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編集:本田哲康

                    
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西暦 天 皇 将軍 年 号 天 変 地 異 社 会 の 状 況
1000 一条 ・・・ 長保(999〜03) ・・・
1001 ・・・ ・・・
1002 長保4 ・・・  この頃「枕草子」成る。
1003 長保5 ・・・  紫式部、「源氏物語」。
1004 寛弘1 寛弘(1004〜11)  この頃、女性は名をどのように読ませていたか不明である。
 この年、尾張国守に大江匡衡が赴任し、熱田社に納経。  藤原道長の娘彰子(しょうし)は入内して5年経っても受胎の兆しがなかった。道長は、紫式部に彰子の教育を委ね、后としての教養を高めることで天皇の興味を彰子に引こうとした。后の元には、古今東西の珍しい書物が揃えられていった。「あまり面白がっていては、政も知らぬ愚か者になってしまう。しかし、どれもこれも、すばらしい物ばかりだ。」(「栄花物語」より) 以後、天皇は彰子(しょうし) の元へ通うようになっていた。    和泉式部日記
1005 寛弘2 ・・・  平泉に中尊寺建立。
1007 ・・・  この頃「源氏物語」成る。
1008 ・・・  9/藤原道長の娘・彰子(しょうし)、一条天皇の子・王子・敦成(あつひら)親王を生む。入内してから9年目であった。孫が天皇になれば、藤原道長は外戚になれる。
1010 ・・・  源氏物語、この頃完結か。紫式部日記、この年以後に成る
1011 ・・・ 寛弘8
 
 桓武平氏(抜粋)    

桓武天皇 ↓ 
◇  ↓ 
◇  ↓ 
(平)高望王(上総介)↓     
 良茂


兼・下総介

香 
・ 
 
盛 
忠常・上総介        ・  ・ 
 : :  ・   ・
 鎌倉氏  上総氏・千葉氏等


盛 


氏 
 
 注:受領
(ずりょう)とは・・

◇ 国司のトップで、国内支配の大きな権限をもつ
◇ 公田の納税責任者を決め、面積をもとに「官物」として徴税し、受領(ずりょう)の都の倉庫である京庫へ。

 ・・・・
国の行事で経費の必要な時には京庫から出す。 経費の必要でない時には、受領の財産となる。
 6/道長の娘・彰子(しょうし)が嫁いでいた一条天皇(32才)が崩御。
次の皇位を継いだのは、道長の姉と冷泉天皇の間に生まれた三条天皇であった。しかし、皇太子には、道長の意志を汲んで、道長の孫・敦成(あつひら)親王がなった。しかし、更にその次の皇太子を巡って、道長と三条天皇との思惑がぶつかりはじめた。三条天皇は、次の天皇には自分の子供にさせたかった。これに対して、道長は、自分思う一人の孫・敦良(あつなが)親王を立てることで、政権の長期安定を願っていた。道長は、自分の生きているうちに二代先の政権も決めておきたかった。道長は、三条天皇に譲位を迫った。これに対して三条天皇は憤慨する。「私に対する左大臣の無礼な態度は甚だしく 寝食もままならないほどで憂鬱きわまりない。」(「小右記」より) 道長の、天皇に突きつけた譲位の要求は5回を超えた。三条天皇は応じようとしなかった。  
   参考に: 「御堂関白記」14巻・・ この年正月の記録より
      道長自筆の日記は自筆の日記としては日本最古。
 一日  内裏で元日の節会 
二日   来客。 中宮彰子、皇太子を訪問
 三日  冷泉上皇、皇太子、娘妍子を訪問。
 彰子のもとで酒宴。
 四日  内裏へ。叙位の役割分担
 五日  叙位の儀
 六日  物忌。内裏に出勤せず。
 七日   物忌。内裏に出勤せず。
 八日  天皇に呼ばれ内裏へ。蔵人・殿上人を定める。
 金峰山(
きんぷせん吉野)詣でのため精進始め。
 十三日  立ちながら参内(精進中のため:座ると汚れが他に移るとされていた。
 十四日  御斎会(宮中の仏事)、不参加 
 十五日   立ちながら参内。受領(ずりょう)功過定の次第書を提出。
 二十日  金峰山(きんぷせん)への納経の準備(金峰神社に経筒に入れて埋める)筒には「大日本国左大臣正二位藤原朝臣道長」と刻字されていた。
 二一日  母の忌日。仏事は僧侶が代行。賭弓(のりゆみ)の儀式
 二二日  立ちながら参内。犬の死骸あり、賀茂川の河原で汚れを解除。 潔斎中のため除目(じもく:毎年正月に行う:役人の任命)に不参加と報告
 二四日  雨
 二五日  受領(ずりょう)功過定(こうかさだめ)
 二六日  藤原道綱(母は、「蜻蛉日記」の作者父は道長の父=異母兄弟)の病気見舞い
 二七日  雨。内裏へ
 二八日  雨。右大臣藤原顕光に、除目について問合わせ
 二九日  除目(じもく)。蔵人から「内裏に死人の頭が発見される。汚れか?」と相談。七日の忌と判断。春日祭など延引へ
 2/1  除目の原案の内覧。国司の人事ー「問題なし」
 2/2   除目の結果を聞く。京官(都の役人)の人選については予想と違う
 注: 除目とは、国司や京官の任命式
  参考:高校講座NHK「日本の歴史」より
1015 ・・・ 長和4     ・・・注:
長和(1012〜16)
 11/内裏(だいり)、二度にわたって焼失。公卿たちは口々に「天下滅亡の時が来た」と言った。 道長は、内裏の火事は、天皇の不徳が招いたと、更に譲位を迫った。(「小右記」より) ここで、三条天皇は屈して譲位の要求を飲んだ。
1016 ・・・ 長和5 ・・・  2/敦成(あつひら)親王(道長の孫)が皇位を継ぐ。後一条(ごいちじょう)天皇即位。ここでついに藤原道長は天皇の外戚(がいせき)となった。藤原道長、摂政に就任。
1017




1016

36
・・・ ・・・注:
寛仁(1017〜21)
 源信(恵心・942〜)逝去。親鸞が七高僧に挙げる僧。  道長(52才)、敦良(あつなが)親王を皇太子にする。 藤原道長、息子の頼通に摂政を譲る。
1018 ・・・ 寛仁2 ・・・  10/16藤原道長、宴を開き、集った公卿たちに披露した歌:「望月(もちずき)の歌」・”この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば”。  道長の娘(三女)が時の天皇(道長の長女の生んだ男児・後一条)の后となる。この後三代にわたって、道長の孫が皇位を継承することになった。この間、かつて無い安定期を迎えた朝廷では、王朝文化が花開いた。
1027    ・・・   万寿3    治安(1022〜23)
万寿(1024〜27) 
 藤原道長死去(摂政を1年、彼は関白にはならずに別な方法で政治に関与した)。
陣定(じんのさだめ) ・・これには摂政や関白は参加しない
大臣、大納言、中納言、参議などの公卿の会議 
 ○ 平均 月 2〜3回 
 ○  神事、仏事、即位、改元、国司申請雑事の処理 
受領(ずりょう)功過などの人事問題争乱に対する対応 
1028 長元1 長元(1028〜36) ・・・  平忠常、上総で反乱(〜1031)
1035 ・・・ ・・・  3/園城寺と延暦寺の僧徒闘争。
1038 後冷泉1045
〜6
・・・  長暦(1037〜39 ・・・注:
長久1040〜43
寛徳1044〜45
永承1046〜52
 10/延暦寺僧徒強訴(おっそ)(以後盛ん)
1051 ・・・ 永承(1046〜52) 前九年合戦

この頃、
東北地方は戦乱に時代であった
 奥州藤原氏・東北の戦乱:蝦夷の豪族阿部氏が勢力拡大をねらって南下し、これをくい止めようとした多賀城の陸奥守(むつのかみ)を打ち破る。「前九年の合戦」の始まり。
 奥六郡は、出羽・陸奥より北方、現在の岩手県中部の内陸に置かれていた六つの郡)。その頃、阿部氏が奥六郡では勢力を持っていた。阿部氏は、蝦夷出身とも、中央貴族が土着したものとも言われるが、定かではない。
 この阿部氏が、南に勢力を広げようとしたために、陸奥の国司と対立したことが戦乱の発端である。 
  朝廷は、武勇の優れた源頼義を新たな陸奥守として派遣。阿部氏と全面戦争に突入。阿部氏はいったん服従する。・・・朝廷の高圧的な態度、搾取に、阿部氏は不満を持った。
 当時、陸奥は日本で唯一の金の生産地。平安時代にはおよそ30カ所の金山。多くの金は朝廷に運ばれていた。
1052 永承7 ・・・・・・  世間に末法到来の声あがる。
1053 天喜1 天喜(1053〜58 ・・・  宇治平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)成る。阿弥陀如来坐像、定朝(じょうちょう)作。
1054 天喜2  西欧、東西教会の分裂。
1056 天喜4  この年、源頼義、陸奥の上としての任期が終わる。  衣川(ころもがわ)の戦い。朝廷と南下して勢力拡大を図る蝦夷の豪族・阿部氏との戦い。阿部氏優勢。ここで、源頼義に「朝廷の役人の中で、蝦夷・阿部氏の女を妻とする役人が、密かに謀を巡らせ敵に使いを出してこちらの情勢を告げているようだ。」との讒言。これを聞いた源頼義は、阿部氏の娘を妻とする武将の一人を捕らえて、残酷な方法で打ち首にする。(「陸奥話記」より)
 役人の一人・藤原経清も、阿部氏の娘を妻としていた。藤原経清は、身の危険を感じた。
(「陸奥話記」より)
1057 ・・・ ・・・  陸奥の役人・藤原経清は、800騎を従え蝦夷・阿部群に寝返った。11/阿部氏4,000、朝廷軍1,800。「官軍大敗」「死者数百人」(「陸奥話記」より)陸奥守・源頼義は、陸奥の蝦夷・清原氏に貢ぎ物をして味方につけていた。
1062 康平5 康平(1058〜64)
・・・注:
治暦(1065〜68)
 7/陸奥の朝廷軍に蝦夷の清原氏(出羽国北部を支配していた地方豪族)の援軍10,000が加わる。阿部氏敗戦。
 朝廷から阿部氏側に寝返った藤原経清は、捕らえられ打ち首(阿部氏の娘・妻との子供清衡
(きよひら)当時7才は遺される。
 9/阿部氏の一族も処刑。阿部氏滅亡。蝦夷の豪族・清原氏は、同・阿部氏の勢力範囲の領地を与えられる。藤原経清の妻子は清原氏の元に妻として、子として。 
1069 後三条1068
〜72
延久1
延久(1069〜73) 注:
承保(1074〜76)
承暦(1077〜80)
永保(1081〜83)
 延久の荘園整理令。
1083 永保3 ・・・ 後三年合戦

奥州藤原氏
の始まり。
 およそ20年前の前九年合戦の結果、一番大きな利益を得たのは、頼義に援軍を送った清原氏であった。清原氏は本拠地であった出羽に加えて阿部氏が治めていた奥六郡を支配した。
  奥州・陸奥の国、藤原経清の子・清衡(きよひら)27才は、清原氏の三人の息子の一人として清衡氏の勢力範囲の一部を任されていた。 
 この年、清原氏の頭首が亡くなり、同家の頭首を争う内紛「後三年合戦」が始まる。戦いで、長男清衡(さねひら)は死亡。家衡(次男)と清衡(連れ子・多賀城の役人藤原経清と阿部氏の娘との間の男子)が残った。
 今度は、領地の分け方や清原氏の頭首を巡る対立。家衡
(次男)が、清衡の屋敷を襲撃し清衡の妻子・けらい達を殺害。(「康富記」より) 清衡は、陸奥守・源義家(頼義の子)に助けを求め勝利した。これが三代百年にわたって栄華を極めた奥州藤原氏の始まり(清原氏は、遡れば平将門の乱を鎮圧した藤原氏の子孫であった)である
1086 堀河
1086

1107
応徳3 応徳(1084〜86) 院政の始まり・・・  このころ田原町大アラコ古窯で、「藤原顕長」銘の壺が焼かれた。 
 この年、院政の始め。:白河天皇は、実の子堀河天皇に位を譲り,自分は上皇として専制的な政治を始めた。その後、鳥羽・後白河・後鳥羽と上皇による政治が続いた。
1087 寛治元 ・・・  院政の時代には、全国に荘園が次々と作られていく。
 そして、荘園公領制が成立する。
 武士の時代。
 陸奥守・源義家は、清衡の要請を受け入れ大量の兵を導入した。清衡は戦勝し、奥州最大の豪族清原氏の当主となった。
   朝廷より、「陸奥守・源義家が討ったのは朝敵ではなく義家が私事で敵としたもの達。」(「奥州後三年記」より) 陸奥守・源義家は、朝廷の許可無く内紛に介入したことが咎められて、陸奥の守を解任される。朝廷の権威は大きく、名門源をも解任した。 その後、清衡は姓を藤原に戻した。奥州・藤原氏となる。
 岩手県南部の平泉、古代から軍事・交通の要所だったここを藤原清衡は根拠地とした。
1090 ・・・ ・・・ ・・・ 白河上皇、熊野御幸。以後、熊野詣盛んになる。
1093 寛治 ・・・ ・・・  8/興福寺僧徒、春日社の神木を奉じ入京(神木動座の始め)
1095 嘉保2 ・・・ ・・・  10/延暦寺の僧徒、日吉神社の神興奉じ上京、強訴。延暦寺の僧徒、日吉(ひえ)神輿(しんよ)を奉じ入京企てる。(神輿動座の始め)
1096  永町/11/24    ・・・  畿内・東海道地震M8.5 12/17京都・近江・駿河等で、社寺倒壊多数。津波による家屋等の流出400余。  
   十字軍遠征開始。(〜1270年 イスラム教とキリスト教の戦い)
1099  ・・・  ・・・  南海道・畿内地震M8.3 2/22諸寺被害。土佐で田1000余町海に沈む。津波があったらしい。
     十字軍イェルサレム奪還 。イスラム教徒4万人のほか、ユダヤ教徒やキリスト教徒など、多くの老若男女が犠牲となった。当時の十字軍兵士達は沢山の異教徒達を殺すことが正しい行いだと思っていた。これはイスラム教徒にとっては衝撃的な事件だった。イスラムの信者達は、ジハード(異教徒に対する聖なる戦い)を呼びかけた。この戦いは数十年おきに繰り返えれた。以後、200年の間に7回十字軍か攻めた。
1100 ・・・ ・・・ 増誉(1032〜1116)、園城寺(おんじょうじ)長吏となり、聖護院を創建する。
1105 長治2 ・・・
天皇即位の順 
後三条 
白河
 3  堀河
 4  鳥羽
 近衛
 6  崇徳
 7  後白河
 8  二条
 9  六条
 10  高倉
 11  安徳
 12  後鳥羽

 後三条天皇は、自分の後皇位を弟の実仁親王・次いで輔仁親王に・・と考えていた。
 白河天皇はこれを否定した。
 平泉を見下ろす山に、奥州・藤原清衡は中尊寺金色堂を建立。
  中尊寺落成の際に、「紙本墨書中尊寺建立供養願文」にて、清衡は朝廷に多くの奥州の人びとの御霊を供養する旨の誓いの言葉が記載されている。「私は分不相応にも蝦夷の長の座に座ることになりました。今や、出羽陸奥の民の心は、風に草がなびくように従順でございます。忠義と貞節を持ち国に尽くす思いを決して忘れはしません。」。清衡は、その後、朝廷に莫大な貢ぎ物を贈りはじめる。朝廷に力で立ち向かわず、豊富な産物を分け与えることで、奥州への朝廷の介入を防ごうとした。
 中尊寺金色堂は、昭和25年学術調査された結果、須弥壇(しゅみだん)の下には、奥州藤原氏の四代(清衡・基衡・秀衡・泰衡(やすひら))にわたる遺体が、ミイラの状態で今も安置されている。この調査の時、最後の当主・泰衡の首の辺りから、蓮の種が二個見つかった。蓮は、現世だけではなく極楽浄土でも咲く花として、彼らが極楽浄土で蓮の華から生まれ変わるように・・との願いがこもっていた。1189年、無惨な最期を遂げた泰衡への想いが伺われる。
 この種は、永い年月を経て奇跡的に発芽した。平成10年、蓮は花を咲かせた。今、中尊寺の中で季節の訪れを告げている。
・・ 「その時歴史は動いた」NHKより
 平泉は栄えた。その後の最盛期には10万人の人びとが暮らしていたと推定されている。街の玄関口に建てられた毛越寺(もうつうじ)は、極楽浄土を持つ広大な庭園を持ち、境内には40余りのお堂が建てられていた。京都の平等院を模しながら、それよりも広大な無量光院、・・・平泉は、仏教寺院が建ち並ぶ平穏な街であった。
1106 嘉承1
荘園は ・・白河後半〜鳥羽にピーク 
 ○ 用水・肥料など技術発展 
 ○ 上級貴族や大寺社も、開発領主らの私領を核に大荘園立荘 
 ○ 国家も、貴族や寺社への給付の代わりに立荘認める 
 この年、東寺領大成荘に美濃住民ら乱入。
1109  鳥羽
1107
〜23
   この年、豊田市石楠町神明社創建。(「松平町誌」)
1114 永久2  この年、尾張・三河・遠江などに海賊・強盗横行、「合戦毎日のこと」。
1115  修験者:勝覚(1057〜1129)、三宝院を創建。
1118  平清盛生まれる。 
 西行(佐藤義清)生まれる〜1190。真言宗の僧。歌人。真言宗の僧でありながら念仏僧でもあった。23歳で出家、全国に修行の旅に。そんな中で、数々の歌を残す。特に花と月・自然を愛した。
1124 崇徳
1123
〜41
保安5 保安(1120〜28) ・・・  良忍(1072〜1132融通念仏宗開祖)念仏を唄う。
1125 保安6 ・・・  この年、常滑の壺、京都今宮神社境内の経塚に埋められる。
1126 保安7 大治(1126〜30) ・・・  平泉中尊寺建立
1133 長承2 長承(1132〜33) ・・・  3/15寺部八幡宮、平安時代荘園高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村(上野町1丁目)の館内に石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりで、この年、子孫の高橋氏が再勧請造営。1656年、時の社主寛国は、領主渡辺治綱と計り寺部村岩前山に遷宮。
  8/宋船来着、忠盛、院宣と称して貨物を没収。源空(法然〜1212)美作国・現岡山県の豪族漆間
(うるま)の館に生まれる。父:漆間時国。親鸞が七高僧に挙げる僧7。浄土三部経 (『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)を所依とし、自力教を排して、阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏をとなえさえすれば(他力念仏)死後浄土へ行くことができると説いた。門流は五流に分れる。
1137 保延3 保延(1135〜1144) ・・・  2/興福寺僧徒、神木を奉じて入京、強訴。
1140 保延6 ・・・  「三河守藤原朝臣顕長」銘の壺を渥美で焼く。
1141 近衛
1141
〜55
・・・ ・・・  栄西(1141〜1215:臨済宗の祖、備中生まれ。比叡山に密教を学び、2回目の入宗で臨済宗黄竜派の虚庵懐敬(こあんえんしょう)の法を嗣ぎ帰国1191。)生まれる。 「大鏡」、この頃までに成るか。
1143 康治2 ・・・  皇室の安楽寿院領の一部が尾張も所在。
1144 天養1 ・・・  尾張国散財の美福門院領の替え地として、春日部郡篠木郷を荘として立券する。
1145 安元元年 法然、比叡山に登り後に出家受戒(13歳)。
1148 久安4 ・・・ 「日本」なる呼称が現れる  4/15三春是行解(みよしこれゆきげ):百巻本東大寺文書に、「日本」なる呼称が現れる。
1150 ・・・ ・・・・・・ ・・・  法然、西塔黒谷叡空の室に入門し念仏を学ぶ。
 運慶、この頃生まれる(〜1223)。
1151 ・・・ ・・・  慈円生まれる。
1155 後白河1155
〜58
久寿2 ・・・ ・・・  この年、後の法相(ほっそう)宗の貞慶(じょうけい)生まれる(〜1213)。後の、天台座主(比叡山・延暦寺)・慈円生まれる(1155〜1225)。後に、愚管抄を著す(1220)。 鴨長明生まれる(1155-1216))。後に日野の草庵で「方丈記」を著す(1212)。
  この頃までに、熱田大宮司職が、尾張氏から藤原氏に移る。
1156 保元1 保元(1156〜58)   院政の時代の様子
○ 下級の役人たちが、院
   や摂関家等上級貴族
   の家の職員などを兼務
○ 有力貴族や寺社が荘園
   を所有
○ 権力が分立・・院・天皇
   家・貴族・寺社・武士
 分立した権力をうまく治めるには、しがらみから離れた上皇による政治が功を奏した。
 保元の乱(王家を巡る諍いが武士の力で決着=後白河側の勝利)
 鳥羽上皇は院政を行っていた。しかし、崇徳天皇の後崇徳の子供・重仁親王ではなく、鳥羽上皇と得子の子供・近衛に天皇をさせたかった。ところが1155に近衛天皇が死亡する。と、今度は得子の養子となっていた後白河の子供・二条を天皇にさせかった。
  しかし、、父親の後白河は未だに天皇になっていなかった。 父親・後白河を飛び越えて天皇にすることはできなかった。鳥羽は中継ぎとして,後白河を天皇にさせた。
 崇徳の弟・後白河は、即位のチャンスがないとあきらめて、今様の遊びに熱中していた。鳥羽は、そんな彼の天皇としての資質に不安を持っていたと思われる。
 崇徳上皇の不満は高まった。その後に鳥羽法皇が死去すると、弟・後白河との対立ははっきりとしてきた。 それに、摂関家の対立が絡んで勃発してきたのであった。
  戦いは後白河側の勝利で終わった。
  天皇方   上皇方 
皇 室  後白河(弟)  鳥羽  崇徳(兄)
 摂関家
藤原氏
 忠通(兄)  忠実  頼長(弟)
 源 氏  (子)
義朝(兄)
   為義(父)
為朝(弟)
 平 氏  清盛(甥)  忠盛 忠正(叔父) 
  高野山金剛峰寺両界曼陀羅。土佐豊楽(ぶらく)寺薬師堂。
1159 二条
1158
〜65
平治1 平治(1159) ・・・  平治の乱(原因は明らかではない:源義朝・頼朝の父と、二条天皇&平清盛の戦い)。源氏は敗れて一族は殆ど討ち死。 しかし、平清盛は大きな利益を得た。
 三河国重原兵衛父子義朝に従う。東加茂郡足助町綾渡平勝寺本尊(重文)できる。
(「松平町誌」)
1160 永暦1 ・・・ 清盛、勢力拡大





 

子 



  


 
 
 ----

  
  ↓安
徳 
 


慈子と時子は姉妹。      
高倉:後白河と慈子の子
徳子:清盛と時子の子 
安徳:高倉と徳子の子
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


鎌倉仏教の6人の教祖
法然1175(43歳)
親鸞1201(29歳)
一遍1271(36歳)
日蓮1253(31歳)
栄西1191
道元1227
 3/11源頼朝、平治の乱で源氏は平氏に敗れ頼朝(13歳)は伊豆に流される。静岡・伊豆の国韮山周辺。北条時政の娘・政子の生家と1km余りの所。
1164 永暦5 長寛(1163〜64)  蓮華王院(三十三間堂)建立。平清盛、厳島神社に写経奉納。
1167 六条
1165
〜68 
仁安2 ・・・  大中臣安長、中島郡七寺で写経進める。 平清盛、太政大臣となる。
 1168 仁安3    ・・・    明庵栄西(1141〜1215)入宋:臨済宗(中国臨済宗黄竜派の禅)
1173 高倉
1168
〜80
承安3 ・・・  親鸞(〜1262)、皇太后宮大進日野有範(こうたいごうぐうのだいしんひのありのり)の子として、京都に生まれる。浄土真宗の宗祖。諡号=見真大師。比叡山で修行後、法然の門に入り専修念仏に帰依。1207年、比叡山や興福寺衆徒の弾圧により流罪。その間、今までの僧侶になかった結婚をする。1214年、妻と一緒に関東へ布教活動の旅に、以後20年間、現在の茨城を拠点に活動。京都にて没する。

 親鸞は、師の法然(1133〜1212)の教えをいっそうわかりやすく説いたもの。真宗。一向(いつこう)宗。門徒宗。 本願寺は元来親鸞の廟堂で、親鸞の子孫が管理した。三代覚如(1270〜1351)の時、本願寺となり、第8代の蓮如(1415〜1499)が中興の祖、今日の大教団の基礎を築いた。
 東本願寺は、徳川家康が大きすぎる勢力を分散するため現職を離れていた教如(光寿)に施与したもの。現在十派に分かれる。
 浄土宗と同じ浄土三部経を所依とし、阿弥陀如来の他力本願の信によって往生成仏を期する。南無阿弥陀仏の称名念仏は仏恩報謝の行であるとする。
 浄土真宗の浄土とは、仏や菩薩の住む安らかな国土を指す。浄土の数は210億もあるといわれ、数ある浄土のうち、日本の浄土真宗は、特に阿弥陀仏が住むという西方浄土(すなわち極楽浄土)に往生することを願うものである。浄土真宗とは往生浄土の真実の宗旨という意味で、阿弥陀仏の願力によって、いかなる者も救われる法であり、そのために、阿弥陀仏の名号を称える。  高弁(明恵)、紀州有田郡で生まれる。明治14年(1881年) 西本願寺派は「真宗本願寺派」、東本願寺派は「真宗大谷派」と称す。昭和21年(1946年)、西が「浄土真宗本願寺派」と呼称するようになり、本願寺派以外は「真宗〇〇派」と称することになる。

  この頃、平氏全盛時代。
1174 承安4 ・・・  三重県伊勢市から出土の瓦経や経筒が渥美で焼かれる。
1175 承安5 安元(1175〜76)  法然(1133〜1212)、西塔黒谷を出る。東山大谷に住し専修(せんじゅ)念仏宗(浄土宗)を説く(43歳)。後に、浄土宗になる(総本山:知恩院)。
 法然の説く浄土思想の真髄::「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく、往生するぞとおもひとりて、申すほかには子細候わず」・・松原泰道による
「法華経」の思想と異なる点:「浄土教では、極楽に往って生まれ(往生)て成仏するので、この世で成仏することはありません。この世では成仏はできないが、しかしこの世で救われるのです。この世にあって、極楽に往って必ず生まれることができる、という信が救いなのです。 ・・・・「法華経 人生論」松原泰道による
 また、一遍(1239〜1289)の時宗が生まれる。
 この年、「安元の大火」「治承の辻風」の災害。
1176   ・・・   ・・・        大地震   運慶、大日如来像(奈良・円成寺像)作成。運慶、20代半ばのデビュー作か。
1177 ・・・ ・・・ 霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火  霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火、「・・・ひとつの峯高くそびえて、煙たえせぬ所あり、日本(ひのもと)最初の峯、霧島のだけと号す」「長時に猛火燃え上がり手、雲に続く、いつとなく黒砂下りて、すゑ何千里とはかることなし」:丹波少将藤原成経が島に流されてゆく途中に立ち寄った島津庄の場面。
  この頃、源頼朝(31歳)は北条政子(21歳)と結婚。
二人が駆け落ちした伊豆山神社には、政子が頼朝の一周忌に奉納したといわれる、梵字の仏。中央の一つに政子の頭髪を織り込んだ曼荼羅が保存されている。
 平氏は、東国の武士たちを無報酬で働かせたり、彼らの所領を権威に任せて取り上げたりした。
1180 安徳
1180
〜85
治承4 ・・・ ・・・
<源氏と平氏の戦
:治承寿永の内乱
富士川の戦い10/>
 尾張・三河の源氏蜂起する。 
 4/27頼朝に平氏討伐の密書 8/源頼朝(都での権力争いに敗れた源氏の嫡男32歳)、伊豆より挙兵。
 10/京に入らず鎌倉に本拠地を定め、関東武士団の統領になる。
政子の父/北条氏、畠山氏葛西氏、土肥氏、足立氏、河越氏
江戸氏、千葉氏、上総氏、佐々木氏、和田氏、三浦氏
 都から離れた地で、地元勢力を束ねる方法は、奥州藤原氏と同じであった。=京に入ると、平氏のごとく貴族の思うままになってしまう。
 ここに侍所(さむらいどころ)を設置。平氏との戦いには、弟の義経を派遣。
 一ノ谷の戦い
(1184.2)・屋島の戦い(1185.2)で、平氏を伐つ。兵火は興福寺・東大寺を焼亡。
1181 養和1 ・・・ 天下大飢餓
2年続き
(養和の大飢餓)
 3/10源行家、尾張・三河の兵を率い、墨俣で平氏と戦い破れる。平清盛没(64歳)。 8/奥州・藤原秀衡(藤原清衡から三代目)は、陸奥の守に任命される。平泉は絶頂を極めた。
 ☆ 国内勢力 ☆
 この頃の日本は、西の平氏・関東の源氏・奥州の藤原氏と、三大勢力によって束ねられていた。
  旧暦の6月に雪。(新暦では6月下旬から8月上旬ごろに当たる。)
 親鸞(9歳)、慈円のもとで出家。 
・養和の大飢餓のこと・・・・四月五月の二ヶ月の間に以下のごとく死者が多かった様子。
 また、いとあはれなる事侍りき。去りがたき妻、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々(まれまれ)得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。
 仁和寺に隆暁法印
(りゅうげんほういん)といふ人、かくしつつ、数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首(こうべ)のみゆるごとに、額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、縁(えん)を結ばしむるわざをなんせられける。
 人数
(ひとかず)を知らんとて、四・五両月(し・ごりょうげつ)をかぞえたりければ、京の内、一条よりは南、九条より(は)北、京極よりは西、朱雀よりは東の、道のほとりなる頭(かしら)、すべて四万二千三百余りなんありける。
          −−−−方丈記(鴨長明)−−−−
1182             天下大飢餓
(養和の大飢餓) 
 恵信尼えしんに)1182〜1268?生まれる。浄土真宗の尼僧。親鸞の妻。越後に配流中の親鸞に嫁ぎ、1232年、得度し仏門に入る。
1183 寿永2 ・・・ <義仲と平氏の戦:治承寿永の内乱
倶利伽羅峠の戦い5/>
 法然、吉水で布教を始める・「一日聖教を見ず。」51歳。
  木曾義仲、都に乱入。
 平家一門の都落ち。源頼朝、朝廷に働きかけて、関東の支配権を認めてもらう。(後白河上皇より東海道・東山道の支配を認められる)
1184 元暦1 「方丈記」鴨長明・・・に、この年、京都の直下型地震の記録あり。
<源氏と平氏の戦:治承寿永の内乱
宇治川の戦い1/
一ノ谷の戦い2/>
 1/源義経、上洛。頼朝、奥州藤原氏の力を削ぎはじめる。奥州藤原秀衡、陸奥の守解任。 2/一ノ谷の戦い。 4/6源頼朝、、平家没官僚尾張国稲木荘を平頼盛に安堵する。 
「方丈記」鴨長明・・・に、京都の直下型地震の記録あり。(日本最古のルポルタージュ)
「また、同じころかとよ おびただしく大地震
(おおない)振ること侍りき そのさま 世の常ならず 山は崩れて 河をうずみ 海は かたぶきて 陸地(ろくじ)をひたせり」 
1185 後鳥羽
1183
〜98
元暦2

文治 1
鎌倉時代
1185〜1333 
 
<源氏と平氏の戦:治承寿永の内乱
屋島の戦い2/
壇ノ浦の戦い3/> 
平家滅ぶ。
 2/19源頼朝、平家没官領である三河宝飯郡竹谷荘・蒲形荘を熊野山領として安堵する。
頼朝の思想:一所懸命=土地を大切にして各地の政策を重んじ、農産物も増加。
 2/屋島の戦い。3/壇ノ浦の戦い平氏滅亡。 義経朝廷より官位を授かる。平氏軍は打ち破られ、清盛の妻は孫に当たる幼い安徳天皇を抱いて入水。平氏一門も次々にに沈む。「官位を得ては、貴族と同じ、許すまじ!」と、頼朝激怒。10/頼朝、義経討伐を宣言(頼朝・義経の対立)。義経は頼朝によって、朝敵と見なされた。 
  鎌倉幕府成立。11/頼朝の要求により諸国に守護地頭の設置と兵糧米の徴収、勅許さる。(土地の支配権)  頼朝は、これまで直接奥州・藤原秀衡が贈っていた貢ぎ物を、鎌倉を経由して行うように藤原秀衡に要求する。「貢馬・貢金などはまず鎌倉に沙汰進ずべし」(「吾妻鏡」)
1186 ・・・ 2 「日本」なる呼称が現れる  3/諸国の兵糧米を停止。12/義経追討の院宣、畿内・北陸道に下す。12/23法隆寺三綱等請文「法隆寺東院縁起」に、「日本」なる呼称が現れる。
 西行69歳
 (佐夜の中山:現在の静岡県掛川市にある。後に江戸時代・広重の東海道五十三次にも描かれる) 「年たけて また超ゆべしと 思ひきや 命なりけり 佐夜(さや)の中山」 西行法師歌集475
 この年、運慶、不動明王と大童子(矜羯羅
こんがら童子・制?*迦せいたか童子)立像製作及び毘沙門天立像製作(伊豆・願成就院藏)。*口クチ篇に?  
1187 ・・・ 3 ・・・  栄西、再び入宋(在宗五年)。 2/頼朝に許されない義経、陸奥の藤原秀衡(10月没=自害説あり)を頼る。秀衡は、思案した結果源義経を受け入れ、源頼朝と戦うことを決断した。秀衡は、福島県に長大な阿津賀志山(あつかしやま)防塁を築く。 10/藤原秀頼病死。遺言「玉葉」に曰く。「奥州藤原一族は、源義経と力を合わせ頼朝を討て。」
1188 ・・・ 4 ・・・  四天王寺扇面古写経
1189 ・・・ 5 <源氏と藤原氏の戦:治承寿永の内乱
藤原泰衡滅亡9/>
 愛知県豊田市酒呑の八幡社創建(「松平町誌」)
 
2/頼朝、朝廷に使者を送って、義経を匿う藤原氏討伐の命令を願い出る。  4/藤原泰衡(やすひら)、朝敵になることを恐れて戦意を喪失。藤原一族に亀裂が生じる。藤原泰衡(やすひら)軍勢、衣川で義経を自害させる。藤原泰衡(やすひら)、義経の首を頼朝に送り、服従する意志を示す。 7/頼朝、奥州征討出発。 8/22奥州藤原氏の本拠地・平泉が陥落。 9/頼朝、奥州を平定。逃亡していた、奥州藤原泰衡捕らえらる。奥州藤原氏滅ぶ。 守護・地頭職の確立。
1190 ・・・ 建久 1 ・・・

西行の死は、伝説の人になる2月16日だった
 源頼朝、上洛の途中三河を経て知多郡野間の父義朝の墓を詣で、熱田社にも奉幣する。
 2/16西行(1118〜1190)没73歳。大阪府江南町の弘川寺・真言宗に西行塚がある。江戸時代の慈雲という僧侶が西行を尊敬するあまり、全国を行脚し、この寺に西行塚があるのを発見し、この場所に西行堂を建立した。現在は西行記念館も開設されている。慈雲自身の墓もこの寺にある。
 「願はくは 花の下にて 春死なん その如月
(きさらぎ)の 望月のころ 山家集77」桜が満開で満月の頃、即ち、釈迦の入滅の日 2月15日に死にたいという詩である。(最晩年、ここで過ごしたことは間違いないが、「西行物語」などでは、京都東山の宗臨時で亡くなったことになっている。)  山家集    重源、東大寺再建。
1191 ・・・ 2 ・・・  1/頼朝、公文所(くもんじょ)を政所と改称。4/延暦寺僧徒、強訴。栄西(1141〜1215)帰国、臨済宗広める。
1192 建久3 源頼朝 3 ・・・  3/後白河法王没。7/源頼朝、征夷大将軍になる。7/12鎌倉幕府始まる。以後700年の武家社会を築く。
 頼朝は、先祖伝来の領地を安堵し、働きに応じて、新しい土地・役職を与えた。
(それまでは、貴族の思うままに、取り上げられた)
  慈円天台座主となる。この頃、親鸞比叡山の堂僧として修行。
1193 ・・・ 4 ・・・  7/宋銭の通用停止。守護地頭職の確立。  良遍生まれる。
  この頃、熊谷次郎直実(
くまがいじろう なおざね 1141〜1208)は、法然の弟子となり出家した。法名は法力房蓮生 (ほうりきぼうれんせい).。
1194 ・・・・・・ 5 「日本」なる呼称が現れる  5/守護人の国衙領(こくがりょう)侵略禁止。11/東海道に新駅を増強。11-8、幕府、鎌倉街道に新駅を増置し、駅夫の人数を定める。7/7高野山文書に「日本国中三千壱百三十二社」と、「日本」なる呼称が現れる。(和州、和国、和、大和なる呼び名に加えて)。朝廷、禅宗布教禁止。
1195 ・・・ 6 ・・・  東大寺大仏殿再建供養。
1196 ・・・ 7 ・・・  11/九条兼実関白を追われ、九条家一門失脚。源通親が朝廷の実権を握る。
1197 ・・・ 8 ・・・  運慶、八大童子製作(恵光えこう童子等六体現存)。 また、地蔵菩薩坐像作製(京都六波羅蜜寺蔵)。
1198 土御門
1198
〜1210
・・・ 9 ・・・  法然「撰択せんじゃく本願念仏集」完成。栄西「興禅護国論」。
 12/27源頼朝、落馬事故。
1199 ・・・ 正治 1 ・・・  1/13源頼朝(53歳)、落馬が原因で死亡。政子、出家する。頼家が家督相続。東大寺南大門。 3/22、将軍頼家 尾張・三河・遠江の伊勢神宮領6カ所の地頭を廃止する。4/東国の地頭に荒野を開墾させる。  10/24三河守護安達蓮西の代官善輝、大神宮領6カ所を押妨下として訴えられる。
1200 ・・・ 2 ・・・  1/梶原景時、上洛を企て駿河で敗死。 九条兼実「玉葉」。
 道元:曹洞宗、山城国京都に生まれる(1200〜1252)。父は、久我内大臣通親。曹洞宗・大本山は福井の永平寺と、神奈川鶴見の総持寺の二つ。永平寺は、道元によって建立された大仏寺が改称されたもの。総持寺は、瑩山紹瑾
(けいざんじょうきん)(1268〜1325)が信者から寄進された諸獄寺を整備発展させたもの。 石川県の能登にあったが、明治に入って火事にあい、横浜の鶴見に移っている。道元を高祖、瑩山を太祖とする。
  幕府、念仏宗を禁止する。
 この頃、後のジンギス・ハーン(テムジン)、強大な勢力を持つタタル族に闘いを挑む。モンゴル族とタタル族との闘いは、代々にわたる残忍きわまりないものであった。(メルキト族に妻を奪われ、その9ヶ月後に彼らから妻を奪い返す。) ・・・・(「モンゴル秘史・元朝秘史」より)
1201 ・・・ 建仁 1 ・・・  親鸞(29歳)、比叡山を下り、京都六角堂に参籠。本尊救世観音に祈る。法然(69歳)の門に入る。
 運慶・快慶、東大寺僧形八幡神像。また、聖
(しょう)観音菩薩立像作製(愛知県岡崎市滝山寺)。初代将軍、源頼朝の御台を弔うために造る。
1202 ・・・ 源頼家 2 大田文からみた
荘園・公領の割合
荘% 公% 
常陸 1306 44  56 
能登 1221 70 30
若狭 1265 26 74
豊前 1197
?
88 12
薩摩 1197 33 67
大隅 1197 42 58
石井進「講座日本荘園歴史2」よる
注:
1,大田文:鎌倉時代の土地台帳 2,公領は国司が支配
 栄西、建仁寺創建。  道元:曹洞宗3才父没。 源頼家、将軍となる。
 九条兼実、法然を戒師として出家。
 
円爾(えんに)1202〜1280生まれる。臨済宗の僧。弁円とも。静岡の出身。諡号=聖一国師。1220年、出家。園城寺などで修行後、1235年、宋に渡る。1241年、帰国後、京都に東福寺を開山。
1203 ・・・ 源実朝 3  実朝、将軍就任。  運慶・快慶、奈良・東大寺南大門金剛力士像。東大寺再建に会わせて2ヶ月ほどで製作。阿吽像。運慶50歳を過ぎた頃。小仏師13人とともに工房製作。寄せ木造り。一体で3,000ピース以上。
1204 ・・・ 元久 1  山門の衆徒、専修念仏停止を訴える。法然は「七箇条起請文」を作り門徒を戒める。親鸞、これに「僧綽空」と署名する。総員190名の署名。
 源頼家、伊豆の修善寺で殺される。
1205 ・・・ (北条時政) 2  興福寺、念仏禁止の奏状を朝廷に提出する。→貞慶(じょうけい)の「興福寺奏状」は、法然批判をする。
第一 新宗を立つる失
第二 新像を図する失
第三 釈尊を軽んずる失(→阿弥陀仏しか拝まない)
第四 万善を妨ぐる失
(中略)
第八 釈衆を損ずる失(→戒律を守る信者を損なう)
第九 国土を乱す失

 藤原定家「新古今和歌集」。親鸞、夢告により綽空を「善信」と改める。
1206 ・・・ 建永 1 ・・・ 1/幕府、頼朝より拝領の恩地は、大罪を犯さぬ限り没収しないと定める。9/延暦寺堂衆、狼藉。二毛作始まる。
 テムジン44才、(後のジンギス・ハーン)様々な部族のモンゴル最高の指導者になる。”激しい支配者”・或いは”海よりも壮大な偉大な支配者”=ジンギス・ハーン誕生。彼は、軍の再編成に取りかかる。
 戦功のあったものは「千戸長(千人の兵の長)」に任命し、軍の最小単位は10人とし、その中の一人が逃亡すれば、連帯責任としてその全員を処刑した。身分や地位に関係なく、羊飼いや大工も指揮官に任命した。また、えり抜きの兵士1万人を集めて、親衛隊を編成した。指揮官や一族の長の息子達は、人質を兼ねてその親衛隊に加えられた。彼は、文字を待たなかった部族であったが、親族のシギ・クトクに命じウィグル文字を利用して造ったモンゴル文字で法律を表した。・・・・(「モンゴル秘史・元朝秘史」より)
1207 ・・・ 承元 1 ・・・  2/上旬、専修念仏の停止が宣下され、親鸞・法然(源空)流罪。門弟処罰。 3/地頭ら、武蔵野荒野を開墾。  比叡山や南都興福寺は新宗教の隆昌を喜ばず、専修念仏を止めさせようと朝廷に訴える。この年、朝廷はこの願いを聞き入れて、安楽・住蓮(御所の女官に帰依者が多かった)を死罪。法然(75歳)と、その門下を土佐、親鸞(35歳)を越後に配流(はいる)され。=専修念仏禁止。  道元:曹洞宗8才母没。 九条兼実没(59歳):法然の流罪を嘆いて亡くなったと言われている。「その験(げん)あり、もっとも貴ぶべし、貴ぶべし」(玉葉)と記されている。
1208  ・・・    2 ・・・
法然、讃岐在国の間、門弟に示されける御詞
 洛陽の月卿雲客(げっけいうんかく)の帰依(きえ)は年久敷(としひさし)く、辺鄙(へんぴ)の田夫野人(でんぶやじん)の化導(けどう)は日浅し、是れ則(すなわ)ち年来(としごろ)の本懐なりしか共(ども)、時(とき)いまだいたらざれば、思ひながら年月(としつき)を送る所(ところ)に、此(こ)の時(とき)年来の本意を遂(とげ)ぬる事併(しか)しながら朝恩(ちょうおん)なり。
 都会にいて身分の高い人々に布教すること永年であったが、しかし、辺鄙な地方に出てお話しする機会はほとんど無かった。
 今回、懲罰を受けることによって島に流されたことは、遂に島の人々にであうことが叶ったのだ。これは天皇のお陰であるのだ。
 高麗の禅僧・智訥(ちどつ1156〜1210)、「六祖壇経」に序を書く。    
1209 ・・・ 3 ・・・  7/興福寺僧徒、闘争。11/諸国の国衙、守護人の怠慢による群盗蜂起を訴える。  親鸞、この頃恵信尼と暮らす。
1210 順徳
1210
〜21
・・・ 4 ・・・
1211 ・・・ 建暦 1 ・・・  3/親鸞の息男信蓮房産まれる。 6/再び東海道に新駅増強。9/頼家の次子、出家して公暁となる。11/17親鸞、法然と共に流罪赦免となる。入京し東山大谷に住す。
 ジンギス・ハーン、最大の隣国・中国北部のキンに攻め入る。・・・・(「モンゴル秘史・元朝秘史」より)
1212 ・・・ 2 ・・・  法然(源空):浄土宗:没(80歳)。親鸞、流罪赦免。常陸(ひたち)(茨城県)の国に向かう。農民に布教。念佛者急増。領家・地頭・名主・古代仏教による念佛弾圧の危機迫る。  道元:曹洞宗13才、比叡山に入る。  高弁、「摧邪輪」著す。  鴨長明「方丈記」
1213 ・・・ 建保 1 ・・・  道元希玄(キゲン):曹洞宗14才、天台座主(ざす)公円のもとで剃髪。戒壇院で受戒。
1214 ・・・ 2 ・・・  2/栄西、病の実朝に良薬と称し茶を勧める。4/後鳥羽上皇、笠懸をする(この頃度々行う)。 親鸞、念佛布教の新天地を求めて妻子と共に常陸に赴く。途中、上野国佐貫庄で、農民に現世利益のために三部経千部を読もうとする。   
1215 ・・・ 3 ・・・  栄西:臨済宗、没。
 ジンギス・ハーン、最大の隣国・中国北部のキンの都を陥落させる。財宝は略奪し、生き残った人々は虐殺される。ハーンの息子達は、後にラオスやカンボジヤにも勢力を広めた。東は朝鮮半島にまで、その勢力を広めた。北は、ウラル山脈を越えてロシアの広大な地域にまで制服。西は、アドリア海とウィーンの西まで、その勢力を広げた。・・・・(「モンゴル秘史・元朝秘史」より)
1216 ・・・ 4 ・・・  11/実朝、渡宋を計画し造船を命令。 親鸞この頃から「教行信証」の著述に着手。山伏との論争盛ん。念佛の布教進む。
1217 ・・・ 5 ・・・  忍性(良観)奈良に生まれる(1217〜1303)通称=良観房。1232年、生母を失い出家。翌年東大寺で受戒。1267年、鎌倉・極楽寺を開山。叡尊の弟子として、ハンセン病患者の救済では中心的役割を担う。茨城、鎌倉など関東を中心に活躍。極楽寺開山:鎌倉唯一の真言律宗の寺。最盛期は七堂伽藍を備え、大小49の支院があった。薬湯室・療病院では、数多くの病者を治療した。死後、「忍性菩薩」の称号が与えられた。
1218 ・・・ 6 ・・・  この頃、渥美町東大寺瓦窯で東大寺再建瓦が焼かれる。
 道元:曹洞宗18才。京都、建仁寺の明全和尚の弟子となる。
            ・・・   
1220 ・・・ 承久 2 ・・・  12/朝廷は、僧尊長(そんちょう)を、羽黒山(月山=出羽三山)総長吏に任じ、羽黒山に送り込もうとした。 慈円「愚管抄」を著す。国初めから承久の乱までの歴史を述べている。歴史の道理を究明しようとした点が注目される。天台座主の慈円、愚管抄を著す。
1221 順徳

仲恭
・・・ 3 承久の乱

 5/14上皇は、絶対的な権威を利用して鎌倉幕府の武士たちを寝返らせようとした。 5/承久の乱 木曽川を挟み京方と鎌倉方が合戦。朝廷・京方破れる。
 尾張守護小野盛綱、山田重忠等尾張・三河の武士の多くは京方につく。6/六波羅探題を設置。7/後鳥羽上皇を隠岐、順徳上皇を佐渡に配流。土御門上皇を土佐に配流。9/幕府、戦功者に恩賞。順徳天皇「禁秘抄
きんぴしょう」  平家物語、この頃までに成る。 聖覚「唯信抄」を著す。 
慈円『愚管抄』巻第七より
一切の法は ただ道理という二字がもつなり。
{中略}
日本国の世のはじめより 次第に王臣の器量果報
おとろえゆくにしたがいて、 かかる道理をつくりかえ
つくりかえして 世の中は すぐるなり。 ・・・
もう、このようになっては、武士を用いて頼りにしなくては、どうしようもないのだ。
 それなのに、この承久の乱はどうしたものであろうか?!
先ず武士というものは、今は世の末に一定当時
あるようにもちいられて あるべき世の末になりたりと
いいしとみゆ。
{中略}
このともがらを ほろぼさんずる逆乱は
いかばかりのことにてかは
あるべきなれば・・・・
1222 後堀河
1221
〜32
・・・ 貞応  1 ・・・  この頃、定期市として海東上荘市が開かれる。 日蓮(1222〜1282):、生まれる。日蓮が日蓮宗の 開宗。総本山は山梨の身延山久遠寺。「南無妙法蓮華経」をとなえることで仏になれるという教え。根本教典:法華経。
1223  ・・・    ・・・  4/「海道記」著者、尾張萱津(かやつ)駅に宿泊。6/新補地頭の得分定める。諸国の大田文(おおたふみ)作成。 2/加藤景正、道元(24才、明全和尚に随侍)に従い入宋。阿育王山の典座和尚と出会う。後に、天重山景徳寺如浄禅師に学ぶ。
 道元、宋にに入り、天童山・如浄(1163〜1228)の法を伝える。在宋五カ年。   
1224 ・・・ (北条泰時) 元仁 1 ・・・  6/泰時、執権を執る。親鸞(1173〜1262浄土真宗開祖)「教行信証」の初稿を著す。「当年を、末法に入って683年」と、教行信証に記す。 親鸞の息女、覚信尼生まれる。
  延暦寺衆徒の奏請より、専修念仏者を重ねて禁圧。
1225 ・・・ 嘉禄 1 ・・・  道元希玄(キゲン):曹洞宗、青原派の長翁如浄のもとで修行し印証を得る。慈円没「愚管抄」。
1226  ・・・  2 ・・・  1/義経、将軍となる。幕府、人身売買・賭博・私出挙(しすいこ)の高利等を禁止。倭寇の活動始まる。 
   無学祖元(むがくそげん)1226〜1286生まれる。臨済宗の渡来僧。中国の出身。1279年、蘭渓道隆の後任として来日。1282年、鎌倉・円覚寺を創建。   
1227 ・・・ 安貞 1 「日本」なる呼称が現れる  道元(1200〜1253)宋より帰国、曹洞宗をつたえる。
 「法華経は、諸仏如来一大事の因縁なり、大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり。余経・余法は、みなこれ法華経の臣民(じんみん)なり。眷属(けんぞく)なり。法華経の諸説、これまことなり。余経中の諸説みな方便を帯(たい)せり。ほとけの本意にあらず。」 ・・「正法眼蔵」第八十八巻 「帰依三宝」 道元
 加藤景正、瀬戸焼を始める。2/周防国多仁荘田布施領百姓等解すおうのくにたにのしょう(九条家冊子本中右記紙背文書)に、「日本国中五畿七道大小神祇冥顕」と、「日本」なる呼称が現れる。
 関東に念佛が広まり、領家・地頭・名主による念佛の妨害・弾圧。延暦寺衆徒の奏請より、専修念仏禁止。隆寛ら流罪。
 ジンギス・ハーン、死亡。落馬の傷が元だと言われているが、その真実は不明である。彼を埋葬した場所を隠す為に、草原に1千頭の馬を走らせ、墓の痕跡を消し去ったと伝えられている。
1228 ・・・ 2 ・・・  頼朝の妻・政子死去(享年69歳)。
1229  ・・・    寛喜 ・・・  2/20尾張真清田荘の領家職が久我家に伝領される。
 宋の無門慧開(1183〜1260)、四十八則の公案を提唱し、「無門関」をつくる。   
1230 ・・・ 2 諸国大飢餓  海部郡美和町法蔵寺鉄地蔵が製作される。6,7,8月にかけて関東各地は雪、霜、暴風雨。この年諸国大飢餓(〜1231)餓死者多数。 親鸞、聖覚の「唯信抄」書写する。旧暦の6月に雪。(新暦では6月下旬から8月上旬ごろに当たる。)
1231 ・・・ 3 諸国大飢餓  諸国、史上稀にみる大飢餓   道元、「正法眼蔵弁道話」を著す。

 「吾妻鏡」は、みこの年3月19日の条に「今年の世間は飢餓で、百姓の多くが餓死しようとしている」と記している。幕府は武蔵・伊豆の両国に施米を放出して、死に瀕する庶民を救う処置を執らせている。その命令書にも、「今年世間が飢饉であるから、人民が餓死しているとの風聞あり」と記している。4月に入ると幕府は各地の寺院に命じて,連日にわたって天変の災害よけの祈祷をさせて居る。祈祷は、不動・降三世(こうさんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳・金剛夜叉・一字金輪(いちじこんりん)等の諸法であった。更に、19日には風雨水旱の災難よけの祈祷のため、諸国の国分寺に最勝王経の転読が命ぜられた。この年は冷害から起こる不作、飢餓、餓死の増加に加えて疫病の流行が人々を極度に苦しめた。・・・餓死による民衆生活の破戒の実情は、今日の我々の想像を遙かに超えている。飢餓によって一村、数村が死骸の山、白骨の野に変わることの決して珍しいことでは無かった 云々 ・・「親鸞」 笠原一男著より
モンゴル帝国が高麗・朝鮮に侵入
1232 四条
1232
〜42
・・・ 貞永 1 親鸞京都に帰る  愛知県豊田市酒呑の熊野神社創建。(「松平町誌」)
 8/関東御成敗式目(貞永式目)制定。北条時頼による、武士政権初の体系的な法律。撫民
(ぶみん)政策。
 この法律は、人の心を尊び、曲がったことを捨て、皆が安心して暮らせるようにという、ごく平凡な道理に基づいている。(武士の農民からの略奪が横行し、農民達の離散が相次いだ。それによって、年貢米の収入が減少して、財政が滞った。「農民の家から、物品を奪い取ったとしたら、速やかに返すように・・・云々。」農民から安定的に年貢を集めようとした。)しかし、末端の武士にまでは至らず、依然として略奪は続いた.。 この頃の,ある武士の家訓に「どんなに腹が立っても、家来を殺してはいけない。」とあった。この頃の、人権意識が分かる。また、上級武士でも、漢字の書ける者は少なかった。ましてや、下級武士・普通の民衆は、推して知るべしであった。この時期から,幕府は民に必要以上に痛めつける武士を罰する方向に行った。武士の私財を取り上げたり、名誉ある地位を剥奪したりした。 武士が島民を拉致し、奴隷として連れ去った,等の訴えは、以前は武士に処罰が下されることはほとんど無かった。 これ以後、そのような場合、所領は没収された。武士の農民に体する態度は、次第に変わった。
「北条泰時消息文」より
  親鸞(63歳)、京都に帰る。 高弁(明恵1173〜1232)没。
栂尾明恵上人遺訓
 我は 後世たすからんと
 云ふにあらず
ただ 現世に 先ず
 あるべきやうに あらんと
 云ふ 者なり
 しごく平明な言葉ですが、人間にはこのあたり前のことが一番守りにくい。
 それというのも、自分が見えないからで、現代語では自己発見というのでしょうか。
 それぞれの天性を知り、その天性に忠実であるべきだ。
 それが生きることであると。私は間違っているかもしれませんが、この言葉をそんな風に解しています。
    ・・・白州正子
 人は 阿留辺幾夜宇和の
七文字を持つべきなり
 僧は僧のあるべきやう
 俗は俗のあるべきやう
 乃至帝王は帝王の
   あるべきやう
 此の あるべきゃうを背く
故に一切悪しきなり 云々
 凡(およ)そ仏道修行には
 何の具足もいらぬなり
 又独
(ひと)り場内床下(ゆかした)
 心を澄
(す)まさば
 いかなる友かいらん
 たとへば 猶
(なお)その上は
 罪あるによりて
 地獄に 墜
(おち)ば・・
 本
(もと)より地獄には
 諸
(もろもろ)の菩薩ありと云へば
 畏
(おそろ)しからず
 仏道に疎い私は、地獄の菩薩の消息は知りませんけれど、自然を本当の友とするには、並々ならぬ忍耐と、地獄に堕ちる覚悟がいる。
 「樹上座禅像」に現れた迫力は、おそらくそこからくるのであって、この絵を描いた弟子には明恵の孤独がはっきり見えて居たに違いない。
     ・・・白州正子

1233 ・・・ 天福 1 ・・・  尾張国より西は、六波羅探題の管轄下となる。  道元34才、建仁寺から移り、我が国最初の座禅の道場と言われる興聖寺建立。
1234 ・・・ 文暦 1 ・・・  親鸞 三河矢作柳堂(妙源寺太子堂)で説法を行ったという。  日本達磨宗の僧、孤雲懐奘(エジョウ)が道元に入門。   霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火
1235 ・・・ 嘉禎 1 ・・・  藤原定家「百人一首」
 親鸞、聖覚の「唯信抄」書写する。孫、如信生まれる(善鸞の子)。
 関東の領家・地頭・名主による親鸞教壇の弾圧激化。幕府、専修念仏を禁止する。親鸞一家、念佛の縁尽きた関東地区を去り、若干の弟子と共に京都に帰る。
1236 ・・・ 2 ・・・  懐奘(道元の弟子)「正法眼蔵随聞記」を著す。
1237 ・・・ 3 ・・・
1238 ・・・ 暦仁 1 ・・・  9/新補地頭、地頭の処分法定める。鎌倉大仏起工。
1239 ・・・ 延応 1 ・・・  5/人身売買禁止。 小倉百人一首。
 一遍(智真):時宗、四国伊予水軍の名家に生まれる(〜1289)。祖先は壇ノ浦の戦いで大いなる成果を上げた武士であった。一遍は証空門下の聖達に学び、捨聖
(すてひじり)といわれ、遊行(ゆぎょう)をこととし、各地で修行をかさねながら自らの教学を形成していく。念仏を称えた人には算(さん)という念仏の札を与えた(=賦算)。生涯遊行賦算を続けた一遍の死後、弟子の他阿弥陀仏(他阿《たあと呼ばれる》 1237年〜1319年2月18日)が遊行を引き継ぎ、その宗団は、初め時衆と呼ばれる(のちに時宗)。 他阿弥陀仏は遊行しながら各地に道場(寺院)を設けていき教団の基礎を固め、室町時代には一大勢力を築いたが、その後浄土真宗の興隆におされる。
1240 ・・・ 仁治 1 ・・・  5/ご家人の私領・恩領地の売買禁止。地頭請による荘園支配。
1241 ・・・ 2 鎌倉に大地震  親鸞、聖覚の「唯信抄」書写する。
 4/9 ワールトシュタットの戦い・・ドイツとポーランドの連合騎士団が、はじめてモンゴル軍と闘いを行った。ジンギス・ハーンの育てたモンゴル騎士団であった。ジンギス・ハーンは、既に居なかったが、彼の育てた息子・オゴタイの騎馬軍団がヨーロッパにまでその勢力を広げていった。「東洋」対「西洋」の初めての世界大戦。最終的にはオゴタイの急死により西欧諸国は難を逃れた。この戦いによって東西の交通網が開かれ文化圏の交流も広まった。
1242 後嵯峨 ・・・ (北条経時) 3 ・・・  この頃、萱津東宿の定期市にぎわう。
1243 ・・・ 寛元 1 ・・・  道元、永平寺建立。この年に、道元「法華転法華」を著す(42歳)。(この巻名は、中国の慧能大師の言行録の法語「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず」に基づく。)  後の白隠は、42歳の時まで「法華経」の真意を悟らなかったと言われる。
1244 ・・・ 2 ・・・  2/奴婢養子・飢餓救助・人身等の法制定。永平寺創建(道元招請)。道元「正法眼蔵」。この頃「平家物語」成る。
1245 ・・・ 3 ・・・
1246 後深草 ・・・ 宗尊親王(北条時頼) 4 ・・・  親鸞、「唯信抄」「自力他力事」を書写する。
1247 ・・・ 宝治 1 ・・・  愛知県豊田市酒呑の皆福寺創建。(「松平町誌」)
 
6/宝治合戦(三浦泰村没)。11/守護・地頭の私的な検田を禁止。
   源平盛衰記、この頃までに成る。
1248 ・・・ 2 ・・・  親鸞、「浄土和讃」「高僧和讃」を草す。
1249 ・・・ 建長 1 ・・・  北条時頼、宋僧蘭渓道隆を招く。
1250 ・・・ 2 ・・・  この頃、九条家領吉良西荘、地頭(足利市)請所となる。親鸞、「唯信抄文意」を著す。 この頃、道元「正法眼蔵」を著す。
1251  ・・・    3 ・・・  親鸞、常陸の門徒に戒めの書状を送り、「有年無念」の論争を制止する。  赤城山:最後の噴火『吾妻鏡』、今の形となる。鎌倉に大仏(阿弥陀仏)建立。
[鶴林玉露(かくりんぎょくろ)]成る。 
  宋の羅大経(らたいけい)の随筆集。天地人の3集に分ち、18巻。詩話・語録・小説の体で、文人・道学者・山人の語をのせ、朱熹(シユキ)・張 (チヨウシヨク)などの語を引き、欧陽修・蘇軾(ソシヨク)の文を称揚した。
   
1252 ・・・ 4 ・・・  鎌倉大仏落成。 良遍没。親鸞、関東の門徒に戒めの書状を送り、「造悪無碍」の風儀を制止。親鸞「文類聚鈔(もんるいじゅしょう)」を著作。
1253 ・・・ 5 ・・・  4/日蓮(1222〜1282)、鎌倉で日蓮宗・法華宗を唱える。 道元:曹洞宗、没。 この年、建長寺創建。鎌倉五山第一位の臨済宗建長寺派の大本山。
1254 ・・・ 6 ・・・  親鸞、「唯信抄」「後世物語聞書」「浄土和讃」などを書写する。日蓮、辻説法を始める。
1255 ・・・ 7 ・・・  親鸞、「一念多念分別事」「源空消息」などを書写する。また、「愚禿抄」「聖徳太子和讃」などを著す。
1256 ・・・ (北条長時) 康元 1 東国に大風と洪水、死者多し。  5/29親鸞、息男善鸞を義絶し、門徒の争いも解決に向かう。  10/13 親鸞高弟子真仏・顕智ら、関東から上洛の途中、矢作薬師寺において念仏勧進をはじめ三河の専修念仏の起源になるという。「往相回向還相回向文類」を著作。
 その後も顕智、三河に留まり布教活動。
 真宗は主に在地武士層に浸透。(上宮寺・勝鬘寺・本證寺・妙源氏:岡崎・満性寺:同を中心に布教活動)
1257   ・・・   正嘉 鎌倉に大地震  親鸞、「一念多念文意」「正蔵末法和讃」「自然法爾法語」などを著す。 
 モンゴル、ヴェトナム侵入 
1258 ・・・ 2 ・・・  親鸞、「尊号真像銘文」を草す。
1259 亀山 ・・・ 正元 1 諸国に飢餓と疫病  正嘉の飢饉  親鸞、「選択集延書」を書写する。
朝鮮半島・高麗、モンゴルに服属
1260  ・・・ 文応 1 ・・・  日蓮「立正安国論」 親鸞、門徒に書状を送り、飢餓のため死者の多いことを嘆く。 
 モンゴル:フビライ即位     
1261 ・・・ 弘長  1 ・・・  3/諸国盗賊、悪党ほう起につき禁圧を命じる。12/名主・百姓等の公田売買を禁ず。 日蓮、伊豆伊東へ流罪となる。
1262 ・・・ 2 ・・・  11月28日、親鸞:浄土真宗、没(90歳)。
1263  ・・・    3 ・・・  禅僧、無住  尾張矢田の長母寺にはいる。4/高麗、日本人の沿岸侵略禁止を請う。 9/18尼慧信(親鸞の妻78歳:茨城県笠間市稲田町)没  日蓮、流罪を赦免。
 親鸞の妻(この年9月18日没)・慧信のことば
     死の二日前に書かれたもの・・と言うことになる 
    管理人意訳
 広大無辺の御教(みおしえ)に 永(なが)の迷ひの夜がふけて   深遠な御仏の教えにつかりながら永い間迷い続けて
  静かに合はす此の両手 思はず洩れる称名は  いま、私は手を合わせると思わず口から称名(南無阿弥陀仏)が出てくる 
  うれし恥ずかし有難し 心中からうなづけて 思わず波阿弥陀仏が口から出る嬉しさよ 
 明るい道が見えて来た 口にはっきり云へないが 口に言い表せないが光明が見える 
  雨の降る日もあるだろう 風の吹く日もあるだろう 雨の日も 風の日もあった
  照る日曇る日それぞれに 活き抜く力めぐまれて 照る日も曇る日も生きる力を与えられた
  心はればれ御念仏  心はればれ御念仏 こころはればれと 日々 念仏だった
    玉田さま御遺言 御消息   ← 赤字で 西念寺 と付書アリ
  我が身こと前日より何とやらん心あしく候病は死のたより 私事前日から何か心地悪く病死の予感 
  に候らへばひとしを御慈悲のほどたのもしく候定めて身 があるのでことさら仏の御心が確かに思 
  の終りと存じかたみのため かきのこし候 まことに凡夫の われ、最後かと思い書きのこすのです。 
  ならひなればうきこと多く候べしかかる身なればこそ 本当に凡夫の私には悲しいことだけれど 
  もろもろの仏に見はなされ候を彌陀仏のすくはんとてこの 諸々の仏に見放されましたが、阿弥陀は
  身一人の往生をかけものになされ正覚ならせ給へば如来の  この私を往生させようと一心になって
  おんすがたこそわれらが往生のうたがひなきしるしにて  居られる姿が見え、往生疑いなしと 
  おはしまし候らへばかならずかならず御あやまちある  思われます。必ず、間違いなく往生を
  まじく候 あしき心がおこり候らはじいよいよたふとみ  させて頂けます。僅かでも疑い心起これば
  称名いさみ給ふべし(と?)親鸞の仰せも外の事は候はず 「南無阿弥陀仏」と、親鸞の仰せを信じて 
  ただ御恩をよろこぶばかりに候別にめずらしきこと候 少しも 疑わず、唯、仏の御恩を信じ慶ん 
  らははながき御別れと存じ候御信心にかわりなき でいます。これでお別れだと思います。
  人々は浄土にてはちすのたいめん申すべく候  いずれ浄土でお目にかかります
            かし 々    かしこんで申します。
   九月十六日       尼慧信  
   弘長三年九月十八日御往生
茨城県笠間市稲田町御年七十八才  ←
親鸞聖人御別レ 47才
  文書を書き写したものと思われる。
 同一人と思われる筆跡で注釈書き
 注:便せんに筆縦書き・・本田ヒサ所蔵のもの(管理人の祖母:没1971年83歳)
    
1264  ・・・ 文永 1  このころより10年間、旱魃飢餓  このころより10年間、旱魃飢餓(沙石集巻) 
 ・・・   モンゴル、樺太を攻撃   
1265 ・・・ 2 「日本」なる呼称が現れる  北条実時、金沢文庫創立。9/4大和国西大寺光明真言会願文「西大寺文書」に、「南部洲大日本国西大寺臥雲沙門叡尊等至心合掌」とあり、「日本」なる呼称が現れる。
1266 ・・・ 惟康親王 3 ・・・ クビライ、日本へ使者派遣を決意。
1267 ・・・ 4 ・・・  大応国師(南浦紹明)虚堂智愚の印証をもらって帰朝。後に、不出世の傑僧と言われ、江戸期の白隠慧鶴につながる公安禅を・・。     蒙古使者日本に来るが、悪天候で引き返す。
1268 ・・・ 5 ・・・  9/高麗使節、モンゴル・フビライの国書を持って来日。「日本は服属せよ」というもの。日本側は無視。その後何度も来たが、不審な点が多く日本の態度は変わらなかった。(蒙古からの書簡と三別抄からの書簡の見分けが付かなかった)
 「高麗牒状不審条々」(要点) 
       ・・同じ高麗からの書簡で、矛盾点が多かった。
 1268年の書簡は蒙古を賛美し、1271年のものは、三別抄からのもので、蒙古を批判していた。
 ○  文永5年(1268)の書簡はもうこの年号を期し、1271のものは記さない。
 ○  文永5年(1268)の書簡は「もうこの徳に従い、君臣の礼をとる」
1271年のものは「蒙古の習俗は聖人・賢人の忌むところ」とし、「珍島に遷都した」とある。

 10/日蓮、外寇を警告。 この年、北条時宗の執権となる。
1269 6 ・・・  高麗使節、モンゴル・フビライの国書を持って二度目の来日。
1270      7  5/御家人の所領の入質・売買禁止。 モンゴル・フビライの国書、幕府による朝廷の返書破棄。  熱田神宮・踏歌神事、この頃より始まる。アラレバシリの神事、オベロベロ祭とも呼ばれる。  親鸞の曾孫覚如(かくにょ1270〜1351)生まれる。浄土真宗の僧。京都の出身。本願寺の開祖。父は親鸞。諸宗派を研学の後、1286年、出家。 
高麗、三別抄の乱始まる(〜73)   
1271      8 三河臨済宗  吉良満氏、西尾に実相寺を建立。東福寺の開山円爾弁円を招いて開創。 9/鎮西に所領のある御家人を下国させ、海防にあてる。 日蓮、竜口法難、佐渡へ流罪。 
モンゴル、国号を元とする   
1272 9 ・・・  11/親鸞聖人の末娘である覚信尼、親鸞の墓を京都大谷から吉水の北に改葬、本願寺建立(崇泰院そうたいいん:京都市東山区林下町)。日蓮、この年「立正安国論」「開目抄」著す。 蒙古から四度目の国書が届く。
1273 10 ・・・ 高麗、三別抄の滅亡
1274 後宇多 11 元寇(初回)  この頃以降、後宇多天皇御領目録に「三河国高橋庄」と記載ある。(「松平町誌」)
 10/5 元寇(文永の乱:第一次日本遠征決行)元軍優勢であったが自主撤退。博多や筥
(はこ)崎宮は戦火で焼失。帰途の途中風雨により元・高麗軍3万2千余被害を受ける。
  一遍、出家はしたものの生家に戻っていた。このころ一遍、時宗を開く(1275の説あり)。この年から、遊行
(ゆぎょう)の旅に出る。四国から大阪(天王寺)へ、更に熊野を目指しながら人びとに賦算(ふさん・お札を配ること)を行う。熊野山中で、ある僧侶に渡そうとするが、僧侶に断られた。「私は、まだ信じることが出来ないから、お札を頂くわけには行かない。」と答えた。この一言が、一遍に大きな転機を与えることとなった。
 元、南宋を滅ぼす。日蓮、身延山へ行き久遠寺建立。
1275 建治 1 ・・・  2/異国警固番役の制を定める。10/紀伊国阿?河荘(あてがわそう)百姓等、地頭の非法を仮名書きで訴える。 夢窓疎石(むそうそせき)1275〜1351生まれる。臨済宗の僧。三重の出身。1283年に出家。1292年、奈良・東大寺で授戒。天台・真言を学ぶ。1293年、禅宗に関心を持ち始める。後に顕日に啓発され臨済宗の黄金期を築く事に。後に、京都五山を作る。 
1276 2 ・・・  3/幕府、博多付近の海岸に石累(元寇防塁)を築かせる。一遍(1239〜1289時宗開祖)踊り念仏を説く。
1277 3 ・・・  「十六夜日記」の著者阿仏尼、尾張の下津駅に泊まる。
1278 弘安 1 ・・・  無学祖元(1226〜1286)、来日。
1279      2 ・・・  7/幕府、元使を博多で惨殺。宋僧無学祖元来日(北条時頼が招致)。   モンゴル・元、南宋を滅亡させる。   善光寺の後、信州・佐久(さく)に来てから、一遍、踊り念仏を広める。この地には叔父の墓があった。そして、更に陸奥の地・江刺に向かった。ここには、かつて壇ノ浦の戦いで殊勲を挙げた一遍の流刑された祖父の墓があった。これによって武家の誇りを捨て去って、念仏一筋の道に入ったと思われる。 
 南宋、元(モンゴル)に滅ぼされる   
1280 3 ・・・  幕府、4ヶ月後の元寇襲来の情報を入手。   十六夜日記  
1281 4 元寇(二度目)  5/ 弘安の役(元の第二次日本遠征:元・高麗の東路軍4万2000は、対馬・壱岐を襲い博多を目指したが防塁と日本軍に阻まれて上陸できず。)7/30南宋の江南軍10万は、平戸付近で合流。平戸から鷹島へ移動していた、この元軍を暴風雨が襲う。 元の船4,400。14万人の兵士。(2011年、琉球大学・海の調査で確認)
 浅間山噴火。
 一遍、鎌倉の近くまでに至って、舞台上での踊り念仏を始めた。
1282 5 ・・・  一遍の弟子真教、尾張萱津に時宗光明寺を創建。時宗、円覚寺を建立。   日蓮:日蓮宗、没(61歳)。  大応国師の弟子、大燈国師(宗峰妙超)播州揖西郡に生まれる。
1283 6 ・・・  7/16執権北条時宗、尾張富田荘・富吉荘加納の地頭職を円覚寺に寄進する。この年、一遍夏に三河、秋に熱田萱津駅の海部郡甚目寺で教化する。
 長母寺(1179山田重忠が母の菩提を弔うために建立:天台宗)の僧無住「沙石集」を著す。
1284 7 ・・・  北条時宗死去。二度の弘安の役で活躍した安達泰盛、政治改革をめざす。
1285 8 ・・・  11/霜月騒動(得宗家家臣の代表平頼綱と主導権をめぐって対立。安達泰盛一族滅亡)。足助重範、(三河国足助郷の外、尾張国那古野荘にも所職を持つ有力御家人)安達泰盛に味方して得宗御内人(みうちびと)勢力に破れ、那古野荘没収、足助郷も得宗領とされる。鎌倉・全国各地で泰盛派が討たれる。
1286 9 ・・・注: 北条氏(得宗) 系図
  時政@
時房         政子   義時A
 ↓         ↓
       政村F              泰時B
 ◇  長時E
宗宣J  ◇  ↓
 ◇  熙時K ◇  時頼D 経時C
↓   ↓     ↓  
 ◇  ◇  ◇ 時宗G
 ◇  ◇ 師時I 貞時H
1287 伏見 10 ・・・  覚如、父・如信より他力の教えを伝受する。
1288 正応 1 ・・・  冬の頃、覚如、唯円に訪問を問う。この頃、歎異抄は成立。
 大覚寺統・後醍醐天皇誕生。当時、天皇家は二つの血筋が対立していた。(亀山・大覚寺統&後深草・持明院統)この両統が交互に皇位を継承するという取り決めがあった。
1289 久明親王(北条貞時) 2 ・・・
一遍法語集より

よろず生としいけるもの、
山河草木、ふく風たつ波の音までも、
念仏ならずといふことなし。
 8/23、一遍(智真):時宗、兵庫の観音堂にて没。(踊り念仏の行脚中、京都あたりで病にかかる。)

 「一遍上人語録」ができる。

 唯円(歎異抄著者)没?(68歳)。
1290 (北条貞時) 3 ・・・  日興(1245〜1332)大石寺を開く。 この年までに尾張富田荘の年貢、絹から代銭納となる。このころから代銭納が急速に広まる。
1291 4 ・・・  南禅寺(瑞龍山太平興国南禅寺・京都「五山之上」に列せられる)創建。
 開山は大明
(だいみん)国師。当時最も傑出した禅僧が歴代住持として列せられたことから、五山文学の中心地として栄えた。(「南禅寺参拝の栞」より)   モンゴル、フビライ死去。
1292 5 ・・・  10/日本商船、元に交易要求。高麗使、国書持参。覚如、関東より帰洛し、大谷に住す。
1293 永仁 1 ・・・  3/鎮西探題設置。4/平禅門(頼綱)の乱。蒙古襲来絵巻。
1294 2 ・・・  7/霜月騒動賞罰打ち切り 覚如、「報恩講私記」を著す。  良観(忍性菩薩)、四天王寺に悲田院・敬田院を起こす。  日蓮聖人の弟子、日像聖人が師命により妙法を京都に広めんとして、佐渡からキ上がりの途中・石川県羽咋市滝谷町に妙成寺(http://www4.nsk.ne.jp/myojoji/index.htm)を建立(重要文化財)。涅槃図は、長谷川等伯(1539〜1610)の作。
1295 3 京都洪水  覚如、「親鸞聖人伝絵」(御伝鈔)を著す。
1296 4 ・・・
1297 5 ・・・  永仁の徳政令。   関山慧玄(妙心寺)信濃源氏の嫡流高梨美濃守高家を父として生まれる。
1298 後伏見 6 ・・・
1299 正安 1 ・・・  10/元使、僧一寧、国書を呈する。一遍上人絵伝。この頃、羅針盤発明。
1300 2 ・・・  法然上人絵伝。5/25〜7/16大干魃(猿投神社文書)。10/越訴を停止する。

参 考 文 献 参 考 文 献
1 「理科年鑑」 14 機関誌「かんなび」    愛知県教育関係神職協議会
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 17 「松平郷」  豊田市
5 「目で見る豊田・加茂の100年」  郷土出版社(1868〜) 18 「豊田市七州城跡公園」   豊田市
6 「新編 日本史図表」  第一学習社   坂本賞三 監修 19 「松平郷館」   豊田市
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 20 「豊田の史跡と文化財」   豊田市教育委員会
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」  中日新聞社 21 「豊田の文化財」   豊田市教育委員会
9 「県史23 愛知県の歴史」   三鬼清一郎 著   山川出版社 22 特別展「川をめぐるくらし」  豊田市郷土資料館
10 「日本の名山」   作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV
11 「歎異抄」 梅原猛  講談社文庫 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1〜9 NHK
12 「古寺をゆく」  小学館ウィークリーブック 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会
13 「日本史事典」  岩波書店 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 

     
                      
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