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                                       <無断にての転用お断りします>         編集:本田哲康

 
                     
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年 代  特      徴  社 会 の 状 況
487   慧可(えか)生まれる(~593)。中国の隋の時代。後に、達磨の禅を継いだ。禅宗の第二祖。「万法一如、身佛無差別」を説く。慧可に学んでその法を得た人が僧粲(そうさん)・第三祖。
497   仏陀禅師のために嵩山少林寺を建てる。
507      継体大王(天皇)、越前から迎えられ即位する。
512   伽耶(任那)4県を百済に割譲。   
520   達磨(南天竺の香至コウシ国の第三王子で菩提多羅(ボダイタラ)という名前。インドに於ける第28祖。)インドから広東省広州に上陸する。「吾が法は、以心伝心、不立文字なり。」。仏教の本質は、経典や文字に頼らず心から心へ直接伝えるものである。・・・と。しかし、達磨の教えは難解で、修行も厳しく一般に普及するには至らなかった。彼は謎の人である。伝記もほとんど明らかではない。
 護法
(530~561)中国に渡る。達磨の禅は、慧可・第二祖→僧粲(そうさん)・第三祖→道信・第四祖→弘忍(601~674)・第五祖→慧能(638~713)・第六祖。以降、禅の分派が起こる。 
527        北を百済と新羅に接する伽耶国に新羅が攻め入った。 朝廷は、援軍を送る。先頭を司ったのは、大伴氏と物部氏。しかし、失敗し両氏の勢力は衰える。  <蘇我氏の台頭>
 筑紫国造磐井
(いわい)の乱。(倭国、伽耶の国支援に失敗。北九州の豪族の反乱。)
 新羅が仏教を公認。(この頃の朝鮮半島は、北から高句麗、百済と新羅。南には伽耶(かや)が在った。)
528       物部あら鹿火(かび)、磐井を斬殺。このころ岩戸山古墳(福岡・八女市)、鍋田横穴古墳(熊本・山鹿市)
 この頃、達磨の二祖・慧可(えか) 、東魏の村で宣教を始める。
532      
 新羅は,伽耶を勢力下におき、百済と戦闘態勢となる。 百済の聖明王、倭国に援軍を求める。
536     蘇我稲目 大臣(おおおみ)となる
538   宣化535~539    宣化3年。この年、ヤマト、屯倉を尾張にもうけるという
 百済
(聖明王)より仏教(仏像と経論)公伝(一説には552年)。
 天台大師智顗生まれる(538~597).。
 百済・聖明王より釈迦仏の金銅像一体。
 中国に智顗うまれる(538~598)。後の中国天台宗始祖。 
 539 欽明539~571   欽明天皇即位(日本書紀)
欽明天皇は、仏教を取り入れるべきかどうか、時の権力者蘇我氏と物部氏に意見を求める。賛成したのは蘇我氏だった。
 (年代不詳)
 
540   欽明元年   大伴金村(かねむら)、伽耶(任那)問題で失脚。  霧島神宮(鹿児島県姶良郡霧島町)天孫瓊瓊杵尊ににぎのみことをお祀りしている社。
 信行(中国梁の武帝の末年)生まれる(540~590)。 後に三階教を創立。
542   曇鸞寂(67歳)   
 546  真諦(499~569)中国に渡る。曇鸞(476~542)「浄土論注」を著述。慧遠(523~592)「大乗義章」。
 智顗
(538~597)「天台三大部」。
548   倭国、新羅に侵入されようとする百済の聖明王の要請に応じて,援軍を送る。蘇我氏はその見返りとして百済から仏教を導入。
552      蘇我稲目・物部尾興、崇仏論争。
 物部氏「わが国には180の神がおわし、
(仏教を導入すれば)怒りを買います。」と、反対する。(日本書紀)
 仏教、朝鮮を経て日本に伝来(正史は538年という説も在るが、そうすると金明天皇に王位に就いた祝いという意味ではなくなる。)三国時代の朝鮮南西部の一国王百済の聖明王が「釈迦仏の金銅像一躯かねみかたひとはしら・幡蓋若干はたきぬがさそこら・経論若干巻きょうろんそこらのまき」(『日本書紀』)からなる贈り物と共に使節を日本の天皇に送った。欽明天皇(在位539~71)は、非常に感激した。 
554     百済支援に出兵
557   杜順(とじゅん)・華厳宗の始祖 生まれる(~640)。 第二祖:智儼(ちごん602~668)。第三祖:法蔵(643~712)。
 562     任那の日本府が新羅に亡ぼされる。                                         
 伽耶(任那)、新羅より滅亡。    中国で、道綽どうしゃく(~645)生誕。後に『安楽集』著述。親鸞が七高僧に挙げる僧5。中国北周の武帝は仏法を嫌い過激な迫害を行った。この時代に14歳で仏門に入る。涅槃宗に帰依していたが、ある寺で曇鸞の碑文を読んで強い衝撃を受け、聖道自力の道を投げ捨てて他力の教えに帰依した。これよりこの寺・玄忠寺の移り大師の「浄土論註」を基として、念仏生活に入る。同師80歳のときに善導がいる。 
570   この頃、マホメット生まれる。(~632)   
572      蘇我馬子、大臣(おおおみ)となる(朝廷の財政と外交を任される:物部氏と肩を並べる)
 法琳(572~640) 教行信証 化身土巻 第4章 真偽決判と異執誡誨  弁正論 に 中国での仏教と道教の論戦。 仏教の正当性を論ず。
 『弁正論』は、法琳(ほうりん、572~640)の手になる唐代初期における仏教と道教との論争書である。法琳の生涯と著作についての詳細は、礪波護「唐初の仏教・道教と国家」(『隋唐の仏教と国家』中公文庫、1999年)に詳しい。
 中国の唐の時代、武徳四年(621)に太史令(たいしれい)の道士傅奕(ふえき、554~639)という人物が「廃仏法事十有一條」(『広弘明集』巻第二十五、『大正蔵』52-283-a)を上奏した。これを受けて、出家の損益を問う詔が出されることになる。これに憤激した法琳が、翌年に『破邪論』二巻を撰(せん)して反駁(はんばく)し、傅奕の上奏は却下されることになる。しかし、傅奕はその後も執拗に廃仏の活動を続け、やがて武徳七年(624)、それに呼応した道士の李仲卿(りちゅうけい)が『十異九迷論』(じゅういきゅうめいろん)を、劉進喜(りゅうしんき)が『顕正論』(けんしょうろん)を書き、傅奕に託して上奏する。これらに対して法琳が反論を書き、その弟子陳子良(ちんしりょう、575~632)が注解を付することによって、『弁正論』八巻十二篇が成立する。そのなかでも特に、巻第六の「十喩篇(じゅうゆへん)第五」「九箴篇(きゅうしんへん)第六」「気為道本篇(きいどうほんへん)第七」が『十異九迷論』に直接の反論する箇所と見られる。なおこの三篇は、以上の論争を紹介する道宣(596~667)『広弘明集』(664)の巻十三に「十喩九箴篇」としてまとめて全文掲載されている。おそらく、法琳はまず武徳九年(626)「十喩九箴篇」を作り、のちに増補して貞観九~十年(635~636)ごろまでに現在の『弁正論』八巻十二篇になったのだと考えられている。そしてこの『弁正論』は、やがて智昇『開元釈教録』(開元十八年〔730〕)において「新編入蔵」(『大正蔵』55-625-a)し、一切経の一部として伝えられていくことになる。 親鸞仏教センターより http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report14_bn19.html
 574  敏達572~585    敏達3年。聖徳太子(574~622)生まれる   11/新羅、遣いを遣わして調を進める(日本書紀)
 中国、勅によって仏道二教を廃する。仏教とのうちに、末法の意識が強まる。 
580   僧粲(そうさん)の弟子・道信(どうしん~651:72歳)達磨禅第四祖生まれる。  
583     火葦北国造の子、日羅が百済から来朝、暗殺される。 
584      この年、日本最初の出家者は尼(敏達13)。古代では尼の能力が評価された。
585  各地に疫病被害発生    2/馬子仏塔を大野丘北に建て斎会を設く。
 3/物部守屋、中臣勝海」らが仏像・仏殿を焼く。仏教迫害。8/敏達天皇崩ず。9/用明天皇即位。
587  崇峻587~592    4/用明天皇崩御。仏教の受容と皇位継承をめぐり蘇我氏と物部氏対立。7/太子、蘇我馬子と共に物部守屋らと戦う。7/物部守屋、滅ぶ。蘇我氏の時代となる。
 聖徳太子四天王寺建立を発願、馬子が法隆寺建立を発願。
588     百済から僧侶や大工達が派遣される。 
本格的な仏教寺院・法興寺(飛鳥寺)建立着手。発の本格寺院。21年後完成。蘇我氏の氏寺。
589  随が中国全土を統一 
 592 推古592~628   蘇我馬子、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使い崇峻大王(天皇)暗殺、推古天皇を擁立。
 593  推古1 

慧 可 487~ 593
  女帝の推古即位。聖徳太子・厩戸皇子(574~622)摂政となる。彼は蘇我氏とともに新しい国作りを開始。四天王寺(日本最初の官寺)を難波に建立。四天王像をここに祀る。
 しかし、後の災害などで仏像等は紛失。
 京都の仁和寺
(にんなじ)に失われた四天王像を描いた書物(「別尊雑記」)がある。平安時代末期の僧シンガクによって著された。余白には、この像が聖徳太子によって造られたと記されていた。現存する法隆寺の四天王像に似通っているので、最初に造られた太子の四天王像を真似たものだということがわかる。
 邪鬼の大きさは、「別尊雑記」のものと比べると2倍ほど大きいが・・。
 しかし、その後に造られる四天王像とは全く異なり、聖徳太子の像は、その後には受け継がれることはなかった。
 穏やかな表情の四天王像は、飛鳥時代にしか造られなかった。
 達磨大師の第二祖、慧 可 没。(487~ 593) 
 594    仏教(三宝)興隆の詔(推古天皇が皇太子:聖徳太子と大臣:馬子に命じた、仏教興隆の詔)
 この年、法隆寺の五重塔芯柱(檜)が伐採される。(伐採推定年が科学的に明らかになる(H13/2/20報道)) 
 596    11/法隆寺落成、太子の師・僧慧慈(えじ)、慧聡らが居住。馬子が招く。
598   中国の三大革命建設の帝王の二人目:李世民(りせいみん)後の唐の太宗(598~649)生まれる。在位626~649。 
599      4/地震のため、大和の舎屋倒れ、諸国に地震神を祀る。9/百済より駱駝・シャチ・羊・白雉を献ずる。
600   第1回遣隋使  倭王阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)が隋に遣使。 ・・(倭の五王以来途絶えていた日中関係を再開しようとするもの。)
  インドにて「大日経」「金剛頂経」等の密教経典成立。 玄奘(600~664:後の三蔵法師) 生まれる。
601    聖徳太子、斑鳩宮を造る。新羅遠征計画失敗。 「添品(てんぽん)妙法蓮華経」中国語に訳される。大法輪。  法興寺(飛鳥寺)、日本文化の象徴的建造物の意味を持つ。
  600~700年にかけてインドの大乗仏教密教化する。達磨禅・第五祖・弘忍(601~674)生まれる。
 イスラム教。
602     2/来目皇子を撃新羅将軍として2万5千の兵を動員する。10/百済僧観勒(かんろく)、暦本・天文地理などの書を伝える。
 玄奘三蔵(サンスクリット語の般若心経を中国語に翻訳)中国・洛陽に生まれる「大唐西域記」。吉蔵(549~623)三論宗を大成。「三論玄義」。 
 603   広隆寺建立。冠位十二階を制定。
注:冠位十二階 ・・・各大小
徳()・仁・礼・信・義・智
  それ以前、朝廷の高い官位は社会的身分の高い人によって占められ、世襲的に伝えられたのであった。それが新しい制度のもとでは宮廷への就職や昇進は能力によることになった。生まれではなく功績が新しい評価の基準になったのである。:(中村元)
 
604  十七条の憲法   初めて暦を使用。十七条憲法制定::Link 
 (隋に見習って、豪族連合に支えられた政権から、天皇中心の官僚機構を整えようとした。=仏教を広めることで、国が国際化したことを強調した。)
605     10/聖徳太子、斑鳩の宮に移る。
606   僧粲(そうさん)・達磨の禅宗・第三祖、没(?~606) 信心銘: 「至道無難(しいどうむなん)、惟嫌揀択(ゆいけんかんたく)」 
607  第2回遣隋使   2/敬神の詔を出す。7/小野妹子らが隋に使いに出る。 法隆寺建立(薬師如来座像光背銘)。各地に寺院の建立が始まる。 小野妹子らを隋に派遣。  遣隋使:倭国から隋への国書「日出る処の天子、書を日没する処の天子へ致す つつがなきや」=独立国家として対等に外交を始めることを宣言。読んだ隋の皇帝・煬帝(ようだい)は激怒。
  随書倭国伝 
 ・・・其の国書に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、
 恙
(つつが)無きや云々」と。
 帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿
(こうろけい)に謂(い)いて曰く、「蛮夷(ばんい)の書、
無礼なる者有らば、復
(ま)た以て聞(ぶん)する勿(な)かれ」と。明年、上(しょう)
・・・・裴清
(はいせい)を遣は(つかわ)して倭国に使せしむ。(原文は漢文)
 しかし、朝鮮半島への出兵が迫っていた。倭国との争いをさけたかった。法興寺(飛鳥寺)、完成間近。これが、大きな文明開化の拠点となった。中国から、紙漉や墨造りの技術を導入。言霊の国・日本で、文字の使用を解禁した時代である。
608  初めて隋の使者が倭国へ来る  第3回遣隋使   新羅人多く渡来・帰化。小野妹子、答礼使(裴世清はいせいせい)と共に帰国。小野妹子、再び隋に派遣。
609     9/小野妹子ら帰朝。  この年、肥後国に百済人80人余漂着。帰化希望者を元興寺に置く。
610   3/高句麗僧、曇徴(どんちょう)、彩色・紙・墨の製法伝える。10/新羅・任那の使いが入京する。 
612     この年、百済人味摩之が帰化し、伎楽の舞を伝える。
613     12/聖徳太子、片岡山で飢人に遇い、飲食・衣服を与える。
 善導(613~680)生まれる。「観経疏」を著述。随の僧。浄土教の大成者
 中国で、善導(~680)生まれる。親鸞が七高僧に挙げる僧。幼くして出家。三論宗に入り「維摩経」や「法華経」を学んだ。その後「観無量寿経」を一心不乱に学んだが、29歳のときに玄忠寺の道綽禅師に会う。この後長安の光明寺に住んで広く大衆に門戸を開き念仏を勧めた。「観経疏」を著し、これまでの「仏説観無量寿経」についての解釈を改め、念仏往生こそ末法悪世の仏の本位であることを明らかにした。
 『高僧和讃』八二・・親鸞作讃:「信は願
(がん)より生ずれば 念仏成仏(じょうぶつ)自然(じねん)なり 自然はすなわち報土なり 証大涅槃(しょうだいねはん)うたがわず」 (衆生の信心は、弥陀の誓願によって発したものであるから、念仏によって成仏できるのは、阿弥陀仏の願(自然)力による。自然は報土(浄土)である。まちがいなくさとりを得ることができる。 ・・・松原泰道 意訳)
614  第5回遣隋使   8/蘇我馬子病臥し、男女千人を出家させる。
615  玄奘三蔵、次兄と共に洛陽から長安に移る。17才。   聖徳太子等、「三経義蔬(勝鬘経義蔬:611・維摩経義蔬:613、法華経義蔬:615)」完成
 616 3/屋久人、帰化する。   6月:大雪降る
617   この年、五穀が豊かに実る
618   隋、二代で滅亡、唐・李淵(りえん)建国。   8/高句麗より武器・土産物・駱駝を献ずる。 この年、安芸国で船を造らせる。
 620 8/屋久人2名、伊豆に漂着する    春より秋にかけて雨多く凶作。
 聖徳太子、蘇我馬子と共に、「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部旭并公民等本記
(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそともならびにおおみたからどものもとつふみ」を著す。 聖徳太子、現・叡福寺に生母間人(はしひと)皇后が死去したので墓所を造営し葬った。http://www.y-morimoto.com/s_saigoku/s_saigokuK3.html
621    新羅と百済が相次いで唐に使いを送り 外交関係を築いていく。(日本の遣唐使よりも10年早い)
 高句麗は、619年に使いを送っていたが、朝鮮半島への進出を狙う唐との関係は、次第に悪化していた。
 12/聖徳太子の母没。
622     2/22聖徳太子没。太子と妃の膳手(かしわで)姫とが並んで床について、2/21に亡くなった。同じ墓(現・叡福寺)に葬られたとされている。結果、廟は三骨一廟の陵墓になった(大阪府南河内郡太子町太子2148 tel0721-98-0019)。伝染病説。聖徳太子の墓の中を見た報告を、一遍上人、親鸞聖人、空海の報告がある。棺は、半世紀後に厩戸皇子が改めて見直されて、絹に漆塗りの特性の物に入れ替えられたのでは無いか(2017年)
 橘大郎女
(たちばなのおおいらつめ=聖徳太子の后)天寿国繍帳(てんじゅしゅうちょう)を作製。 蘇我馬子執政。
623  7/新羅・任那の使者来朝   7/唐から留学生慧日ら帰国する。 法隆寺の釈迦三尊像、製作開始。高さ87.5cmは、聖徳太子の座った身の丈。光背の碑文から”止利(とり)仏師”であることが解っている。
止利仏師の名は日本書紀にも記されている。「鞍作りの鳥(とり)」と、・・・、その名前から馬具を造る職人であったとも言われている。
624     この年の寺数46、僧816人、尼569人。
625     1/高句麗の僧・慧灌来朝し、三論宗を伝える。
626     3~7長雨諸国飢餓。強盗窃盗多し。霖雨、大飢饉。蘇我馬子没。子の蝦夷、大臣となる。
627   玄奘三蔵、国禁を破って長安を出てインドに向かう。(28才)   LINK  玄奘三蔵  
628     推古天皇没。舒明天皇即位。
629     道 昭どうしょう629~700)生まれる。日本法相宗の宗祖。道照とも。653年、中国に渡り玄奘三蔵に師事。661年に帰国後、元興寺(法興寺)に禅院を建て唯識学を講じた。後に、諸国で土木事業につとめる。亡くなった後、遺言により自らの遺体を火葬させた。
630  舒明(629~641)       遣唐使のはじめ   第1回遣唐使派遣。遣唐使は、東アジアの情報も持ち帰った。
 631   2/屋久人、帰化する。
  玄奘三蔵、シルクロードを旅し、インドガンダーラに到着。(30才)
 632  窺基(632~681)生まれる。法相宗を広める。
 新羅:初めての女王誕生~647年。その名は善徳
(ソンドック)  
634   役小角(えんのおづぬ)634?~700年  8/彗星見える。  法隆寺、夢殿の久世観音像成る。
 
役小角(えんのおづぬ)634?~700年代初期 生まれる。修験道の祖。役行者とも。大和国葛上郡の出身で、三宝(仏・法・僧)に帰依し在家信者となる。葛城山で修行の後、鬼神をも操る呪術の力を得るが、699年、小角の能力を「妖言で民衆を惑わす」と伊豆へ配流される。赦免の後、都の近くに戻り仙人となって天に飛んだとの事。(「日本霊異記」より)平安初期には仏教者として位置づけられ、鎌倉初期には修験道の祖とされるようになった。
636     大旱で、天下飢える。  7/官吏の勤務時間を定める。蘇我 蝦夷、これに従わない。
637     この年、蝦夷叛き、上毛野形名を将軍として討伐に向かい敗退。
638     法隆寺金堂成る。
638    達磨禅・第六祖・慧能(638~713)新州の貧しい農家に生まれる。中国禅宗は、彼によって一気に広まった。厳しい修行は必要とせず、「頓悟禅(とんごぜん)」と言われ、誰でも即座に悟りの境地に至れるというものであった。人には,もともと仏生が具わっていて、それに気付くことは重要であると説いた。「菩提はもとより樹(じゅ)なし 明鏡(めいきょう)も亦壇(だん)に非ず 本来無一物 何れの処にか 塵埃(じんあい)有らん」 読み書きの出来なかった彼が街で薪売りをしていた20歳代のときに聞いた偶然聞いた経。これを耳にして突然に悟りを得たという。広州・光孝寺にて出家、禅を広める。「自分の中の仏性に気付けばよい。」=頓悟禅。
 座禅の心:『外相
(そとそう)をはなるるを禅と為(な)し 内心乱れざるを定(じょう)と為す 外若(も)し相に着せば 内心即ち乱る』:外から見える形に捕らわれないことが禅であり、心が乱れないことが定である。形に捕らわれてしまうとたちまち心が乱れる。達磨からおよそ150年後、厳しい禅の形を変えた。後に、南華寺を拠点とした。農民たちにも教えを広めた。「修行しようと思うならば、寺に在ってもよろし 寺におらねばならぬということはない。 家にいてよく修行するならば
 ちょうど東の国にいて 心がけの善い人のようなものである。 寺にいて修行せねば 西方にいて
 心がけの悪い人のようなものである。 心さえ清ければ そのまま自己の本性という 西方にいることになる。」:農作業も亦、禅の修行になると言うものである。
<兄弟弟子に、神秀(606頃~706:北宋禅の創始者)及び(えあん)がいる。安は、達磨の居た嵩山の少林寺に止まった。>
 言行録「六祖壇経」に、「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず」と、法華経のことを書いている。 ・・松原泰道   
639   百済宮と百済寺造営。   7/百済大寺(大官大寺)建立を発願。9/恵隠・恵雲ら帰朝する。12/百済寺九重の塔建てる。
640     5/斉を設け、僧恵隠に無量寿経を説かせる。
641     10/舒明天皇崩御。
642  皇極642~645   1/皇后が即位し、蘇我入鹿が執政として勢いをふるう。6/干魃。8/天皇雨を祈り雨降る。10/地震多い。
643    蘇我蝦夷、私に紫冠を子の蘇我入鹿に授ける。蘇我入鹿・軽皇子ら、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲い斑鳩宮を焼く、山背大兄一族法隆寺で自殺させる。
 玄奘三蔵、帰国を思い立つ。法蔵(643~712)生まれる「華厳探玄記」「華厳五教章」「大乗起信論義記」等を著述。 
644     中臣鎌足、神祗伯に任命されるもこれを固辞。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に接近。
 645  孝徳645~654)。  大化~49   大化改新。 岡崎市北野廃寺(白鳳時代前期:西三河最古の寺院)この頃建立。   6/12大化改新始まる。 乙巳(いっし)の変:中大兄皇子ら蘇我入鹿を殺し(Link)、6/13蝦夷は自殺。蘇我氏は滅びる。中大兄皇子皇太子となる。蘇我氏の政変で、「天皇記」「国記」焼失。6/19初めて、年号を定め「大化」とする。孝徳天皇即位。 8/仏教興隆の詔。東国の国司に戸籍を作らせる。奴婢の法定める。9/12中大兄皇子、古人大兄皇子を討つ。12/9難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)へ遷都。 この年、中大兄皇子の娘(讃良さらら)として、後の持統天皇生まれる。
 玄奘三蔵、17年にわたるインド旅行を終えて長安に帰る。仏像7体 教典657部  持ち帰る。
 唐はこの年以降、度々高句麗を攻撃する.高句麗の南に百済・新羅。 
646  道綽寂(84歳) 


 難波に遷都

 この頃、中国は唐、朝鮮半島には高句麗・新羅・百済の三国。

  日本に於いては権力集中の始まり。
 1/改新の詔。飛鳥から難波に遷都。中央集権的な政策を民衆を含めて全国的に打ち出す。
日本書紀による    1. 公地公民の原則・・後続や豪族の土地や民を、国家の土地・国家の民にする この結果、巨大古墳は造られなくなる。
2. 中央集権的な政治体制の樹立・・行政区画(国・郡制)
3. 戸籍(五十戸で1里)を作成し、班田收授法の制度(土地を与えて税を取る)・墳墓・葬送・婚姻等の制を定める。
4. .新税制の施行・・統一的な税制
   注:日本書紀の編者は、事実を曲げて創作した傾向があるので、上記のとおりに実施されたかどうかは、確かでない部分がある。(郡制と五十戸一里制は、当時はまだ無かったことが解っている。)
 近江以東を畿外としたといわれる。  3/東国の国司を任命。9/高向玄理(たかむこのげんり・元遣隋使で、海外事情に明るかった)を新羅に派遣。 薄葬令により、身分により墳墓等の規定を作る。この頃より巨大古墳消滅。  六甲山・摩耶山上(標高698.6m)に仞利天上寺建立。『開基記』=伝説の域を出ない。が、平安時代にはすでに成立していたと思われる。 
 647    9/&10/六甲山の麓、有馬温泉に舒明天皇が行幸。この年、七色十三階の冠位を制定する。
 649  白雉(649~685)   官位十九階制定。八省、百官設置。蘇我石川麻呂、謀反の疑いを受け自殺。
 この年、玄奘三蔵、(貞観23年) 5/24 般若心経を漢訳。 
650 
法隆寺の四天王像
 最初のものは、聖徳太子が造ったものであるが、災害などで紛失。京都の仁和寺に残る書物(「別尊雑記」)を参考に似せて造ったものである。
 広目天の光背に記されたものによると、この像を造ったのは山口大口費
(やまぐちのおおぐちのあたい)という仏師であることが解る。
 正式に、四天王像が、法隆寺の記録に記載されたのは、500年後の1196年であった。
 その間、四天王像は何処にあったのか?記録がないので明らかではないが、もともと法隆寺にあったとの説もある(四天王へのお供物の記録はある)。
 
 この頃、法隆寺の四天王像は造られた。

 身の丈はそれぞれ130cm余りで、足下の邪鬼と台座、丸い光背を含めると2m近くになる。 
法隆寺の四天王像
方角 特 徴 役 目
持国天 手に金銅の装飾が施された三叉檄(さんさげき) お釈迦様から仏教世界のすべてを守護するように託された神
増長天  押し殺した表情。直立した姿勢でまっすぐ前を見据えている。
 足下には一角の邪鬼。身動きがとれないように手足を拘束されている。
西 広目天 背中には、遙か昔の飛鳥時代に使われた極彩色の色合いがそのままに残っている。  静かなる記録者。

 手に持った筆とかんすで、悪事を書き付ける役目を担っている。
多聞天 手に、お釈迦様の遺骨を収めた法灯(ほうとう)  須弥山の中腹から四方を見渡し、この世とあの世の橋渡しを担う。
 651  達磨大師の第四祖、道 信 没。579 ~ 651  72歳 
652  白鳳3    孝徳天 皇   足助八幡宮(品陀和気命ほんだわけのみこと始め五柱)創建。 斑田収授法施行、戸籍を作る   この年、法隆寺の観音像成る。雨氷降り、人畜・田畑・家屋損害大きい。
653 第二回遣唐使   道昭(629~700)、この年入唐して玄奘(げんじょう)から教えを受けた。(第1伝。)その後「法相宗」となる。帰国後、行基等の師となった。遺言により火葬されたが、これが我が国の火葬の始まり。 中国・日本の仏教の一学派。南都六宗の一。「解深(げじん)密経」「成唯識論」などを典拠とし、一切存 在は識(心)の作り出した仮の存在で、阿頼耶識(あらやしき)以外に何物も実在しないと説く。インドの唯識 派を承け、唐の基キを祖とする。奈良の興福寺・薬師寺を大本山とする。この年、中大兄皇子、天皇と不和になり、皇極上皇らと難波より飛鳥に移る。この年、第二回遣唐使。
654  第三回遣唐使   10/孝徳天皇難波宮で崩御。 この年、陸奥国成立。
 657 欽明天 皇。   盂蘭盆会の始め  吐火羅人とから、筑紫に漂着する。この年、中臣鎌足が、斉会を設ける。(維摩会の初め)大海人皇子(おおあまのみこ)、中大兄皇子の娘(讃良さらら、後の持統天皇)と結婚。、
658  斉明天 皇(655~661)   4/地震のため、大和の舎屋倒れ、諸国に地震神を祀る。7/僧・智通・智達が唐に渡り法相宗を学ぶ。9/百済より駱駝・シャチ・羊・白雉を献ずる。4/阿倍比羅夫、水軍を率いて蝦夷を討つ。7/蝦夷2百人余朝献する。11/有馬皇子陰謀があるとして殺される。この年、阿倍比羅夫、粛慎(みしはせ)を討つ。
659  第四回遣唐使   3/阿倍比羅夫、蝦夷を討ち後方羊蹄(しりべし)に郡領置く。7/坂合部石布を唐に派遣する。この年、藤原不比等(ふひと)誕生。
660    3/阿倍比羅夫、粛慎(みしはせ)を討つ。5/高麗の使節、難波に着く。8/阿曇比邏夫・阿曇比羅夫を遣わせて百済を救わせる。 朝鮮半島の百済王朝は、隣国の新羅と、中国の唐の連合軍の攻撃を受けて滅亡。義慈王(ウィジャワン)や王族、臣下など一万数千人が唐の長安に連行された
 唐が、新羅と結んで攻撃し、668年百済滅亡・・ 百済から亡命して把に移る者多し。  
661   達磨禅・第六祖・慧能(638~713)24歳、黄梅の東山に弘忍をたずねる。  
662   天智(662~671)  5/大将軍阿曇比邏夫は、百済皇子豊璋を送って王位につかせる。
 滅亡された百済と深い関係を持っていた日本は、存亡の危機感を持って白村江(はくそんこう)の戦いに望んだ。(百済の皇子は日本に滞在しており、やがて百済を復興させたら皇子を皇位に就けることによって、百済を従属させようと考えていた。) 
(皇子は、そのころ大和の三輪山の麓で養蜂を行っていた。=日本の養蜂の祖となった。)  
  1/百済の鬼室福信(クィシルボクシン)に、兵器食糧を送る。=百済の臣下鬼室福信(クィシルボクシン)、旧百済の遺臣達を集めて、反撃を目論む。この時に正統性を付けるために由緒有る王家の血筋が必要だった。=  3/唐・新羅が高句麗を討ち、高句麗は日本に援助を求める。6/百済、使いを遣わせて調を献ずる。 
663  玄奘三蔵、大般若経600巻の教典翻訳完了。(約4年がかり)   3/上毛野雅子ら、2万7千の兵を率いて新羅を討つ。8/日本の海軍、白村江(はくすきのえ)において唐・新羅連合軍の圧倒的な強さの前に大敗する。百済王は高句麗に逃れる。9/日本軍は、百済の遣民と共に帰国する(これより日本は朝鮮半島南部の権利を放棄する)。  
 日本の豪族たちが、敗戦で各地に離散するのではないかと、天智天皇は懸念した。仏教思想によって、彼らの心を一つにしようとした。
  これ以降更に一層唐が攻めて来るという危機感が強まる。全力で防衛体制を整える。(九州太宰府の高さ10m・幅80mの盛り土・水城(みずき)を1.4Kmにわたって築き、その前・博多湾側には堀を作り要塞とした。
 また、岡山県の標高400mほどの鬼ノ城山に造られた山城もその一つである。およそ2.8Kmに渡って石垣や土塁を巡らせた強固な作り(朝鮮様式の城と言われている)。東西南北四カ所には城門も設けられている。
 こうした防衛施設が九州瀬戸内海を中心に次々と造られ、難波や大津など飛鳥地方にまで及んだ。やがて都を大津に移した。
664  2/5 玄奘三蔵、没。(63歳) 総計 74部 1338巻の教典翻訳。大般若経 600巻:悟りの智慧の義を説く諸教典の集大成。    2/官位二十六階を定める。氏上(このかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)を定める。5/唐の百済鎮将の劉仁願が、使を遣わして物を献ずる。
 この年筑紫に水城
(みずき:幅80mの堀を巡らせた城)を造る。
665   万葉集が集中的に詠まれる時代。
       
第五回遣唐使 
 2/百済の男女4百人余を近江国神前郡に置く。 8/百済の遣臣をやって長門・筑紫に城を造らせる。耽羅の使、来朝する。9/唐使劉徳高ら来朝。藤原鎌足の長男・定慧(鎌足の妻は、孝徳天皇の元の后・鏡王女=実際は、孝徳天皇の子)、唐の修行から帰る。帰国後三ヶ月で死亡。奈良・多武峯山(とうのみね)談山(たんざん)神社の十三重の塔は、鎌足が鎮魂のために造った定慧の墓か。(梅原猛説) 12/同、帰る。この年守大石等唐に派遣する。 
百済人、この年より四年間の間(新羅が唐に支援を依頼して新羅によって滅亡された。)古代日本への流入多し。流入第二の波。 
666      1/高句麗の使来る。耽羅王子、来朝する。この冬百済の男女2千余人東国に置く。7/大雨により、祖調を免ずる。  法隆寺、金剛半迦思惟像成る。
667             
第六回遣唐使 
  比叡山に大比叡神(おおびえのかみ)として祀られる。
 天智天皇、近江大津宮に遷都(4年前の白村江の戦いで敗れた後、唐新羅の連合軍がいつ攻めくるか解らないと、九州瀬戸内を中心に防衛のための大土木工事を行って山城を築いて備えていた。遷都の意味は海岸線に近い飛鳥から大津に移すことで外敵からの攻撃を防ごうとした)。大和三輪神社(奈良県櫻井市)から大己貴神
(おおなむち)が勧請され、大比叡神(おおびえのかみ)として祀られる=比叡山(わが国最古の神社の一つ)。
 日吉神社←比叡・被衣・日枝と表記されていた。日枝山=後に最澄(785頃入山)が比叡山と改名と言われる。
 3/近江大津宮
(昭和49年にその遺跡が見つかった)に遷都強行。(遷都に、大勢の臣下や豪族達が反対した。しかし、防衛に適していた。瀬戸内海から唐や新羅が攻めてくることに備えるならば、飛鳥の地よりも、琵琶湖の南の大津が、淀川を挟んで多くの山があったので、適していると考えられた。また、地方の豪族連盟が強すぎて、思うままに政治ができにくかった。)
668 
 唐・新羅が高句麗を亡ぼし、朝鮮半島を統一。



天智 
 日吉大社(滋賀県大津市坂本):神紋・双葉葵、西本宮の御祭神は「大己貴神(おおなむちのかみ)」は、天智天皇の大津京遷都に当たって、大和国三輪山・大神(おおみわ)神社より御神霊をお迎えし大津京を始め国家鎮護の神として祀られた。この神は国土を開拓・統治された神である。 この頃、大海人皇子(なかのおうえのおうじ)と中大兄皇子との関係は微妙だった。大海人皇子は中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)の娘を次々に4人まで妻とし、また、額田王(ぬかたのおおきみ)との間には子どもを産ませたが、後に額田王は中大兄皇子の后となっていった。
 東本宮の御祭神は、「大山咋神(おおやまいくのかみ)」。古事記上巻に「此の神は近淡海国(ちかつおうみのくに)の日枝山(ひえのやま)に坐(ましま)す。」と記載されているように、神代の昔より比叡山に鎮座する地主神である。
 御神名の「クイ」というのは、山の樹木やその麓の田畑の五穀をグイグイ伸ばして育ててくださる御神徳を指したものである。 ・・日吉大社発行「創祀」による
 行基(ぎょうき)668~749生まれる。大阪の出身。682年に出家し、後に薬師寺所属の官僧となる。行基は当時禁止されていた民間布教を行い国家の弾圧を受けるが、東大寺の大仏造営に資金不足だった聖武天皇は行基の集金力に目をつけ、その行いを許し建設の協力を仰ぐ事に。745年、官僧の最高位・大僧正となり、後に49もの寺院を建設した。749年、奈良・菅原寺にて没する。
669  第七回遣唐使  興福寺    中臣鎌足、死去(56才)。山階寺(山城国宇治郡山階)、藤原の鎌足の私邸に立てられる。鎌足には、二人の息子がいた。長男・定慧(じょうえ)、次男・不比等(ふひと)。長男・定慧は、若くして出家し鎌足が亡くなったときには、唐に修行に出ていた。天武朝に、大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称される。:現在の興福寺。 法隆寺出火。
 670  天智   白雉   中大兄皇子、庚午年籍(こうごねんじゃく)初の全国的戸籍、永久保存。)により、人民を全国的に把握し中央集権体性の構図を作り始めた(これまでは、各地の豪族達の申告にたよらざるを得なかった土地と各地の民を国家として把握して兵士や労役の動員を可能にするシステム・仕組みを作った)。後ろで支えたのは弟の大海人皇子、後の天武天皇。   日本書紀によると、法隆寺五重塔、この年炎上する。4/法隆寺全焼。
 これより、唐と新羅が戦いを始める(670~676)。(「日本に攻めてくるかも?!」という不安は薄れた。) 
 671 天智   大友皇子(おおとものみこ)が太政(だじょう)大臣に任じられる。天智天皇の後継者と目されていた。
 1/唐(新羅と戦争状態)からの使者が来訪。倭に武器・武具を求めたり軍量・食糧の供給を要求。こと年、唐から2回の使者。1度は2,000人の兵を伴っている。これは白村江の戦いの時の捕虜であったと思われる。これを再度新羅に送り込めということであったとも考えられる。威圧的であった。 新羅と唐の両面外交をしていた倭国に、唐への味方を迫られた。この月に大友皇子は太政大臣に任命されていた。鬼室集斯
(きしつしゅうし) <現:滋賀県日野市鬼室神社> を政治の中枢に置かせた。彼らは百済から逃れてきたおよそ数千の難民は近江の国に居住していた。外交方針の決定に彼らが影響を及ぼしたことも考えられる。 大津遷都の目的は外国からの脅威が理由であった。しかし状況が変わって,唐は攻めてこないのではないか?!と言うことになった状況下で、国内地方豪族達も不満は大きくなった。吉備とか武蔵とか様々な反乱が起こってきた。地方が個々に反乱。後の壬申の乱の引き金になったか? 12/天智天皇死去
 大海人皇子
(おおあまのおうじ)、出家して吉野へ。(皇位を争う意志のないことを示そうとした。)地元の豪族達が、吉野への脱出を助けた。・・・しかし、大友皇子はこれを危険視した。「虎に翼をつけて放つようなものだ」(「日本書紀」) 
672  天武    白雉         壬申の乱 
飛鳥浄御原宮
(あすかきよみはらぐう)に遷都
2006年の発掘調査により、この場所は
斉明天皇(天武天皇の母)の宮殿の
遺跡の上であった。歴代の天皇の
宮殿跡に、改めて天武天皇は
宮殿を建てたのだった。
 6/壬申の乱:天智天皇の子大友皇子と天智天皇の弟大海人(おおあま)皇子との皇位継承を争った全国的規模の内乱。(~8)。この戦いは、王家のみ成らず、豪族達を二分する古代日本最大の内乱であった。6/28大海人皇子は、伊勢・美濃の豪族達を味方につけ、不破(関ヶ原)で決戦に備える。 この頃、壬申の乱(~8)で、尾張国司は2万の兵を率いて大海人側につく。
 壬申の乱に勝利した大海人皇子
(おおあまのおうじ)は、天武天皇となり強大な権力を握り、再び都を飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらぐう)に遷都。 
673 天武         白雉  2/27大海人皇子(おおあまのみこ)、即位。天武天皇と名乗る(このときに初めて「天皇」という呼び名が使われた=中国の”皇帝"の意味)。天武天皇は、神話の時代から続く大王(おおきみ)すべてを「天皇」の呼び名で呼ぶことにした。謂わば、今につながる『日本』という国の基盤が築かれたともいえる。
 伊勢神宮の北の
斎宮(さいくう)に天武天皇の娘を送り、宮殿に住まわせた。天皇に代わって伊勢神宮に奉仕させようとしたものである。これより700年間、斎宮は皇族の中から送り込まれた。   3/備後国、白雉を献ずる。4/大来皇女を伊勢神宮に遣わす為、泊瀬の斎宮に置いて潔斎をさせる。5/人材登用の詔下す。7/美濃不破関を置く。12/百済大寺高市に移して再建。  初めて一切経を書写する。
 新羅と国交回復。
674   達磨大師の第五祖、弘 忍 没。(601~674)  
675          天武 
天皇
(すめらみこと)は,清い人:日本書紀の必要 
・・清浄な清い貴人であるという認識。
  664年に定めた諸氏の部曲廃止、親王以下に与えた山林を収公する。4/百姓の貧富を分けて、三等とし、出挙は貧戸に限る。
 天武天皇は、新羅を攻撃する唐の国が、やがて日本にも攻撃の手を広めるのではないかと恐れる。
 唐は、678まで新羅を攻撃。その後で唐は倭国を攻撃しようと軍船の整備に取りかかった(”国家修理船艘。外託征伐倭国”云々「三国史記」)
676   天武        白雉  1/国司任命の制度定める。5/畿内の山野の伐採を禁ずる。10/新羅に使いを遣わす。11/新羅の使い、来朝する。倭国は新羅に手厚く歓待した。 諸国に金光明経を説かせる。
 唐に反旗を翻した。唐は戦いの矛先を、倭国から新羅に切り替えた。新羅が朝鮮半島を統一。(日本とは対等の関係であったか? ) 達磨禅・第六祖・慧能、広州法性寺で剃髪する。
 678 天武
 東加茂郡の馬祭は昔から馴染みが深く有名であった。 また、徳川家の家紋は賀茂神社の立葵から採られたものであった。 
 11/筑紫に大地震。民家倒壊。賀茂神社(賀茂別雷大神:かもわけいかづちのおおかみ)現在の社殿の基が造営される。皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまがなく、国家の重大事には必ず奉幣、御祈願があった。また、賀茂祭は、祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで二葉葵を柱の小枝に挿し飾ることから、広く「葵祭」として知られている。この「葵祭」には奥山の賢木(さかき)を立て、走馬を行ったのが祭祀の始めであった。(同社由緒記)
679  天武   天武天皇は、皇后と共に、吉野において天武天皇の皇子(みこ):草壁皇子・大津・高市(たけち)・忍壁皇子と天智の皇子:川島・芝基(しき)皇子が、互いに仲良く力を合わせるように誓いを立てさせた。盟約を交わす。吉野は約束の地で会った。
 2/飢寒者に物を賜う。10/老病の僧尼の収容所建てる。
680  天武        白雉       薬師寺建立   薬師寺建立(天武天皇は、皇后:後の持統天皇の病気快癒を祈願して、藤原京に薬師如来を本尊とする寺を建てることを発願する。これをもって創建の年とする。当時の物さし:後漢尺で10尺:国宝 聖観音像2.35m、東塔100尺23.50m 金堂100尺)
681  天武10


ここまでは戦争状態の日本。
「国家の基本は軍事である。」と。 
  飛鳥浄御原令作成を命じる。史書の編纂始まる。天応は、各地の豪族それぞれの思惑を抑え、天皇の権威のもと人びとがまとまる国を造ろうとした。・・・、壬申の乱の影響で、天皇の思惑は思い通りに進まなかった。人身の統一は困難であった。そこで、古事記の編纂を命じることになる。各豪族が、ばらばらに持っていた歴史書を一つにまとめようとした。
 2/天武天皇
(壬申の乱よりおよそ10年後)、古事記編纂を命じる。天皇は、古事記に曰く「私の聞くところによると諸家の「帝紀」と「本辞」には、真実と違い偽りを多く加えているという。」「これまでの歴史書の偽りを削り真実を選びそれを後世に伝えようと思う」 
682  天武  3/諸王・諸臣衣冠等服することをやめ、親王以下の封をやめて官に返させる。8/礼儀・言語の制を定める。  この年、行基出家する。
 修験道:泰澄(たいちょう)682?~767? 生まれる。
加賀白山の開創者。福井県出身。702年、天皇より鎮護国家の法師を命ぜられる。717年、白山に登る。723年、天皇より神融禅師の号を賜わる。725年、行基が白山に登り泰澄と会う。737年、大和尚位を授けられる。767年、天皇の誓願により木塔一万基を献上、間もなく没する。 
 683   天武  2/大津皇子政治を執る。4/銅銭を用いて、銀銭を禁ずる。12/諸国の境を定める。
一行:唐の科学者・密教僧生まれる(~727)。四柱推命の大家。
    <達磨の六代目の弟子・慧能と兄弟弟子である神秀
(じんしゅう)の孫弟子にあたる>  
684  天武13    白雉      白鳳      
 
 南海地震M8.25。

善導寂(69歳)
 4/文武官に武備を整えさせる。5百済の帰化人等武蔵国に置く。10/諸氏の族姓を改め、朝臣以下8種の姓を定める(八色:やくさの姓かばね制定)。 使いを遣わせて諸国の境界を定める。
 10/14諸国に大地震(土佐・南海・東海・西海)。
「国挙(こぞ)りて男女(おのこめのこ)叫び唱(よば)ひて、不知東西(まど)ひぬ」:日本書紀

 まさに東も西もない、ほとんど列島全土が揺さぶられた。一体、どれほどの叫びがこの国にこだましたことか。 
 土佐国の田畑多く陥落し、伊豆の海中に島を生じ、伊予の温湯止まる。
685  天武    白雉       初めて伊勢神宮の式年遷宮の制を定める  藤原宮に遷都  1/親王・諸王十二階、諸臣48階の位階を定める。3/諸国の家ごとに仏舎を造り、礼拝させる。7/朝服の色を定める。9/初めて伊勢神宮の式年遷宮の制を定める。9/諸道に使いを出し、青磁および百姓の状態を視察させる。11/武器の私蔵を禁ずる。   この年、興福寺仏頭成る。 
686 天武  朱鳥元   熱田神宮、酔笑人(えようど)神事始まる    天武天皇41歳死去。一時、宮中にあった草薙の剣が熱田の宮に帰ったのを悦んで、酔笑人(えようど)神事始まる。オホホ祭りとも呼ばれる。 5/河内国志貴評の知識衆、「金剛場陀羅尼経」(現存する最古の写経)を写経す。7/天下の貢調を半減し、徭役を全免する。貧民の負債を免除する。9/天武天皇没。皇后(持統)称制す。10/大津皇子、謀叛の罪に問われて自害させられる。
 687  ☆持統~天武天皇の時代☆
戸籍に基づく6年ごとの班田收綬始まる  
  仏教は各地方に広まって、豪族たちもお寺を建てた。この頃の時点で寺院の数は545。各地で寺の跡(廃寺跡)が発見されている。奈良の薬師寺に似た配置の跡もあった。
 688     
 鑑 真がんじん688~763)生まれる。日本律宗の宗祖。中国・揚州江陽県生まれの学僧。日本人僧の招請を受け742年から5度の渡航失敗の後、753年やっとのことで来日。日本における授戒制を確立し、東大寺に戒壇院を建設、聖武天皇・光明皇后などを授戒する。後に唐招提寺を建立し、律宗の発展の基礎を築く。757年、平城右京五条二坊の地を下賜され、そこに伽藍を建立。(現・唐招提寺)758年、大和上となる。763年、唐招提寺にて没する。 
689  天武    4/新羅の帰化人を下毛野に置く。6/諸国に戸籍を作らせ、浮浪を禁圧し、兵士に武事を習わせる。8/摂津・紀伊・伊賀に禁漁区を設ける。12/双六を禁ず。   この年、大宝律令:飛鳥浄御原令施工。
これまでは、中国の「律」をそのまま使っていた。 
 柿本人麻呂宮廷詩人として活躍を始める。
 
良弁ろうべん)689~773 滋賀県に生まれる。華厳宗の宗祖。752年、少僧都に任じられ、東大寺建立に尽力。753年、東大寺の別当となる。761年、東大寺別当を辞退し、近江石山に石山寺を建立
 690 持統690~697    持統天皇即位(天武天皇の皇后)。   庚寅(こういん)年籍作成。
694 持統    朱鳥元(686~700)    藤原京に遷都。(奈良盆地の南部:日本最初の碁盤の目のような都城制採用・東西南北5.36Km四方だった。後の平城京や平安京をしのぐ広さ) 大極殿 正面45m、奥行き21m、推定高さ25m。
695  持統9    持統50歳。全国に巨大で一直線の道を作り、中央集権体制を整えた。独立国家としての体裁を整えて、3/体制整備の式典。新羅の王子(金 良琳こんろうりん)がきて、国政を奏請する。9/新羅に小野毛野らを発遣する。5/天皇、隼人の相撲を観る。
 697 権力(政権)と権威(天皇)が分かれた。    2/軽皇子を皇太子とする。8/天皇譲位し、軽皇子が即位して文武天皇(15才)となる。不比等の娘宮子を夫人となす。8/藤原の姓を不比等が継承との詔がある。10/薬師寺造営
698  文武697~707    薬師寺建立ほぼ完成。
699     修験道:役小角(えんのおずぬ)、伊豆大島に配流される。
700  文武   この頃、尾張に初めて仏寺、長福寺廃寺。(700年代前半)、また、群集墳が広がり、尾張に浅井古墳群、三河に炭焼古墳群など。     班田制。その後衰退。
 701  文武    大宝律令による評里制、郡里制。この大宝律令に、「東海道参河国内賀茂郡を置く」と記述有り。「日本」の国号が正式に採用されたのは、このときの大宝律令による。百済(663)に続いて高句麗(668)まで滅んだ、唐の国が目前にまで及ぶという、激動する東アジアの国々であった。白村江の戦いから凡そ半世紀。
 達磨大師の第五祖、弘 忍の法をつぐ神秀(606?~706達磨禅の第六祖・慧能と兄弟弟子)、武后に召されて入内し、洛陽・長安に禅を広める。次いで、第五祖の弟子達もこれに続く。
702  唐との国交回復。     
30年ぶりの遣唐使の派遣(第八回)

文武 
  この頃、持統上皇が三河に行幸する。遣唐使の派遣。  「和銅開宝」。
  気比神宮(福井県敦賀市曙町)御祭神:伊奢沙(別命
いささわけのみこと)、仲哀天皇(ちゅうあい)、神功皇后(じんぐこうごう)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)、玉妃命(たまひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)。上古から、北陸道総鎮守として崇められる。
703   文武大宝3    鳳来寺(真言宗)、本尊に薬師如来を祀り、利修仙人開山。
 達磨禅の馬祖道一生まれる(709~788)。 
709   智光(ちこう)709頃~770?生まれる。三論宗の僧。大阪生まれ。9歳で出家。元興寺で三論を学び、三論宗元興寺流を伝える。感得したとされる浄土変相図は「智光曼茶羅」とよばれ、元興寺東室の僧坊に安置され、その僧坊は現在の元興寺極楽坊にあたる。 
710  元明707~715和銅3   和銅(708~14)     
平城京に遷都。厩坂寺
(うまやさかでら)、平城京左京三条七坊に寺地を確保し、興福寺と改称。




  この頃の貴族とは、元々は倭王権と縁の深い飛鳥地方の豪族が中心であった。
 推古天皇の時代に作られた冠位十二階という制度があったが、その後唐の制度に習って、位階制度として整理され、出身や働き具合によって位が決められ、ランク分けはおよそ30ほどに分かれた。貴族は、五位以上のものを指した。
 ちなみに、五位は六位の年収の倍ほどの差があった。
正一位~
従五位下 
 約125人 貴族・上級官人 
 正六位~
少初位下
 約600人  中級官人
 無位 約6000人   下級官人
 
  豊川市白鳥遺跡(三河国府)、この頃のもの。   平城京(奈良)に遷都。唐の長安を模して造られた。この頃の律令位階制度は、正一位~従五位(貴族・上級官人)125人、正六位~少初位(しょうそい)・中級官人600人、下級官人(無位)6,000人が、皇族の下に置かれていた。(この律令位階は、江戸時代までほぼ同じような形で続いた。)
  藤原の鎌足の私邸に立てられる山階寺(山城国宇治郡山階)、天武朝に、大和国高市郡に移って厩坂寺
(うまやさかでら)と称されていたが、平城京左京三条七坊に寺地を確保し、現在の興福寺と改称。薬師如来仏頭・阿修羅像・梵天像・金剛力士像・阿弥陀如来坐像など。1998世界遺産に登録されている。
奈良時代の地方制度
都(平城京) 駅路   → 国(国府)・・中央から派遣 郡(郡家ぐうけ)・・地方豪族から任命 里(郷)・・五十戸=一里
16Km毎に駅(うまや)が置かれた。 国府又は府中と呼ばれるところにはあった。 郡の名が付くところには、昔、郡があった。







       
  対 象  内  容 
(そ)  男 女  口分田の収穫の約3%
各国の財源 
 庸(よう) 男   (労役の代わりに)布・塩など
 調(ちょう 男  布や各国の特産物 
 雑用(ぞうよう) 年間60日以下の労役 
 兵役(へいえき) 正丁(せいてい)3~4人に一人   諸国軍団、衛士(えじ)、防人
  注:正丁(せいてい):21歳~60歳の男子
 公出挙(くすいこ)  男 女
 春に稲を貸し付け、秋に利息
つき(5割→3割)で回収
 当初は農民を助けるための制度であったが、後には強制的に貸し付けて税を取るようになった。
 
711  和銅4年    賀茂神社祭に国司(現在の知事)が毎年親しく祭場に臨んで、祭が無事に執り行われているかを検察せよとの勅が出された。(同社由緒記)
 太安万侶
(おおのやすまろ)は、元明天皇より、中断していた「古事記」編纂を命じられる。
712  和銅5    和銅(708~15) 

出羽国
(でわのくに)成立。
  1/28「古事記三巻(上・中・下)」完成。元明天皇に献上。:稗田阿礼(ひえだのあれ)および太安万侶(おおのやすまろ)による。
 和文調である(音訓)混じりの文で、判読が難しかった。そこで、太安万侶は話し言葉を文章に記すルールを整理し、多くの人に理解しやすいように努めた。この働きは大きかった。)。
 注:古事記は、天武天皇の死後一時中断したが、30年ほど後になって、元明天皇(女帝)の命により再開された。注2:昭和54年1月、奈良市此瀬町の遺跡から太安万侶
(おおのやすまろ)の遺骨が発見された。出土した墓誌に依って、彼は架空の人物ではないことが明らかとなった。これによって古事記の編纂のいわれが一層明らかな事実となった。
注: 古事記の内容(天皇の系譜)天武天皇の命により編纂  名古屋市博物館に

現存する最古のものが

保管されている。

奈良時代に完成し、南北朝時代に、書き写された。
 <大須観音・真福寺宝生院蔵>
上巻 天地のはじまり
イザナキ・イザナミ、天の石屋
ヤマタノオロチ退治、天孫降臨など神々の活躍
中巻 神武天皇、ヤマトタケルなど
応神天皇(四世紀)まで
下巻 仁徳天皇から推古天皇(聖徳太子の叔母:七世紀)まで
「古事記」は日本人に、神の存在を訴え続けている。
 713 和銅6    [風土記]完成(5/朝廷が諸国に命じて産物や土地の状況、伝説などを編纂させて提出させた)。
714  和銅7   6/首皇子が立太子。 この年、尾張の民を出羽に移配する。    興福寺・金堂創建。 
715  和銅8    播磨風土記、この頃までに成る
716     この年、出雲大社完成か?(梅原猛の説)
善無畏(シュバカラシンハ637~735)来唐。密教を伝え、「大日経」を訳出。 
717  元正715~724養老元    霊亀(715~716)
第九回遣唐使  白山(標高2702m)を開山 
  郡郷里制実施。 越の大徳・神融禅師、泰澄(越前国麻生津生まれ)は白山(標高2702m)を開(白山には、三神がいて、三所権現と呼ばれる。妙理大権現・十一面観音・など)。
718  養老2    西国三十三ケ所巡礼の始まり。(大和長谷寺の得道上人)
 注:実際に盛んになったのは、平安時代中期、得道上人の話を聞いた花山法皇がみずから三十三霊場を尋ねたことによる。
720  養老4   養老(717~23)    5/21「日本書紀三十巻」成る(日本書紀の編纂は、天武天皇の命ではじまったとされる)。舎人親王(および太安万侶(おおのやすまろ)による。「古事記三巻」完成後わずか8年で、造られる。これはすべてが漢文による。しかし、同一のイデオロギーの基に造られた(梅原猛曰く)。 8/藤原不比等薨ず(62才)。その後を、長屋王。
 修験道:万巻
(720~816)生まれる。後に箱根修験の開祖となる。
 721 養老5    興福寺・北円堂、藤原不比等(ふひと)一周忌に建立。その後、不比等の娘光明皇后の発願により東金堂・五重塔が建てられる。11/帰化人羊一族滅亡。12/元明大上天皇崩御。 この年、「続日本紀(しょくにほんぎ)」現される。ここには、墓に碑名を刻むことが認められている。=『・・立剋字之碑・・』自分の陵墓に名前を刻むべし 云々 とある。漢字や文字を表記するようになった証であろう。
 この頃、六年に一度戸籍が調べられた。各家族の戸主・年齢・続柄などが克明に調べられた。中には奴婢
(ぬひ)を含めて100人を超す家族もあった。国家は民衆一人一人を把握して、それにもとずいて口分田(くぶんでん)を分け与えた。
723  養老7    4/17三世一身法(人口増加により新しく灌漑施設を設けた場合は3世、旧来の施設を利用した場合には本人一代の用益権を認めた。)  風土記著される。
724  聖武724~749   神亀(724~729)
  財賀寺、行基が開創。
陸奥に多賀城 
  2/元正天皇が譲位し、首皇子即位して聖武天皇となる。豊川市財賀町:財賀寺、聖武天皇の勅願により行基が開創。それまで、行基は国に認められた僧ではなかった。しかし、行基の業績と影響力は大きく無視できなかった。  叡福寺(本尊:聖如意輪観世音菩薩)、聖徳太子の没後、聖武天皇の勅願により、太子の墓を守り霊を鎮めるため建てられた。 陸奥に多賀城(陸奥国府として、東北支配の拠点。大野東人・あずまひとが創建。南辺860m東辺1040m西辺660m北辺780m。木材塀を周囲に、外郭の東・西・南に八脚門)を設置。蝦夷(えみし)の民を治める。注:「多賀城が神亀元年に造られた国府とする説は江戸時代に創作された虚構である。」との説もある。
727      9/29聖武天応に男児が生まれる(後の孝謙天皇の弟)。聖武天皇はこの子に天皇の位を譲る。しかし、病弱で、翌年(9/13)、病死。
728  聖武   神亀8    華厳宗総本山、東大寺   華厳宗総本山、東大寺・聖武天皇が早世した皇太子基親王の菩提を弔うために建立(金鐘山寺)。
729  聖武    天平(729~749)    2/長屋王、謀反の疑いにより自害させられる(長屋王の変)。藤原四兄弟の妹の光明子が、聖武天皇の皇后となる。
730 聖武            天平2    この年、尾張国正税張残る。(734年分も)
732     この年(733?)、普照、栄叡の二人が伝戒の師を求め唐に渡る。それに応え753年鑑真が来朝、755年東大寺戒壇院の落慶法要、日本の僧の授戒の根本道場とし、759年唐招提寺を建立。戒律の修行道場とする。さらに、下野の薬師寺、太宰府の観世音寺にも戒壇を設ける(天下の三戒壇)。
733 聖武      第十回遣唐使    「出雲風土記」,肥前・豊後風土記この前後に成る。 和気清麻呂(733~799)生まれる。後に道鏡が宇佐の八幡の神託と称して天皇位に就こうとしたときに、天皇家の危機を救った。一時、流罪に処せられるが、道鏡の失脚後は平安遷都の実現に尽力。.
735 聖武

修験道:勝道しょうどう735~817 
  不作、天然痘流行。 修験道:勝道(しょうどう)735~817生まれる。 栃木県の生まれ。奈良時代末期、男体山に登頂し、日光を開山した僧。761年、栃木・薬師寺にて受戒。782年、補陀洛山頂に立つ。814年、空海に自伝関連書を以来、現「性霊集」として伝えられている。
736      唐の道ドウセン?、華厳経を伝える。良弁(ろうべん)などにより東大寺を中心に研究される。752年、毘盧遮那(びるしゃな)仏をかたどる大仏(奈良の大仏)が建立され、東大寺を総国分寺とし全国に国分寺の組織が整備される。
737      不比等の子・四兄弟が、天然痘で病死。
738  天平10    1/13 聖武天皇は、皇位継承の争いごとをさけるために、長女・阿部内親王(孝謙)を女性として初めての皇太子とする。
 740 聖武     東大寺法華堂    9/九州で藤原広嗣(ひろつぐ)の乱=藤原家の子が、橘諸兄(たちばなのもろえ)に対して反乱。
  この年、717年からの郡卿里制を郡郷制に変更実施。
  東大寺法華堂(東大寺最古の建物)、この年から、747年までの創建。
東大寺法華堂
 堂内には不空糸糸羂索観音像を中心に合計16体の仏像。内12体が国宝。4体は重要文化財。日光(近世)・月光(近世)・弁財天(954)・吉祥天(954)は、後にここに移入された。
 その他、梵天・帝釈天・金剛力士蔵・持国天・増長天・広目天・多聞天・等と共に鎌倉・室町時代に移入されたとされる地蔵菩薩・不動明王像もある。
 741 聖武      天平13    天平(729~48)    国分寺(金光明:こんこうみょう:四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)建立の詔。七重の塔を建て持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王に守ってもらおうとの鎮護国家の思想。 災害(地震)の頻発、疫病(天然痘)の蔓延、反乱、新羅の圧迫など国内外の諸問題に頭を痛めて、天皇が仏教による鎮護国家の思想に基づき発する。国分寺(正式名:金光明四天王護国之寺・こんこうみょうしてんのうごこくのてら)には、七重の塔を建て金色の文字で書かれた「金光明さいしょう王経」を安置するように命じられ、20人の僧を置き、毎月八日にこのお経を読むことを定めた。国分尼寺は、「法華滅罪之寺」が正式な名前で、尼を10人置くこととされた。これらの寺の建立は光明皇后が聖武天皇に勧めたと言われている。
 (別の資料では・・:国分寺・国分尼寺建立の詔によって、東大寺・聖武天皇が早世した皇太子基親王の菩提を弔うために建立(金鐘山寺)、昇格して金光明寺となり、東大寺と称す。)
  稲沢市尾張国分寺、豊川市三河国分寺・尼寺建立。    
742      1/太宰府を廃止。 9/&10/霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火の最古の記録「続日本紀」。
 743 聖武    10/15聖武天皇、盧舎那佛(高さ15m、全世界を普く光で照らし出す仏)造立の詔、仏法の本質を著す、仏の中の仏と言われている。752年、開眼供養。
  墾田永年私財法(自分の開墾した土地は、私有化を許す法)。
744      難波の宮に遷都。
745  聖武    平城京に都を復す。行基、東大寺大仏造営を発願し国の総力を挙げてこれを実現しようとした。日本で初めて、大僧正(だいそうじょう)<最高の僧官>に任ぜられる。
746  聖武    第11回遣唐使   
747  聖武   天平19    律令国家の華やかなイメージとは対照的に、諸国の国分寺建立はなかなか進まなかった。政府は、「郡司層の協力も求めて3年以内に必ず建立せよ、協力者には末代まで身分を保証する。」と、通達した。地方豪族は、国分寺への献上によって中央との関係を保つ有効な方法とした。
 749 孝謙749~758    7/2聖武天皇、娘の孝謙に天皇の位を譲る。このとき、娘に「佛・法・僧」の三宝を盛んせよ」と伝える。 行基没82才。(668~749)。東大寺建立。 大本山・石山寺(真言宗・西国第13番 東寺)、聖武天皇の勅願により、良弁僧正により開山。堂内「源氏の間」は、紫式部が「源氏物語」を書いた所と伝えられており、本堂下の御堂は、蓮如上人の母が石山観音の化身と言われる。(栞「大本山 石山寺」より)
751   孝謙   懐風藻(かいふうそう)、現存する最古の漢詩集完成。
 752   孝謙    天平勝宝(749~56)
    
第12回遣唐使
  東大寺
  4/9東大寺(良弁僧正開山。本尊:毘留遮那仏。華厳経の教主とされる。)大仏開眼供養。儀式の導師となったのは、インド人僧侶(バラモン出身の菩提僊那(せんな)。およそ1万人の僧侶が参加した。詔を発してから9年後のことであった。 これによって、律令国家日本を内外に示す一大イベントとなった。
753   孝謙
 五つの戒(不殺生
せっしょう戒・不偸盗ちゅうとう戒・不邪淫じゃいん戒・不妄語戒・不飲酒おんしゅ戒)
  12/唐僧鑑真、来日・太宰府(翌年入京)。 律宗の宗祖(総本山・奈良の唐招提寺(戒律を学ぶ道場)・・梵網経(ぼんもうきょう)を持ってこられた。  阿倍仲麻呂帰国途上遭難。
 754  孝謙   天平勝宝(749~56)
                        戒壇院
  2/4鑑真は平城京に迎えられる。唐僧鑑真(687~763)東大寺に戒壇を築く(戒壇院:当時は、金堂・講堂・軒廊・廻廊・僧坊・北築地・鳥居・脇戸等であった)。四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)は、当時は銅製であったが、現在のものは天平時代の作品である。
755   孝謙     天平勝宝(749~56)   東大寺戒壇院建立
 756     5/2聖武上皇、大仏造立を待たずして崩御。
757  孝謙
8世紀中頃 

太宰府・山陽道・山陰道・北陸道・東山道

西海道・南海道・畿内・平城京・東海道・多賀城

の五畿(畿内)・七道に分けて支配した。



五畿(畿内)は、都周辺の五つの国のこと、
すなわち、当時の首都圏
 
  大仏殿完成(現在の1.5倍の大きさ)。
 養老律令の施行。構成は、律10巻12編、令10巻30編。
この頃の身分制度 ・・・出典 北小路 健氏 「『破戒』と差別問題」より抜粋
 大宝律令を経て養老律令にいたって律令制を完成する。その中国の律令制思想に基づく 良賤の身分制は、天皇を頂点に王臣(貴族)、官人(かんにん)、公民の「良」と、品部(しなべ)雑戸(ざっこ)の「準賤民」、陵戸(りょうこ)、官戸(かんこ)、家人(けにん)、公奴婢(くぬひ)、私奴婢(しぬひ)の五賤から成り、様々な特権や差別が法で規定されていた。政府に属した公奴婢(くぬひ)・家人と私奴婢は、貴族や寺社に属していた。これら奴婢は、牛馬同様に扱われていた。
 これは、延喜年間に奴婢停止令
(ちょうじれい)が出されて、正式な身分の存在を否定するに至った。しかし、被支配者階級の生態はさまざまであった。
 例えば、荘園のなかで最下底に喘ぎ続ける者もいたし、賤民的身分を脱して中間支配層にのし上がり、やがて武装化して武装集団の上層に浮かび上がっていく者も居た。最下層の人々は、むろん荘園の片隅にいたばかりではない。生活のためには荘園領主たる京畿
(けいき)の貴族や寺社の付近で、清掃・土木・運搬・警備のような雑役や、手工業に従事する者も居た。そればかりではない。荘園内にも、また寺社や貴族の身辺にも定着し得ない人々は、一種の浮浪の民と化し、生きんが為に呪術を行ったり、雑多な芸能に従ったり、或いは鳥獣を捕らえたり、市場で牛馬の肉を売ったりした。
 こういう浮浪化した人々は携わる仕事の関係上、年貢(地子
じし)のかからぬ河原や道路の一部などを選んで住んだ。こうした地子免除を目当てに住み着く生活者が多くなるにつれて一般に賤視されるようになっていく。これらの人々に対して”非人”とか”屠人(とじ)”という極めて差別的な呼び名が用いられるようになった。
 非人は、もともと罪を犯して本姓を除かれた者などを言う言葉であったが、次第に居住する地域の状況から、河原者
(かわらもの)or河原人(かわらびち)、坂者(さかもの)など、なりわいから屠児(とじ)、声聞師(しょうもじ)など、役目から犬神人(いぬじにん)、清目(きよめ)など様々に呼称された。
 生きるために非人と言われることに甘んじ屈辱に耐えた。彼等は人間や牛馬の死体処理と皮なめしにもたずさわった。次第に被差別民の多くがこれらの仕事に従うようになったこと、仏教思想の影響を受けた神道の蝕穢観念
(しょくえかんねん)、殺生の禁止、肉食忌避の風習が貴族の間に生じるに至った事などが相合して、穢業視される結果になったものとおもわれる。
 なお、牛馬の屠殺業は、天平12年(740)の馬牛屠殺禁止令以来幕末、近代に至るまで、日本では存在しなかった。
 7/橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変(孝謙天皇を皇位から引きずりおろそうとした)。皇族や貴族が443人クーデター計画に参画。計画は事前に漏れて、未遂に終わる。
758  淳仁758~764

  この頃、幹道の幅12m、16Km毎に駅家(うまや)が置かれていた。

 それまでは、国・評・里(五十戸)だったが、
 奈良時代になって、国・郡・里に整備された。

 国司は都から派遣されたが、郡司は地方の豪族が勤めた。
 
 8/1淳仁(じゅんにん)天皇(25歳・孝謙天皇の従兄弟)即位。
 彼は、前年のクーデターを未然に防ぎ、やがて太政大臣にまで登りつめる藤原仲麻呂の養子として育てられた人物であった。藤原仲麻呂と、一心同体であった孝謙天皇は、実は、この即位が不本意であった。 
 8/25仲麻呂、恵美押勝(えみのおしかつ)の尊号を得る。
淳仁天皇は、仲麻呂の言いなりであった。国の政策を仲麻呂に一任してしまった。 官名を唐風に改める。鑑真は、突如、大僧都を解任される。 
 この年に、万葉集の歌人として知られる大伴家持、国司として因幡(いなば)国府(現在の鳥取県)に赴任。万葉集の最後の詩は、家持のもの:「新しき年の始めの 初春(はつはる)の今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)」 
 759 淳仁天平宝字2     天平宝字(757~64) 
    
第13回遣唐使
  700年代後半、尾張・三河で飢餓広まる。 
 鑑真、唐招提寺を開く。 この頃「万葉集」成る。2/陸奥桃生城完成。5/常平倉(じょうへいそう)を置く。
 4/9奈良の大仏開眼供養。顔だけが金色、胴の部分はむき出しのままで行われた。僧侶一万人の読経の中、これを主催していたのは聖武天皇の一人娘孝謙天皇であった。 
 761 淳仁    第14回遣唐使    この年、または762年、鑑真、唐招提寺(奈良市五条町:律宗総本山)講堂建立(金堂は鑑真の死後であった=2005年の解体修理の際に判明)。同、薬師如来像。
 762 淳仁   天平宝字6     第15回遣唐使

  三河尾張など九カ国に干ばつ

  * 郡司(武蔵国都筑郡家の場合)*
郡庁域  書類や木簡つくり 
 正殿 儀式の場 
脇殿 正殿の両側・書類の保管 
 正倉域  米や特産品の検査保管
 厨 域  食堂・台所
 館 域  働く人や訪問者の住まい
 3/三河尾張など九カ国に干ばつ。4/尾張に飢餓発生、正税から米の支給。  4/孝謙上皇は上皇は病床に伏す。
 10歳年上だった道鏡は必死に看病する。道鏡は、東大寺で仏教を治め、サンスクリット語にも堪能で、最新の学問を身につけた僧侶であった。当時は、僧侶が医療も行っていた。
  やがて、二人の男女関係が噂されるようになった。淳仁天皇は、孝謙上皇を諫めた。
 5/23孝謙上皇は法華寺
(母親・光明皇太后が築いた寺)に別居する。袈裟を纏い、尼僧の姿になって、淳仁天皇の激しい批判を始めた。「私が新しく立てた天皇なのに淳仁は私に恭しく従うことがない。暴言を吐き無礼を働いた。祭礼などの小さいことは今の天皇が行い、国家の大事と賞罰は私が行う。」・・・と。これは、今の天皇を不的確と見なし、国の実権を奪い返すものであった。
 これを機に、仲麻呂に不満・反感を持つ藤原の側近たちも上皇の下に結集まる。 
763  淳仁天平宝字7

    763年、インド僧がチベットへ。 
 7/中央から、尾張など六カ国に使者派遣、不作の状況調査。   儀鳳暦を廃し大衍暦(だいえんれき)を行う。春日大社創建。鑑真没(5/6 享年76歳 唐招提寺建立後4年。)。   「般若波羅密多理趣経」:真言密教教典、中国の長安の僧大興善寺三蔵沙門大広智不空(だいこうぜんじさんぞうしゃもんだいこうちふくう)、皇帝の詔を奉じて訳す(~771年まで)。 
 764 称徳764~770   天平宝字8
    天平神護(764~767)
中国の側転武功に習って
、称徳天皇も四文字の年号を称した。 
 恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱。=孝謙上皇を排除しようとするものであった。
  宮中の仲麻呂派は、これを孝謙上皇に密告。=軍事権の掌握をはかり道鏡の排斥を狙ったが密告により逆謀が露顕。淳仁天皇は監禁される。天皇の証である「駅鈴(えきれい)」と「玉爾(ぎょくじ)」を奪う。仲麻呂を地位からはずし、討伐命令を全国に発した。近江更に越前を目指して逃亡するが、官軍に捕らえられて妻子・従党と共に惨殺。淳仁は、淡路島に島流され,やがてこの場で死す。
10/9称徳天皇即位(孝謙重祚ちょうそ)。 
765      称徳天皇は、東大寺に匹敵する西大寺を平城京の西に建立し、道鏡をそのトップに据えた。更に、法隆寺など10の寺院に十万ずつ100万のしょうとうを造って奉納。この中には「陀羅尼経」が治められている。戦死者の御霊を鎮め、更に、国家の安泰を祈願するものであった。これは現存する世界でもっとも古い活版印刷といわれている。これは、道鏡の発案であった。
 道鏡、太政大臣禅師になる。
766  称徳    道鏡、法王となる。(法皇は、日本における唯一無二の称号)
767  称徳    最澄(767~822天台宗開祖)生まれる。祖先は中国の古い国家の後漢の皇帝の家柄。後漢が滅亡したので、皇帝の一族は日本に亡命、帰化して滋賀県(近江)に住み、それから五世紀ほどの後に生まれた。幼名:広野。12歳の時に近江国分寺の行表法師について得度。僧名:最澄となる。19歳で比叡山に登って宗教生活のスタート。
769  称徳   神護景雲(767~770)


注:天武天皇系の天皇はここまで。 
 5/宇佐八幡宮神託事件
 太宰府主神は、宇佐八幡宮の教と称した神託「道鏡をして皇位に即かしめば天下泰平ならむ」と、奏した。称徳天皇は、皇室の出身ではない道鏡を天皇にすることは躊躇した。信頼していた女官の弟・和気清麻呂を使わして神意を問うた。和気清麻呂は「わが国家開闢以来君臣定まりぬ臣を以て君とすることは未だあらざるなり」「天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ)を立てよ。無道の人は宜しく早く掃(はらい)除くべし」との託宣をもたらし道鏡の即位はならなかった。称徳天皇は、この神託を受諾できなかった。他の者と共謀して作ったと判断し怒った。和気清麻呂を改名させ、流罪にした。 道鏡は、結局、称徳天皇没後失脚し左遷される。
 木曽川氾濫。 
770  光仁770~781   宝亀   室生山寺を創建

注:光仁天皇は、天智天皇の子孫。天智系
また、光仁天皇の妻は朝鮮からの渡来系。 
 770~781 奈良県宇陀郡室生村に、真言宗室生寺派大本山室生寺。
 山部親王(後の桓武天皇)が病気となり奈良興福寺の名僧賢璟らが室生山中で延寿法を修したところ病気が平癒。その縁で賢璟けんけい(705~793:愛知県尾張生まれ。当時、日本有数の学僧。尾張大僧都と呼ばれる。)が室生山寺を創建。 
773  光仁    月山、(山形県のほぼ中央に位置する成層火山・死火山・標高1980m。湯殿山、羽黒山とともに出羽三山と呼ばれる。)この年に封戸二戸が授けられる。『延喜式』には、月山神社を名人(みょうじん)大社に列している。同時期の出羽神社は名神小社である。月山の本地仏は、阿弥陀如来で、垂迹すいじゃくは月読命(つきよみのみこと)、羽黒山は観世音菩薩=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、湯殿山は、大日如来=大山祗命(おおやまつみのみこと)である。  8/4称徳天皇、道鏡を近づけず女官に看取られながら平城京で崩御(享年53)この件は、仏教勢力に政治介入を許す危うさを、後の世に認識されことになった。
774  光仁(770~780) 

この年(774)から775年にかけて、地球規模で宇宙線(C
14)が通常の20倍増加。イギリスの「アングロサクソン年代記」によると、「天に赤い十字架が顕れ、地に巨大の大蛇が走った」と記されている。:下に記す)
  空海(774~835真言宗開祖)生まれる。 生地は、現在の香川県多度郡多度津町から善通寺にかけた辺り。父は、この一帯を支配する郡司「佐伯直田公」。真言宗:大日如来を本尊とする。大日経、金剛頂経などにより、胎蔵・金剛の両部を立て、六大、四曼、三密、即身成仏を宗旨とする。唐で不空により大成され、入唐した空海がその弟子恵果阿闍梨に師事し帰朝後真言宗を開宗。 LINK 人間・空海
775  光仁宝亀5
  宇宙線(C
14)の急増:太陽活動が急激に活発になったか。(大きなオーロラの記述もある。)
  尾張など三国を異常風雨が襲い、川など氾濫、また、国分寺を初め諸寺院が被害を受けた。
 この年、宇宙線(C
14)の急増。通常の20倍。その原因が分からない。巨大な彗星の太陽への衝突か?超新星爆発だったのか?ガンマー線バーストだったのか? (2013)
777  光仁      宝亀8     第16回遣唐使   
778  光仁      宝亀9   清水寺の始まり。    大和子島寺の僧延鎮が観音の夢告を受け山城国の山中の金色水の源で滝の下で修行する行叡居士と出会い、ここで授かった霊木で観音像を彫ってまつり修行を重ねる。2年後、延鎮と巡り会った坂上田村麻呂は観音に帰依し音羽の滝のほとりに仏堂を建立。清水寺の始まり。
779  光仁      宝亀10      第17回遣唐使    この年、伊勢神宮の本殿焼失により、尾張・三河に再建指示。
780  光仁    蝦夷の蜂起:伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の乱
781  桓武781~806        天応(781)    最澄得度(15才)。 空海8才。唐招提寺の金堂、この年(鑑真の死後に)以降の建立であることが判明(2005の解体調査の結果)。富士山に噴火あり。
782  桓武延暦元     延暦(782~806)    筑波山の知足院中禅寺(筑波神社=伊弉諾尊・伊弉冉尊の男女二神が祀られる。の前進)、僧徳一によって開かれる。
784  延暦3      桓武   長岡京    山背の長岡京へ遷都。この都は、東西4Km、南北5Km。平城京遷都は、特権的な寺院勢力と手を切るために意味があった。
 785 桓武

桓武天皇は、天智天皇の末裔で、これまでの天智天皇系の孝謙(称徳)天皇とは異なっていた。
 彼には「新しい国作り」の意識が強かった。
 9/藤原種継(たねつぐ平城京移転の主人公)暗殺される、早良親王廃太子。
 これは遷都を指示した桓武天皇への反逆であった。数十人が逮捕された。その中には強大な仏教勢力「東大寺」の役人も含まれていた。
 更に、桓武天皇の実の弟である早良親王までもが反逆に与していたことが明らかとなった。桓武天皇は早良親王を幽閉し流罪を言い渡す。が、早良親王は桓武天皇に恨みを抱きながら死ぬ。平安京誕生の9年前だった。 
 最澄、東大寺で受戒(19才)。正式な僧となる。この年に突如、栄達の道を捨てて、幼少時から仰ぎ見ていた比叡山に入り、草庵を構え修行にはいる。
788  桓武     延暦7    延暦寺建立
天智→   ◇→    光仁→  桓武→  平城
 嵯峨
 桓武天皇は、光仁の子供。 ↑ また、
 桓武天皇の母親は渡来系であった。
奈良時代の天皇家の流れ  →→↑
 天武→ ◇→  文武  聖武→  孝謙(称徳)
   天武系は孝謙天皇で途絶えてしまう。
   天智系の光仁天皇に移る。  
 
  天台宗総本山、最澄は山上に自ら刻した薬師如来像を安置した小堂「一乗止観院」を営み、草庵を改めて比叡山延暦山寺と名付けた。 空海、奈良にはいる。 3/霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。火山灰が2尺積もる。
補:比叡山で修行した著名な僧
  • 良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
  • 源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
  • 良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏の唱導者
  • 法然(1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
  • 栄西(1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
  • 慈円(1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
  • 道元(1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
  • 親鸞(1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
  • 日蓮(1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖
 この年、源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者。「口称くしょう念佛」を観想念佛のできない劣った機根の物のためのものと低く評価したが、後の法然は、「専修念佛」の教えを説いた。(これが祖師源信との大きな相違点だった。
789   桓武天皇の時代には、
蝦夷との戦いは三度有った。  
  岩手県胆沢(いさわ)で最初の蝦夷(えみし)との戦い「巣伏の戦い」。(蝦夷:東北地方に住み、律令国家に属していなかった人々の呼び名)桓武天皇側が4,000人中1,000人以上の死者を出す大敗北。
 巣伏の戦い阿弖流為(あてるい)1500人の活躍(続日本紀)
791   桓武   この年、尾張などの民が漢神をまつり牛を殺すと伝えられる。
 空海京都の大学に入学。阿波の大滝岳・土佐の室戸崎で勤行。
793  桓武
 
 1/桓武天皇、長岡京に遷都してからの10年間に2度も水害に襲われた。再度の遷都を宣言する。「山代の国葛野に都を移す。」(「日本後紀」より)長岡遷都を極秘に行い返って反発を受けた経験から公に知らしめることから始めた。
 奈良市出土の瓦から、挙母郷の名が記録されている。
 794 桓武延暦13  延暦(782~805)平安京遷都
平安時代 794 ~ 1185年
 
  平安京(京都)に二度目の遷都。東西4.5Km、南北5.2Km北よりの中央に政治を行う大内裏を置き、そこから朱雀大路を南に幅85mで街路樹を植えて中央道とし、碁盤の目のように区画整理した。(この大内裏のいくつかを明治時代に再現して「平安神宮」とした)大内裏の幾つもの門をくぐると、大極殿が在った。
 11/8桓武天皇、詔を下す。「この国を平安京となずく。云々」(「日本紀略」より) その後、永く都が遷らないことで京都で様々な文化が爛熟していく。
 桓武天皇は、現在につながる京都の原点を作った。日本文化の象徴と言われる様々な文化が継承されることとなった。  
 坂上田村麻呂、第二回蝦夷征討に参加。
 
これより、国家が都の中に大寺院を営むことはなくなった。
 この年、円仁生まれる。
796  桓武   東寺創建    東寺(正式には、教王護国寺という。):京都市南区九条に、真言宗総本山。都の南端に西寺とともに創建。
 797 桓武
桓武 平氏(抜粋)  NHK高校講座より   

(平)

高望王
たかもち

上総介


 ・ 北条氏 
 ・ 清盛 

兼 
 (上総介)
 



 □
上総氏 
千葉氏等

・・・・・・  鎌倉氏
  この頃、猿投窯で灰釉陶器生産始まる。  藤原継縄等「続日本紀(しょくにほんぎ)」。坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命。行き詰まった律令制度の立て直しのために、勘解由使(かげゆし)設置される。
勘解由使  国司などの役人が交代するときに引き継ぎの際に不正を行わないかどうかをチェックする。 

 空海、空海24才。聾瞽指記(ろうこしいき)を著す。日本で初めての戯曲的な記述方法。
中国から帰朝後、「三教指帰(さんごうしいき)」著すが、これは「聾瞽指記(ろうこしいき)」とほぼ同じであるが、序文と巻末の十韻の詩が全く異なっている他、求聞持法が新たに加えられている。・・・高野山大学教授 乾仁志「空海の生涯とその教え」大法輪 より 
 この頃、猿投窯で灰釉陶器生産始まる。
 (後に、空海と一緒に遣唐使船に乗って、焼き物技術を持ち帰り、中国の技術者を伴って、この世界の隆盛に貢献する者が居た。)
藤原継縄等「続日本紀」。
 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命。
798  桓武   延暦17 
  
清水寺創建   金剛峰寺(こんごうぶじ)建立 
  坂上田村麻呂、清水寺を建立(本尊十一面観音、脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天安置。) .空海、金剛峰寺(こんごうぶじ)建立(ここに、空海の著した「聾瞽指記(ろうこしいき)=大学を止め仏教を目指したいきさつ等が記されている」保存。空海24歳の時に作った、日本最初の戯曲形式)。
 西国三十三番満願霊場・谷汲山華厳寺創建。
 800 桓武    初期荘園の成立。造籍(偽籍)の混乱。 延暦噴火~802・富士山第二回目の噴火。
 801                                   桓武  延暦20 
800年代、カンボジア:アンコール朝興り仏教美術盛んとなる                                   岩手山:岩手神社創始 
  岩手山(標高2041m):岩手神社創始。
 三度目の蝦夷征伐・・坂上田村麻呂
(征夷大将軍)が蝦夷の征伐に成功した。岩手県に拠点となる胆沢(いさわ)城を、更に現在の盛岡市に志波(しわ)城・東西・南北供に800m、東北で最大級の城柵を築いた。 翌年、延暦21年、阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)500余人を率いて投降。
”蝦夷征伐” 
この時、山中に潜伏する賊徒を誅戮して民害を除き、この時村民を安堵して、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、大己貴命(おおむなちのみこと)、日本武尊の三神を勧請して奥州の地の鎮守とした。後、宮沢賢治(賢治は、1910年初めてこの山に登った。)は、イートハーブ火山を書いたが、この山がモデルである。
 岩手県平泉の達谷窟
(たっこくのいわや)毘沙門堂は、蝦夷征伐を記念として坂上田村麻呂が築いたものである。 
  両界山・横蔵(よこくら)寺(天台宗)開山。伝教大師・最澄が比叡山の薬師如来と同じ木で作った自作の薬師如来を祀った寺。ここには多数の重要文化財と妙心上人の舎利仏(ミイラ)で知られる。岐阜県揖斐郡谷汲村<「両界山・横蔵(よこくら)寺縁起」による>
 畿内の班田を12年に1度とする
(本来ならば全国的な施策であるべきところである)
802  延暦21年      桓武

蝦夷の阿弖流為
(あてるい)と母礼(もれ)処刑される 
  三河国その他31ケ国水害あり、租税を免ず。(類聚国史) 
 胆沢城
(いさわ)築城。鎮守府を多賀城から移転。 和気清麻呂(733~799)の子・和気弘世は、この年、氏寺・高尾山寺(現・神護寺)に最澄を招いて、「法華経」の講義を開く:高雄講経。五ヶ月間の長期にわたって、天台大師智顗の著作:”天台三大部”:「法華幻義」十巻、「法華文句」十巻、摩訶止観十巻。南僧達は、最澄の博識に驚いた。
803     最澄(38歳)は803年4月16日4隻の船に分乗して、難波から出帆した。暴風雨に遭遇、九州の太宰府に漂着し、804年7月まで延期。「法華経人生論」松原泰道著
804   桓武       第18回遣唐使    空海留学生(るがくしょう)この年30才。・最澄(短期還学生たんきげんがくしょう=1年間)、遣唐船に乗る。((7/6)それぞれ、別の船)<船の大きさ:推定25m×巾およそ8m>  空海漂着の場面:「弘法大師行状絵巻」に記述あり。 
 空海の第一船は1ヶ月後に中国南部に、第二船・最澄の船は二十日あまり遅れて9月1日に、明州に漂着した。第三船は九州に帰還。第四船は行方不明。
 最澄は、上陸後発病。治るのを待って天台山・国清寺で30日間に滞在を許される。ここで書籍を多く得る。南京郊外の牛頭山
(ごすさん)で達磨血脈の牛頭法門などを受ける。 (牛頭法門は、達磨禅四祖道信の下に出る分派で、この時代最も盛大であった。「無心論」は、この時代のこの系統の人々によって、達磨に仮託して作られた初期禅宗の綱要書の一つ。)
 805  桓武(70歳)  延暦24  延暦(782~805)    最澄(767~822天台宗開祖)唐より帰る(天台宗)。桓武天皇は、膨大な費用を注ぎ込みながら、都の建設を続けていた。12/徳政相論:藤原緒嗣・菅原真道と新しい都の建設などを論議させる。
 一人の臣下が、桓武天皇に進言する。
 「都の建設を中止すれば人々の負担が減り暮らしが楽になるはずです。」
 
(「日本後紀}より) 桓武天皇は、自分への反対意見を敢えて受け入れる。
 天皇の政策は、三度の蝦夷征伐と二度の新しい都建設だった。
・・結果、藤原諸
(お)嗣の意見により平安京造営を中止し、蝦夷との戦争による軍費消費を抑えることとする。
 延暦寺、大乗戒壇を設立。(奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようになる。)
 6/空海、中国の僧恵果に師事する。9/恵果没。
 806 平城806~809   大同1   大同(806~9)    最澄(40歳)の天台宗(別名:法華円宗・天台法華宗)を公認する。 3/桓武天皇、崩御(70歳)。
 王臣家等の山野独占を禁止。磐梯山噴火。
 空海(774~835真言宗開祖)唐より帰る。曼陀羅図も持参。
 807     4月勅命により(勅祭)賀茂祭が始められる。(同社由緒記)  最澄・この年、比叡山に円(天台教学・法華経に基づくもの)・密(密教)・禅・戒(戒律)の四宗を綜合する中国のものとは異なる天台法華宗を開いた。その後、真言宗の影響を受け、円仁(794~864)、円珍(814~891)が出てさらに密教化し、真言宗の東密に対し台密と呼ばれる密教を栄えさせた。
808     畿内の班田を6年に1度と前に戻す。
809  嵯峨809~823   大同4    4/平城(へいぜい)天皇病弱のため譲位。賀美能親王即位。12/平城上皇。平城旧京へ移る。
 空海高野山寺に住す。慈覚圓仁15歳の時に最澄に師事。後に遣唐使一行に加わる。
810  薬子(くすこ)の変(平城太上天皇の変)

  行き詰まった律令制度の立て直しのために、勘解由使・蔵人・検非違使・摂政・関白などが令外官(りょうげかん=令の規定にない官職)を設けた。

○ 蔵人:臣下の言葉を天皇に伝えたり天皇の命を臣下に伝える。天皇の秘書。平安時代の中期から大活躍。

○ 検非違使:平安京内の警察機能担当。
 
 皇位を巡る対立が起こり、平城京に都を戻そうとする動きが起こる。
二所朝廷と呼ばれる:
平城×嵯峨 
平城上皇  + 尚侍・藤原薬子
参議・藤原仲成 
 平城→挙兵失敗→出家
藤原薬子→服毒自殺
参議・藤原仲成→逮捕・射殺
 佐賀天皇  
※いったん退くが、健康となり、国政に口出しするようになる。
尚侍
(ないしのかみ)・藤原薬子 は女性。参議・藤原仲成は、彼女の兄。 
 これに対し、嵯峨天皇は桓武天皇の平安京を残すことこそ国の平安と考えた。万代宮(よろずよのみや):永遠の都と定めた。
 行き詰まった律令制度の立て直しのために、蔵人、設置される。
 同様に、この頃(~23)、検非違使設置。
 811 811 渤海への使者派遣交流終わる
836 新羅使者派遣交流終わる
838 使者派遣交流終わる 
  賀茂神社伊勢の神宮の齋宮の制に準ぜられ、賀茂の神に御杖代(みつえしろ)として齋院(齋王)を奉られ、祭に奉仕させた。(同社由緒記)
 812 嵯峨    弘仁3    5/国司の公廨田(くがいでん)以外の私営田禁止。6/大輪田の泊(とまり)を築く。9/最澄、空海と会って密教「理趣釈経」の書巻を貸せと懇願して断られる。
 813 嵯峨   弘仁4   
 
豊川市財賀町:財賀寺、弘法大師が中興。 
  財賀寺、聖武天皇の勅願により行基が開創(724)。これを弘法大師中興。
814      修験道:円珍(814~891)天台宗寺門派の祖生まれる。園城寺(おんじょうじ)を再興し後に本山派の祖とされる。
 中国・達磨禅の百丈懐海入寂(749~814) 
816  嵯峨    検非違使の初見。藤原北家台頭と他氏排斥。  空海、高野山の地を賜う。この年以降、密教に対する位置付けが決定的な違いがあって、最澄と絶交する。(最澄はあくまでも法華経を中心とする体系に、密教を組み込むことを目指したが、空海は密教が究極的なものであった。)
818  嵯峨    最澄、大乗戒壇の建立を決意す。「山家学生式」(さんけがくしょうしき)を奏進。大乗戒の独立を要請。
819  LINK 賀茂神社

中臣鎌足→・・藤原兼通→・・・→本田姓
                   ↓分岐
                本多姓 
  賀茂神社、3月16日には賀茂祭を中祀に準じ齋行せよとの勅が下され、当時、神社に対する祭の最も重い取り扱いを受けた。中祀とは、伊勢の神宮と賀茂社よりほかには見られなかった。859~876まで貞観年中には、勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀の完成を見た。しかし、当時、賀茂祭への一般の拝観を殆ど許されず、祭の当日は唯、御所から社への行装を一目拝観せんとして、法皇・上皇たちは牛車を押し並べ、或いは檜皮葺きの桟敷を設け、京の人々は言うに及ばず地方から上京してきた人々で溢れたと言われている。・・・・。室町中期頃より次第に衰微。ついに、応仁の乱以降は全く廃絶した。(同社由緒記)
 820  嵯峨
 清和源氏氏(抜粋)       
  清和天皇 
◇ 
経基(源)
満仲
頼信(河内源氏)  頼親 頼光
  頼義




















   義家


  ◇ 
  為義 
  義朝


氏 
足利氏
新田氏
等 


  「弘仁格式(きゃくしき)」を編纂:律令体制が揺らぎ始めることを憂慮して、一種のマニュアルを作って徹底させた。
 この頃に地方の豪族たちは没落し、一方で天皇家の子孫たちは天皇家を離れて、新しい貴族として登場する。天皇家の子孫が「姓」をもらって一般貴族となり、藤原氏と並んで、平安時代の一大勢力となっていく。
 臣籍降下の例
桓武天皇  桓武平氏  平将門、清盛など 
 平城天皇  在原氏 在原業平など 
 嵯峨天皇  嵯峨源氏 源信(まこと)、源融(とおる)など 
 清和天皇  清和源氏 源頼朝など 

北家・藤原冬嗣(ふゆつぐ) の場合 天皇の外籍となっていく
○ 子 順子・・・仁明天皇の妻
○ 冬嗣 の子・良房の子 明子 ・・・ 文徳天皇の妻
    明子の子・・・ 清和天皇 
822  嵯峨   弘仁13    弘仁(810~23)    比叡山、延暦寺大乗戒壇勅許される。 最澄没(6/4)大乗戒壇の独立勅許(6/11)。 日本霊異記
  823 淳和823~833   弘仁14     空海、京都の東寺給与さる(雨乞い祈祷)空海の伝えた、密教の根本道場となる(国家鎮護の寺として創建)。嵯峨天皇は空海に東寺(京都市南区)を託し、密教による鎮護国家の根拠地とするように要請した。空海はこの寺を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院(教王護国寺)」と名付けた。
  比叡山延暦山寺、嵯峨天皇より延暦寺と寺名を勅使され、比叡山寺を延暦寺とする。
824 淳和   弘仁15  空海、室生寺再興。同、「秘蔵宝鑰」「十住心論」(824~833)著す。
827 淳和  天長4  延暦寺戒壇院建立。
828 淳和  天長5  空海、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立。天台宗延福寺(松島寺=瑞巌寺)、慈覚大師円仁(えんにん)が開創。後に、北条時頼によって廃絶されるが、1259年法身性西(ほっしんしょうさい)を開山に迎え、臨済宗円福寺として創建される。室町時代には五山(ござん)に次ぐ十刹(じゅっさつ)の地位をうけた。
830 淳和        空海、「十住心論」。 出羽大地震。
831  修験道:相応(831~918)生まれる。天台宗の僧。後に無動寺を開き回峰行の祖と仰がれる。
832 淳和   天長9  空海、高野山にはいる。ここで、修行者が体得する五智が包みこむ世界(自然界の生き物)に対して、すべて四恩(父母・衆生・国土・国王・三宝の恩)同様に、恩を感じ感謝のために、それらすべてとともに同じくひとつの悟りに入ろうと・・・現在まで続く万灯万華会を開催した。 修験道:聖宝(832~909)生まれる。後に醍醐寺を開き当山派の祖となる。
 834 承和(元)    833年より、空海、高野山を甥の真然らに任せ、五穀を口にせず、静かな瞑想三昧の日々を送り、弥勒菩薩の前に結跏趺坐して、慈氏念誦法を行い、心を集中して弥勒菩薩の真言「オン マイタレイヤ ソワカ」を繰り返した。
 この年、死が遠からず訪れることを覚悟して、これまで行ってきた祈祷とは別に、宮中真言院で真言法を修することを上奏し「天下泰平、玉体安穏、除災招福」のために密教の祈祷を行った。 。
835 仁明833~850    承和(833~856)  3月15日に、空海は諸弟子を集め、3月21日にこの世の生を終わることを予告した。<「没後、兜率天に往生し、弥勒菩薩が下生する56億7千万年後に、共にこの世に降りてきて人々を救済する。」と告げたと伝えられている。> 空海没(62才)。
836   811 渤海への使者派遣交流終わる
836 新羅使者派遣交流終わる
838 使者派遣交流終わる
837 仁明  霧島峯神  「日向国・・・諸県郡霧島峯神」との記述がある。『続日本後紀』。後の霧島山中央六所権現宮となる。
838 仁明    第19回遣唐使
811 渤海への使者派遣交流終わる
836 新羅使者派遣交流終わる
838 使者派遣交流終わる
 慈覚円仁、入唐。この年より9年間、仏教を学びながら、その間数千kmの中国徒歩旅行。この年より847年までに、「真言所立三身問答」「入唐求法巡礼行記」著す。
839 仁明  赤城山:赤城神社従五位下を授けられる。  7/ 慈覚円仁、三人の弟子と帰国する船団から脱走し、新羅人の寺・赤山法花院に身を寄せた。
840 仁明  藤原継縄等「日本後紀」。5/17~2ケ月慈覚円仁、山西省五台山に着,中国にて写経などに勤しむ。
842    承和の変:淳和天皇の子・恒貞親王が謀反を企てたとして逮捕される。責任を取る形で皇太子を辞退。藤原良房の後押しで、道康親王(仁明天皇の子・良房の甥)が皇太子となる。
 842~47中国で勅により、仏教弾圧。 慈覚円仁、つぶさにその現状を日記に留める「入唐求法巡礼行記」。
845   
 慈覚円仁、外国人追放によって、長安から出る。
847 仁明  慈覚円仁、日本(比叡山)から迎えに来た船に乗って、584部の教典、仏像等と共に帰国。
850  文徳850~858   道康親王文徳天皇となる。叔父の藤原良房の娘・明子(あきらけいこ)を妻とする。
851 文徳  猿投神社、三河国内の十神と並んで、従五位下の神階が叙位される(文徳天皇実録)。
852 文徳  慈覚円仁、第3代 天台座 延暦寺最高の指導者となる
853 文徳  嘉祥6  全国に疱瘡流行。円珍入唐(858帰国)。
857 文徳   天安1  2/藤原良房、太政大臣(人臣太政大臣の初め)。 大衍暦(だいえんれき)を廃し五紀暦を行う。
858 清和858~876  太政大臣藤原良房、摂政となる。
 清和天皇(9歳)は、藤原良房の娘(明子)と甥・文徳天皇の子。
859  修験道:円珍、園城寺(三井寺みいでら)を再興。
864 清和  宝永4  日本三大実録に、「猿投神は清和天皇代に位階(従五位上)授かる。」とある。  富士山噴火・貞観じょうかん噴火(北西山腹)、民家埋め青木ヶ原作る。麓の湖・剗海せのうみを埋め三個・西湖・精進湖・本栖湖の湖に分割される。この溶岩の上に、現在の青木が原となる。噴火は歴史上最大と言われる。  1/14天台宗:慈覚円仁(71歳)入滅。『入唐求法巡礼行記』は歴史的な価値が大きい。
866 清和   貞観8  この年、尾張広野川(古木曽川)で、美濃の郡司らと対立。工事中止される。   6/応天門焼亡。 3/10応天門の変。何者かによって放火し炎上。左大臣・源信(まこと)が、犯人として告発される。右大臣・藤原良相(良房の弟)が、逮捕に向かおうとする。太政大臣藤原良房、天皇に直接面会して源信(まこと)を弁護する源信(まこと)いったん無実となる。独断で、逮捕の為の兵を差し向けた右大臣・藤原良相は、その責めを負い、権力の座を追われた。8/放火の犯人が密告されて、最初に訴えた伴善男(とものよしお)とその息子が真犯人とされる。検非違使によって尋問された結果、善男は伊豆に流される。朝廷は混乱する。 8/19藤原良房に摂政の勅出る(天皇以外では史上初めて)。9/最澄に日本初の大師号宣下。伝教大師。
867  臨済義玄没(?~867)。臨済宗の開祖・・「臨済録」
 
 ※教えの流れ:南岳・懐譲(えじょう677~744)→ 馬祖道一(どういち709~788)→ 百丈懐海(ひゃくじょうえかい749~814)・・臨済は百丈の弟子
869  清和  貞観11

貞観
(じょうがん)津波。
 藤原良房等「続日本後紀」。5/26三陸沿岸地震M8.3。貞観(じょうがん)津波。家屋・倉庫の倒壊無数。津波による溺死1,000人。 平安時代に偏された歴史書「日本三代実録」によると、「多賀城にまで津波が届いた」とある。
 洞山良价没。(807~869曹洞宗の開祖):「愚の如く 魯の如し」 ※ 洞山の「三滲漏」 洞山の「三路」 洞山の「五位」
  ※弟子の曹山本寂
(そうざんほんじゃく):二人の名前を合わせて曹洞宗 ◇教えの流れ:南岳・懐譲(えじょう677~744)- 石頭希遷(700~790馬祖と並ぶ禅僧)→ 薬山惟嚴(やくさんいげん750~834唐初期の禅僧南宗禅第四祖:百丈と並ぶ禅僧)→ 雲巌曇晟(うんがんどんせい)→ 洞山良价
870 清和  猿投神は清和天皇代に位階(正五位下)授かる。
874  修験道:聖宝、この年醍醐寺を草創。
876 陽成876~884  猿投神は陽成天皇代に位階(正五位上)授かる。
877 陽成  猿投神は陽成天皇代に位階(従四位下)授かる。三河国十四社中重要三社に列せられる。
878      関東に地震か?
879 陽成   元慶3年  日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)、藤原基経編。
880 陽成  摂政藤原基経、関白となる    赤城山:赤城神社従四位上を授けられる。  
884 光孝884~887   元慶8  尾張国分寺(800年代前半に建立)焼失。その機能を愛智郡願興寺(名古屋市中区元興寺)に移す旨勅令(日本記略)=国分寺の廃絶。
887 光孝  仁和3  8/26五畿・七道地震M8。京都で家屋などの倒壊・圧死多数。津波により沿岸で溺死多数。
 この年、高野山に根本大塔完成。<これまでは、ほんのわずかの堂宇が建てられていたに過ぎなかったが、空海の死後52年のこの年に、空海自身の作製した伽藍建立計画案「御図記ごずき」に基き、真然(空海の甥)にらの尽力よる。>
894 宇多887~897  第20回遣唐使(中止)
900  宇多法王、金峯山(きんぷせん)御幸(ごこう)。以後、金峯山詣(御嶽みたけ詣)盛んになる。
901 醍醐897~930  延喜1   延喜(901~22)  猿投神社、三河国三の宮(一宮:砥鹿神社、二宮:知立神社)。   1/右大臣菅原道真を、太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷。2/三善清行、革命により改元を請う(7月改元)。延喜の治と武士の台頭。「日本三代実録」藤原時平。「竹取物語」「伊勢物語」(延喜以前)
902 醍醐  延喜の荘園整理令。国家財政の窮乏。
903 醍醐  この年、宝飫(お?よ?)郡を分割、設楽郡をおく。伊勢物語。  菅原道真公没。
 空也(くうや)903~972生まれる。 弘也(こうや)とも。父は醍醐天皇との説もあり。尾張国分寺に出家した後、諸国を遊行し井戸掘りや架橋事業を行った。938年、京都に入り、浄土教の普及に貢献。948年、比叡山にて受戒、後に貴族に念仏を勧め、その後の活動の援助を受ける。972年、自分の建てた寺、京都・西光寺(現・六波羅蜜寺)にて没する。
904 醍醐  興福寺(奈良)、焼亡。
905 醍醐  延喜式、醍醐天皇の勅により藤原時平らが編纂を開始。「古今和歌集」成る。班田の廃絶。人身課税から土地課税。(男性には課税されるため、戸籍を偽って女性としての登録が横行していた:偽籍。役人もこれに気づかぬはずはないので、役人ぐるみの偽籍だったかもしれない。)
908  延喜8    旧暦:6月8日大雪 冷害
921 醍醐  弘法大師、諮号(しごう)
924  太宰府天満宮(905年菅原道真公祠びょう)創建。
927 醍醐  延長5    延長(923~930)  
延喜式
    能見神社
  武士の台頭
 12/「延喜式」藤原忠平らが奏進し、断続的な修訂を経て完成(50巻:官司の業務を律令同様に条文で定め、儀式次第・数量や物品の一覧表、文書の書式などを官司毎にまとめる。神名一覧や祝詞なども含まれる。)。
 この年に成立した「延喜式」に榛名の名前が登場。 延喜式に、能見神社:野見山町4丁目、は加茂七座(猿投神社、広沢神社、射穂神社、灰宝神社、兵主神社、野神社)に列せられる。三河国8郡に賀茂・碧海などみえる。
935      
朱雀930~946
    承平(931~938)
 934~937年、和名類聚鈔できる、碧海郡16郷、賀茂郡8郷などみえる。
 2/承平・天慶の乱(~941)。2/平将門、一門と戦う。延暦寺炎上、ついで造営。  「土佐日記」紀貫之。
936 この年、新羅滅亡:高麗王朝 朝鮮統一
937     富士山に噴火。 
938 朱雀    天慶(938~46)  空也(903~972)念仏を唄う。<浄土思想の始まり>
939 朱雀  平将門、常陸・下野・上野を攻め下・常陸・下総・・相模・伊豆など9カ国を治め、自ら新王と称し、弟らを国司に任命し、いわば独立国を作り上げた。(筑波山をめぐり6年間にわたる一族間の土地争い。)前伊予掾(じょう)藤原純友が瀬戸内海で叛す。
940 朱雀  天慶3   平将門の乱  藤原秀郷(ひでさと:俵藤太)・平貞盛、将門を討つ。(後に貴族の位を与えられる。) このとき、尾張三河から援兵。 
942  源信(恵心):942~1017,親鸞が七高僧に揚げる僧。「往生要集」。法然、親鸞も彼の思想の上に自分たちの思想を展開。9歳の時に比叡山に登って良源に師事。
944 朱雀  京都大暴風雨
952   「祖堂集」、静・筠の二人の禅僧によって成る。  
966 村上946~967   康保3  良源、第十八代座主となる。 藤原道長、この年に生まれる。
  この年、熱田神宮、正一位を授かる。
967  冷泉967~969   康保4  5/村上天皇没。6/実頼、関白(以後摂政の常置)。7/延喜式施行。
 曹渓慧能の像を守っていた慧昕が、「六祖壇経」の古本を改編、これに序文を付けた。わが国の興聖寺本の原本と成る。
 空也没。
973 円融969~984    天禄4  2/薬師寺伽藍焼失。
974 円融   天延2  蜻蛉日記
980 天元3  この頃、朝廷では、天皇を中心に貴族たちの政治が行われていた。
 貴族はおよそ150人。そのうち上位から、左大臣(1人)・右大臣(1人)・内大臣(1人)・大納言(4人)・中納言(5人)・参議(8人)のおよそ20人を公卿
(くぎょう)といった。藤原氏一族が、種々の策を弄して、その公卿の大半を占めるに至った。しかし、やがて藤原氏同士が、骨肉の争いを行うようになった。 時の右大臣兼家の五番目の息子・藤原道長15才が貴族社会に踏み出す。道長は、一族の骨肉の争いを目の当たりにして育った。病弱だった道長は、昇進の道は考えて育たなかった。
984  源信(942~1017)、「往生要集」著述(~985)
985 花山984~986  寛和2   寛和(985~86)  源信(942~1017)「往生要集」を著す。
987 永延1  藤原道長25才。左大臣源雅信の娘・倫子(りんし)と結婚。この頃、夫が妻の家に入る”婿入り婚”。これは、妻の家柄が夫の将来を大きく左右した。
988 一条986~1011   永延2  道長、公卿の一員に加わる。参議を通り越し、権中納言(ごんのちゅうなごん)となった。兄たちと肩を並べて、政権の中核を担うこととなった。 この年、国司藤原元命が郡司・百姓らに告発される。この頃全国に百姓愁訴の動き。
993         一条    正暦4  枕草子、この頃から執筆。比叡山、慈覚(円仁)派と智証(円珍)派門徒との対立激化。智証(円珍)派の僧千余人山を下り、園城寺(おんじょうじ→三井寺)に拠った。ここに山門(延暦寺)と寺門(園城寺)との抗争が開始された。<山門(延暦寺)による園城寺への焼き討ちは七度に及んだ。>
995 一条        長徳1    長徳(995~999)   
源信浮御堂つくる
 源信(942~1017比叡山横川恵心院に住む)山上より琵琶湖を眺め、湖中に一宇を建立。自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで湖上通商の安全と衆生済度を発願し浮御堂を作る。その後、蓮如・一休がここで再三会ったといわれる。
995 長徳1・2

 
主な仏教の法会・修法 
 熾盛光(しじょうこう) 天台密教、護国と玉体安穏修法 
 後七日御修法(みしほ) 真言宗、毎年正月、玉体安穏・国家安泰 
 修正会・修二会(しゅしょうえ、しゅにえ)  正月と二日、災い除け、・豊作祈願
太元帥法(たいげんのほう)   密教の修法、反乱を鎮め、国家を敵から守る
 仁王会・大般若会など  
 疫病が蔓延。朝廷の公卿たちが次々と病死(左大臣、右大臣、大納言3人/5人中)。まもなく新たな人事が発表された。藤原道長、藤原伊周(これちか)を追い越して右大臣(内覧:天皇に報告、また、天皇が出す報告書の事前チェック役。)。甥の藤原伊周(これちか)内大臣留任。これには道長の姉・一条天皇の母:詮子(せんし)の働きかけがあった。左大臣空席のまま、道長は政治の頂点に立たされた。7/24伊周(これちか)道長と乱闘さながらの口論(「藤原実資(さねすけ)小右記」より)。7/27道長と藤原伊周(これちか)の従者が、道で遭遇し、道長の従者が殺される。道長は、これに対して動かなかった。やがて、藤原伊周(これちか)は、自らの乱心行為によって自滅に追い込まれる。
996  4/藤原伊周(これちか)、花山法王に矢を放ったことで太宰府に流罪。7/藤原伊周(これちか)失脚したことで、道長(31才)はそれまで空席だった左大臣に昇格。図らずも、名実共に、政権の頂点となった。長期安定政権をめざした。「道長は、生涯陰謀を働いたことはない。穏やかな政治を行った。藤原伊周(これちか)をその後優遇してやっている。」同志社大学教授 朧谷 壽(おぼろや ひさし)氏談。京都「陽明文庫」には、藤原家代々に渡る記録や古美術品など、およそ20万件の資料が保存されている。ここに、国法「御堂関白記」:道長が記した長徳4年から20年以上に渡る日記が、どのようにして穏やかな政権を志したかを、示す資料となる。50年以上、「御堂関白記」を研究してきた元東京大学 史料編纂所教授 山中 裕(ゆたか)氏は、「外戚(がいせき:天皇に嫁した自分の娘に男児が生まれること)になることに非常に重きを置いていた。」という。将来、天皇に嫁いだ自分の娘が男児を産んで、彼が天皇になれば自分の血筋が天皇に成ることになる。
998 一条   長徳3 清少納言「枕草子」
999 長保1 1/藤原道長の長女・彰子(しょうし)12才、時の一条天皇(20才)に入内(じゅだい)する。天皇に嫁いだ后の中では最年少。この時、天皇には正室の定子(ていし)の外に3人の側室がいた。とりわけ、天皇の寵愛が深かったのは、正室の定子(ていし)だった。     富士山噴火。



参 考 文 献 参 考 文 献
1 「理科年鑑」 16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    17 「松平郷」  豊田市
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 18 「豊田市七州城跡公園」   豊田市
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 19 「松平郷館」   豊田市
5 「目で見る豊田・加茂の100年」  郷土出版社(1868~) 20 「豊田の史跡と文化財」   豊田市教育委員会
6 「新編 日本史図表」  第一学習社   坂本賞三 監修 21 「豊田の文化財」   豊田市教育委員会
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 22 特別展「川をめぐるくらし」  豊田市郷土資料館
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」  中日新聞社 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV
9 「県史23 愛知県の歴史」   三鬼清一郎 著   山川出版社 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1~9 NHK
10 「日本の名山」   作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会
11 「歎異抄」 梅原猛  講談社文庫 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 
12 「古寺をゆく」  小学館ウィークリーブック 27 古代世界への旅  Newton別冊   
13 「日本史事典」  岩波書店 28 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 河出書房 ユヴァル・ノア・ハラリ著   
14 機関誌「かんなび」    愛知県教育関係神職協議会  29 日本仏教を捉え直す  放送大学教育振興会   
15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3   

     
                         
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