思索の庵 17 "The hermitage of the speculation"

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編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃)
心の発見 アメリカからたどり着いた老子の言葉
   詩人・英文学者 加島祥造による

☆ 苦縁讃の雑感 ☆

 
TVを見て、第一印象は、『はは〜ぁ。やはりか?!』と、思った。
 この英文学者は、専門が英文学者だからである。しかし、この作者のみではない。我々の多くの日本人が、殆どが・、(戦前のことは知らないが、・・)日本独自の文化や、他国の文化を、日本人の魂・背骨(視座)を持って消化しようとしなくなっていたからだ。
 戦後は、”アメリカ様”の物真似が多かった。
 だが、いま、新しい日本人のなにかを求めようとしている。物真似だけでは、物足りなくなってきたからである。
 小さな島国の真摯な日本民族にとって、敗戦の痛手はかくも大きかったのだ!
 いま、やっと、我に返ろうとしている様子がみえる。

 だが、思えば・・・・、少なくとも私が幼い頃の村の古老達は、日本人としての誇り(自覚があったかどうかは、当時、子供だった小生には、振り返っても解らない・・・? が。)と、村独特のポリシーを確かに持っていた。
 さて、
 「老子」は、ここにアメリカ言葉を媒体として、日本人に伝わろうとしている。
 しかも、他のどの「老子」よりも、生き生きと「老子」のこころを伝えようとしている。・・だから、『はは〜ぁ。やはりか?!』と、皮肉な感動を覚えたのである。
 そういえば、・・・・、親鸞の教えを伝えた唯円の「歎異抄」を連想させるものがあった。
 加島氏は、この老子の言葉を、ご専門の英語の解説を通じて理解し、自らを
”タオイスト”と称しておられる。
                        
 氏は、先の第二次大戦に一兵士として参加された。
 青春時代の一番苛烈で敏感な時期を戦争の渦中で過ごされ、そして敗戦。
 このショックと共に否応なしに迫ってきた欧米文化を、身体中に浸透させたひとりの日本人・加島氏の想いを、私はとても共感もでき、無理なくそれを理解できるような気がするのである。
 敗戦。そして、それ以後の日本は、すべてのヒトがそうだったからであるからだ。否応なく、所謂,Americanizeされたのである。
                        
 他にも、老子を紹介した多くの著作があるが、ここに加島氏の訳による『道(タオ)』を、ご紹介させて頂くのは、そんな日本人の悲しい歴史の背景を一杯に滲ませた、そして多くの人に一番わかりやすい(タオイズムの理解しやすい)内容だと思ったからである。
 畏
(かしこ)まって聴く文字として・・・・、知識としてではなく、こころで肯きながら読み進んで行くと、その世界は日本人が長い間漂う煙のように、身体の毛穴から染み込んでいた仏教思想にもつながる、平和への願いと静寂な世界があるのだ。
 ついついと、そこに誘い込まれる。

 お断りして置くが、”頭だけで解したり判断し”ようとする人には、『馬鹿らしい』『そんなことを言っていて、明日のおまんまが喰えるのか?!』等と、直感されると思う。そんな風に、先ずは、反感を覚えるだろうと推測する。

 しかし、この遙か古い老子の思想が、仏教思想ほどに我が国の人々に知られてこなかった理由は、一体、何であろうか?
 単純に言えば「現世利益」との具体的な関連性を縷々と解説する信者がいなかったことにもその一因が在ろうと思う。


 仏教は、いつの世も華やかである。
 年末年始に・・・、日常的に参拝する人びとの多いことはそれを物語っている。
 ”一人一宇宙”。参拝者の想いは様々であるが、賽銭を投げるときの気持ちは、賢者が知識を漁るときのように、明日の利益を願っている。
 しかし、それは、参拝者達の気持ちにお任せするしかない。自由である。
☆ 加島祥造氏のこと ☆
 1923年(T12) 東京神田生まれ。詩人。
 早稲田大学英文学科卒。
 米国カリフォルニア州クレモント大学院留学。
 信州大学・横浜国立大学を経て、青山学院女子短期大学教授を最後に退官。

 詩集に『晩晴』『放曠』『離思』

 訳詩集『倒影集ーイギリス現代詩抄』『ポー詩集』

 著書に、『英語の辞書の話』 『英語の常識』 『フォークナーの町にて』 『会話を楽しむ』
     『タオ・ヒア・ナウ』 『伊那谷の老子』 『老子と暮らす』 『今を生きる』 『求めない』など。
 
 これも、NHK「心の時代」で、出会った輝く文化であった。ビデオにとって置いて何度も聞いた。とても印象が深かったので、氏の著書を読みたいと思っていたが、田舎の書店では見つからなかった。注文して待つほどの辛抱のできない小生。中国人の書いた老子の「道(タオ)」を購入して、読んでみたが、加島氏の訳詞のように感動がわいてこなかった。
 本の購入は諦めてしまおうと思っていた矢先に、インターネットオークションで、売って頂ける人が見つかった。
 早速入札したらご縁があった。私の手元に届いたので、一気に読んだ。
 不思議にすんなりと、私の心にしみこんできた。
 (氏は、今、伊那谷に住み著作活動に励んで居られる。毎日、トボトボと歩いて伊那谷の清水を汲みに行って、お茶を喫するのが楽しみであるという。)
 あたかも伊那谷の清水のように、私の全身にしみ込んだ。
 そこで、是非このページにご紹介させて頂こうと決意した。
 TVで紹介された詩は、ごく一部であった。しかもそれも詩の一部分は省略されていた。
 そのせいか、文字にしたものを手にして読み直してみると、TVで視聴したときの記憶とは異なった感動を覚えた。
 さて、ここでは、小生なりに抜粋してご紹介させて頂きます。
  「タオ *老子」 筑摩書房 を、抜粋してご紹介させて頂きます。
  ・・・苦縁讃
補:    ◇ 老子のこと ◇          ・・・ 「広辞苑」から
 中国、春秋戦国時代の思想家。道家の祖。史記によれば、姓は李、名は耳、字は タンまたは伯陽。楚の苦県コケン 郷レイキヨウ曲仁里(河南省)の人。
 宇宙の本体を大または道といい、現象界のものは相対的で、道は絶対的であるとし、清静・恬淡
(てんたん)・無為(むい)・自然に帰すれば乱離なしと説く。編纂は孟子以後と考えられ、前漢初には現行本に近いものが成立していた。老子道徳経。
注:春秋戦国時代:
中国
において、紀元前770年が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年が再び中国を統一するまでの動乱の時代を言う。
  第22章 マイナスは大きなプラスを妊む

  いいかね
  マイナスに見えるものは
  そのなかに
     大きなプラスを
      妊
(はらん)でいるんだよ。

  突っ張って直立するものは
  折れやすい。
  自分を曲げて譲る人は、かえって
  終わりまでやりとげる。
  こづかれてあちこちするかに見える人は
  自分なりの道を歩いている。
  ぼろぼろになった古い物は、
  それ自体、
  新しくなる寸前にあるんだし
  窪んだところは自然に
  水の満ちるところになるんだ。
    同じように
  物をほとんど持たない人は、
  持つ可能性に満ちているのに、
  沢山に物を持った人は、
  ただ戸惑うばかりだ。
    だから
  タオを身につけた人は、
  「この道のひとつ」だけ抱いている、そして


  タオ的な生き方の見本になる。
  そういう人は自我を押しつけないから
  かえって目立つ存在になる。
  自分は正しい、
   正しいって主張しないから
  かえって人に尊敬される。
  自慢しないから、

  かえって人に尊敬されるし
  威張って見下さないから、
  人はその人をリーダーにしたがる・・・・・。

  つまるところ
  この人は争わないんだよ。だから
  どんな相手からも喧嘩をぶっかけられない。
  「自分を曲げて譲る人は、かえって
  終わりまでやりとげる」

  この古い言葉(いましめ)は、
  まことに本当だと思うね。
  こういう生き方の人が
  自分の人生をまっとうして、あの
  静かなとこへ帰るのだよ。

        「タオ」 老子 第22章
TVでは、元の英語訳の一部も紹介されていた。

' To remain whole ,be twisted !'
 To become straight ,let yourself be bent.
 To become full , be hollow.
 Be tattered , that you may be renewed.
 Those that have little , mey get more,
 Those that have much, are but perplexed.
 Therefore the Sage
 Clasps the Primal Unity,
 Testing by it everything under heaven.
 He does not show himself; therefore he is......

正と反  陰と陽   有と無  の、意識変革を訴えている。
  第11章  「空っぽ」こそ役に立つ

  遊園地の
  大きな観覧車を想像してくれたまえ。
  沢山のスポークが 
  輪の中心の轂
(こしき)から出ているが
  この中心の轂は空っぽだ。だからそれは
  数々のスポークを受け止め、
  大きな観覧車を動かす軸になっている。

  粘土をこねくって
  一つの器を造るんだが
  器はかならず
  中がくられて空
(うつろ)になっている。
   この空の部分があって
  はじめて器は役に立つ。
  中がつまっていたら
  なんの役にもたちゃしない。
 
    同じように、
   どの家にも部屋があって
   その部屋は、うつろな空間だ。
   もし部屋が空でなくて
   ぎっしりつまっていたら
   まるっきり使いものにならん。
   うつろで空いていること、
   それが家の有用性なのだ。

   これで分かるように
   私たちは
   物が役立つと思うけれど
   じつは物の内側の
   何もない虚のスペースこそ、
   本当に役に立っているのだ。

    タオ(道)  老子   第11章
       =大自然と繋がるパワーのこと           
 何故、西洋人は老子に惹かれたのか?
 今の西洋人は、反対の方に傾きすぎていた。結果戦争を引き起こした。科学の発達を促しはした。
 明在系:明らかにある世界がある。
 これと対比して、暗在系:まったくみえないものも在るのではないか?との仮説・・・。
 これは「混沌
(こんとん)」だと思っていた。
  しかし、「混沌」とは無秩序ではなく、整然とした暗在系があると思った。老子にはこれがある。
                          ・・・と、氏は述べておられた。
 
  第33章「自分」のなかの富


 
世間の知識だけが
  絶対じゃないんだ。
 他人や社会を知ることなんて
 薄い知識に過ぎない。
 自分を知ることこそ
 本当の明るい知慧なんだ。

 他人に勝つには
 力ずくですむけれど
 自分に勝つには
 柔らかな強さが要る。
 頑張り屋は外に向かって
 ふんばって
 富や名声を取ろうとするがね。
 道
(タオ)につながる人は、
 いまの自分に満足する。 そして
 それを本当の富とするんだ。

 その時、君のセンターにあるのは
 タオの普遍的エナジーであり、
 このセンターの意識は、
    永遠に伝わってゆく。
 それは君の肉体が死んでも
 滅びないものなのだ。
   タオ 老子  第33章
第33章 「弁徳」

 知人者智也。
 自知者明也。
 勝人者有力也。
 自勝者強也。
 知足者富也。
 強行者有志也。
 不
其所者久也。
 死而不亡者寿也。

 
 
      ☆ 老子と孔子の違い
 
老子は、孔子と比較すると、いわばマイナスイメージをもつ。 
 現実の生活の中で、本来の自分を見つめ直して「生きることのよろこびを探せ。」と言っている。
  
 自分に目を向けたときに、競争・所有を争っている社会の中では、本当の自分は見いだせない。

                       ・・・・・と、氏は述べていた。
  第6章 神秘な女体

 道
(タオ)の満ちた
  谷にいる神は、
 決して死なないのさ。
  それは、
 すべてを産みだす
 神秘な女体と
 言えるものなんだ。
 その門をくぐってゆくと
 天地の根っこに達する。
 そこから湧きでるものは
 滾々
(こんこん)として尽きない・・・・
 まったくタオの命は
  いくら掬
(く)んでも
 いくら掬んでも
 くみつ掬せないものなのさ。

  
タオ  老子 第6章

 
   第六章 「成象」

   谷神不死、
   是謂玄牝
   玄牝之門、
   是謂天地之根
   綿綿若存。
   用之不勤。
 谷神不死、是謂玄牝
 
The Spirit of the Valley never dies. It is colled the Mystic female.
 それから、番組では、第42章の一部分が紹介されていた。ここでは、以下にこの章のすべてをご紹介させて頂く。
 第42章 陰を背に、陽を胸に

 タオの始源
(はじめ)には
 あの混沌
(カオス)があった。
 それを一としよう。
 その一から陰と陽が生じた。
 それを二としよう。 そして
 この二つの間から三、すなわち
 この世のすべてのものが
    生まれたのだ。
 すべてのものは、だから、
 陰を背に負い
 陽を胸に抱いているのであり、
 そしてこの二つが
 中心で融けあうところに
 大きな調和とバランスがあるのだ。

 人は誰だって
   未亡人や孤児や貧乏人に
     なりたくない。

 もしも地位の高い人や富んだ者が、
 自分を貧しい人とか孤児と見なして
 つねにへり下った気持ちでいれば、
 そこにひとつのバランスが
      生まれるわけだ。

 このように
 物や生き方を控えめに
    抑えたときに
 かえって得をする。
 強引に得をした時にはかえって
 大きな損をするものなのだ。
 この大事な一点を
 教える言葉があるから
 お伝えしたい。それは、こうだよ・・・
 「暴力的な人は
 静かな死を迎えられない」
 これは私の心がいつも
 大事に守っている教えなのだよ。
第四十二章 「道化」

  道生一、
  一生二、
  二生三、
  三生萬物。
  萬物負陰而抱陽。
  沖気以為和。
  人之所悪、
  唯孤・寡・不穀。
  而王侯以自名也。
  故物或損之而益、
  或益之而損。
  人之所教、
  我亦教之。
  強梁者、
  不其死
  我将
以為教父
 ☆ 老子の言葉
 足るを知るということは、 Inner・Freedom
(インナー・フリーダム)である。すなわち、外に求めない自由だ。
 外に求める自由(リベレーション・ Liberty)開放とは、性格の異なるものである。 
 自足することは富めること。それはフリーになって好きなことをすること。
 他との競争ではない世界である。
 森の木は、互いに競い合って高く高く伸びているが、地中の根の部分は、絡み合って互いに許しているではないか。  と述べておられた。

 以上が、番組の中で紹介された詩である。漢詩は、小生が購入した「タオ」から引用させて頂いた。
            
 以後熟読した上で、更に付け加えてご紹介したいが、取りあえず直感的に気に入ったものを独断で抜粋して、ご紹介させて頂きます。
「あとがき」に、以下のように記されていた。

あとがき T 
 
(略)
 ともかくはじめに、頭だけで解したり判断したりしないでほしい。
「私の言うことを聞いて、多くの人は馬鹿くさいホラ話だとわらう。」・・こう「老子」は言っているが、それは多くの人が頭だけで知ろうとしたからのことだ。「老子」を分かるには頭で取りいれることも必要だが、まず胸で、腹で、さらには全身で感応することで、はじめて「老子」の声が聞こえてくる。そして彼のメッセージが感得できるのだ。
 こう言うだけでもう私の言葉は理屈の筋にはいっている。頭での解釈が始まっている。それで理屈で分かってもらう前に、本文のどれか一章にでも接してもらうよう願っておくのだ。先に頭でだけ解しはじめると、本当の共感が湧くのを邪魔するかもしれない。 (略)
                
あとがき  U 
 (略)
 「老子」の思想とメッセージについては、語りだせば限
(き)りがない。この仕事を通して私の分かった大切なポイントをいくつか提出するにとどめる。

(A)  「老子」は人間にある宇宙意識と社会意識の間のバランスを語る。つまり、その左の手は、何も掴めない空に向かって開き、右の手は、しっかり掴めるものを握りしめている。この大きなバランスを「老子」の言葉から感じ取ると、人は安らぎやくつろぎの気持ちの湧くのを覚える。『パルコ版』を読んだ人たちがこのことを私に伝えてくれた。
(B)  この大きなバランスの視点から老子は、人間のする行き過ぎに警告を発している。 (略)
(C)  老子『道徳経』が真に革命的なのは、すべてが「復帰」ー The return process −の働きのなかにあると説いたことだ。それも天から地への復帰ばかりでなく、社会も人間も根に帰る ー すべてが、自然から分離する前の根源へ帰ると説いたことである。

 「タオ」は「道」のことで、中国語ではdaoまたはtaoと表記される。このdao(ダオ)は日本語に入って道(ドウ)と発音され、道中、柔道、茶道などと使われている。
 ところで、英語でTaoと書かれるとそれは「老子の教える道」と「道教」の意味だけに使われている。このTaoは独、仏、その他の諸国でも同じように使われて、Zen(禅)と共に、国際語になっている。
 私は「老子の道」を英語訳から知った者であり、・・・(略) ・・・。伊那谷に独居しているが、私はタオイストであり、旧来の「山に隠れる」老荘派ではないし、老子学者でもない。
 老子は2千五百年ほど前に中国にいた人とされている。彼の思想が二十世紀のはじめに、欧米社会に甦
(よみがえ)った。Zen(禅)とTao(老子)は西洋の知識人の間に深く受け入れられて、今もそれがつづいている。これは欧米人と話せばすぐに実感される。この欧米に甦ったタオイズムの波が、東洋人である私に達したのだった。
 私は西欧文化に甦った「老子」を英語からキャッチした。それ以前の私は、現代のこの国の多くの人と同じように、原文や和訓を読んでも、「老子」が分からず、「老子」とは理解できないもの、ときめこんでいた。 (以下略)

                             
 
    第1章 道(タオ) ・・ 名の無い領域

  これが道
(タオ)だと口で言ったからって
  それは本当の道(タオ)
じゃないんだ
  これがタオだと名づけたって
  それは本物の道(タオ)じゃないんだ。
  なぜってそれを道(タオ)だと言ったり
  名づけたりするずっと以前から
  名の無いの領域
(りょういき)
  はるかに広がっていたんだ。

  まずはじめに
  名の無い領域があった。
  その名の無い道(タオ)の領域から
  天と地が生まれ、
  天と地のあいだから
  数知れぬ名前が生まれた。
  だから天と地は
  名の有るすべてのものの「母」と言える。

  ところで
  名の有るものには欲がくっつく、そして
  欲がくっつけば、ものの表面しか見えない。
  無欲になって、はじめて
  真のリアリティが見えてくる。

  名の有る領域と
  名の無い領域は、同じ源から出ている、
  名が有ると無いの違いがあるだけなんだ。
  名の有る領域の向こうに
  名の無い領域が、
  はるかに広がっている。
  明と暗のまざりあった領域が、
  その向こうにも、はるかに広がっている。その向こうにも・・・
  入り口には
  衆妙
(しゅうみょう)の門が立っている、
  森羅万象
(しんらばんしょう)あらゆるもののくぐる門だ。
  この神秘の門をくぐるとき、ひとは
  本物のLife Forceにつながるのだ。
T 老子『道徳経』

第一章 「体道」




 道可道也
 非
常道也。

 名可名也、
 非常名也。

 無名、
 萬物之始也。

 有名、
 萬物之母也。

 故常無欲也、
 以観其妙
 常有欲也。

 以観其所

 両者同出異名。

 同謂、
 玄之又玄、
 衆妙之門。














第7章  天と地の在り方


天はひろびろとしているし、
地ははてしなくて、
ともに
長く久しくつづくもののようだ。
それというのも、天と地は
自分のために何かしようとしないで、
あるがままでいるからだ。
だから、長く、いつまでも、ああなんだ。

タオにつながる人も
この天と地の在り方を知っているんで、
先を争ったりしない、そして
いつも、ひとの
いちばん後からついてゆく。
競争の外に身をおいて無理しないから、
身体は長持ちするわけだ。
つづめて言えば、
我を張ったりしない生き方だから、
自分というものが
充分に活きるんだ。
第7章 〔韜光〕


天長地久。

天地之所
以能長且久者、
其不自生

故能長生。

是以聖人、
其身而其身先、
其身而身存。

其無一レ私与。

故能成其私





第9章  さっさとリタイアする

弓をいっぱいに引きしぼったら
あとは放
(はな)つばかりだ。
(カップ)に酒をいっぱいついだら
あとはこぼれるばかりだ。
うんと鋭く研
(と)いだ刃物(はもの)
長持ちしない ・・ すぐ鈍
(にぶ)くなる。
金貨や宝石を倉にいっぱい詰めこんでも
税金か詐欺
(さぎ)か馬鹿息子で消えてなくなる。
富や名誉で威張
(いば)る人間は
あとでかならず悪口を言われるのさ。

何もかもぎりぎりまでやらないで
自分のやるべきことが終わったら
さっさとリタイアするのがいいいんだ。
それが天の道に沿
(そ)うことなんだ。
第9章 〔運夷〕


持而盈之、
其己
揣而鋭之、
長保一レ之。
金玉盈室、
之能守也。

貴富而驕、
遺其咎也。

巧成名遂、
身退、
天之道也。
巧成名遂、身退、天之道也。
 Retire when your work is done, Such is Heaven's way.
第10章 玄にある深い力

われら心と肉体を持つものは
ひとたびタオの道につながれば、
身体
(からだ)と心は離れないようになる。
精気
(エナジー)にみちて柔らかいさまは
生まれたての赤ん坊みたいだ。
その無邪気な心は
よく拭
(ぬぐ)った鏡みたいに澄んでいる。
その人が国を治めれば
ただ民を愛するだけで充分なんだ。

天と地の出てきた神秘の門
あれを開いて、母と遊ぶことができるんだ。

無理に知ろうなんてしなくとも
四方八方、とてもよく見えてくる。
もちろんタオの人も
産んだり愛したり養ったりするさ、
しかしそれを自分のものとしない。
熱心に働いても
自分のしたことだと自慢しない。
人の先頭に立ってリードしても
けっして彼らを支配しようとしない。

これを玄徳と言うんだ、すなわちそれは
ひとの玄
(おく)にある深い力が、
いちばんよく働くことなんだ。
第十章 「能為」

営魄一、
能無離乎。

気致柔、
能嬰児乎。

除玄覧
能無疵乎。

民治国、
能無以為乎。

天門開闔、
能為雌乎。

明白四達、
能無以知乎。

生之畜之、
生而不有、
為而不恃、
長而不宰也。

是謂玄徳
第13章 たかの知れた社会なんだ


ぼくらはひとに
褒められたり貶
(けな)されたりして、
びくびくしながら生きている。
自分がひとにどう見られるか
いつも気にしている。しかしね
そういう自分というのは
本当の自分じゃあなくて、
社会にかかわっている自分なんだ。

もうひとつ
天と地のむこうの道
(タオ)
つながる自分がある。

そういう自分にもどれば
人に嘲
(あざけ)られたって褒(ほ)められたって
ふふんという顔ができる。
社会から蹴落
(けお)とされるのは
怖いかもしれないけれど、
タオから見れば
社会だって変わってゆく。だから
大きなタオの働きを少しでも感じれば
くよくよしなくなるんだ。
たかの知れた自分だけれど
社会だって、
たかの知れた社会なんだ。

もっと大きなタオのライフに
つながっている自分こそ大切なんだ。
そのほうの自分を愛するようになれば
世間からちょっとパンチをくらったって
平気になるのさ。だって
タオに愛されてる自分とは
別の自分なんだからね。

社会の駒のひとつである自分は
いつもあちこち突き飛ばされて
前のめりに走っているけれど、
そんな自分とは
違う自分がいると知ってほしいんだ。
第十三章 「厭知」


寵辱若驚、
大患身。

何謂寵辱若一レ驚。
之為下也、
之若驚、
之若驚。

是謂寵辱若驚。

何謂
大患若身。

吾所以有大患者、
為吾有一レ身。

吾無身、
何患

故貴以身為天下者、
則可以託天下矣。

愛以身為天下者、
及可以託於天下矣。









       第17章 最上のリーダー

   道
(タオ)とリーダーのことを話そうか。
   一番上等なリーダーってのは
     自分の働きを人びとに知らさなかった。
   人びとはただ
    そんなリーダーがいるとだけは知っていた。
   その次のリーダーは
    人びとに親しみ、褒
(ほ)め称えられ、
     愛された。
   ところが次の時代になると
    人びとに恐れられるリーダーが出てきた。
   さらに次の代になると、
    人びとに侮
(あなど)られる人間がリーダーになった。
   ちょうど今の政治みたいにね。

   人の頭に立つ人間は、
    下の者たちを信じなくなると、
     言葉や規則ばかり作って、それで
      ごり押しするようになる。

   最上のリーダーはね
    治めることに成功したら、あとは
     退いて静かにしている。
   すると下の人たちは、そのハッピーな暮らしを
     「おれたちが自分で創り上げたんだ」と思う。
   これがタオの自然に基づく政治であり、
    これは社会でも家庭でも
      同じように通じることなんだよ。
   第十七章 「淳風」

大上、

下知之。

其次親之誉之。

其次畏之。

其次侮之。

信不足焉。

 悠兮其貴言也。

功遂事。

而百姓皆謂我自然











    第19章 本当の「自分」を知ること

   前にも言ったように
    かつては聖人ぶって知恵を説く人なんか
     居なくたって、
   人びとは
    ゆったりと豊かに暮らしていたし、
     道徳や正義をふりかざして脅
(おど)かさなくとも
      みんな互いに慈
(いつく)しみあっていた。
   頭を絞って利益ばかり追いかけなかったから
    ずるい銀行家も凶暴な強盗も出なかった。

   いや、知恵や道徳を捨てて
    太古の昔に戻れと
     言うわけじゃあないがね、
      いまも働くタオの
       大切な生き方のエッセンスだけは
        言っておきたい。

  自分のなかにある素朴な素質を
   なによりも大事にすること・・・・
    自分のなかにある本性は、もともと、
     我
(が)を張ったり、
      欲張ったりしないものだ、と知ること・・・・
    まあ、これだけは、
    時おり、思いおこしてほしいんだ。
第十九章 「還淳」

聖棄智、

民利百倍。

仁棄義、

民復孝慈

功棄利、

盗賊無有。

此三言也、

 以為文不足。

故令属。

素抱朴、

私寡欲。

    第21章 君の here と now

  道
(タオ)に従って働くパワーは
   どんな顔や姿なのか。
  
  こう訊
(き)かれれば、確かに
   それは漠として広く暗いもの、
    把
(とら)えどころのないもの、としか言えない。
  だがね、
   すべてのものの奥に働くパワーは
    それ自体、
     ひとつのイメージになるはずだ。
  すべての者の内に働くもの、
   言わば、もののエッセンス
    すべての形の原形
  それは
   あらゆるものを成長させる種だ、
    ライフ・エナジーの根源なんだ。
  
  まあ、こんなふうに言えば
   タオのパワーのイメージが
    すこしは出てくるかもしれん。

  なにしろこれは
   太古から今まで続いているから
    仮に名づけたタオという名は
     決して消えうせないし、
      多くの人びとがタオを会得してきたんだ。
  これを、
  どうやったら知ることができるかって?
  それは君のhere
(ヒア:この場)とnow(ナウ:今)のなかで
   君全体の奥にあるものを感じる・・・・
    それしか手はないんじゃないかな。
  第二十一章 「虚心」


孔徳之容、

唯道之従。

道之為物。

唯恍唯忽。

忽兮恍兮、

其中有像。

恍兮忽兮、

其中有


窈兮冥兮、

其中有精。

其精甚真、

其中有信。

古及今、

其名不去。

以順衆甫

吾何以知衆甫之然也。

此。

      第23章 タオのほうから助けてくれるさ

  まわりの人が
  君のことをあれこれと言ったって
  気にしなきゃいいんだ。
  台風は上陸したって、
  半日で過ぎ去る。
  大雨は、いくら降ったって
  二日とはつづかない。
  道(タオ)につながる大自然でさえ
  この程度しかつづかないんだ。

  ましてや人間関係の騒ぎなんて
  気にすることはないのさ。
  タオにつながる人だったら無事だが
  タオに欠けた相手だったら、
  君は、
  その欠けたところで付きあったらいいんだ。
  相手の欠けたところを楽しめばいいんだ。
  信じられない人にたいしても
  同じことさ。
  こういう自然の働きに従えば
  タオのほうでも君を助けてくれるのさ。
第二十三章 「虚無」

希言自然。
飄風不朝。

驟雨不日。
孰為此者。

天地。
天地、尚不久。

而況於人乎。
故従事於道者同於道

徳者同於徳
失者同於失

於道者、道亦楽之。

於徳、徳亦楽之、
於失者、失亦楽得之、
信不足、焉有不信
 
 
      第24章 ライフには余計な料理なんだ

  これは生きる上で大切だから
  くり返して言うんだが、
  回りを見てごらん、
  ひとに目立とうとしてバレーダンサーみたいに
  爪先
(つまさき)立ちをしても、
  長くつづかないよ ・・ じきにぐらつくんだ。
  ひとを追い越して大股にゆく者なんて
  どうせ遠くには行けない ・・ じきに
  へたばるのさ。自分を
  ひとによく見せようとばかりする者は
  自分がさっぱり分からんのさ。そして
  自分こそ正しいって言い張る者は、
  かえってひとに認められないし
  鼻たかだかでなにかする者なんて
  誰にも尊敬されないのさ。
 
  じっさい、
  プライドばかり高い人間には、誰も
  ついてゆかない。これはみんなが
  ひそかに知っていることなんだよ。

  タオの立場から見れば、こんなものは
  みんな余計な料理なんだ、
  充分にライフを戴
(いただ)いたあとの
  残りものにすぎない。だから
  タオにつながってゆったり生きる人は
  手を出さないよ ・・・ こんなものには。
  第二十四章 「苦恩」

跂者不立、

跨者不行。

自見者不明、
(He who reveals himself is not luminous;)

自是者不彰。

自伐無功、

自矜者不長。

其於道也、

餘食贅行

物或悪之。

故有道者不処也。



 
 第26章 静かに養われた「根っこ」

  タオの人が大地に従うとは、
  まず、根になることなんだよ。
  根は土にしっかり張って
  軽いものを支えている。
  その静けさがつねに
  たえずざわつく動きを
  コントロールするのだ。

  
  だからタオにつながる人は
  長い旅ではいつも
  自分を養う荷物をそばにおく。
  どんなに景色のいい所に来たって
  景色に見とれて騒いだりしない。
  もし君が人の上に立つリーダーなのに
  みんなの軽々しい騒ぎに加わったら
  君の立場の根本が
  ぐらついちまうだろう。
  ほんとのエナジーというのは
  静かに養われた根から出るんだよ。
 
 
   
       第27章 その霧の向こうに

  タオは自然
(ネーチャー)を通して
  われわれに語りかける。
  その語るところに従う人は
  何をしても、跡を残さない。
  その人の言葉は、ひとを傷つけない。
  ひと廻り大きな計算だから、
  ソロバンも計算機もいらない。
  もっと大きな力の開け閉めに任すんで
  鍵なんか使わないでいる。
  たとえば母と子の関係のように
  縄で縛りもしないのに、
  結び目はほどけない。

  だからタオの人は
  ひとにたいして自然な気持ちでいるんだ。
  誰を選び誰を捨てるなんてことはない。
  善いものばかり選ぶなんてこともしない。
  こういう態度はね
  世間の判断に従うのではなくて
  タオの自然に従う行為なんだ。

  言いかえると
  「善い人間」と「悪い人間」とは
  ただの表裏のことにすぎないと知っている。
  「善い人間」が「悪い人間」の手本だとすれば、
  「悪い人間」は「善い人間」が学ぶ材料、
  いわばそれがなくては
  「善」を知りえない大切な元手だよ。
 
  こういう大きな関係を学ばないで
  ただ実利や知識ばかり追う人ってのは
  霧に迷っちまってるのさ。
  その霧の向こうに
  タオの要妙
(シークレット)が潜んでいるのさ。
第二十七章 「巧用」

善行者無轍迹

善行者無瑕謫

善数者不籌策

善閉者無関ノ
而不開、
善結者無縄約
而不解。

是以聖人常善救
而無棄人

常善救物、
而物無棄物

是謂襲明

故善人者不善人之師。

不善人者善人之資也。

其師、
愛其資
知乎大迷。

是謂要妙





 
    第33章 「自分」のなかの富

  世間の知識だけが絶対じゃあないんだ。
  他人や社会を知ることなんて
  薄っ暗い知識にすぎない。
  自分を知ることこそ
  ほんとの明るい智慧なんだ。

  他人に勝つには
  力ずくですむけれど
  自分に勝つには
  柔らかな強さが居る。

  頑張り屋は外に向かってふんばって
  富や名声を取ろうとするがね。
  道(タオ)につながる人は、
  いまの自分に満足する、そして
  それを本当の富とするんだ。

  その時、君のセンターにあるのは
  タオの普遍的エナジーであり、
  このセンターの意識は、永遠に伝わってゆく。
  それは君の肉体が死んでも
  滅びないものなんだ。
第三十三章 「弁徳」


人者智也。

自知者明也。

人者有力也。

自勝者強也。

足者富也。

強行者有志也。

其所者久也。

死而不亡者寿也。





 U 徳(テー)ー現れたパワー 
   第38章 徳 ー 大きな愛

   だいたい私が、
   徳
(テー)と呼ぶのは
   千変万化するタオのエナジーが
   この世で働くときのパワーのことを言うのだ。

   タオのパワーにつながる人は
   いまここにいる自分だけに
   心を集めている。
   ほかの意識は持たないから、
   内側のエナジーは良く流れる。
   これを私は上等の徳
(テー)と言うんだ。
   世間にいる道徳家というのは
   徳
(テー)を意識して強張(こわば)るから、
   エナジーは良く流れないー
   こう言うのを私は下等の徳というのさ。

   同じことが日々の行為にも当てはまる。いつも
   意識して行動するだけの人は
   深いエナジーを充分に掬
(く)みだせない。
   タオの働きを信じて、
   餘計
(よけい)なことをしない人は
   いつしか大きなパワーに乗って、自分の
   生きる意味につながる。
   その人の
   本当の人間感情も
   こういう大きな愛から動く。

   これが正しいからやる、なんてことばかり
   主張する人は
   浅いパワーを振り回しているのさ。
   そして礼儀や世間体ばかり
   守ってる人は、
   こっちがそれに同調しないと
   目を剥いて文句を言い、
   腕まくりして無理強いしたりする。

   言い直すと、世界ははじめ、
   タオ・エナジーの働きを、
   徳
(テー)としてと尊んだんだがね。
   それを見失ったあと、
   人道主義を造りだした。
   正義さえ利かなくなると、
   礼儀をはじめた。
   礼儀がみんなの基準になると
   形式ばかり先行して、裏では
   むしり合いがはじまった。
   先を読みとる能力が威張り、
   愚かな競争ばかり盛んになった。

   あの道
(タオ)
   最初のパワーにつながる人は
   上辺
(うわべ)の流れを見過ごして平気なんだよ。
   結果が自然に実を結ぶのを
   待っていられる人になる。
   花をすぐに摘
(つ)み取ろうなんてせずに
   ひとり
   ゆっくりと眺めている人になる。

       
              
U 徳(テー) ・・・現れたパワー

第三八章  「論徳」


上徳不徳、
是以有徳。

不徳不徳、
是以無徳。

上徳無為、
而無以為也。

下徳為之、
而有以為也、
上仁為之、
而無以為也。

上義為之、
而有以為也。

上禮為之、
而莫之応也、
則壌臂而仍之。

故失道而後徳、
徳而後仁、
仁而後義、
義而後禮。

夫禮者、
忠信之薄也、
而乱之首也。

前識者、
道之華也、
而愚之首也。

是以大丈夫、
其厚
而不其薄

其実
居其華

故去彼取此。























 
    第41章  多くの人には逆さに見えても


  こんな私の話を聞いて、人びとは
  いろいろな受けとりかたをする。

  はっと感じ取って、これを
  自分の内的変化
(トランスフォーメーション)
  きっかけにする人がいる。
  ちょっと聞き耳を立てるが
  半信半疑で身をひいちまう人もいる。
  まあ、たいていの人は、
  馬鹿らしいと言って、大笑いするんだ。
  だがね、
  馬鹿にされて笑われたりするのは
  このタオの道が本物だ、
  という証拠なのさ。

  じっさい、タオの道は、
  多くの人の目には逆
(さかさ)にうつる。
  それは実に明るいのに、
  妙に薄暗く見える。
  たえずゆっくり進んでるのに
  立ち止まって、後ずさりしているかに見える。
  平らな大きな道なのに
  でこぼこの険しい山路に思える。
  実に高い素質なんだが
  俗っぽくて小ずるいと考えられたり
  清く潔白なのに
  薄汚れたものと受け取られる。
  どこにも行きわたるパワーなのに
  ちっとも役立たんものとされる。
  しっかり地についた思想なのに
  ぐらついて頼りないものにみえる。
  その中心には純粋な心がすわってるのだが
  人は空っぽとしか思わない。

  だいたい、
  とっても大きなものは
  四方の隅が見えない。人間も、
  とんでもなく大きな才能は、はじめ
  薄馬鹿に見えるのだ。
  うんと大きな音は
  かえって耳に入らないし
  大空に出来る形は
  千変万化して捉えどころがない。
  同じように
  タオの働きは、
  名のない領域から出てきて
  黙って力を貸して、
  萬物
(ばんぶつ)を助けるのさ。
第四十一章「同異」


上士聞道,
勤而行之,
中士聞道,
存若亡。

下士聞道,
大笑之。

笑不以為道。

故建言有之。

道若眛,
道若退,
夷道若類,
上徳若俗,
大白若辱,
広徳若足,
建徳若偸。

質徳若渝。

大方無隅。

大器晩成。

大音希聲、
天象無形。

道隠無名。

夫唯道善貸且成。



    第43章 人はなかなか気づかない

  固くて強いものが
  世の中を支配しているかに見えるがね
  本当は
  いちばん柔らかいものが、
  一番固いものを打ち砕き、
  こなごなにするんだよ。
  空気や水のするように、
  タオの働きは、隙のない固いものに
  滲みこんでゆき、
  いつしかそれを砕いてしまう。

  何にもしないように見えるが
  じつに大きな役をしているのだ。
  このように、目に見えない静かな働きは、
  何もしないようでいて深く役立っている。
  これは、この世ではなかなか
  比べようもなく
  尊
(とおと)いものなんだよ。
  第四十三章 「偏用」

   天下之至柔、
   馳騁於天下之至堅

   出於無有於無

   吾是以知、
   無為之益。

   不言之教、
   無為之益。

   天下希能及矣。
    第44章 もっとずっと大切なもの

  君はどっちが大切かね ー
  地位や評判かね、
  それとも自分の身体かね?
  収入や財産を守るためには
  自分の身体をこわしてもかまわないかね?
  何を取るのが得で
  何を失うのが損か、本当に
  よく考えたことがあるかね?

  名声やお金にこだわりすぎたら
  もっとずっと大切なものを失う。
  物を無理して蓄め込んだりしたら、
  とても大きなものを亡くすんだよ。

  なにを失い、なにを亡くすかだって?
  静けさと平和さ。
  この二つを得るには、
  いま自分の持つものに満足することさ。
  人になにかを求めないで、これで
  まあ充分だと思う人は
  ゆったり世の中を眺
(なが)めて、
  自分の人生を
  長く保ってゆけるのさ。

第四十四章「立戒」

名与身孰親。

身与貨孰多。

得与亡孰病。

甚愛必大費。

多蔵必厚亡。

故知足不辱。

止不殆。

以長久
  第45章 不器用でいい

  タオの働きは大きすぎて、
  動きはにぶくみえるがね、
  使うとなったら、
  いくら使っても使い尽くせないんだ。
  それは空っぽにみえるがね、
  掬
(く)みだすとおなると、
  いくら掬
(く)んでも掬(く)み尽くせない。
  そして水が海へ行くように
  曲がりくねりながらゆくが、
  ちゃんと目差す所へゆきつく。
  その動きは大きいから
  見た目には不器用で無骨なのだ。
  人間でもタオの人は
  文句を言って争ったりしないから
  口下手にみえる。

  結局
  かっかと騒
(さわ)げば、
  寒さはしのげるがね、
  かっかと熱した心に勝つのは
  静けさなんだよ。
  実に
  清く澄
(す)んだ静けさが
  世の中の狂いを正すのさ。


第四十五章 「洪徳」

大成若缺、

共用不弊、

大盈若沖、

其用不窮。

大直若屈、

大巧若拙、

大辯若訥。

躁勝寒、

熱、

清静為天下正
   第48章 存在の内なるリズムに

  任
(まか)す誰だって始めは
  知識や礼儀作法を取りいれるさ、
  利益になるからね。
  けれども、それから
  タオにつながる人は、
  蓄
(たくわ)えたものを、
  忘れてゆくんだ ー いわば損をしてゆく。
  どんどん損をしていって、しまいに
  空っぽ状態になった時、その人は
  内なる自由を獲得
(かくとく)する。
  それを無為
(むい)と言うんだ。
  無為とは
  知識を体内で消化した人が
  何に対しても応じられるベストな状態のこと、
  あとは存在の内なるリズムに任せて
  黙って見ていることを言う。
  本当に大きな仕事をする者はね、
  こういう姿勢でいる ー それができずに
  あれこれ指示ばかりしている者は
  まあ、
  天下を取る器
(うつわ)じゃあないのさ。
第四十八章「忘知」

学者日益。

道者日損。

之又損、
以至於無為

無為則無為。

将欲天下者、
常以無事

其有事
又不
以取天下矣。
第49章 心を空にする人

心を空
(から)にする人は、だから
(き)まった意見なんか持たない。
その人がリーダーになると、
人びとの考え方や感じ方に
どのようにも応じられる。
その人は言うだろう・・・

「おれは、善
(よ)いものは、善しとするさ。そして
悪いものも善しとする。
それこそタオの本当の<善さ>なんだ。
おれは正直者を信用するさ。しかし
不正直者だって信用する。だって
それがタオの<信じ方>だからさ」

こういうタオの人は、
世の中にいても
(とら)われないでいる。心は
誰にたいしても自由でいられる。
人びとはみんな口や耳や眼を働かせ
あれこれ言ったり見張ったりするがね、
タオの人は幼い子みたいに、
微笑んでいるのさ。
第四十九章「任徳」

聖人無
常心

百姓之心
心。

善者吾善之、
不善者吾亦善之。

得善也。

信者吾信之、
不信者吾亦信之、
得信也。

聖人在天下
焉、
天下渾其

百姓皆属其耳目
聖人皆孩之。
   第53章 内なる光で見直してごらん

  ほんのちょっと
  君の内側の光で見直せば、
  この道が平らで広いものと分かる。
  そしてもう
  横道なんかに入り込まない。
  だがね、多くの人びとはどうも
  狭い道が好きらしくって、
  そこで押しっくらをし、
  先を争って、他の人に上にのしあがったりする。
  のしあがった者たちが
  政治や経済を支配して、
  着飾ったり、巨大なビルを建てたり
  とてつもない武器をつくったりする。
  飲み食いに贅沢
(ぜいたく)をし
  金銭を積みあげる。

  これはみんな盗っ人
(ぬすっと)のすることだよ。
  あの大きな道
(タオ)とは大違いなんだ。
  そして確かなことだが、
  こういう人たちは、ひとりの人間としては
  けっしてハッピーじゃあないのさ。





第五十三章「益証」

使我介然有知也、
於大道
唯施是畏。

大道甚夷、
而民好径。

甚除、
甚蕪、
甚虚、
服文綵
利剣
飲食
而財貨有餘。

是謂盗。

非道也。
  第55章 ベビーの握りこぶし

  道
(タオ)につながる人は
  柔らかなのだ。
  その柔らかさは、ベビーの柔らかさだ。
  ベビーっていうのは
  まったく邪心
(じゃしん)がないから、
  毒虫だって刺さないし、蛇だって咬
(か)まないよ。
  まして虎や鷲
(わし)なんか手を出さない。

  ベビーっていうのは
  骨は細いし筋肉はふにゃふにゃだよ。
  それでいて手を握ったときの
  あの拳
(こぶし)の固さはどうだ!
  男と女の交わりなど知らんくせに、もう
  オチンポはしっかり立つ!
  それはベビーに
  真の精気が満ちているからだよ。

  一日じゅう泣きわめいたって
  声が嗄
(しゃが)れないのは
  身体
(からだ)全体が調和しているのさ。

  このエナジーを知ることが
  本当の智慧なのだし、この
  命
(いのち)の力を増すことが
  幸いにつながる。

  しかし、ひとは壮年期には
  意志や欲望のまま
  精気と命
(いのち)をこき使う。
  これは必ず無理強いになって
  命
(いのち)を傷め、老いを早めるんだ。
  これはね、
  まったく道
(タオ)の人の往き方じゃあないよ。
第五十五章「玄符」

徳之厚者、
於赤子
蜂△◇蛇不螫、
注:
攫鳥猛獣不搏。

骨弱筋柔而握固。

牡牝之合而嗄作。注:

精之至也。

終日号而不嗄、
和之至也。

和日常。
常日明。
生日祥。

心使気日強。
物壮則老。
之不道
不道早已。
 注:
          
△ → 萬 の下に 虫
        ◇ → 兀 の右に 虫
        
 
    第57章 自由と静けさ

  国を治めるんなら
  その国なりのやり方が有効だろう。
  国と国が戦うんなら
  奇襲
(きしゅう)戦法をとるのが有効だろう。
  だがね、この天下、
  全世界がグローバルに
  鎮
(しず)まり治まるには
  そんなこっちゃあ駄目なのさ。

  どうしてそんなことが言えるかって?
  だってよく見てごらんよ、
  いま国々ではいろんな禁止や規則を
  やたらに設けるもんだから、
  少しの金持ちと多くの貧乏人ができてるんじゃないか。
  多くの人にいろんな武器を持たすから
  どの国も不安や暴力につかまっている。
  頭のまわる人間があれやこれやって
  新しい知識が生まれる。
  そして知識が生まれれば生まれるほど
  人びとは忙しくなる。
  法規や税法を細かくすればするほど
  網をくぐり抜ける悪党や盗っ人が
  増えてるじゃないか。
  こんな国々がより集まったからって
  全世界が治まると思うかね?

  この大きな世界が治まるには
  国も人びとも、
  できるだけ相手の自由を尊重することだ。
  自由と静けさ、
  それがあれば、人びとは自然に
  よく働き、繁栄が生まれてくるんだ。
  必要以上の欲望を持たなければ、
  人はじつにゆったりした存在でいるものだよ。
  こういう人びとが
  全世界にあふれてごらん
  そうしたら、グローバルな平和と調和が
  成り立つじゃないか。
第五十七章「淳風」

正治国、
奇用兵、
無事天下

吾何以知其然哉。

比。

夫天下多忌諱而民弥貧。

民多利器
国家滋△。注:

人多伎巧
而邪事起。

法物
滋彰、
盗賊多有。

是以聖人之言日。

我無為而民自化、
我好静而民自正、
我無欲而民自朴。



 注:
          
△ → 民 の下に 日
    第58章 良く光る存在だが

  時の政府がモタモタして能率が悪いと
  かえって国民は素直に元気に働く。
  政府が能率良くきびきびやると
  国民はかえって不満でずる賢くなる。

  世の中のことなんてこんな風に
  ハッピーなものは災いを起こすし
  ミゼラブルな駄目な状態には
  ハッピーな動きが潜んでるんだ。
  そのように転じて行くわけだが、
  どこが回転点であるかは、
  なかなか見極められないよ。

  正しい政治をやってた政府が
  たちまち邪悪な戦争をしかけたりするんだ。
  前の時代には善いこと、真実のことだったのが
  次の時代には悪や異常に変わる。
  こういう変化に
  人はずいぶん長いこと振り廻されてきた。
  もう、いいではないか。

  タオの道に志したら、ひとは
  簡単にこうだああだと割り切らなくなる。
  自分は丸くても、
  人の角ばったところを削りゃしない。
  鋭いものを持っているけど、
  それで刺したりしないし
  自分がまっすぐでいても
  ひとの曲がっているものを、ゆったり受け入れる。
  よく光る存在なのだが
  その光で
  人にまぶしい思いなんかさせない。
第五十八章 「順化」

其政
悶、
其民
醇。

其政察察、
其民缺缺。

禍兮福之所倚、
之所伏。

孰知其極

其無正、
正復為奇、
善復為妖。

人之迷也、
其曰固久矣。

是以聖人、
方而不割。

廉而不害、
直而不肆。

光而不燿。
第61章 イメージしてごらん、大きな三角州(デルタ)

  大きな国は低い姿勢でいるべきなんだ。
  川はやがて三角州
(デルタ)となるが、
  あのデルタのような姿が
  大きな国の在り方であるべきなんだ。
  その国は低いところにいて
  いくつもの川を受け入れる。
  女性は静かに下にいて
  上の男をゆったり受け入れ
  それでいて、相手を自分のものにする。
  それと同じさ、
  このように静かで謙遜
(けんそん)した在り方が
  世界政治の根本であるべきなんだ。

  大国がこういう姿勢でいれば
  小さな国は安心して共存してゆける。
  大きな低い三角州
(デルタ)には
  数々の川が流れこむ、そして一緒に
  母なる海に合する ー
  こういう大自然の動きに沿う時
  世界の政治は治まるのさ、
  そこにはじめて
  世界政治の未来像が見えてくる。
  そうじゃないか
  ほかにどんな未来像があるというんだね?
第六十一章「謙徳」

大国者、下流也、
天下之交也。
天下之牝也。
牝常以静勝牡。
静為下。
故大国以下小国
則取小国
小国以下大国
則取大国
故或下為取、
或下而取。
故大国者、
畜人
小国者、

入事人。
夫両者各得其所欲。
大者宜下。
    第63章小さなうちに対処するんだ

  「無為」 ー 為スナカレ
  これは何もするなってことじゃない。
  餘計なことはするなってことだよ。あんまり
  小知恵
(こぢえ)を使って次々と、
  あれこれのことを起こすな、ってことだよ。
  そこに私たちの知らないタオの力が働いている、
  と知ることだ。
  われらを運ぶ大きな流れがある
  と知れば、
  小さな恨みごとなんて、
  流れに流してしまえるんだ。
  大きなエナジーは
  この世に働くとき、はじめ
  小さな者として現れる、
  そして大きなものへと育ててゆく。
  だから、難しいことだって
  小さなうちにやれば、易(やさ)しいんだ。
  大きなことは、まだ
  小さなうちにやれば簡単なんだ。
  結局、政治だって、
  大きな問題にならないうちに片づければ、
  あとは手を出さずにすむ。
  世界の大問題だって、みんな
  小さいことから次第にこんがらかったのさ。

  だから、タオの人は
  小さなうちにことを仕上げておく。じかに
  大きなことに取
(と)っかかららない。
  だから、かえって大きなことが仕上がる。

  まだ柔らかくて小さいものを
  手軽く扱おうとしてはいかんよ。
  たとえば、他人
(ひと)の頼みを
  何でも安請
(やすう)けあいするする人が、
  信じられないのと同じさ。
  タオの人は、
  小さなことの中に
  本当の難しさを見る。そして
  慎重にやるから、それが
  大きくなった時、
  ちっとも難しいことでないのさ。
  
第六十三章「恩始」

無為
無事
無味
小多少、
怨以徳。
難於其易
大於其細
Deal with the big while yet it is small.
天下之難事、
必作於易
天下之大事、

必作

是以聖人終不
故能成其大
夫軽諾必寡信。

易必多難。
是以聖人猶難之。
故終無難。

 「桐一葉(きりひとは)落ちて天下の秋を知る」という諺がある。
・・・が、このような小さいことに気づかないで知らぬままの輩が多い。

 従って、ここで言う『小さなうちに』ということが、言葉としては理解できても、現実の世界では識別の可能な者は実に少ない。
 また、たとえ解っていたにしても、これを小さなうちにやってしまったんでは、上司は功績として認めてはくれない。そこで「国家社会のために・・・」等という、使命感の前に先立つのは”只今の我が身の可愛さ”だ。
 こうなると、『仕上げる』ことが問題ではなく、”どのようにオレ様が頑張っているか!!”をアピールできれば、それだけで良くなってくる。
 また、上に立つ者も似たような格好で地位を得たとすれば、こんな部下を識別する見識を持ち合わせては居ない。
 そのような上司の下につくと、『のんびりとアグラをかいて「手抜き」を決め込んでいる。』と、決めつけられかねない。
 中間管理職になると、上下からそんな目で冷ややかに見つめられることになる。しかし、それでも、尚、老子の言葉は正しいと思う。難しいことなんぞ、そんなに在るモンじゃあない。

               ・・・・ 苦縁讃
   第65章 知識をいくら詰め込んだって

  子供に知識ばかり詰めこんで
  子供のなかの自然の成長力を奪う時
  その子供がどんなに不幸になるか、
  みんな知っている。
  それでもある人びとは
  子供に知識を詰めこむことを止めない。
  国のことだって同じさ。
  国民にやたら情報をばらまいたって、
  そしてますます小利口にしたからって、
  それはただ競争心をあおり、
  先への不安を深めるだけなのだ。

  国や会社のトップ・リーダーだって
  もっと素朴な原理に従わねば駄目なのさ。
  私は愚民政治や愚者の天国を勧めてやしない。
  あくまでバランスの問題なんだ。
  昔は違っていたのだがね、
  いまは情報過多だ、それも
  狂気じみるほどなのに、
  タオの自然のエナジーは
  ますます無視されている。
  だから強く言うのだがね、
  このタオの自然、タオの創成の力は
  実に深くて、実に遠くまで
  ゆきわたっている。だから
  私たちはもう一度、
  この大きなタオの働きに戻って、
  そのエナジーに従ってみることだ。

  そうすれば、世界はいつか
  大きな調和の途
(みち)へ向かうだろう。
  物や名誉を争うために
  知識をいくら詰めこんだって
  世界の平安も人びとの幸福も
  やってはこないよ。
第六十五章「淳徳」

古之善為道者、
以明民也。
以愚之也。
民之難治、
其智多

智治国、
国之賊也、
智治国、
国之徳也。
此両者
亦楷式也。
常知楷式
是謂玄徳

玄徳深矣遠矣。
物反矣。
乃至於大順

     第71章 知識病

  「自分には知らないことがいっぱいある」
  と知ることこそ
  上等な知識なのだ。

  何でも頭で知ることができると思うのは、
  病人といってもいい。
  誰でもみんな一度は
  この病にかかるがね、しかし
  「知らない領域」からくる道
(タオ)
  つながった時、ひとは、
  この病
(やまい)からぬけでるのだよ、だって
  自分が知識病を病んでいると知れば
  とたんに
  この病は病じゃあなくなるからさ。
第七十一章「知病」

知不知、
矣。

知知、
矣。

是以聖人之不病也、
病也。
是以不病。
    第72章 どっちの権威をとるか

  政治権力や権威を恐れなくなったとき、
  その人のなかに
  もっと大きな権威が宿るようになる。
  そうなると
  自分の居るところが狭いなんて
  感じなくなる。どこだろうと、
  自分の生まれた所を、
  厭
(いや)だなんて思わなくなる。
  だって、どこに居ようと
  君は恐れから自由になったからだ。
  だから、かえって
  何ごとも厭がらなくなる。

  じっさい、
  道
(タオ)につながる人はね、
  いま在る自分をよく知っていて、
  いろんな権威にぺこぺこしないのさ。
  自分を深く愛していて
  無理にお偉方
(えらがた)と肩を並べないのさ。
 
  その人は、
  どっちの権威を取るか
  よく心得てるってわけだ。
第七十二章「愛己」

民不威、
則大
将至矣。

其所居。

其所生。

夫唯不
厭。

是以聖人、
自知不自見也。

自愛不自貴

故去彼取此。