やめる(ヤム)。そこまででやめる。中止する。   
   〈類義語〉 止。

 ○ 譛
(しん):そしる。そしり。
   じわじわと悪口をいう。中傷のことば。 





  

「言志耋録
(てつろく)」 200 芸能三則 その三
【訳】
 
芸術・技能のある者の多くは、勝ち気であり、また人におごる心があるものだ。
 芸能があって、しかも謙遜な者は、芸の最も優れた者である。
 「勝
(まさる)」の反対は「謙(へりくだる)」となり、「驕(おごる)」の反対は「遜(ゆずる)となる。
 こんなわけで芸能もまた心を修める学問に他ならない。
 
 藝能者。
多有勝心
又有驕心

其有藝能
而謙且遜者。
藝之最秀者也。

勝之反為謙。
驕之反為遜。

藝能亦不心学
<読み>

 芸能有る者は、多く勝心有り。
 又驕心
(きょうしん)有り。

 其の芸能
(あ)りて、而(しか)も謙(けん)にして且(か)つ遜(そん)なる者は、芸の最も秀(ひい)でたる者なり。

 勝
(しょう)の反(はん)は謙(けん)と為(な)り、驕の反を遜と為る。

 芸能も亦
(また)心学(しんがく)に外(ほか)ならず。
【語義】

○驕=おごる。
  背のびして、人の上に出る。
  おごり高ぶる。
  また、おごり高ぶって見くだすさま。

 〈対語〉 謙。   

「言志耋録(てつろく)」 209 功名に虚実あり
【訳】
 
功績や名声を挙げるにも、本物とインチキがある。
 実のある功績は人間の一つの仕事である。
 その実のある功績に伴って自然に生じる名声は、それが来るのに任せてよろしい。
 ただみだりに功をてらったり、虚しい名誉を得ようとすることはよくないというだけだ。
 しかし反対に、自分で挙げた実功を自分に無関係のように振舞って、自らを愚か者のように装うことも、わざとらしい作為的な心であろう。
                  
 名を揚げて、後世に名を残すことは儒教ばかりではなく、この世に生まれてきたからには大切なことなのである。
 しかし、そこに邪心が入ってはいけないことを『近志録』に「名に近づくに意有るは、則ち偽りなり(為学篇)」とある。 
          疋田啓佑  福岡女子大学教授 1937年生 陽明学研究所客員研究員による訳
功名。有虚実

実功。
即是人事。

自来之名。
他来
可也。

但濫功虚名為不可耳。

又故避其実以自晦。
亦或私心。
<読み>
 功名(こうみょう)に虚実(きょじつ)有り。
 実功
(じっこう)は即ち是(こ)れ人事(じんじ)なり。
 自ずから来
(きた)るの名は他の来(きた)るに任せて可なり。
 但
(た)だ濫功(らんこう)虚名(きょめい)は不可と為すのみ。
 又
(また)(ことさ)らに其(そ)の実(じつ)を避けて以(もっ)て自ら晦(くらます)も、亦(また)(あるい)は私心(ししん)ならん。

【語義】

 ○ 人事:人の努力によること。
 ○ 他 :その名声。
 ○ 
濫功:みだりに功績をてらう。
 ○ 私心:わざとらしい作為的な心。





  
 ☆ ひとこと ☆
 
「功なり 名を遂げる」という言葉がある。
この言葉には、厳しい順序がある。


1,先ずふさわしい功績が問われる。
2,その次に、人にその功績に応じた人望が集まる。得る。
① 「すごい人!」には、努力次第で誰でもなれる。
② 時流に乗ったら、偉い人になる。
   これこそ、”自然”な流れ・・・。
 
 
家柄や人脈に頼んで、安々と名のみを求める、文字通り安っぽい世の中になった。
ことに、危惧すべきは、二世・三世議員が、形だけを引き継いで、国家の政
(まつりごと)に携わっていることだ。
それを許さざるを得ない、社会と国民の意識だ。これは重大な問題だ。
見識・胆識
(たんしき)が欠けているのでは? ・・・と疑問視したいようなときがある。
目先の己の利害を考えることしかできない。
彼らには、国家の行く末は、口先の空しい言葉での大義名分でしかない。
    ・・苦縁讃

「言志耋録(てつろく)」 228 志は不朽にあるべし
【訳】
 人間は百才まで寿命を保つことは困難である。
 ただ志だけは永遠に朽ちないものでありたい。
 志が永遠に朽ちないものであれば、事業も永遠に朽ちないものである。
 事業が永遠に朽ちないものならば、その名も永遠に朽ちない。
 名が永遠に朽ちなければ、代々の子孫もまた不朽である。 
人不百歳

只当
不朽
志在不朽

則業不朽。

業在不朽

則名不朽。

名在不朽
則世世子孫亦不朽。
<読み>
 
人は百歳なる能(あた)わず。
 只
(た)だ当(まさ)に志、不朽(ふきゅう)に在(あ)るべし。
 志、不朽に在れば、則
(すなわ)ち業も不朽なり。
 業、不朽に在れば、則ち名も不朽なり。
 名、不朽に在れば、則ち世々
(よよ)子孫(しそん)も亦(また)不朽なり。

 一齊の「言志四録」は、志を言う本であるので、繰り返し志について述べている。
 王陽明(明の思想家)は、「弟に示す立志の説」の中で、弟の守文に「夫れ学は、立志より先なるは莫し。」と言い、また「君子の学は、時と無く、処と無く、志を立つるを以て事と為す。」ことであるとして、怠け心や慢心、また妬心や貪心などが生じたときも、志を立て、志を責め立てるならば、それら邪な心は退散するという。

 従って、「後世の大患は、尤も志し無きに在り。」と述べている。
 そこで、どのような志をもつかについて、北宋の思想家程伊川の「聖人為らんことを求むるの志有りて、然る後に共に学ぶべし」という言葉を引いて、聖人を志すことであるという。
 ここで言う聖人とは、理想的な人格者とか人間としてそうありたい目標の人という意味に考えられよう。
         MOKU 2001.MAR   124頁
                                                      「言志後録」 20 宇宙はわが心。  
【訳】
 
宇は空間の無彊(むきょう)を意味し、易では空間で万物双対の形を示し、宙は時間の無限を意味し、易では万物流行の形を示す。
 (宇と宙にはこのような意味はあるものの)宇宙は我が心にあって、我心以外のものではない。
宇。
是対待之易。

宙。
是流行之易。

宇宙不我心
<読み>

 
(う)は是(これ)対待(たいたい)の易(えき)にして。

 宙
(ちゅう)は是流行(りゅうこう)の易なり。

 宇宙は我が心に外
(ほか)ならず。
  


 

類似: 陸象山は、「宇宙内の事は乃ち己が内の事、己の内の事は乃ち宇宙内の事」と大悟したという。

類似: 栄西禅師の
「興禅護国論」の書き出し。現代語訳
    「大なるかな心や。天は果てしなく高いが、心は天の上まで突き抜ける。地は計り知れないほど厚いけれども、心はその地を突き抜ける。太陽や月の光を追い越すことはできないが、心はその光の先までゆく。無数の世界をすみずみまで窮め尽くすことはできないけれども、心はこれらの世界に超出する。
 まさしく、心は大空であり、根本の精気である。心は大空を包み、根本の精気をはらんでいる。天と地はわがために履載し、太陽と月はわがために運行し、四季はわがために変化し、万物はわがために発生する。大なるかな心や。(後略)」 
                        現代人の仏教聖典 大蔵出版
彊:《解字》
 会意兼形声。右側の字(音キョウ)は、田の間にくっきりと一線で境界をつけることを示し、
 かたく張ってけじめの明らかな意を含む。彊はそれを音符とし、弓を加えた字で、もと弓がかたく張ったこと。
転じて広く、じょうぶでかたい意に用いる。 <漢字源より>
☆ ひとこと ☆
 『
宇宙は我が心に外ならず→唯識論では、「一人一宇宙」と言われる。
参考 LINK 「唯識論」
 ・・苦縁讃

「言志録」 122 真己と仮己
【訳】
 
宇宙の本質と一致して、自己善悪を判断できる真の自己があり、身体を備えた外見上の仮の自己がある。
 このように自己に二つあることを自ら認めて、仮の自己のために真の自己を駄目にしてはならない。
本然之真己
躯殻仮己
自認得
<読み>

 本然(ほんぜん)の真己(しんこ)有り。
 躯殻
(くかく)の仮己(かこ)有り。
 須
(すべから)く自(みずか)ら認め得んことを要(よう)すべし。
付記:

 真の自己を悟ることは一般には大変難しい問題である。

 これを真正面から取り組むのが禅である。
 真の自己を自覚した人は、真の自由人である。

「言志後録」 87 仮己
(けこ)と真己(しんこ)
【訳】
 
仮の自己を捨て去って、本物の自己を成り立たせ、また外から来たお客の自己を追い出して、
主人公たる真我が存在するようにする。
 これが我見我執にとらわれないと言うことだ。
  
仮己而成真己

客我而存主我

是謂?其身


 注:◇: 手偏の獲
<読み>
 仮己(けこ)去って真己(しんこ)を成(な)し。
 客我
(きゃくが)を遂(お)うて主我(しゅが)を存(そん)す。
 是
(こ)れ其(そ)の身(み)に?(とら)われずという。
【付記1】
 本文の説く所はまったく「禅」と一致するものである。
 即ち人間一人一人の真の自己は清浄無垢な自己で、是はまさしく「仏心」そのものである。
 キリスト教ではこれを「内在の神」という。ところが、どういうわけか、この仏心(真我)は奥に隠されていて、容易に姿を現さないというのである。この真我をおし隠してわがもの顔に振る舞っているのが、仮己であり客己であり客我である。換言すれば、仮己とは虚栄に囚われた己であり、金銭の奴隷であり、煩悩の塊である。
 真の自己は隠されているとはいうものの、ちらりほらり姿を現すものらしい。
 臨済禅師上堂して曰く、「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざるものは看よ看よ。」と。ここでいう真人が真の自己である。
 どうしたら真の自己が前面に顔を出すか。どうだ、どうだ。

「言志録」 8 性分の本然と職分の当然
【訳】
 
人は生まれつき仁義礼智信という性分をもっているのであって、このような性分のもとよりしかるべき道を尽くすべきものである。
 また、孝悌忠信という職分をも持っていて、それらの当然の務めも果たすべきである。
 人間はただこうすればよいのだ。」
 
 注: ”悌”    漢字源 より
《音読み》 テイ /ダイ 〈t 〉
《名付け》 すなお・とも・やす・やすし・よし
《意味》
 {名}兄や目上の人に、穏やかに従う気持ち。「孝悌コウテイ」「申之以孝悌之義=コレニ申ヌルニ孝悌ノ義ヲモッテス」孟子
性分之本然
職分之当然
此而已矣。
<読み>

 「性分(しょうぶん)の本然(ほんぜん)を尽(つ)くし、職分(しょくぶん)の当然(とうぜん)を務(つと)む。

 此
(か)くの如(ごと)きのみ。」
注: 吉田松陰(1830~1857)の師=佐久間象山(1811~1864)
    佐久間象山の師=佐藤一斎

【語義】

 ○ 性分:仁・義・礼・智・信。
 ○ 職分:孝・悌
(てい)・忠・信など、人のなすべき義務。  

「言志録」    4 天道は漸をもって運
(め)ぐる。
【訳】
 
天然自然の道はゆるやかに運り動き、人間界の現象もゆるやかに変化するものである。
 しかし、ここには成るべくして成る必至の勢いがあり、この勢いはさけようとして遠く離すこともできず、
またこれを促して、はやくしようとしてもできないものである。
 
天道以漸運。
人事以漸変。
必至之勢。
之使遠、
又不促之使速。
<読み>

 天道は漸を以て運ぐり、人事は漸を以て変ず。
必至の勢いは、
 之を卻
(しりぞ)けて遠ざからしむる能わず、
 又、之を促して速やかならしむる能わず。 
付記:
 「万物流転」ということがある。
 そして流転するには、動かすことのできない速度があって、それは余り速いものではないということを教えている。
 これに逆らうと成るものも成らない。
 このことは「急いては事をし損ずる」ということにも通じよう。
 また「機の熟するを待つ」心構えは、成功の秘訣の一つであろう。

「言志録」   6 学は立志より要なるは莫
(な)
【訳】
 
学問をするには、目標を立てて、心を奮(うばい)い立てることより肝要(かんよう)なことはない。
 しかし、心を奮い立たせることも外から強制すべきものではない。
 ただ、己の本心の好みに従うばかりである。

学莫立志

而立志亦非之。

只従本心所好而己。
<読み>

 学は立志より要なるは莫(な)し。

 而
(しこう)して立志も亦之を強(し)うるに非らず。

 只だ本心の好む所に従うのみ。
付記:
 物事を成就するには、立志だけでは駄目である。
 先ず志を立てる。これは発心
(ほっしん)である。
 次は実行に踏み出す。これは決心である。
 これだけではまだ駄目で、これを成功するまで継続しなければいけない。これを持続心という。
 とにかく、立志は人をしていきいきとさせることは確かである。

「言志録」 30 自に厳
(げん)、他に寛(かん) 
【訳】
 
自分を責(せ)めることの厳しい人は、人を責めることもきびしい。
 他人を思いやることの寛容な人は、自分を思いやることも寛容である。
 これらは皆、厳
(げん)なれば厳、寛(かん)なれば寛と、一方に偏していることは免(まぬが)れない。
 

自責厳者、   
人亦厳。
人寛者、   
自恕亦寛。

皆不免於一偏
君子則躬自厚而薄責人。
<読み>
 自
(みずか)ら責(せ)むること厳(げん)なる者は、人を責むるも亦(また)厳なり。
 人を恕
(じょ)すること寛(かん)なる者は、自ら恕することも亦(また)寛なり。
 皆
(みな)一偏(ぺん)たるを免(まぬが)れず。
 君子
(くんし)は則(すなわ)ち躬(み)自ら厚(あつ)うして、薄く人を責む。
付記:

 論語、衛霊公篇に、

「子曰く、躬自ら厚うして、薄く人を責むれば、則ち恕に遠ざかるなり」と。



「言志録」 34 少年と老年の心得
【訳】
 若い時は、経験を積んだ人のように、十分に考え、手落ちのないよう工夫するがよい。
 年をとってからは、若者の意気と気力を失わないようにするがよい。

少年時当者著老成工夫
老成時当少年志気
<読み>

 少年の時は当
(まさ)に老成の工夫を著(あらわ)すべし。

 老成の時は当
(まさ)に少年の志気を存(そん)すべし。
付記:   
 加藤咄堂氏はその師、大内青巒
(せいらん)居士(こじ)が常に「若い時は成るべく老人の言を聴くようにし、年寄っては、若い人の云うことに耳を傾けるを忘れてはならぬ」、といわれたのは面白い教訓と思うと述べておられる。

 これは本文と同工異曲
(どうこういきょく)の感があると思われる。

「言志録」 45 寵愛
(ちょうあい)(す)ぐる者
【訳】
 上
の人や同僚から、余りに可愛がられるとそれがかえって怨(ねた)みを招くことになる。
 また、余りになじみ過ぎると、かえって疎遠
(そえん)になる基を造るものだ。
 
寵過者。怨之招也。

昵甚者。疏之漸世。
<読み>
 (ちょう)(す)ぐる者は、怨(うらみ)の招(しょう)(な)り。

 昵
(じつ)(はなはだ)しき者は、疏(うとん)ぜられるの漸(ざん)(な)り。
付記: 
 「親しき中にも礼儀あり」という戒(いまし)めと同義である。

「言志録」 88 眼を高くつけよ 
【訳】
 出来るだけ大所高所
(たいしょこうしょ)に目をつければ、道理が見えて、迷うことがない。
著眼高。
則見
理不岐。
<読み>

 著眼
(ちゃくがん)高ければ、則ち理を見て岐(き)せず。
付記: 
 このことは、特に上に立つ人には、極めて大切なことである。今後の日本はすべての点で、世界的視野に立って物を見ていかなければならないことを銘記されたい。

「言志録」 89 後世の毀誉
(きよ)
【訳】
 
現世で悪くいわれようが、ほめられようが、それは恐るるにたりない。
 後世になって悪くいわれたりほめられたりすることは恐ろしい(後世では拭うことができない)。
 わが身の得失、利害は心配するに当たらないが、
子孫に及ぼす影響は十分に考えておかなければならない。
 
当今之毀誉不懼。

後世之毀誉可
懼。

一身之得喪不
慮。

子孫之得喪可
慮。
<読み>

 当今
(とうこん)の毀誉(きよ)は懼(おそ)るるに足らず。

 後世
(こうせい)の毀誉(きよ)は懼(おそ)る可(べ)し。

 一身
(しん)の得喪(とくそう)は、慮(おもんばか)るに足らず。

 子孫の得喪
(とくそう)は慮(おもんばか)る可(べ)し。
【語義】

 ○ 毀誉:そしりとほまれ。
 ○ 得喪:利害、得失。
付記: 
 本文は「菜根譚」の第一条を思い出させる。
 『道徳に棲守(せいしゅ)する者は、
  一時の寂寞(せきばく)たり。
  権勢に依阿(いあ)する者は、万古に凄涼たり。
  達人は物外の物を観、身後の身を思う。
  むしろ、一時の寂寞を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ。』

◆ 魚返善雄博士の訳。
 『心理を守る人は、寂しくも一時。
  権力にへつらえば、末代の名折れ。
  悟った人は物にとらわれず、なき後のわが身を思う。
  いっそ一時は寂しかろうと、末代名折れのまねはすまいぞ。』

「言志録」 124 やむを得ざるの勢 その1
【訳】
 
雲は自然の成り行きでやむを得ずして集まり生じ、風や雨の同様に、やむを得ずに天からもれてくるし、
雷も同様にやむを得ずに轟
(とどろ)きわたる。
 これらを見て、至誠
(しせい)の作用を考えるがよい。
 
雲烟聚得已、
風雨洩
已、
雷霆震
得已、
斯可
以観至誠之作用
<読み>
 雲烟
(うんえん)は已(や)むを得ざるに聚(あつま)り、風雨已むを得ざるに洩(も)れ、雷霆(らいてい)は已むを得ざるに震(ふる)う。
 斯
(ここ)に以て至誠(しせい)の作用を観(み)る可(べ)し。
 付記:
 本文は自然現象がやむを得ざる状況で発生することを述べたが、人間の行動も、それが止むにやまれぬ至誠より迸り出るときに、人を感動せしめ、世を動かすことができることを示唆したものと思う。

「言志録」 125 やむを得ざるの勢 その2
【訳】
 
十分に考えて、これが最善であると決定して、止むにやまれない勢いで活動すれば、いささかも行き詰まらない。
 曲げることのできない道(正道)を突き進むときは、決して危険なことはない。
 
可已之勢

則動而不括。

枉之途

則履而不
危。 
<読み>

 已む可
(べ)からざるの勢(いきおい)に動けば、則(すなわ)ち動いて括(くく)られず。

 枉
(ま)ぐ可からざるの途(みち)を履(ふ)めば、則ち履んで危(あやう)からず。

 付記: 南州遺訓
『道を行く者は、固より困厄に逢うを免れざるものなれば、如何なる困難の地に立つと雖も、事の成否、身の死生などには少しも頓着せざるを要す。
 事には上手下手有り、物には出来る人と出来ざる人有り、然れども道を踏むには上手下手無く、出来ざる人もなし。
 故に只管道を行い、道を楽しみ、若し艱難に逢うて之を凌がんと欲せば、いよいよ道を楽しむべし。
 予は壮年よりあらゆる艱難に遭遇したるが故に、今は如何なる難事にも出会するも敢えて動揺せざるなり』 

「言志録」 25 名を求めるも避けるも非
【訳】
 
名声を求めるのに、無理な心があるのは、よろしくない。
 また、名声を無理に避けようとする心があるのもよろしくない。
 (身分不相応な名誉を求める心はよろしくない。
     また、当然受けるべき名誉を受けないと言う心もよろしくない)

名、固非。

名、亦非。 
<読み>

 名を求むるに心有るは、固
(もと)より非なり。

 名を避
(さ)くるに心有るも亦非なり。
 漫述  
 
佐久間象山(佐藤一斎の門下生、吉田松陰の師)

 「謗
(そし)る者は、汝の謗るに任す。
   嗤
(わら)う者は、汝の嗤うに任す。
  天公、本、我を知る。
  他人の知るを覓
(もと)めず。」

言志後録 37条 地の徳
【訳】
 人間は地上で生まれて死んで地に帰るものであって、つまりは地から離れるわけにはいかない。
 だから、人は地の徳(地の恵み)をよく考えるべきである。
 地の徳とは、何かというと次の四つが挙げられる。
 即ち地の徳は敬である。だから人は宜しく敬を守るべきである。
 地の徳は順である。だから人は宜しく順(従順でおとなしいこと)であるべきである。
 地の徳は簡である。だから人は宜しく簡(簡単。単純)であるべきである。
 また、地の徳は厚である。だから人は宜しく厚(人情の厚いこと)であるべきである。

人生地而死於地。
畢竟不離於地。
故人宜執地徳。
敬也。人宜敬。
地徳。 敬也。
人宜敬。
地徳。 順也。
人宜順。
地徳。 簡也。
人宜
簡。
地徳。 厚也。
人宜厚。  
<読み>

 
は地に生れて地に死すれば、畢竟(ひっきょう)地を離るる能(あた)わず。 

 故に人は宜
(よろ)しく地の徳を執(と)るべし。


 
地の徳は敬なり。人宜しく敬すべし。

 地の徳は順なり。人宜しく順なるべし。

 地の徳は簡なり。人宜しく簡なるべし。

 地の徳は厚なり。人宜しく厚なるべし。

 【付記】

 吉田松陰のことばに
 「地を離れて人なく、人を離れて事なし。凡
(およ)そ人事を究(きわ)めんとせば必ず地の利を究むべし」とある。

 本条と考え合わせるとその意味が明らかになるように思う。

【語義】
 ○ 地の徳:地の恵
(めぐみ)
   地は陰であるから、
   敬・順・簡・厚をその徳とする。
   順は従順でおとなしいこと。
   簡は簡単、単純。
   厚は人情などの厚いこと。
 

 「言志後録」 22条 敬の真義
【訳】
 
人は心に、感情がいずれにも偏(へん)せずすべての事をなごやかに行うという中和(注:喜怒哀楽の情の中庸を得たもの。和:和やかにやってゆくを言う。)の精神をもつならば、身体は安らかにのびのびとしている。
 これが敬である。
 故に、大学に「心広く平らかなれば身体は常にゆったりとしている」とあるのも敬である。
 書経に周の文王の人となりを称えて、「善にして柔らかく、美わしく恭
(うやうや)しい」といったのも敬である。
 論語に孔子の容貌
(ようぼう)を「ゆったりとしてにこにこされている」といったのも敬である。
 ところが、この敬を手械、足械や縄で縛られたように、
如何にも窮屈
(きゅうくつ)に感ずるものであればそれは、偽の敬であって真の敬ではない。
心存中和
則体自安舒。
即敬也。
故心広体胖。
敬也。
徽柔懿恭
(順に、善・和・美・敬の意)。
敬也。
申申夭夭
(論語、述而篇に孔子の容貌を評していった言葉)
敬也。
彼視敬若桎梏徽纒然者。
是贋敬。
真敬。 
<読み>

 心に中和を存すれば。則(すなわ)ち体自ら安舒(あんじょ)にして、即ち敬なり。

 故に心広く体
(たい)(ゆた)かなるは敬なり。

 徽柔懿恭
(きじゅういきょう)なるは敬なり。

 申申
しんしん=伸びやかなこと夭夭ようよう=顔色の喜ばしいこと)たるは敬なり。

 彼の敬を見ること桎梏(
しつこく手械、足械)、徽纒(きてん=2つ撚り、3つ撚りの縄)の若(ごと)く然る者は、是(こ)れ贋敬(がんけい)にして真敬にあらず。
 吉田松陰(佐藤一斎の孫弟子)

 
「地を離れて人なく、人を離れて事なし。
 凡そ人事を究めんとせば
 必ず地の利を究むべし」




 【語義】
○ 中和:中はほどよいことで
  喜怒哀楽の情を得たものをいう。
   和は事を行う場合、なごやかにやっていくをいう。
   即ち中は体(原理)、和はその用(働き)である。

○ 心広く体胖:大学、伝之六章に
 「富は屋(おく)を潤(うるお)し徳は身を潤し、
         心広く体(たい)(ゆた)かなり。

    故に君子は必ずその意を誠にす。」
           ・・・ とある。

 「言志後録」 88条 敬は勇気を生ず
【訳】
 敬の一念があれば、それから勇気が出る。 

敬。

勇気。 
<読み>

 敬は、勇気を生ず。

  【付記】


 孟子は「勇は義によって生ず。」といっている。これも尤
(もっと)もなことである。

 「言志後録」 95条 赤子は好悪を知る
【訳】
 
産まれて間もない赤ん坊でも物の好き嫌いを知っている。好きということは愛に属しこれは即ち仁(なさけ心)である。嫌いということは恥に属し、これは即ち義(正しきすじ道)である。
 このように人の心の霊妙な光というものは自然に発するものである。
 
赤子先知好悪
好。属愛辺
仁也。
悪。属羞辺
義也。
心之霊光。
自然如是。
<読み>

 赤子は先ず好悪
(こうお)を知る。

 好は愛辺に属す。仁なり。
 悪は羞辺
(しゅうへん)に属す。
 義なり。

 心の霊光
(れいこう)は、
  自然に是
(か)くの如し。

  【付記】

 本文の記事は孟子四端によったものである。四端とは

「惻隠
(気の毒に思う)の心は仁の端なり
 羞悪
(恥ずかしいと思う)の心は義の端なり
 辞譲
(ゆずり合う)の心は礼の端なり
 是非
(良しあしを分ける)の心は智の端なり」

 これら四つは人の心の基本となるものである。

「言志晩録」   60 学は一生の大事
【訳】
 
少年の時学んでおけば、
   壮年になってそれが役に立ち、何事か為すことができる。
 壮年の時学んでおけば、
   老年になっても気力の衰えることがない。
 老年になっても学んでいれば、
   見識も高くなり、より多く社会に貢献できるから死んでもその名の朽ちることはない。


少而学。

則壮而有為。

壮而学。

則老而不衰。

老而学。

則死而不朽。





























<読み>

 
少にして学べば、
 則ち壮にして為すこと有り。

 壮にして学べば、
  則ち老いて衰えず。

 老いて学べば、
  則ち死して朽ちず。











          




















【語義】
○ 少→少年。若い時。 ○ 壮→三四十歳頃。 ○ 有為→役に立つ。

【付記】

 本文は大変有名で、よく引用されるものである。ところで、朱子の編著になる『近思録為学類に、
 「学ばざれば、すなわち老いて衰う」とある。
 或いはこれを一薺先生が見て、本文を作られたのではないかと思われる。
 それはともかく、頭を使っている人は長生きであるともいわれる。だから本文の第三句は、老いて学んでも、(役に立つ学び方と役に立たない学び方があるから)名は残らないかも知らない。しかし、健康にはよいわけだから、
 「老いて学べば、寿
(いのちなが)し」
 といった方が無難であったようにも思われる。これは一薺先生には内証の内証にしておいてください。(もっとも一薺先生は長生きもされ、名を残しておられるが。)
 それからもう一つ。筆者がこの60条の話を或るところで紹介したら、少、壮、老とは何歳をいうのかと質問された。その時、「それらは年齢というよりも、<気持ち>と考えたらどうでしょうか。年齢は五十でも六十でも<気持ち>がまだ若いと考えたら、『少』でも『壮』でもよいと思う。」と答えたことがあった。ちょうどそういうことを歌った、詩を見つけたので次に紹介しておこう。
               

 ”Youth”       - Samel Ullman -
 Youth is not a time of Life, it is a state of mind.
 It is a temper of the will, a quality of the imagination,
 a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity,
 of the appetite for adventure over love of ease.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
You are as yong as your faith, as old as your doubt;
as young as self-confidence, as old as your fear,
as young as your hope, as old as your despair.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
"若さ"
”若さ”とは人生の一時をいうのではない。
それは心の状態をいうのだ。
(たくま)しい意志、優れた想像力、
炎ゆる情熱、怯懦を乗り越える勇猛心、
安逸
(あんいつ)を振り切って冒険に立ち向かう意欲、
こういう心の状態を”若さ”というのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる、
人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる、
希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(この詩は、マッカーサー元帥が座右の銘としていたものである。
             なお、松永安左エ門氏の訳を参考とした)

「言志晩録」   83 不慮の知と不学の能
【訳】
  天意を直感するものは、特に考えないでもわかる知能である。
 また、天意によって動くものは、学ばなくても先天的に持っている能力である。
天感者。
不慮之知也。
天動者。
不学之能也。
<読み>

 天を以て感ずる者は、
    不慮の知なり。
 天を以て動く者は
    不学の能なり。
【付記】

 『孟子』尽心上篇に「孟子曰く、人の学ばずして能くする所の者は、其
(そ)の良能なり。慮(おもんばか)らずして知る所の者は、その良知なり」とある。
 本文はこの孟子の説をいい換えたものと思われる。
 普通、「良能」は生まれつき持っている能力。
 「良知」は生まれつき持っている智慧とされている。
管理人補足:
 短い言葉であるが、現代人たちにはとても難解であろうと思う。情報の渦に巻き込まれて、溺れてさえ居る現代人には、
天意は見えない。聞こえない。 きっと・・・・?!

「言志晩録」   174 敬を持する者は火の如し
【訳】
  常
に敬の態度を持している人は、ちょうど火のようなものだ。
 人はこの人を畏れるけれども、しかも親しむべき人として尊敬する。
 敬の態度を持さない人は、水のようなものだ。
 なれ親しみ易いが、人をして溺
(おぼ)れさせてしまう。
 (威厳
いげん無く馬鹿にされる) 
敬者如火。
使
人可畏而親之。
敬者如水。
使人可狎而溺之。 
<読み>
 敬を持
(じ)する者は火の如(ごと)し。
 人をして畏
(おそ)れて之(こ)を親しむ可(べ)からしむ。
 敬せざる者は水の如し。
 人をして狎
(な)れて之に溺(おぼ)る可からしむ。
 

「言志晩録」  136 政治の要訣
【訳】
 「
水が清らかすぎると魚は住まないし、木が真っ直過ぎると、蔭ができない。」とは、
政事が綺麗
(きれい)すぎると人材が集まらないと言うことで、これは政治をなす者の深い戒めである。
 また、「あそこに取り残された稲束があり、ここに稲穂が落ちている。
 よるべなきやもめもこれを拾うて利する。」とあるのは、これはこのまま政治に移してまあ結構なことだ。

水至清則無魚。
木過直則無蔭 。
政者之深戒也。
彼有遺秉
此有滞穂
伊寡婦之利 。
飜做政事
亦儘好。 
<読み>

 「水至って清ければ、則ち魚無く、木直
(きちょく)に過ぐれば、則ち蔭(かげ)無し」とは、政(まつりごと)を為す者の深戒(しんかい)なり。

 「彼
(かしこ)に遺秉(いへい)有り。
  此
(ここ)に滞穂(たいすい)有り。
  伊
(こ)れ寡婦(かふ)の利なり」とは、飜(はん)して政事(まつりごと)と做(な)す。
  亦
(また)(たまたま)好し。

 

「言志晩録」  191 人事は予想しない所に赴く
【訳】
 
人間に関することは予期しない所にゆくことが往々にある。
 こういうことは人間の力ではない。
 例えば、世の中の貧乏の家と金持ちがあるようなもので、これは天運にかかるものもあれば、人力にかかるものもあるように思える。
 しかし、よく考えると、人力によると思われることは、煎じ詰めれば、天にかかることである。
 われわれが、世に処して行くのに、この理を会得すれば、苦しみや悩みを半減することができるのである。
人事赴期。
究非人力

人家貧富
天。

人。
然其係人者。
竟亦係天。
世能知此理
苦悩一半耳。
<読み>

 
人事は期せざる所に赴(おもむ)く。
 究
(つい)に人力に非(あら)ず。

 人家の貧富の如
(ごと)き、
  天に係
(かか)る有り。

 人に天を係る有り。
 然
(しか)れども
 其
(そ)の人に係る者は、
(つい)に亦(また)天に係る。
 世に処して能く此
(こ)の理を知(し)らば、苦悩の一半(いっぱん)を省(はぶ)かん。
【付記】

 本文は一薺先生の運命論であり安心観であろう。この辺を仏教ではどうみているか。
今生富貴する人は、
前世にまきおく種がある。
今生施しせぬ人は、
未来は極めて貧なるぞ。
利口で富貴がなるならば、
鈍なる人は皆貧か。
利口貧乏するをみよ、
この世は前世の種次第、
未来はこの世の種次第。
・・・・(後略)

 読者諸賢はいかに考えられるや。 ・・・・・・・ と付記されていた。

「言志晩録」  193 過去は将来への路頭なり
【訳】
 
人は皆これから先のことを考えて、過去の経験を忘れてしまっている。
 殊に過去が結局は将来の出発点であることがわかっていない。
 自分の分限を知り、現状に満足していることは、つまり過去を忘れないということにあるのだ
人皆図将来而忘過去
殊不知過去乃為将来之路頭

分知足。
過去
<読み>

 
人は皆将来を図れども、而も過去を忘る。
 殊に知らず、過去は乃ち将来の路頭たるを。
 分を知り足るを知るは、過去を忘れざるに在り。
 【語義】
○ 知足→現状に甘んじて貪
(むさぼ)らない。
 『老子』第四十六章に「禍
(か)は足を知らざるより大なるはなし。
 咎
(きゅう)は得ることを欲するより大なるはなし。
 故に足を知るの足るは常に足るなり」とある。

「言志録」  42 知分と知足
【訳】
 
自分の身分を知れば、そう望外のことは望めず、また自分の天分を自覚すれば、現状で満足することを知る。
分、

然後知
足。
<読み>

 分を知り、然る後に足るを知る。


 【語義】
○ 分→自分と他人とを分つ身分であり、分限。

【付記】
 仏典にも、「足を知るものが、本当に富んでいる者だ。」と教えている。そして「吾は唯、足を知る」・・・と、判じ物の硬貨も造られた。

 「言志耋録」 39 克己の工夫 
【訳】
 
自分の気性(きしょう)を把握(はあく)することは、即ち己に克つ工夫である。
 語るも黙るも動くも止まるも、すべて手厚く親切であり、
おだやかであり、ゆるやかであることが必要だ。
 あらあらしくてはいけない。
 烈
(はげ)しくてもよくない。
 気ぜわしくてもよくない。
 
会気象
便是克己工夫。
語黙動止。
都要篤厚
和平
舒緩
粗暴
激烈
急速。 
<読み>

 気象を
(きしょう)理会(りかい)するは、便(すなわ)ちこれ克己(こっき)の工夫(くふう)なり。

 語黙
(ごもく)動止(どうし)、都(す)べて篤厚(とくこう)なるを要し、和平なるを要し、舒緩(じょかん)なるを要す。

 粗暴なること勿
(なか}れ。
 激烈なること勿
(なか}れ。
 急速なること勿
(なか}れ。
  【語義】


 ○ 気象:気質、気性。
 ○ 理会:ここでは把握。

 「言志後録」 126 胸中物なきは ・・・ 無一物中無尽蔵
【訳】
 胸中に少しも物がない時は、
本当はそこに真理は充満しておるので、「虚にして実」と言っても良い。 
胸中無物。

虚而実也。

万物皆備。

実而虚也。











 
<読み>

 胸中に物無きは、虚にして実なるなり。

 万物皆備わるは、実にして虚なるなり。











蘇東坡 注 (蘇軾・そしょくの別名)

 北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一。
 字は子瞻、号は東坡(居士)。
 父の洵、弟の轍とともに三蘇と呼ばれる。
 王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。
 新法党に陥れられて瓊ケイ州・恵州に貶謫ヘンタク。書画をも能くした。
 諡
(おくりな)は文忠。

 著「赤壁賦」「東坡詞」のほかに「東坡志林」など。(1036~1101)
孟子:「万物皆我に備わる」と言ったのは、「実にして虚」なる所を指したのである。

  胸中に少しも物がない・・心の中に少しもわだかまりがないこと。
  万物皆備わる・・よろずの事物の理はことごとく我々の心の中に自然に備わっているものである。

出典: 蘇東坡 
「素がん(糸偏に丸の漢字)描かず意高いかな
 もし丹青をつければ二に落ち来る
 無一物中無尽蔵
 花あり月あり桜台あり」
意訳:
 純白の絹地
(一般に書や水墨画は絹地に描く)を前にして、崇高な心持ちで筆をもって向かうが、 純白の絹地に向かって、今のこの心を表現するに、絵の具をつけた筆を運べない。

 なんにも無い純白の中に、無尽蔵の宇宙が見える。

 桜花があり、月も見え、高台に設えた花見の館も見えるよ。


 素がん・・純白の絹地 丹青 ・・絵の具

「言志晩録」  55 人の言は虚心に聴くべし
【訳】
 
独特の見識見方というものは、個人の偏見(へんけん)のように見えるものである。
 それで人々は今まで聴(き)いたことのないものを突然聴くので驚いてしまう。
 これに反して平凡な議論というものは、あたかも公論のように受け取られがちである。
 世間の人々は聞き慣れていて安心しきっているからである。
 すべての人の言を聴く時には虚心坦懐(きょしんたんかい)、
即ち心を空っぽにして受け入れるべきである。
 かりにも耳慣れた説ばかりをよしとして、これに安んじてはいなければ結構である。

独特之見似私。
人驚
其驟至

平凡之議似公。
世安
其狃聞

凡聴人言
虚懐而激之。
苟安狃聞
可也。 
<読み>
 独特の見は私に似たり。
 人其
(そ)の驟(にわか)に至るを驚く。
 平凡の議は、公
(おおやけ)に似たり。世(よ)(そ)の狃(な)れ聞くに安んず。
 凡
(およ)そ人の言を聴(き)くには、宜(よろ)しく虚懐(きょかい)にして之を激(むか)うべし。
 苟
(いやしく)も狃(な)れ聞くに安(やす)んずる勿(な)くば可なり。


「言志晩録」 56 自得は己にあり
【訳】
 
学徳を修める場合、自ら得るところがあるのは、つまり自己の努力にあるのである。
 だから、自得のできた人はさらによく古来の人々の自得した所を持って来て、
これをとかしてわが物とすることができる。
 ところが、今の人々は自ら得るところがないのだから、
古人の自得した所をとかして自分の物とすることができない。
    (残念なことだ。)
 

自得。
畢竟在己。

故能取古人自得処而鎔化之

今人無自得

故鎔化亦不能。
 
<読み>
 自得は畢竟
(ひっきょう)(おのれ)に在り。
 故に能
(よ)く古人自得(じとく)の処(ところ)を取りて之を鎔化(ようか)す。
 今人
(こんじん)には自得無し。
 故に鎔化
(ようか)も亦(また)(あた)わず。


「言志晩録」  146 真の是非と仮の是非
【訳】
 
すべて世の中の事には、真の善悪と仮の善悪がある。仮の善悪というのは、
世間一般の人が良いとか悪いとかいっていることである。
 年が若く、まだ学問が十分でない時に、仮の善悪を頭に入れてしまうと、
後になって真の善悪を知りたいと思っても容易に知ることができなくなる。
 これは所謂
(いわゆる)「先に耳に入ったことが主になる」ということで、
どうすることもできない。

 (だから、先入のものが主にならないように、常に真の是非と仮の是非とをみわけるちからをつけるようにしなければならない。)
 

 凡事有真是非
仮是非
仮是非。
謂通俗之所可否
年少未学。
而先了仮是非
後欲真是非
注:
亦不入。
謂先入為主。
如何

 注:◇→辶に台(迨)
<読み>
 
 (およ)そ事(こと)には真の是非(ぜひ)有り。

 仮
(かり)の是非あり。仮(かり)の是非とは通俗の可否する所(ところ)を謂(い)う。

 年少
(ねんしょう)(いま)だ学ばずして、先(ま)ず仮(かり)の是非を了(りょう)すれば、後(のち)に◇(およ)んで真の是非を得(え)んと欲(ほっ)すとも、亦(また)(い)り易(やす)からず。

 謂
(い)わゆる先入(せんにゅう)(しゅ)と為(な)り、可如(いかん)ともす可(べ)からざるのみ。

    注:  ◇→辶に台(迨)
注:◇は、”しんにょう”に「台」。


【語義】

 ○ 通俗:一般人。
 ○ 迨: 及
 ○ 先入為主:先に入った方が重んぜられ、後聞は客となって軽んぜられる。

 『漢書』息夫躬伝に「古戒を観覧し、反復参考し、先入の語を以て、主となすことなかれ」とある。

「言志晩録」 148 上役に対する態度
【訳】
 役所の長官に対しては、父兄に対するように、敬い、従うことを第一にするが宜(よろ)しい。
 もし自分の意見が合わないことがあれば、暫(しばら)くの間、言ったことをそのままにしておき、立場を変えて、自分が長官になったつもりでよく心に計り考えるべきだ。
 どうしても長官の言うことによくない所があるならば、決してかりそめにも従ってはならない。
 しかし、この場合、必ずにこにことして論じあい、決して長官をあなどる心を起こしてはよくない。

 官長父兄
敬順

吾議若有不合。
則宜
姑置前言
地商思


竟有不可
則非苟従

必当
和悦而争。
敢生易慢之心









<読み>
 
官長を視るには、猶(な)お父兄のごとくして、宜(よろ)しく敬順(けいじゅん)を主(しゅ)とすべし。

 吾
(わ)が議(ぎ)(も)し合(あ)わざること有らば、宜(よろ)しく姑(しばら)く前言(ぜんげん)を置き、地を替(か)えて商思(しょうし)すべし。

 竟
(つい)に不可(ふか)なること有らば、苟従(こうじゅう)す可(べ)きに非(あら)ず。

 必
(かな)らず当(まさ)に和悦(わえつ)して争(あらし)い、不敢(あ)えて易慢(いまん)の心を生(しょう)せざるべし。
【語義】


 ○ 商思:商量思慮。はかり考える。
 ○ 苟従:かりそめに従う。
    軽々しく従うこと。
 ○ 易慢:二字ともあなどる。 


* かりそめにも従ってはならない
 今、それができなくて世は乱れている。
 従わなければ、左遷されるか・・・、それとも冷や飯を食わされる。
 しかし、それに屈していては、所詮、先の見えない「根性無し」の上司と同じ次元に成り下がるしかない。
 部下には部下としてのポリシーがなければならない。
 思い出せば・・・・・、「冷や飯」だけではなく、”円形脱毛”になるほどの嫌がらせを受けて、それに耐え抜いたことがある。
 ふり返って「それで良かった!」と想っている。
 大局的に観れば、世の中はなるように動いていた。
 それでも、今、悔いや後ろめたさはない。
 私は、自分を売らなかった。 苦縁讃

「言志晩録」 191 人事は予想しない所に赴く
【訳】
 人間に冠することは予期しない所にゆくことが往々(おうおう)ある。こういうことは人間の力ではない。
 例えば、世の中には貧乏の家と金持ちがあるようなもので、
これは天運かかるものもあれば、人力にかかるものもあるように思える。
 しかしよく考えると、人力によると思われることは、煎じ詰めれば、天にかかることである。
 われわれが、世に処して行くのに、この理を会得(えとく)すれば、苦しみや悩みを半減することができるであろう。

人事赴期。
究非人力

人家貧富
天。
有係於人。

然其係人者。
竟亦係天。

世能知此理
苦悩一半

 
<読み>
 
人事(じんじ)は期せざる所(ところ)に赴(おもむ)く。究(つい)に人力(じんりき)に非(あ)らず。

 人家
(じんか)の貧富(ひんぷ)の如(ごと)き、天に係(かか)る有り。人に係る有(あ)り。
 然
(しか)れども其(そ)の人に係(かか)る者は、竟(つい)に亦(また)天に係(かか)る。

 世に処して能
(よ)く此(こ)の理を知らば、苦悩の一半(いっぱん)を省(はぶ)かん。
【付記】
 
本文は一斎先生の運命論であり安心観であろう。この辺を仏教ではどう見ているか。

 白隠禅師の施行歌(せぎょうのうた)に聞いてみよう。
 今生富貴する人は、
 前世にまきおく種がある。
 今生施しせぬ人は、
 未来は極めて貧なるぞ。
 利口で富貴があるならば、
 鈍なる人は皆貧か。
 利口貧乏するをみよ、
 この世は前世の種次第、
 未来はこの世の種次第。

 ・・・・・・・・・
(後略)

「言志晩録」 219 志
(こころざし)は師に譲らず
【訳】
 
世間のいろいろな事柄については、人にへりくだり、譲ることが必要である。
 ただ、しかし、志だけは師に譲らなくてもよい。
 また古人に譲らなくてもよい。
人事百般。

都要謙譲

但志則不於師可。

古人
<読み>
 
人事(じんじ)百般(ひゃっぱん)、都(す)べて遜讓(そんじょう)なるを要(よう)す。

 但
(た)だ志(こころざし)は則(すなわ)ち師に譲(ゆず)らずして、可(か)なり。

 又古人に譲らずして可なり。
【語義】
 ○ 
不讓於師→『論語』衛霊公篇に、
         「仁に当たりては師に譲らず」とある。
【付記】
 次の禅語も銘記されたい。
 「見、師と等しきときは師の半徳を減ず。見、師より過ぎて、まさに伝授するに堪えたり。」
 訳、
 見解が師匠と同等ならば、師匠の半分の働きでしかできない。
 さらに、独創を加えてこそ、師匠の後を継げるというものだ。
 ☆ 器の大きな”師”・”上司”は希有となってしまった。「志」や「義」が、死語と化しつつある現代社会では、この教えを貫くことには、覚悟が必要であろう。これを『信念』とでもいうのであろうか?!  ・・・ 管理人

「言志晩録」 249 大才は人を容る
【訳】
 
小才の人は他人を容れずにこれを防いで行くが、大才の人はよく他人の意見を容れてゆく。
 小さな智慧は一時は輝くことがあるが、大きな智慧は後世まで残る計画を明らかに確立する。
小才禦人。

大才容物。

小智耀一事

大智明後図
<読み>
 
小才は人を禦(ふせ)ぎ、
 大才は物を容
(い)る。
 小智は一事に耀
(かがや)き、
 大智は後図
(こうと)に明(あき)らかなり。
【語義】

 ○ 
後図→後日の計りごと



「言志晩録」 252 吉凶はわが心にあり
【訳】
 
人情は“吉”を求め、“凶”を避けるものである。しかし、殊に人の吉凶はその人の行いの善悪の影や響きであるということを知らない。
 自分は年が改まる度毎
(たびごと)に、次の四句を暦の本にかいて、家族の戒めとしている。曰く、
「三百六十五日、一日として吉日でない日はない。
 一念発起して善を行えば、これで吉日である。
 三百六十五日、一日として凶日でない日はない。
 一念発起して悪を行えば、これ凶日である。」
 と。
 つまり、心をもって暦本とすれば、それでよいのである。
人情趨吉避凶。
殊不知。
吉凶是善悪之影響也。
余毎改歳
題四句於暦本以警家眷
曰。

三百六旬。
日不吉。
一念作善。是吉日。
三百六旬。
無日不凶。
一念作悪。是凶日。

心為暦本。可。
<読み>
 
人情、吉に趨(おもむ)き凶(きょう)を避(さ)く。
 殊
(こと)に知らず、吉凶(きっきょう)は是(こ)れ善悪の影響なるを。
 余
(よ)は改歳(かいさい)(ごと)に四句を暦本(れきほん)に題(だい)して以(もっ)て家眷(かけん)を警(いまし)む。曰(いわ)く、「三百六旬(じゅん)、日として吉ならざる無し。一念善を作(な)す。是(こ)れ吉日(きちじつ)なり。
 三百六旬(じゅん)、日として凶(きょう)ならざる無し。
 一念悪
(あく)を作(な)す。是(こ)れ凶日(きょうじつ)なり。
」と。

 心を以
(もっ)て暦本と為(な)す。可(か)なり。
【語義】

 ○ 
吉凶善悪の影響→吉凶はその人の
   行為の善悪の因果である。即ち善行をせば、
   吉となり、悪行をなせば凶となるということ。
 ○ 
改歳→歳の改まること
 ○ 
暦本→こよみの本。
 ○ 
→しるす。かく。
 ○ 
家眷→家族。眷は身内。


【付記】
 「吉凶はわが心にあり」ということである。昔、ある武将が、「今日、出陣だ」といったところ、家来が「今日はよくない日ですから明日に延ばしたらどうでしょう」といった。
 武将は「今日が悪い日といっても、悪いのはこちらだけではない。相手にとっても悪い日だ。さぁ、出陣!」といって決行し、勝利を収めたということを読んだことがある。

 雲門禅師曰く、「日日是好日」と(碧巌録第六則)。


「言志耋録」  2 教
(おしえ)に三あり
【訳】
 
教えに三つの段階がある。第一の心教は別段の方法手段をとらず師によって自然に教化することである。
 第二の躬教(きゅうきょう)は、師の行為の跡を真似させる教えである。
 第三の言教は、師が言葉で説き諭して導く教えで、言葉を方法としている。
 ところで、孔子様は「自分は言葉で説き諭すということはしないようにしたい」といった。
 思うにこのことは、心教を
最も高貴な教えとしていたのであろう。

教。有三等
心教。化也。
躬教。迹也。
言教。   
則資
言矣。
孔子曰。 
予欲言。
蓋以心教尚也。

 
<読み>

 教(おしえ)に三等有り。心教(しんきょう)は化(か)なり。躬教(きゅうきょう)は迹(せき)なり。

 言教
(げんきょう)は則(すなわ)ち言(げん)に資(し)す。孔子曰(いわ)く、「予(よ)(い)う無(な)からんと欲(ほっ)す」と。

 蓋
(けだ)し心教(しんきょう)を以(もっ)て尚(しょう)と為(な)すなり。
 ○ 心教:心を持って心に接し、自然に感化する教え。
 ○ 躬教:師が模範を示し、
   その迹を追うように教えるもの。
 ○ 資於言:言葉をとり用いて方法とすること。
 ○ 尚:高尚、とおとしとも読む。
【付記】
 「教化」という言葉は、中国や日本では見られるが、西洋にはこの言葉に適応する言葉がないそうである。言葉がないということは、そういう概念がないことである。即ち西洋の教えは主に知識を教えるものであるのに対して、この化は道徳的に感化して行くものである。儒教でも仏教でも、徳をもって人を善に導くことを化導
(けどう)といい、教化する人を能化(のうけ)、教えられる人を所化(しょけ)という。心の教えというのは、この中心でなければならない。

「言志後録」 119 学問は自分のためにすべし
【訳】
 
物事の弊害(へいがい)を矯正(きょうせい)しようとする説はまた別な弊害を生ずるものである。
 ただ、学問というものは自分の修養のためにするものであるということを知らねばならない。
 学問は自分のためにするということを知る者は、必ずこれを自分に求める。
 これが心を修める学問なのこの力を会得する境地に達したならば、自分の心の悟るに任せて宜しい。
 そうすれば少し位違いがあっても、大きな差し支えは起こらない。
 
幣之説。
必復生幣。

只当学為己。

学為己者。
必求之於己。
是心学也。

力処
則宜其所自得

有小異
大同
<読み>

 (へい)を矯(た)むるの説は、必ず復(ま)た幣(へい)を生(しょう)ず。

 只
(た)だ当(まさ)に学は己(おの)れの為(ため)にするを知(し)るべし。

 学
(がく)は己(おの)れの為(ため)にするを知る者は、必(かな)らず之(こ)れを己(おのれ)に求む。是(こ)れ心学(しんがく)(な)り。

 力
(ちから)を得る処(ところ)に至(いた)れば、則(すなわ)ち宜(よろ)しく其(そ)の自得(じとく)する所(ところ)に任(にん)ずべし。

 小異
(しょうい)有りと雖(いえど)も、大同(だいどう)を害(がい)せず。
【付記】
 「古の学者は己の為にする」ということは自己の修練のためにするという意味である。また、「今の学者は人のためにする」ということは自分が学問をして、それを人に見せて、良い職につくためにする」ということである。
 吉田松陰も講孟余話で、これを二、三カ所に引用し、「今の学者」の態度を非難している。
 一例を挙げると、離婁上二十三章にこういっている。
 「凡
(およ)そがくをなすの要は、己の為にするにあり。己の為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。而して己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自ら人の師となるべし。人の為にするの学は、人の師とならんと欲すれども遂に師となるに足らず。故に曰く、記問(きもん)のがくはもって師となるに足らずと、是なり。」
 大いに考えさせられる所である。

【語義】
 ○ 為己云々:論語、憲問篇に「子曰く、
    古の学者は己のためにし、
    今の学者は人のためにす」とある。
 ○ 心学:心を修める学。
 ○ 小異:少しの差異。
 ○ 大同:小差を問わずして混同する。

「言志耋録」 3 経書を読むは我が心を読むなり
【訳】
 
聖賢の書かれた経書(けいしょ)を読むと言うことは、実は自分の本心を読むと言うことである。
 決して、自分の本心以外のものと見てはいけない。
 そして自分の心を読むと言うことは、天地宇宙の真理を読むと言うことである。
 決して他人の心のことだなどと思ってはいけない。

経書
即読我心也。
認做外物

我心
即読天也。
認做人心

<読み>

 
経書を読むは、即(すなわ)ち我が心を読むなり。
 認めて外物
(がいぶつ)と做(な)すこと勿(なか)れ。

 我が心を読むは、即ち天
(てん)を読むなり。
 認めて人心
(じんしん)と做(な)すこと勿(なか)れ。
【付記1】
 本文は一斎先生が八十歳を超してからの感想である。経書を読んでこれは自分の心と同じだと感ずるような人は相当立派な人物であろう。経書とは、世界の名著と考えてよいであろうが、こういう書物を読んで、自分では気づかなかった貴重な真理を感得すれば、それで十分であるといってもよいのではなかろうか。本を読むなら「よい本なんか読むな。最良の本を読め。」といわれる所以(ゆえん)である。
【付記2】
 吉田松陰はその著『講孟余語』の劈頭(へきとう)に置いて、「経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おもね)らぬこと要(かなめ)なり。
 若
(も)し少しにても阿る所あれば、道明らかならず、学ぶとも益なくして害あり」と述べている。立派な見識である。

「言志耋録」 14 学問を始める時の心得
【訳】
 
学問を始めるには、
必ず立派な人物になろうとする志を立て、それから書物を読むべきである。
 そうでなくて、ただいたずらに、自己の見聞
(けんぶん)を広め、知識を増すためにのみ学問をすると、
その結果傲慢
(ごうまん)な人間になったり、悪事をごまかすためになったりする心配がある。
 こういうことであれば「敵に武器を貸し、盗人に食物を与える」という類
(たぐい)であって、
実に恐るべきことである。
 
凡為学之初。
必立
大人之志
然後書可読也。

然。
徒貧聞見而已。
則或恐長傲飾非。

謂仮寇兵
盗糧也。
虞。

<読み>

 凡そ学を為(な)すの初めは、必(かなら)ず大人(たいじん)たらんと欲する志(こころざし)を立てて、然(しか)る後に、書は読む可(べ)きなり。

 然
(しか)らずして、徒(いたず)らに聞見(ぶんけん)を貧(むさぼ)るのみならば、則(すなわ)ち或(あるい)は恐(おそ)る、傲(おごり)を長じ非(ひ)を飾(かざ)らんことを。

 謂
(い)わゆる「寇に兵を仮(か)し。盗に糧(かて)を資するなり。」虞(うれ)う可(べ)し。
【付記】・・・本文と同一趣旨のもの
自警   足代弘訓(江戸時代後期の国学者、歌人、伊勢神宮神官)
 
一、 人をあざむくために学問すべからず
 一、 人とあらそうために学問すべからず
 一、 人をそしるために学問すべからず
 一、 人を馬鹿にするために学問すべからず
 一、 人の邪魔をするために学問すべからず
 一、 人に自慢するために学問すべからず
 一、 名を売るために学問すべからず
 一、 利をむさぼる学問すべからず


 なお、三浦梅園は次のように言っている。
  
一、学問は飯と心得べし、腹に入れるためのものなり。
     掛物のように人に見せんがためにあらず。
 一、学問の置き所により善悪に別れる。臍の下よし。
    鼻の先わるし。
等々。

「言志耋録」 51 幼い時は本心なり
【訳】
 人は幼い時は完全に真心をもっている。やや長ずるに及ぶと私心が少しずつ起きてくる。
 そして一人前になると、その上さらに世俗の習慣に馴染
(なじ)んで真心を殆ど失ってしまう。
 この故にこの聖人の学をなす者は常によくきっぱりとこの世俗の習慣を振り払って、
その真心に復帰すべきである。このことが最も肝要である。

人為童子時。
全然本心。
稍長
私心稍生。
既成立。
則更夾帯世習
而本心殆亡。
故為此学者。
能斬然□
キョ此世習
以復
本心
是為要。
注:□(衣偏に去)キョ(さる)
<読み>
 人は童子(どうし)たる時、全然(ぜんぜん)たる本心なり。

 稍
(やや)長ずるに及びて、私心稍(やや)生ず。

 既
(すで)に成立(せいりつ)すれば、則ち更に世習を夾帯(きょうたい)して、而(しこう)して本心殆(ほとんど)(ほろ)ぶ。

 故に此の学を為す者は、当
(まさ)に能く斬然として此の世習を□(衣偏に去)キョ(さる)り、以(もっ)て本心に復すべし。

 是
(こ)れを要(よう)と為(な)す。
【付記】

 本文と同一趣旨の道歌を紹介する。

 「おさな子が   次第次第に 智慧づきて

   ほとけに遠く  なるぞ悲しき」

「言志耋録」 17 学に志す者の心得
【訳】
 学問を志して、人格を磨き上げようとする者は、頼む者は自分自身であると覚悟しなければならない。
 かりにも他人の熱を頼って暖めてもらうことなどと思ってはならない。
 『准南子』に「火を他人に乞い求めるよりは、自分で火打ち石を打って火を出す方が宜しい。
 また、他人の汲み水をあてにするよりは、自分で井戸を掘る方が宜しい。」と書いてある。
 このことは自分自身を頼れと言うことである。

学之士。
当自頼己。
因人熱
准南子曰。
火。
燧。
汲。
井。
己也。
<読み>
 学に志
(こころざ)すの士(し)は、当(まさ)に自(みずか)ら己(おのれ)を頼(たの)むべし。

 人
(ひと)の熱(ねつ)に因(よ)ること勿(なか)れ。准南子(えなんし)に曰(い)わく。

 「火を乞
(こ)うは燧(すい)を取(と)るに若(し)かず。

 汲
(きゅう)を寄(よ)するは、井(せい)を鑿(うが)つ若(し)かず。」と。

  己
(おのれ)を頼(たの)むを謂(い)うなり。
【付記】

 「天は自ら助くる者を助く」も同一の趣旨である。

「言志耋録」 20 悔、激、懼などの一字訓
【訳】
 
(かい)の字、激(げき)の字、懼(く)の字は、いずれも良い字面ではない。
 即ち悔は過去の出来事を悔やむことであり、激は心が調和を失ったことであり、懼は心が不充実で恐れおののくことである。
 しかし、一たび志を立て、これらをみると、
 悔の字は過去を改めて善に着く第一歩であり、
 激の字は発奮激励して行く意味であり、
 懼の字は、これにより身を慎み、善をなすきっかけとなるものである。
 このように活用の方法があるのだから、自ら反省しなければならない。

悔字。激字。懼字。
好字面

然以一志之。
則皆為善之幾也。
自省乎。

 
<読み>
 (かい)の字、激(げき)の字、懼(く)の字は、好(こう)字面(じめん)に非(あら)ず。
 然
(しか)れども一志(し)を以(もっ)て之(これ)を率(ひき)いれば、則(すなわ)ち皆(みな)(ぜん)を為(な)すの幾(き)なり。
 自省
(じせい)せざる可(べ)けんや。


「言志耋録」 21 悔の字
【訳】
 悔という字は善と悪との分岐点にある文字である。
 立派な人は悔いて善に移っていき、つまらない人は悔いてやけになり悪を追うものだ。
 だから諸君は確乎たる志を立てて、この悔の字を従えて、
ぐずぐずしている悪弊
(あくへい)から脱却しなければならないぞ。 

 悔字。
是善悪街頭文字。
君子悔以遷善。
小人悔以逐悪。
故宜立志之。
復因循之弊耳。
<読み>
 悔(かい)の字は、是(こ)れ善悪街頭(ぜんあくがいとう)の文字なり。
 君子
(くんし)は悔(く)いて以(もっ)て善(ぜん)に遷(うつ)り、小人(しょうじん)は悔(く)いて以(もっ)て悪(あく)を逐(お)う。
 故
(ゆえ)に宜(よろし)く立志(りっし)を以(も)って之(こ)れを率(ひきい)るべし。
 復
(また)因循(いんじゅん)の弊(へい)(な)からんのみ。

「言志耋録」 22 立志の立の字
【訳】
 志を立てる立という字は、豎立(じゅりつ=真っ直ぐに立つこと)と、標置(ひょうち=目印を立てること。
 高く自らを持すること)
と、不動(しっかりと動かないこと)の三つの意義を兼ねている。
 即ち志を真っ直ぐに立て、
その志を目標として、
不動の心を持って進まなければならないということである

立志立字。
豎立。
標置。
不動。
三義。 
<読み>
 
立志(りっし)の立(りつ)の字は、豎立(じゅりつ)、標置(ひょうち)、不動(ふどう)の三義を兼(か)ぬ。


「言志耋録」  56 道心と人心
【訳】
 人間智によらないで、道理を見通すのが道心である。何でも知っているようで、
その実、真相を把握しないのが人心である。
 (道心は本来の心で真相を見通す心。人心は欲にさえぎられて、うわべだけで真相を見届けられない心。)
 

知而知者。
道心也。
知而不知者。
人心也。 
<読み>

 知らずして知(し)る者は、道心(どうしん)なり。知って知らざる者は人心なり。


「言志耋録」  73 真の聡明
【訳】
 疑わしいものをよく弁別(べんべつ)することを聡明(そうめい)という。
 事物の疑わしいものはまあ弁別できるだろうが、損得の疑わしいものは弁別しにくい。
 しかし、損得の疑わしいものの弁別は何とか出来よう。
 最も弁別の難しいのは心の働きの疑わしいものである。
 ただ、自らの不思議な心の光をもって、これを照らし出せば、一切の外物も見逃すことなく、
明々白々として、自分も他物も一様に弁別できる。これを真の聡明というのである。

能弁疑似為聡明
事物之疑似猶可弁。
得失之疑似難弁。
得失之疑似猶可弁。
心術之疑似尤難弁。

唯能自提霊光以反照之
則外物亦無其形
明明白白。
自他一様。
是之謂真聡明
 
<読み>

 (よ)く疑似(ぎじ)を弁(べん)ずるを聡明(そうめい)と為(な)す。

 事物
(じぶつ)の疑似は猶(な)お弁(べん)ずべし。

 得失
(とくしつ)の疑似は弁(べん)じ難(がた)し。

 得失
(とくしつ)の疑似は猶(な)お弁(べん)ずべし。

 心術
(しんじゅつ)の疑似は尤(もっと)も弁(べん)じ難(がた)し。

 唯
(た)だ能(よ)く自(みずか)ら霊光(れいこう)を提(ひっさ)げて以(もっ)て反照(はんしょう)すれば、則(すなわ)ち外物(がいぶつ)も亦(また)(そ)の形(かたち)を逃(のが)るる所(ところ)無く、明明白白(めいめいはくはく)、自他(じた)一様なり。

 是
(こ)れ之(こ)れを真の聡明(そうめい)と謂(い)う。

「言志耋録」 66 人心の霊
【訳】
 人の心の霊妙な姿は丁度太陽が照り輝いているのに似ている。
 ただ克(こく:人に勝ことを好む)伐(ばつ:自ら功をほこる)怨(えん:忿恨)欲(よく:貪欲)の四悪徳が心中に起こると、雲や霧が起こって四方をふさぎ太陽が見えなくなるように、この心霊が何処にあるかわからなくなってしまう。
 だから誠意をもって向上に力(つと)め、この雲霧を払いのけて照り輝く太陽、即ち心の霊光を仰ぎ見ることが何より先決である。
 凡そ学をなすの要点は、これより基礎を築き上げることである。
 故に『中庸』にも「一切は誠始まり、誠に終わる。
 誠は一切の根元であり、誠がなければ、そこには何もありえない」とある。
人心之霊如太陽然。
但克伐怨欲。
雲霧四塞。
此霊烏在。
故誠意工夫。
雲霧白日
凡為学之要。
此而起基。
故曰。
誠者物之終始。
<読み>
 
 人心(じんしん)の霊(れい)なるは太陽の如く然り。
 但
(た)だ克伐怨欲(こくばつえんよく)、雲霧(うんむ)のごとく四塞(しそく)すれば、此の霊烏(れいいず)くにか在(あ)る。
 故
(ゆえ)に誠意の工夫(くふう)は、雲無を掃(はら)いて白日(はくじつ)を仰(あお)ぐより先(せん)なるは莫(な)し。
 凡
(およ)そ学(がく)を為(な)すの要(よう)は、
(こ)れよりして基(もとい)を起(おこ)す。
 故に曰く「誠
(まこと)は物(もの)の終始(しゅうし)なり。」と。
【語義】


 ○ 克伐怨欲:『論語』憲問篇にある。

 ○ 四塞:辺り一面をふさぐ。

 ○ 誠者云々:『中庸』第二十五章に「誠は物の終始なり。
    誠あらざれば物なし。
    この故に君子は之を誠にするを貴
(たっと)しとなす」とある。



「言志耋録」 77 霊と気二則 その一
【訳】
 
人心の霊妙な活動は、気を主体とするものである。この「気というものは肉体に充満しているものだ」。
 凡(およ)そ事をなすにのに、この気を先導とすれば、あらゆる挙動に誤りはない。
 このことは
技能についても、工芸についても同じことである。

人心之霊主於気。
気体之充也。
凡為事以気先導。
則挙体無失措。
技能工芸。
亦皆是。


<読み>
 
 人心(じんしん)の霊(れい)なるは気(き)を主(しゅ)とす。「気(き)は体(たい)の充(み)てるなり」。

 凡
(およ)そ事(こと)を為(な)すに気(き)を以(もっ)て先導(せんどう)と為(な)さば、則(すなわ)ち挙体失措(きょたいしっそ)無し。

 技能工芸も亦
(また)(みな)(か)くの如(ごと)し。
【語義】

 ○ 気 :ここでは正しい方向に人を向けさせる活力。

 ○ 「気体之充也」:『孟子』公孫
(こうそん)(ちゅう)上篇に、
  「それ志は気の帥
(すい)なり。
  気は体の充なり。それ志至れば、気はこれに次
(とど)まる」
 
(つまり、「志が気の指揮官であり、その気は肉体に充満している」の意)
 とある。

 従って、一斎先生と孟子とは少しずれがあるようだ。(著者)

「言志耋録」  80 天地の精英の気
【訳】
 
すぐれた志気は、これ天地間のすぐれた英(ひい)でた気である。
 聖人はこの気を内に包みかくして、敢(あ)えて外に露出しない。
 賢者は、時々これを露出する。その他の豪傑(ごうけつ)の士に至っては、この気を全部露出する。
 もし、この気の全然ない者は、卑しい人間であって、平凡で数(かぞ)うるに足りないものである。

英気。
是天地精英之気。
聖人蘊之於内。
不肯露諸外。
賢者則時時露之。
自余豪傑之士。
全然露之。
若夫絶無此気者。
為鄙夫小人。
碌碌不足算者爾。



<読み>

 
英気は是(これ)天地精英(てんちせいえい)の気なり。

 聖人はこれを内
(うち)に蘊(つつ)みて、肯(あ)えて諸(これ)を外に露(あらわ)さず。

 賢者は則
(すなわ)ち時時(じじ)(これ)を露(あらわ)し、
 自余
(じよ)の豪傑(ごうけつ)の士は、全然(ぜんぜん)(これ)を露(あらわ)す。

 若
(も)し夫(そ)れ絶(た)えて此(こ)の気(き)(な)き者(もの)をば、鄙夫(ひふ)小人(しょうじん)と為(な)す。
 碌碌
(ろくろく)として算(かぞ)うるに足(た)らざる者のみ。
【語義】
 ○ 碌碌:小石のごろごろとした様。凡庸な例え。



木鶏: 闘鶏の進歩段階 「禅と陽明学」 安岡正篤 より
                (管理人補足)

① はじめの10日目:虚驕にして而(しか)して気を恃(たの)む。
  空威張り。
② 次の10日目:猶
(なお)嚮景(きょうえい)に応ず。
  相手が見えると直ちに応ずる。
③ 30日目:猶疾視
(しっし)して而して気を盛んにす。
  「この野郎。」といきり立つ。
④ 40日目:曰く、幾
(ちか)し。
⑤ 鶏鳴くものありといえども、すでに変ずることなし。
   之を望むに木鶏に似たり。

「言志耋録」 106 自ら欺かず
【訳】
 自分で自分をあざむかない。これを天に事(つか)うるというのだ。

不自欺。

謂之事天。

<読み>

 自ら欺かず。
 之
(こ)れを天に事(つか)うと謂(い)う。
【付記】
 天に事うるということは、人間以上のものを相手にするということである。
 西郷南州遺訓に
 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己
(おのれ)を尽くして人をとがめず、我が誠
(まこと)の足らざるを尋(たず)ぬべし。」とある。
 誠とは自らを欺
(あざむ)かざるの心である。

「言志耋録」 110 自分の秘事と人の秘事
【訳】
 自分の隠し事は人がいうのに任せておくがよい。
 しかし、他人の隠し事を自分が話してはいけない。
 何事も誠心誠意をもってすれば、隠したい事だの、隠さないでよいことだのという区別はあるべきはずがない。

己之陰事。
宜任人之説之。
人之陰事。
我則不可説。
我之所為。
只是一誠。
則実無陰陽之別耳。 
<読み>

 (おのれ)の陰事(いんじ)は、宜(よろし)く人(ひと)の之(こ)れを説(と)くに任(まか)すべし。

 人の陰事は、我
(わ)れは則(すなわ)ち説(と)く可(べ)からず。

 我の為
(な)す所(ところ)、只(た)だ是(こ)れ一誠なれば、則(すなわ)ち実に陰陽(いんよう)の別(べつ)(な)きのみ。



「言志耋録」 111 是非の心
【訳】
 
『孟子』告子(こくし)上篇に「物事の是非善悪を判断する心は、人々は皆持っている。」とある。
 ただしかし、普通の人々の是非善悪は利害を標準としている。
 是非善悪が、正しい道理によって判断されるならば、利益こそあれ、外はない。
   (小人は利害を先にし、義理を後にするから、かえって利を失い、害を招くに至る。)

是非之心。
人皆有之。
但通俗之是非在利害。
聖賢之是非在義理。
是非在義理。
則究亦有利而無害弁。


<読み>

 
「是非(ぜひ)の心は、人皆之(こ)れ有り。」但(た)だ通俗の是非は利害に在(あ)り。
 聖賢
(せいけん)の是非は義理(ぎり)に在(あ)り。

 是非
(ぜひ)が義理に在(あ)れば、則(すなわ)ち究(つい)に亦(また)(り)有りて害(がい)無し。
【付記】・・孟子の四端の説

 
是非之心は『孟子』公孫(こうそん)(ちゅう)上篇にある。
 「惻隠の心
(思いやりの心)」は仁の端なり。
 羞悪
(しゅうお)の心(自分の不善を恥じ、人の悪を憎む心)は義の端なり。
 辞譲の心
(へりくだり、人に譲る心)は礼の端なり。
 是非の心は智の端なり」。これを孟子の四端の説という。

「言志耋録」 113 忙中の閑
【訳】
 人は忙しい中にも静かな時のごとき心を持たなければならないし、
また、苦しみの中にあっても楽しみを保つ工夫をしなければならない。 

人須著忙裏占閒。

苦中存楽。

工夫。
<読み>

 人は須(すべか)らく忙裏(ぼうり)に閒(かん)を占(し)め、苦中に楽を存(そん)する工夫を著(つく)すべし。
付記】
『菜根譚』前八十八に曰く、

 「静中の静は、真静にあらず。
 動処に静に得
(え)(き)たって、わじかに是れ性天の真境なり。
 楽処の楽は、真楽にあらず、苦中に楽しみ得
(え)(き)たって、わじかに心体の真機を見る。」

「言志耋録」 119 感応の理七則 その四
【訳】
 何事でも、先ず自分が感動して、他を感動させることができる。
 自分が感動しないでは他を感動させるわけにはいかない。

我自感。

而後人感之。





<読み>

 我れ自(みずか)ら感じて、而(しか)る後(のち)に人(ひと)(これ)を感ず。
【付記】
 山本五十六元帥のことば。

「して見せて、言って聞かせて させてみて
  ほめてやらねば 人は動かじ」

 これは上司と下司のとの感応の理の応用ではなかろうか。

 また、教師自らが喜び勇んで教えるようでなければ教育の効果は挙がらない。教師がいやいやながら教える場合はどうなるか考えてみられたい。

「言志耋録」 120 感応の理七則 その五
【訳】
 人に対して先ず自分の感情をおさえて、相手の応じる態度を観
(み)
その応じ方を観て、自分の感情をさらに慎
(つつし)むようにする。
  (とにかく、感情は激し易く、相手の気持ちを害しやすいから十分に慎むべきだということであろう。)

慎我感。
以観彼応。
観彼応。
以慎我感。

<読み>

 我が感を慎しみて、以(もっ)て彼(かれ)の応(おう)を観(み)、彼(かれ)の応(おう)を観て、以(もっ)て我が感を慎(つつし)む。
【付記】

黒住宗忠の歌。
 「立ち向かう 人の心は 鏡なり
   おのが姿を 移してや見ん」

 これも感応の理を歌ったものと思われる。

「言志耋録」 123 処世の道四則 その一
【訳】
 立派な人が世に処するには、
一般社会の風習に従って行きながら、それに溺れるということなく、
世俗の道を踏みながら穴に陥
(おちい)ることのないようにしなければならない。
 自分は君子だからといって、独り世の中から飛び離れた行動をなし、
高く目立った地位を占めるようでは人にきらわれ、決して中庸
(ちゅうよう)を得た行き方とはいわれない。 

君子於世俗

沿而不溺。

履而不陥。

夫特立独行。

高自標置

則不之中行
<読み>

 君子の世俗に於(お)けるは、宜(よろ)しく沿(そ)いて溺(おぼ)れず、履(ふ)みて陥(おちい)らざるべし。

 夫
(か)の特立独行(どくりつどっこう)して、高く自(みずか)ら標置(ひょうち)するが若(ごと)きは、則(すなわ)ち之(こ)れを中行(ゆうこう)と謂(い)うべからず。
【語義】
○ 履而不陥:実行はするが埋没しない。
○ 特立独行:自ら信ずる所を守って世俗の外にぬきんで立ち、
   一世に独立する。
 『礼記
(らいき)』儒行篇に「・・・・同じきも与(くみ)せず、異なるも非とせざるなり。
 その特立独行、かくの如き者あり」とある。
○ 標置:あらわし立つ。目立った地位を占める。
○ 中行:中庸を得た行い。過不足なき行い。
  「論語」子路篇に「中行を得て、之に与
(くみ)せずんば、
      必ずや狂狷
(きょうけん)か」とある。

* 白川 静 
 狂狷
(きょうけん) ・・すすみてとる。なさざる処あるなり・・ してはならないことはしない。
  書物を読むには・・心構え
  志あるを要す 目標
  恒あるを要す ・・ 継続
  識あるを要す ・・見識・価値判断の心

「言志耋録」  124 処世の道四則 その二
【訳】
 世を渉るの道は中々複雑で難しいものではあるが、要するに得と失の二字に帰する。
 すなわち、得てはならないものを得ないようにしなければならない。
   (得てはならないものとは例えば実力にふさわしくない虚名とか正当でない利益とかいうものである。)
 また、失ってはならないものは失ってはならない。
(例えば自己の正しいと信ずる主義主張など。)これが処世の要道である。
 
世之道。
得失二字
得。
失。
此而已。
 
<読み>

 世を渉(わた)るの道は。得失の二字に在(あ)り。

 得
(う)べからざるを得ること勿(なか)れ。

 失う可
(べ)からざるを失う勿(なか)れ。此(か)くの如(ごと)きのみ。

「言志耋録」 127 驕
(きょう)と争は身を亡ぼす
【訳】
 
利益を人に譲って、害を自分で引き受けるのが譲(じょう)である。
 良いことは人に推
(お)し悪いことは自分がとるというのは謙である。
 この謙の反対でよい方を自分がとり、悪い方を人に押しつけることを驕
(きょう)というし、譲の反対で利を自分が取り害を人に与えることを争という。
 この驕と争の二つは身を亡ぼす始めであるから、戒めなければならない。
 
利於人。
害於己。
是譲也。
美於人。
醜於己。
是謙也。
謙之反為驕。
譲之反為争。
驕争是亡身之始也。
戒乎。
 

<読み>


 利を人(ひと)に譲(ゆず)りて、害を己(おのれ)に受(う)くるは、是(こ)れ譲(じょう)なり。

 美
(び)を人(ひと)に推(お)して、醜(しゅう)を己(おのれ)に取るは、是(こ)れ謙(けん)なり。

 謙
(けん)の反(はん)を驕(きょう)と為(な)し、譲(じょう)の反(はん)を争(そう)と為(な)す。

 驕争
(きょうそう)は是(こ)れ身を亡(ほろ)ぼすの始(はじめ)なり。戒(いまし)めざる可(べ)けんや。

「言志耋録」 130 知足の足と無恥の恥
【訳】
 
『老子』四十六章に「満足を知るというそういう満足は、永遠の満足である。」とあるのは、仁に近い。
 また、
『孟子』尽心上篇に「自分の恥ずべき点を恥じないでいることを恥とすれば、
恥はなくなる」とあるが、これは義に近い。
 

足之足。
常足矣。
仁。
恥之恥。
恥矣。
義。
<読み>

 「足(た)るを知るの足(た)るは常(つね)に足る。」。仁(じん)に庶(ちか)し。

 「恥
(はじ)(な)きの恥(はじ)は恥(はじ)無し」。義(ぎ)に庶(ちか)し。



「言志耋録」 133 順境と逆境二則 その二
【訳】
 
自分は「世の中のことそのものは、順逆の二つがあろうはずはない。
 その順逆は我が心、自分の主観にあるのだ」と思う。
 自分の心が順であれば、他人が見れば逆境だと思っても、自分にとっては順境である。
 反対に自分の心が逆であれば、他人が順境だとしても、自分には逆境である。
 果たして、順境は一定しているのだろうか。(一定しているとは思わない。)
 道理に達した人にあっては、一貫した道理をはかりとして、物事の軽重を定めるだけのことである。
      (従って、順とか逆とかは眼中にない。)
  

余意天下事。
固無順逆
我心有順逆
我所順視之。
逆皆順也。
我所逆。
之順皆逆也。
果有一定乎。
達者一理権衡
以定其軽重耳。
<読み>

 余(よ)(おも)う「天下の事(こと)(も)と順逆(じゅんぎゃく)無く、我が心に順逆有り」と。

 我が順とする所
(ところ)を以(もっ)て之(これ)を視(み)れば、逆も皆(みな)順なり。

 我が逆とする所を以
(もっ)て之(これ)を視(み)れば、順も皆(みな)(ぎゃく)なり。果(はた)して一定(てい)(あ)らんや。

 達者
(たっしゃ)に在(あ)りては、一理を以(もっ)て権衡(けんこう)と為(な)し。

 以
(もっ)て其(そ)の軽重(けいちょう)を定(さだ)むるのみ。
【語義】

○ 一理:ここでは順逆に関係なく存在する一貫した道理。

○ 権衡:秤り。

「言志耋録」 134 苦楽も一定なし
【訳】
 苦と楽も決まった定めがあるわけではない。
 例えば、自分が書物を読んで夜半になってしまうと、人は皆、苦痛だろうと言う。
 しかし、自分はこれを楽しんでいるのだ。
 反対に、世間の人々が好む所のみだらな声やいやしい歌曲に出会うと、自分は耳を押さえて通り過ぎる。
 結局こういうことを知るわけだ。
 苦楽に一定の標準があるわけではなく、人々が自分が苦である。
 楽であるとする所をもって苦楽としているだけだということを。

苦楽。
固亦無一定
仮如
我読書至夜央
人皆謂之苦
而我則楽之。
世俗所好淫哇俚腔。
我則掩耳而過之。
果知苦楽無一定
各以其所苦楽為苦楽耳。


<読み>

 苦楽も固(も)と亦(また)一定(てい)無し。

 仮
(たと)えれば我が書を読みて夜央(よなか)に至(いた)るが如(ごと)き。

 人皆之
(こ)れを苦と謂(い)う。而(しか)れども我は則(すなわ)ち之(こ)れを楽しむ。

 世俗の好む所
(ところ)の淫哇俚腔(いんあいりこう)、我は則(すなわ)ち耳を掩(おお)うて之(こ)れを過(す)ぐ。

 果
(はた)して知る。

 苦楽に一定無く。各
(おのおの)(そ)の苦楽とする所(ところ)を以(もっ)て苦楽と為(な)すのみなることを。



「言志耋録」 176 自と他 二則
【訳】
 他人と自分とは一つである。
 自分が自らを知って人を知らないのは、実はまだ自分が自分を知らないものである。
 また自分を愛して人を愛さないのは、まだ本当に自分を愛していないものである。

人己。一也。
自知而不人。
自知者也。
自愛而不人。
自愛者也。
<読み>
 人己は一なり。自ら知りて人を知らざるは、未(いま)だ自(みずか)ら知らざる者なり。
 自
(みずか)ら愛して人を愛せざるは、未(いま)だ自(みずか)ら愛せざる者(もの)なり。
【付記】
 自他平等、自分を愛し人を愛してゆくのが人の人たる道であるというのであろう。
 次に道歌を一つ。
 「心せよ 使うも人の 思い子を
   わが思い人に 思いくらべて」

「言志耋録」 178 本物と似せ物
【訳】
 
”しつこい”のは、”信念の固い”のに似ている。
 ”かるはずみ”なのは”すばしっこい”のに似ている。
 ”口数が多い”のは”物知り”に似ている。
 ”うわすべりで軽薄”なのは”才智がすぐれている”のに似ている。
 このように、他人の似て非なる行動を視て、自分を反省するがよい。

執拗。似凝定
軽遽。似敏捷
多言。似博識
浮薄。似才慧
人之似者
以反省己。可也。
<読み>
 執拗(しつよう)は凝定(ぎょうてい)に似たり。軽遽(けいきょ)は敏捷(びんしょう)に似たり。
 多言
(たげん)は博識(はくしき)に似たり。
 浮薄
(ふはく)は才慧(さいけい)に似たり。
 人の似
(に)たる者を視て、以(もっ)て己(おの)れを反省すれば可(か)なり。

「言志耋録」 283 道理に老少なし
【訳】
 人間の体には年寄りと少年の別はあっても、心には老少はない。
 体の動きには老少があっても、道理には老少がない。
 是非とも、年寄りだの、若者だということのない心をもって、
万古
(ばんこ)に変わらない、老少のない道理を体得しなければならない。 

身有老少
而心無老少
気有老少
而理無老少
能執老少之心
以体
老少之理
<読み>

 身には老少(ろうしょう)(あ)れども、而(しか)も心には老少無(な)し。
 気
(き)には老少有(あ)れども、而(しか)も理(り)には老少無し。
 須
(すべか)らく能(よ)く老少無き心(こころ)を執(と)りて、以(もっ)て老少無きの理(り)を体(たい)すべし。
【語義】

○ 気:ここでは身体・気管などの働き
○ 理:人間が生まれつき与えられている天理。
  道義性の根源。
○ 体:体得する。身に実現する。

「言志耋録」 284 自己の身の程を知るべし
【訳】
 
人々は大抵(たいてい)過ぎ去ったことは忘れてしまい、まだ来ない翌年のことを考え、また、前日過ぎ去ったことを捨てて、これから来るべきものに対して心配する。
 こんなわけで何事もいい加減になって、一日中あくせくとして、ついに年がより、死んでしまうものである。
 このようなことは誠に嘆
(なげ)かわしいことだ。
 それではどうすればよいかというに、若い時にはいろいろな苦しみもあり、艱難
(ぎんなん)にも出会ったことを回顧しながら、今安らかに暮らされることの有り難さを知るがよい。
 これが自己の身の程を知ると言うことである。

人皆忘往年之既去
両図次年未来。
前日之已過
而慮後日之将至。
是以百事苟且。
終日齷齪。
以至老死。可嘆也。
故人宜
回顧少壮時有困苦
艱難
以知
今之為安逸
是之謂
自知本分
<読み>
 人は皆往年(おうねん)の既(すで)に去(さ)るを忘れて、次年の未(いま)だ来(き)たらざるを図(はか)り、前日の已(すで)に過(す)ぐるを舎(す)てて、後日(こうじつ)の将(まさ)に至(いた)らんとするを慮(おもんばか)る。

 是
(これ)を以(もっ)て百事(じ)苟且(こうしょ)にして、終日(しゅうじつ)齷齪(あくさく)し、以(もっ)て老死(ろうし)に至る。

 嘆
(たん)ず可(べ)き也(な)り。

 故
(ゆえ)に人は宜(よろ)しく少壮(しょうそう)の時困苦(こんく)(あ)り艱難(かんなん)有(あ)るを回顧(かいこ)して、以(もっ)て今の安逸(あんいつ)たるを知(し)るべし。

 是
(こ)れ之(こ)れを自(みずか)ら本分を知ると謂(い)う。
【語義】

○ 慮:心配する。。

○ 苟且:かりそめにする。いい加減にする。

○  齷齪:こせこせすること。

○ 本分:自己の尽くすべき責務。自分の分際。


「言志耋録」 286 敬は終身の孝である
【訳】
 人の踏み行うべき道は”敬”にある。”敬”はいうまでもなく一生涯の孝行である。
 自分の体は父母が自分にのこされたものであるからである。
 だから、一息でもある間は、自ら”敬”することを忘れてはならない。

人道在敬。
敬固為終身之孝
我躯為親之遺也。
注意
一息尚存。
自敬乎。

<読み>

 人道は敬に在
(あ)り。
 敬は固
(も)と終身(しゅうしん)の孝(こう)たり。
 我が躯
(み)は親の遺(い)たるを以(もっ)てなり。

 一息
(そく)(なお)(そん)せば、自ら敬すること忘れべけんや。
(注意)

 ”敬”はしばしば述べたように、他人に対しては、”うやまう”ことであり、自己に対しては”つつしむ”ことである。本文の場合、”敬”はどちらの意味でも通じるので”敬”をそのままとしておいた。(著者)

「言志耋録」 288 若死も長寿も天命
【訳】
 人の寿命には一定の理法があって、人がこれを長くしたり、短くすることは出来ない。
 しかし、自分の意志で養生しようとする者は、すなわち、その人自身の発意に依るのでなく、天が誘ってそうさせるのである。
 つきつめた所、若死か長寿かは、人の関係する所ではないのである。

人命有数。
長之
然我意欲養生者。
及天誘之也。
必得脩齢者。
亦天錫之也。
之殀寿之数。
人之所干。
<読み>

 人命は数(すう)(あ)り。之(こ)れを短長(たんちょう)する能(あた)わず。
 然
(しか)れども、我が意(い)、養生(ようじょう)を欲(ほっ)する者は、及(すなわ)ち天(てん)(こ)れを誘(いざな)う也(な)り。
 必
(かなら)ず脩齢(しゅうれい)を得る者も、亦(また)(てん)(こ)れを錫(たま)う也(な)り。
 之
(こ)れを究(きゅう)するに殀寿(ようじゅ)の数(すう)は、人の干(あずか)る所(ところ)に非(あら)ず。


「言志晩録」 257 老少の述懐
【訳】
 自分は年若い時、元気盛んで頭脳も鋭敏であった。それで、この聖人の学を視て容易に学び得ると思った。
 しかるに、晩年に至ると、事ごとにつまずき、思うようにならない。
 たとえていうと、登山と同じで、山の麓から中腹まで行くのは容易だが、中腹から絶頂に行くのは困難である。
 すべて晩年になってから為すことは皆人生のしめくくりの仕事である。
 古人の言葉に「百里の道を行く者は九十里を半分とする。」とあるが、まことにその通りである。

余少壮時気鋭。
此学容易可做。
晩年蹉跎
意。
譬如山。
麓至中腹易。
中腹絶頂難。
凡晩年所為。
皆収結事也。
古語。
百里者半九十
信然。
  
注:足ヘンに它
<読み>

 余
(よ)は少壮(しょうそう)の時、気鋭(きえい)なり。
 此
(こ)の学(がく)を視(み)て容易に做(な)す可(べ)しと謂(おも)えり。
 晩年に至り、磋跎
(さだ)して意の如(ごと)くなる能(あた)わず。
 譬
(たと)えば山に登るが如し。麓(ふもと)より中腹に至るは易(やす)く、中腹より絶頂(ぜっちょう)に至るは難(かた)し。
 凡
(およ)そ晩年(ばんねん)(な)す所(ところ)は皆収結(しゅうけつ)の事(こと)なり。
 古語
(こご)に、
 「百里を行く者は九十里を半
(なかば)とす」と。
 信
(まこと)に然(しか)り。
【語義】

○ 気鋭 →元気盛んで頭の鋭いこと。

○ 此学 →聖人の学

○ 做  →学ぶ

○ 磋跎(さだ) →足を失ってつまずく。

○ 収結 →収穫結実の意

○ 行百里 云々 → 『戦国策』秦策に逸詩を引いて
  「百里を行く者は九十里を半(なかば)とす ここにおいて末路の難きを言う」とある。