我執について
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  「人の知恵 仏の知慧」 慶照寺
(きょうしょうじ)住職・宮戸道雄氏(1928〜)より
               
ききて 金光寿カ 2009.11月

          
 誠に不遜な行為ではあろうが、この頁のタイトルは、管理人の勝手な解釈で付けた。また、編集と見出しについても同様である。

 NHKの番組:「こころの時代」 宗教・人生 を毎週拝聴している。

 この中でとても印象に残ったものを、可能な限り忠実に再現して、多くの方々にご紹介させて

頂いております。

 ご住職のお話は、誠に意味深く、こころの中に響いた。

 お話は独特の調子で、間とお言葉のすべてを記述しないと、本当の深さはお分かりいただけ

ないのでは無かろうかと、畏れと不安を抱きつつ、謹んでここにご紹介させて頂く。




文中の()内は、管理人の判断で補った。
 略歴 
 1928年滋賀県に生まれる。
 京都大谷専修学院研究科卒業。大谷派同朋会館・補導主任。大谷派四国教区・駐在教導。奥羽、 高山、長浜各教務所長。高山、長浜、各別院輪番。
 大谷派宗務所・企画室長、研修部長を経て、現在、大谷派京都教区近江第11組・慶照寺住職。

1 慶照寺のこと

 滋賀県犬上群多賀町、琵琶湖の東・彦根市の東隣にある多賀大社の門前町の中心部・仏教寺院の多い天台宗の古い寺の多い処だ。

 ご住職は、伝統ある寺院の仏教を自分の生活の中の事実として味わうことによって、現代人の幸せに役立つように、心を砕いて説法にも日々新

しい工夫を加えて居られる。 ・・・と解説された。

  門の横には
人をとがめんとするな   

           心をとがめよ     
 ・・・と、掲示板に紙に書いて貼ってあった。

  住職は、「寺の創建は明らかではない。過去帳は元禄時代のものから遺っている。」

 ご住職自身もご自分が「何代目か分からない。寺の三男として生まれたが、兄が亡くなったので後を継いでいる。」と語られた。


2 講話の内容・・ご紹介

(1)

  「子どもは大きくなったら 大人になる ・・では、大人は?? 何になるの??」
ご住職の著書に
 ○ 生きることとは・・?
 「子どもは大きくなったら 大人になる ・・では、大人は?? 何になるの??」と、子どもに聴かれたそうですね? と、解説者。

  どうも、これは子どもの質問ではないナ。如来様が私に体当たりしたのだ。

 この質問は、学問があったろうと、理論があったろうと・・・、そんなモノは吹っ飛んでしまう程である。

 これは人間の根底をついてくる問題だ。 ・・・・。

 どうやら(これは)子どもの口を借りて、如来が私に体当たりして問いかけたのであった
(ようだ)

 人間(存在)の根底をついてきた問題であった。

 さて、このことについて・・・

 (ある日)門前の掲示板に、クイズを出した。


 
「わたしは○○○○のために

 この世に生まれてきました」・・・さて?、

 ○○の中に適当な言葉を入れてください。

 ・・・というものだった。

 
すると、2〜3日すると、すぐに電話がかかってきた。

 「ご印綬さん! あの○○とは、一体何字が正解ですか?」と、・・・

 「正解はない。何字でもよいのだ。一字でも良い。 例えば、【金】だ。」

と、応えた。

 「例えば、『私は金のために生まれてきた。』と言ったものじゃ。」

 「あぁそうですか?!そういう風に応えるのですか?!」と、電話を切ろうとしたので、制して「おまえ、金貯まったのか?どうだね?」

 「貯まらない!」と。・・・「じゃぁ、何にもならんじゃないか! ・・・・? 二字でも良いぞ!」

 「子ども。子どもために生まれてきました。」と、・・・「いい子どもできたかぇ?」

 「子どもは反抗するばかり・・・」・・・「じゃぁだめじゃの!?」

 「○○の中に、何を入れても落ち着かないだろう?!」・・・と。

 正解はないが、「人生」というものを改めて考え直してみなさい。・・・・ということである。


 
本日の、寺の掲示板には、

 「食べなければ死ぬ、

    が、しかし、

       食べても死ぬ」

  ・・・とありました。・・・・ と、聴き手。

 住職は、

  「寺に参れ!」 と、言えば、・・・「忙しくて参れません。」と、答える。

 「何がそんなに忙しい?」 と、問い返せば・・・「喰わなければなりません。」

 「喰っとっても死ぬぜ! だいたい、喰い過ぎて死んでいるじゃないか?!」と、・・・・。

 ・・・・。 正解を求めるための掲示板と言うよりも、生きていることの意味を自分自身問うてみようという狙いであった。

 子供の質問には、そんな意味が含まれていたのであった。

 (思えば)・・・こんな会話ができることが、ご住職と門徒の喜びである。・・・と述べられた。


○ 寺に参ることの意味は・・?
     『仏教は、人間奪還の運動である。」   安田理深

  「『仏教』は、仏の教えと書くが、子供の口を借りて問いかけ(られ)たその言葉には、・・・、如来様の説いていることは、

 ・・・・『おまえは死ぬぞ!それまでどう生きるか?』と、問うているのでしょうか?」・・・と、聞き手。

 そうだと思う。

 我々は、三つの誓約を仏と交わして生まれてきたと言われている。

 ・・・。(ヒトはお互いに、)誓約をした覚えはないが、・・・。   (笑い)

三つの誓約 一つ
誰にも変わってもらえない。・・・・大事なことほど代わってもらえない。

  例えば、食事すること、死ぬこと。苦労すること。

二つ
必ず死んでいかねばならぬ。・・・「何故、人は死ぬんでしょうか?」と、子ども。

 そうだ、必ず死ぬ。もう生まれてしまったからには、もう手遅れじゃ。」

三つ
死が何時来るか分からないこと。



『仏教は、人間奪還の運動である。   安田理深

 人は人間の顔をしているが、実は(真の)人間ではない(のだ)。


人間は、自己否定が始まってから、初めて人間が始まる。

            
倉田百三”出家とその弟子”より

 「自己」が、仏によって照らし出されて、

  本当の自己に逢うことのできたもの(その時)が、人間の奪還の始まり(だ)。

 自分のことはよく分かったつもりで居ても、本当の自分は、(実は)よく分かっていない。

                      ・・・ということだ。

 例えば、

 親鸞聖人が、「信ずれば助かる。」と、法然上人のお教えを受け取っている。

 そして、これを現代人に分かり易いように言い換えてくださっている僧がいた。

 (そう言いながら、以下の注釈を付けられた。)


 ”些細なことに驚く力を取りもどすと、一見退屈な日常が輝いてくる。”

                               ・・・と。

 「些細(ささい)なことに驚く力」・・・信ずれば・・(如来様からの呼びかけだ。)

 「力」      ・・・ 自分に切り込んでくる何かがある

 今座っている座布団は,自分では持ち上げられないように、  (真の)自分に切り込むことは自分ではできない。 しかし、

 自分を否定しないと、些細なことに驚けないものである。すると、 (やがて)「退屈な日常が輝く」・・・助かる(のである)。
 

    と、解説された。

 

 後日、フッと思いついて、お寺に詣でた時に、住職様と面談させて頂く事ができた。

 このときに、話題がこの部分に至った時に、 『大悲は 大非 也』と、紙に書いて説明してくださった。

 「この『非』と言う字は、・・・鳥がもがいて羽根をバタつかせても飛べないで地に落ちることである。」と仰った。

 このときに、お話をうかがっていた小生(管理人)は、咄嗟に至道無難禅師の次の言葉を連想して感動を得た。

 『生きながら 死人となりて なりはてて

   思いのままにするわざぞよき』 だった。  ・・・・
苦縁讃
 ・・・
 
自分のことは分からない。

 人の悪口は、(聞いても言っても)面白い。

 (だが)自分の悪口を言われると、本当の事(事実)でも腹が立つ。

 そんな自分(の在りよう)を凝視する。・・・それが、「驚く力」だ。

 例えれば、

 ある日病院に行って驚いた。

 内科である。

 内科の主治医が、

 「内科とは、口で食べてそれを三時間以内に原型が残らないように溶かしてしまって、腸に送って、腸で吸収する。消化/吸収するから、消化器と

いうのだ。」と、・・・・。

 (そうだ!)「消化とは、食べたものが原形を残さずに無くしてしまうこと」

 思えば、これは些細なことである。

 だが、しかし、振り返ってみれば、


人間は、20年も30年も前に食べたもの(経験)が、   

    何処かに残っていて消えない。


 ・・・のである。

 一体、どこに(それは)残っているのであろうか??

 何かの縁で、それが吹き返してくる。

 そして、やがて腹が立ってくる。


(2)

 煩悩なるもの


 例えば、

 部下の青年が、縁遠く結婚できないで居た。 その青年が、ある女性と良い仲になって結婚したいと望むようになった。

 しかし、なかなか話が進まない。

 そのうちに二人は駆け落ちをしてしまった。

 (ご住職は、)その時部下が居なくなって、思うように仕事ができないので、二人を捜し出して親たちを説得したり、何やかやと面倒を見た。

 やがて、周囲が許す夫婦となった。

 3年後に、青年の勤める会社に大学の知人と共に訪れた。 その時に、(住職は)3人で訪れたのに、二人分のお抹茶茶碗しか出さなかった。

 (住職は)招いて同行した方に「どうぞお先に!」と、譲った。

 自分用のお抹茶は当然後から出されるモノと思い込んでいた。 そこで、「お先に・・」と、言った(同行の人に譲った)が、いつまで経ってもご住職の分は出されなかった。

 ついに、

 帰り際になって腹が立ってきた。


 『あの時に一生懸命になって、旅費を使って・・・、行く度に手土産を持って・・・、

こんな高い頭を何度も下げて、こじれた話を何とか修復してやったのに、それがなかったら今頃は路頭に迷っているところであるのに・・・。

 ・・・・、にも関わらずに、それなのにそれなのに、私にはお茶を出さなかった。』

  ・・・と、腹が立って来たのである。
 

 ・・・・と、画面にように、見事な笑顔で述懐された。

 「三年(間)の経験が、お茶を出してもらえなかったことのご縁で、吹き出してきた。」と、・・・・。

 「思えば、情けない。  さもしい経験であった。 青年からのお礼を、待っている自分が居た。と、・・・・。

    何処かで、何時までも礼を言わせたいという自分が居た。」・・・と。

 そう言いながら・・


 苦が外から ついてくる と

    思うているうちは

     苦はなくならない。
  蓬茨祖運(ほうし そうん)
 
  ・・・と、紹介された。


 これは、

 「あの事が、彼奴
(あいつ)さえ居なければ・・・、私は苦しむことはないのに!」ということだったのである。

 仏教では、「苦
(く) 集(しゅう) 滅(めつ) 道(どう) の四諦」の教えがある。 (そこに)苦を集めてしまっている自分が居たのであった。

 「徳」を積んだと思い込んで、[苦]を集めてしまっていた。

 
 ○ 「渇愛」のこと
 
苦を集める原因は、「渇愛」であろうが、(かように)何時までも自分のしたことが消えない。

 (例えば)

 家を造り徳を積んだことが、「あいつのためにこんな事をしてやったのに・・」と、・・・。

 「この家は、わしが建てた家だ。」

 「自分の建てた家にわたしが住むのに何でこんなに苦労しなければならぬか?!」等と、・・・。

 思えば思うほどに、家の中が暗くなる。


「してやった」・功徳を積んだのにとの、この一言が、苦の種になる。

 
 昔は、(家を)「ワシが建てた。」とは言わなかった。・・・「普請
(ふしん)させていただいた。」といった。

 普請とは、普
(あまね)く請(こ)うて行ったものなのだ。

まむしは、水を飲んで毒を作る。
 
 親鸞聖人も、自分を”まむし”と呼んだ。   蝮
(まむし)は、自分の飲んだ水を毒に換えてしまっている。

 それならば、思えば[私]は毒であったのである。

 「苦」から解放されなければならない。・ 『滅』

 苦を集めてはいけない(のだ)。 「苦」から解放されなければならないのだ。

 こんな話があった。

 60代の人で、跡取りが居ない。それで、両方からもらって跡取りとした。

 三月ほどは平安であったが、だんだんと口数が少なくなってきた。

 最後には突き当たってもものを言わぬようになって、声がするのはバァチャンの

愚痴だけとなった。

 数珠は、本来は108個の玉で構成されて

いるのが本当である。(これは)煩悩の数と

同じ。



 数珠は、これが水晶であろうと,何でできて

いようと、数珠は煩悩の象徴である。


 それで、爺さんがどうにかしないとどうにもならないと、・・・・・。

 自分の家の裏にこじんまりとした老夫婦の別宅を造った。別居となった。
 
 これで何とかいけるであろうと、爺さんは思ったが、おばぁさんが若夫婦の生活を覗き見するようになった。

 「今まで、私が住んでいた家はどのようになっているか?」と、・・・。

 「今日は何を食べているだろうか?」と、おばぁさんは気になって仕方がない。

 おばぁさんは、別居した時以上に悪くなった。

 「どうにかならぬか?!」と、別居したがどうにもならなかった。


「安心(あんじん)の地あること無し    善導大師」
  ・・・というわけである。

 お爺さんはそれで気がついた。 方向転換することにした。それで、お寺参りを始めた。

 五年間お寺に通
(かよ)って,話を聞いてみて分かったことがあった。それは、 「わしが若い者とどのような姿勢で対峙していたか?」・・・と考えた。

 よく考えてみたら、

  「自分が一生懸命に築いてきたこの財産を、若い者たちが全部取ってしまう。」と、・・・。

 そんな目で接してきたから、・・・・、「これは大きな間違いであった!」と、思い直した。

 やがて、それで、彼は楽になった。

 そしたら、不思議なことが起こった。  「自分がそのことに気づいたら、その時から若い者たちが、話し掛けてくるようになった。」と、述べた。

 「この頃は、若嫁とも冗談話ができるようになった。」という。


 
「念仏は一法界(ほっかい)
開く」

     とはこのことであった。と気がついた。

 そうしたら、もう一つ問題が生じてきた。 それは、長い年月連れ添ってくれたおばぁさんが可哀想になってきた(のだ)。 ・・・・。

 凡夫は、自分の凡夫さに気づくと、そのまま菩薩に変身したわけである。

 「私の処に嫁に来て、私の母親という舅に仕えて、仕事ばっかりして、仕事しか知らない!愚痴しか言わない!」

 「このおばぁさんを(も)、何とか仏様の世界に入ってほしい。」

 「このことを、これからの私の目標にしたい!」と、彼は思い立った。

 「ところが、おばぁさん一人を、仏様の前に座らせることは大変なことだった。」と述べた。

 朝のお勤めをした後に、「お前もお参りしてこい!」と言っても行かないのだ。

 「ろうそくを付けっぱなしにしておいたぞ!」と言ったら、「おや!蝋燭がもったいない!」と、消しに行くことが分かった。

 それでも、仏の前に行くだけでも良かろうと思って、毎日毎日、二年間そのようなことを続けた。

 お爺さんは、「二年間、欲という根性を、”仏様を参る”というエネルギーに変えて、この頃では一人で参るようになりました。」と述べた。


煩悩は、煩悩をして人を使う
 ・・・・”使う” 。 煩悩は、人間を使うのである。

 煩悩の一つに”慢”がある。 この”慢”は、「比量」と言って、お互いに比べる心のことである。

 人間は、比べてみなければ喜べない存在である。


「勝った/!負けた!」と、 比べる心で喜ぶ人は、比べる心で泣くのである。


 家の孫でも、小さい頃は比べるものがなかったから、「末は博士か大臣か?!」と・・・。(やがて成長し)学校に行って(他の児童と)比べると、「なぁんだ!」と言うようなものである。

 (それまでは、比較すれば)ひどい家だったが、人に負けたくなかったので改築した。

 彼のこれまでの60年の人生は家のため(だったわけだ)。 (彼は)煩悩に使われ(てい)た。

 「私がこの家を建てたんだ!」と(自分のしてやったことを)思えば、怒りも涌
(わ)いてくる。

 (また、)「あの人に比べれば、まだ、私は幸せ!」と、比べて喜んだりもする。

 数珠は、108個の煩悩の象徴であるが、108個では扱いにくいので、その数の4分の1とか6分の一にして作られている。

 数珠を手にかけて仏の前に出すと言うことは、煩悩を仏に差し出すと言うことなのである。

 差し出したらやがて見える。

 悪を造る身なるが故に念仏申すなり。

 悪を造らん料
(りょう)に念仏申すにあらず

          と心得
(こころう)べきなり。

  「このような悪(罪)を犯しました。何とぞお許しください。」と、手を合わせて念仏するのではない。

 我ら凡夫は、知らぬ間に、自覚のないまま多くの悪を為している身であるのだ。
   法然 〜 三心料簡および御法語 より  管理人補う    管理人意訳 
 すると、「私の行いは,すべて煩悩から生じているのだ!」と、気づくことになるのである。
 そして、煩悩から解放されるのである。
 苦は、煩悩から・・・・だった。 そして、苦から解放されるのである。
 我執が、一切の苦を作っていたことに気づくことになるのである。

○ 拝むと言うこと
  数珠を持って拝むと言うことは、「煩悩の取れない自分であります。」と、仏様に拝んでいるわけである。
煩悩をとろうとする心も、煩悩。
 
 煩悩だらけ! どうしようもない自分を、仏様の前に差し出すこと(だ)。 すなわち”バンザイ”なのである。

 そして、今、念仏できたことを慶ぶのである。 ”唯念仏” なのである。 幸福を願い仏をお参りしているが、幸福なんぞは「どこかに在る」と思うこと自体がおかしなことなのである。

 大山
(だいせん)に向かってバス旅行を考えてみる(と)。

 大山は、バスの位置によって、ある時には左に見え、ある時には右に見える。また、大山の景色も多様に変化する。

 場所を変えて見てみれば・・・。 このように自分の位置を変えてみれば、若い跡取りも、長年連れ添ったばぁさんも、変わった姿に見えるはずなのである。


口がにごると 愚痴になる。

      徳がにごると毒になる。

 良いことをしても、「わしがした!」と、徳を毒に換えてしまっている。
 立ち位置を変えてみてみれば、・・・・、

 日々の出来事の中で、口が愚痴を言い、徳を転じて毒に換えてしまっている。思えば、

 日々の出来事は、すべて法蔵菩薩のお働きなのである。 ご縁のある人々と、法蔵菩薩と一緒に修行をしているのである。

 「鬼ばばぁ」は、私を育ててくれるためのご修行ではないか?! そういう日常の在家の出来事を仏道化していくことが大切である。

念仏は 在家生活の仏道化なのだ
 
 「原因があって結果がある」と言うが、今の出来事が、次の結果を生む”縁”になる。  ・・・ 「縁起」(である)

 縁によって、また、(別の)違う結果が出てくる。

 今の出来事が、次の出来事を生む縁になっている。縁によって違う結果が生じてくる。 仏教では、(このように)変化があるということを説いている。

 何が来ても、それを浄土への縁にしていくと言うことが大事だ。

 しかし、

 「私が・・。私が」と思う”我執"は、なかなか止められない。 止められないから失敗を繰り返す。

 失敗の度に、元の自分に返ればよい。戻った瞬間に「私」を捨てればよい。 死ぬまで、それを繰り返せばよいのである。

 一度判ったら、「お浄土」の世界を覗かせてもらえる。一法界を瞬間見せてもらえる。 しかし、すぐに忘れる。(だが、)忘れても良いのだ。一瞬の”滅”を見たのだ。

 その瞬間に、お浄土に自分の国籍ができたのである。

○ ヒトは二重国籍

  ヒトは二重国籍なのである。

 お念仏の浄土の国籍と娑婆の苦界の国籍(である)。

    蛙

 私は

  地獄を

   すみかとし

  浄土を

    すみかとする

 ぶさいくな

     両棲動物です

榎本栄一より  ・・・ 管理人補う

 浄土の国籍を持たない者は、何時までも年を取れば取るほど愚痴を言って歩かなければならない。

 浄土に国籍があれば、浄土にすぐに帰ることができるのだ。

 この世で念仏を一言申す度に、あの世に蓮の花が一本ずつ咲くのである。

 煩悩に引きずり回されて喜んでいる居る人も、これは一つの修行であろう。

 (それを)「修行中だ。」と思えると,どのような出来事がきても、それはそれで受け止めていける。

 「(人生、どうにかしよう。)どうにかならぬと困る」と思う心の在り方とは違うところで生きている。

 それを
緒仏の世界に生まれるというのである。

 緒仏の世界に生まれるということは、先の喩えのように、「おばぁさんが気の毒だ?」の心境である。

 「あの人にもこの喜びを味わってもらいたい。」という世界に生まれるということである。

 そこには、他者にも分かちたいほどの喜びがあるのである。

 この辺りは雪の多いところである。

 おなじ雪が積もる。その下での出来事を眺めると・・・


 雪の下

  朽ちてゆくもの

   萌ゆるもの   
藤原正遠


大地に根をはらないものは 皆腐っていく。

 しかし、大地に根をはるものは、雪の溶ける前から萌えている。

 雪は冷たいものであるが、芽の出て来るものにとっては、(単に)冷たい押さえつけていたモノではないのであった。

 雪は、寒さから身を守ってくれているフトンであったのだ。私を押さえつけていた雪は、実は優しい布団であったのであった。

 知らずに、”苦しみ 苦しみ"と言って嘆いているが、布団であったのである。

 (いのちは)みんなフトンに守られているのである。

 娑婆
(しゃば)では、冷たい雪を取ろうとしている。

 雪を、(そのまま)重たいと思っている。

(3)  煩悩という名の殻(から)磨き
 
煩悩という名の殻(から)磨き 

 
卵は、どれほど殻を磨いても、卵は卵のままで、やがて腐ってしまう。

 卵が産まれてきた目的は、ひよこになるためである。

 しかし、卵のまま腐ってしまう人がどれほど居ることであろうか


 草や木の方が、ヒトより余程ましである。
 草木は、時期が来たら花を咲かせ、実を成らせる。

 人は、花が咲いただろうか? 何か実らせたろうか?

 何一つ実らさずに、終わっていく人が多い。

 
人間が人間になるのには、どうしたらよいのだろうか?

 皆、働く煩悩が消えないで、(そのまま)持っている。

 煩悩を持っている自分に気づくかどうか?
 ・・・が問題である。

 そこが、卵がひよこになるかどうかの分かれ道があるということである。

 ひよこは、21日でひよこになる。(観察すると)18日辺りで目(眼球)が見えるようになろう。

 殻が身を包んでいる。

 (しかし、)この殻がなければここまで生きてこられなかった。

殻が「我」である。殻を破って、ヒトとして生まれてくる。

○ 我執(がしゅう)の扱い方

 人間は、殻ばかりを磨いていて、自我を磨くことを怠っている。

 自我を磨いて、その延長に幸せを得ようとすることが大事なことである。

 喩え話:

或ところに兄弟が居た。            

 夜に弟が物干し竿をもって振っている
 
   
 弟は、美しいお月様を取ろうとした。・・・・・ 自我を磨い

ている。

 兄は科学者。

 父は評論家であった。
 兄「何してるんだ。」
 弟「きれいなお月様だから、取ろうと思う。」と 
 兄「それでは届かない、屋根の上に上ったらどうだ?!」
 父「流石
(さすが)兄だ!良いことをいう。」といった。

 誠に、我々人間のすること議論することは、この程度のモノである。

 真剣に話し合っていても、所詮はこの程度でしかない。               ・・と、管理人も思う

・・・ 管理人補う 

  
天才とは、わずかにわれわれと 一歩を隔てたもののことである。

 ただ、この一歩を理解するためには、百里の半ばを九十九里とする 超数

学を知らなければならぬ。

               (出所不明)
 天才とは、神仏に匹敵するような才能のこと。

 換言すれば、神仏の能力。 

「兎と亀」の童話・・・

 兎はノコノコとゆっくりと歩く亀を侮
(あなど)った。

 両者は駆けっこをした。

 スタートしてしばらくすると、ウサギはこう思った。

 「もう、ゴールは目の前だ。亀は随分と後ろをノコノコとやってくる。」

 「ここで一眠りしても大丈夫! 勝利は私のモノ!!」

 そう思ったらしい。 ・・・・。しかし、最後は亀が勝った。
    
 このお話・・、コツコツと継続こそが大切であるぞ!と示唆しているわけであるが、もっと深読みしようとすれば、「人生のゴール。間近に見えて、実は果てしなく遠い向こうにある。」と読み替えることもできよう。
 そして、このうさぎのように、『もう、私は随分と・・・・、ゴール間近にまで達したぞ!』と、我々は勘違いしている輩
(やから)である。・・・・と、思う。 
 
 般若心経の末尾に・・・・

 
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 とある。(ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー)

 これは、「無限に遠いあの世界に向けてひたすら舟の櫓
(ろ)をこごう」という意味だそうな。

  
間近に見えているゴールは、実は、かりそめの陽炎(かげろう)でしかないようだ。

 自分がウサギなのかそれとも亀なのか・・・・? それさえも、真実のところが見えていないのかも知れないのである。
    
 物干し竿を持って月をとろうとする親子のようなモノである。
                           ・・・・・ 苦縁讃

 結論、足下の水を澄ませ。水が澄めば、天空の月はその水に影を映すはずである。

自我の根底に如来を見る  蘇我量深

 「どうしても自我が取れない」と、懺悔すると根底に至る。そこではじめて如来が見えてくる。

 すると、釈迦や親鸞等の聖人と同胞であるという光栄を見ることが可能になる。

 想いだけで生きてはならない。想いと事実が違っている。

 人は、想いと現実が違って苦しんでいる。「ひとりの想い」だけが一人歩きする。

 事実に目が向かない。

 「こんなこと!何かの間違いだ!」と思うものである。

 「思いもよらぬことになった!」と言う人が居るが、一体(世の中)思いのままになるのであろうか?

 事実を(そのまま)受け止めていく以外にないのである。

 それによって、仏の計らいをそのまま取り上げることができるのである。

 人の知恵を捨て去って、仏の世界にとり入れていただく以外はないのだ。

 
 学生(がくしょう)(こつ)になりて

  念仏やう
(よう)しなわんずらむ

 学者のような理屈を言っている内は、念仏はできないであろう。

 (「宗教はわからない」の意)


法然 -

− つねに仰せられける御詞
(みことば) より  管理人補う
  

     「お運びのままに」 こころの時代 より  1996年11月10放送

 煩悩が 仏のわざと 知らされぬ

  余るいのちを いとしみ生きぬ

 
 
酔生夢死(すいせいむし)の ままでよろしき 安けさを

  いただきにけり 弥陀のみ恵み


  ※ 亀は鈍
(のろ)いというが、それは比較の問題。ウサギのように速くなったらおかしい。

    すべてが、自然法爾
(じねんほうに)の中にいる。

    頭がよいとか,悪いとか・・・、そんなことに引っかかって生きてきたが、そんなものは問題にならなくなった。

 
 
いずれにも 行くべき道の 絶えたれば

  口割り給う 南無阿弥陀仏

 
※ いつも途方に暮れて耐えどおし。腹が減りどおし。・・・と思いながら「南無阿弥陀仏」と   お出ましになると(思わず唱えれば)、いつでも腹を満たして頂ける。

    「亀は鈍
(のろ)い!」と思っても、実は生き物は、皆、それぞれの中で歩いて・生きている。

   私も・・・。
   次元の違うところから眺めれば、”泥棒なさるも一つの煩悩。ご苦労さん!”と言える。

   ”ご縁”があれば、私が泥棒をしていたかも知れない。・・・。戦争する国も同じ。

 
罪に泣く 人らを待ちて 下下(げげ)の国

  大悲の弥陀は 待ち給うな


   ※ 「何故、あの時に私は腹を立てたのか?!」と、思って苦悩する。     

 
たのめとは 助かる縁の なき身ぞと

  おしえて救う 弥陀のよび声 
   詠み人知れず

  ※ 弥陀は上に上がって助けるにあらず。人が手を尽くして、その末にどうにもならなくなった時にお出ましになる。 阿弥陀さまは、上ではなく下に居って、落ちてくる自分をすくいとって下さる。 負けてもそのまま懐いて下さる。ありがたや。  

 
 そのままを こちらで聞けば 自力なり

  まかせまつれば まことそのまま

  ※ 「天上天下唯我独尊」。他と比較しての「我」ではない。与えられた私。このいのち。
   永久
(とわ)のいのちの一つのいのち。

 
百花(ひゃっか)みな 香りあるごと 人の世の

  人の仕草
(しぐさ)の みな香りあり

   ※ よい香り、悪い香り・・・・。いろいろあるも、もうひとつ離れてみれば、皆、それぞれによい香り。 皆、それぞれに「ご苦労様!」とねぎらいたい香り。

 
不可思議と 思うは思議なり 自力なり

  まかせまつれば まこと不可思議

   ※ コスモスの不可思議な赤。私の指の五本有って、爪有って、指の動く不思議。
    ここは 不思議な浄土。ここが極楽。

 
天国に 生(うま)るることを あきらめし

  我は下国
(げこく)に 安らけくあり 


 
 分別が 分別をして 出離(しゅつり)なし

  無分別智の 弥陀のよび声

   ※ 「南無阿弥陀仏」は、分別から離れて「大智」と一体となった境地である。
    行き詰まったら「南無阿弥陀仏」。 お念仏は大した薬である。
    どんなものが出てきても、大丈夫。 「南無阿弥陀仏」。
浄秀寺 前住職 藤原正遠(1997年逝去) より  管理人補う  

 仏の世界の存在に、
気づかせて頂くのである。 ・・・・・と、如是我聞 也。
  録画を繰り返し鑑賞させていただいている。
 ある日の早朝、目が覚めて繰り返して観ていて、こう考えた。
 「この松原泰道さんは、昨年、お亡くなりになった。 ・・が、このご住職は、未だにご存命だ。」
 「さほど遠くではない!」 ・・と、小雨の降る日であったが、そう思うとフッとお寺に詣でたくなった。車を走らせた。
 お寺について、しばらく佇んで合掌。 躊躇ったが、玄関を開けて声をかけてみた。
 女性の声が帰ってきた。 そこで、引き戸の手をかけたまま、ここにいる事情をお話しした。
 「どうぞどうぞ ! ご自由にお堂に入ってお参りください。」と言ってくださった。
 ・・・・。 一人で、仏像の前で小声で経を唱えて、謝意を述べて帰ろうとした。
   ・・・すると、居間から声をかけていただけた。
  「丁度、いまここに居りますので、・・・。」と、促された。
    ****
 ご縁があって、住職様と合うことができた。
 終始奥様も一緒にお見えであった。 無くなりかけると、美味しいお茶を注いでくださった。
 お昼には、上等な昼食までご馳走になった。
 在家の一般信者に対して、かくも心のこもったおもてなしを戴けるとは・・・、感動的な驚きであった。
 心地よい充実感を頂いて、帰った。  これが”至誠心”であろうか??
 その後、妻と再び寺に詣でた。
  じっくりお話もさせていただき、再び、ご馳走になり、帰りには数珠と著作の本を二冊戴いた。  m(_ _)m  
                                                              ・・・ 苦縁讃
   
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