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ここは、豊田市の郊外。益富(ますとみ)地区である。
ここの木々が何時もこの頃に美しい。
秋から春の新緑までの間、
美しさがひときわ心を打つ。左に益富中学校が見える。
わが里は、ここからおよそ9Km程。この辺りからご案内しましょう。 |
100m程進んで、運転しながら撮影した。
思えば、中山間地ではなく、
山間地と言った方が適切かも知れない。
わが里山。 さて、
この坂を登り切ると「MAGロード」の
インターチェンジ「松平」になる場所。 |
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撮影の頃は、工事中であった。
道路ができて、ますます便利になる。
工事現場を通っている。
この先に「あいち農業協同組合」松平支店がある。
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運転士ながら、車窓からデジカメを突き出して撮影。
<(_ _)> |
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「あいち農業協同組合」松平支店(右側)。 |
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港橋に至る。
橋を渡って左に進むと香嵐渓に行く。
ここを、右に曲がる。
里山まで、ここより7Kmだ。 |
右に曲がって、・・・と・・、
道をまっすぐに進むと岡崎市に至る。
写真は、”鵜ヶ瀬うがせ”と言うところ。
昔は、鵜が飛び交っていたと思う。
この左上に県立松平高校。 |
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そして、”九久平(くぎゅうだいら)”だ。
九久(くぐ)とは、白鷺のことを意味したとの説有り。
ここは、”九久平(くぎゅうだいら)”の旧街道。
小生が、中学生の頃にはこの道をバズが通った。
私たちには、”街”であった。
ここの人びとや風土が私を育ててくれた。
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”鵜ヶ瀬(うがせ)”、そして”九久平(くぎゅうだいら)”、
共に鳥の名が付いている。
昔の「街」は、今、単なる通過地点に
成ってしまっている。 →
この道の30m右(河側)に、今、
新しい道路が造られている。
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バス停がある。バス停の有る道に並行して、
巴川が流れている。弁財天が祀られている。
三叉路の風景。左は岡崎に至る。
右に行けば香嵐渓に行く。
この道の下に、弁財天が祀られている。 |
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☆ 歴史的な資料: |
松生島(:しょうぶしま・通称=まつきしま=)の弁財天の歴史の片鱗をお示しした。
この辺りまで、帆掛け船が上がってきたという。塩を運ぶのが大きな目的であった。
ここから足助(あすけ)を経て信州まで通称”塩の道”と言ったそうな。 |
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松生島(しょうぶしま)と、説明があった。 |
巴川は、今は浅い。 |
◇ この地の歴史研究家 磯谷正巳氏の「豊田市 岩倉町の史跡と文化財」によると・・・
巴川の水運 |
巴川の水運は、江戸時代の寛文〜享保(1661〜1736)のころよりだんだん盛んになり、文政〜慶応(1818〜1868)の頃が一番ピークのようであった。明治初年には、九久平に「鍋屋」、平古(ひらこ)に「仁右衛門」他二軒の川岸積問屋(かわぎしつみといや)があった。問屋の土場に集積された物資は、川船によって岡崎、米津、中畑、鷲塚、平坂、大浜、また、知多の半田、亀崎、武豊などの取引先の問屋へ矢作川を下って送られた。
三河湾沿岸、矢作川沿いの各問屋より上りの船で塩をはじめ生活物資が九久平や平古の土場に荷揚げされ、九久平の商店や巴川東部の奥地へ運ばれていった。また、平古の問屋の土場からは、塩や種々の生活物資が馬の背で、足助、信州飯田の各地へ運ばれた。 <略> 今も、その道は「塩の道」と呼ばれている。
○ 信州から ・・・ 木炭、あい玉、生糸、元結、たばこ、紙、木地椀、たいま(からむしから取った繊維)
○ この地から・・・ 木材、木炭、薪、石、杉粉、天然氷など。
○ 三河湾及び矢作川から・・・・ 塩、鉄、鋳物、土管、陶器、綿、油類、大豆、米、麦、酢、
干し魚、肥料、味噌、醤油など。
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1711
年 |
中御門 |
正徳1 |
3/九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔(角柱)『礼西国三十三所観世音菩薩』。6/24九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門右に地蔵菩薩(舟型立像)。 6/与茂七騒動。8/9尾三地方大洪水(岡崎市史)。8/23岡崎大風雨田畑を害すること6,000石。家400戸破る(矢作川)。11/万石騒動(安房北条藩新役人川井藤左衛門の過酷な検見による年貢増徴策に反対。百姓は国元で訴願したが認められず600余人で江戸藩邸へ門訴。井川は一揆を弾圧し名主6人を入牢。百姓は再度江戸の老中へ駕籠訴を繰り返すが藩は6人の内3人を死罪にする。死罪を知った幕府は百姓の要求を認め、川井を打ち首、藩主屋代忠位ただたかの領地没収。)。 江戸大火。九州・東海道洪水・大風雨。辻で売女取り締まり。近松門左衛門「冥土の飛脚」 朝鮮使節への待遇簡素化。 |
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1758 |
桃園・後桜町 |
宝暦8 |
4/13九久平町鵜ヶ瀬荒井の松生島弁財天北東に地蔵菩薩(舟型立像)。 5/25矢作川大洪水、国江村流失し村民高台に移る(上郷町史)。美濃・郡上に一揆再発。6月関東・東海道他に河川工事完了。 7/宝暦事件。(竹内式部とらまる。1759追放)長州藩、財政改革。ー肥後熊本藩、松代藩などで、藩政改革実施。 良寛生まれる。本居宣長、嶺松院歌会に加入し「源氏物語」の講釈を始める。 |
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1762 |
桃園・後桜町 |
宝暦12 |
7/九久平町簗場の松生島弁財天に、巡礼供養塔(角柱)『礼西国三十三所観世音菩薩』。 挙母城下の民家、水難を逃れおいおいと樹木台に移る(豊田市の歴史年表)。2/寺院への田畑寄進禁止。佐賀領内凶作。岡崎藩水野忠任、越後唐津に転封。松平康福、下総古河より岡崎に移り5万石を領す。 |
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1852 |
孝明 |
嘉永5 |
6/九久平簗場の松生島弁財天に石灯籠(一部新しい)。7/21翌日にかけて大風雨。8/16大雨。8/22大風(矢作川)。8/8碧海郡天白地内矢作堤破壊。幡豆郡高落地内でも決壊。(矢作川)。 2/武蔵大森の大砲演習場完成。 5月江戸城西丸全焼。明治天皇誕生。8/蘭商館長、米国船来航計画を告げ、鎖国の危険を説く。 |
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”九久平(くぎゅうだいら)”は、唯一の街であった。
ただ一つの理髪店。
しかし、今、この街を通り越して豊田市まで買い物に
行くことが多い。
さて、旧”九久平(くぎゅうだいら)”の街道をご紹介しましたが、
里山に目指しましょう。 |
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”九久平(くぎゅうだいら)”の三叉路を左に入る。
301号線をそのまま進むわけだ。
昔の味をそのままに残した
”ふる里饅頭”の本店が、
突き当たりに見える。その上に松平中学校。 |
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わが里から、ここまで中学生は毎日通うのであった。
舗装もなかった頃の、雨や雪の日は辛かった。
しかし、みんなそうして中学校まで通ったモンだ。
男の小生には、家から中学校まで・・、行きは15分。
しかし、坂道とて、帰りには一時間半はかかった。
夏は暑くて辛かった。ここは”長坂(ながさか)”。 |
大給(おぎゅう)城跡が正面の山にある。
親氏の三代後の子孫が
建てた城跡である。ここも「長坂ながさか」。
こんな坂道の連続である。 |
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クネクネと曲がった坂道だ。現在は車である。
舗装もされている。
写真では、平坦な道に見える。
夏の炎天下に、この坂を自転車を引きながら
登って、家に帰るのであった。中学時代。 |
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昭和の初期、川の水を利用したガラ紡が、
この辺りどこの家も家業とされていた。
今、その痕跡もない。
「下河内(しもごうち)」村に来た。
ここはまだ301号線。 |
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ここから左に入る。
右は、高月院へ。
301号線は下山村にまで続く。
ここから4Kmはしる。すると、我が里山。
やはり中山間地とは言えないかも知れない。
立派な山間地だ。 |
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「大田(だいた)」村に来た。
左端に見える石垣は、”信光寺(しんこうじ)”のそれだ。
信光とは、親氏の子どもの名前をつけてある。
信光に関した歴史資料は、以下のごとくである。
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信光寺 |
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☆ 信光及び信光寺に関する歴史資料 ☆ |
1465 |
足利義政 |
寛正6 |
5 額田郡浪人丸山・大場・梁田ら国衆、蜂起する。松平信光(親氏の孫)・戸田宗光、これを平定する。信光、形原、竹谷、深溝、長沢などに勢力を拡大。子どもにその地を分ける。 |
1467 |
足利義政 |
応仁1 |
応仁の乱 大給城 |
この頃(1467〜86)元土地の豪族長坂新左衛門の城であった大給城、戦略的要地として信光により攻略され、以来松平宗家四代親忠がこれを譲られて、親忠は次男源次郎乗元に与えて大給松平氏の祖となった。この年、菩提寺として大給村に高祖寺(現在の岡崎市細川町松明院の前身)を建立。志賀神社:祭神国峡槌命(平藪)再建さる。境内には、津島社、秋葉社、御鍬社、稲荷社、神明宮、高根社(この年、岩倉西の大峰の高根社からここに合祀・ご神体は、ピラミッド型の石)、白山社、御魂社などが祭祀されている。 5/京都。兵乱、連日火災。 東軍斯波義敏の軍、尾張にはいる。応仁の乱:両畠山軍の衝突・始まる。(〜7) |
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1469 |
足利義政 |
文明1 |
外下山信光寺 浄土真宗東本願寺派(豊田市豊松町トドロ4【賀茂郡大田村】)、21世頓祐、信鸞の弟子となり改宗して浄土真宗となる。28世頓慶のとき額田郡幸田村から現地に移る。 |
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1471 |
足利義政 |
文明3 |
岩津城主:松平信光(親氏の孫)、安祥城を攻略、岡崎城の西郷氏を下し西三河に勢力を拡げる。 蓮如(1415〜1499)越前吉崎で布教。 蓮如、越前吉崎に道場建立。 |
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1479 |
足利義尚 |
文明11 |
信光寺(教信寺)、徳川宗家三代松平信光の子西心法師(幼名徳弥太)は、当地に入り8代(天台宗教信寺29世)を継ぎ信光寺と改称。 1/1大雷鳴、雹降る(龍渓院年代記)。1/19両織田氏和睦。敏定は清洲城で下郡(海西・愛智郡)を、敏広は岩倉で上郡(葉栗・丹羽・中島・春日井郡)と尾張の分割支配始まる。 蓮如、山科に本願寺再興。お伽草子盛ん。 |
1527 |
足利義晴 |
大永7 |
大洪水。8/5人民流溺(定光寺年代記)。
12/吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)、野火により六所神社社殿全焼。社殿再建のために松平宗家五代長親は、嫡子六代信忠とともに神社造営奉加帳(寄進状)を松平一門宛に送付。「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり」云々。百疋:道閲(五代長親)・五百疋:祐泉(六代信忠)。この寄進状によって三代信光以来、六代信忠になっても安祥城を根城にして、山間僻地の松平村を領し、六所明神(加茂明神とも称した)を厚く信仰していた。
☆ 大永7(1527)年12月、野火によって焼失した六所神社の社殿を再建するため、松平長親(松平宗家5代)は、その子信忠(松平宗家6代)と共に献金し、松平氏一族へも寄付すなわち奉加を呼びかけた。奉加帳はその寄付に添えられた文書である。 「そもそも、当社大明神は、当国鎮守の霊苗、郡村加護の明神なり。なかんずく松平一党の氏神・祖先崇敬の霊社なり。」と記している背景には一族の内紛や家臣団分裂などの状況があった。長親、信忠は六所神社への勧進を求めることによって松平宗家としての主導性と権威を誇示しつつ、改めて松平一族に団結と助力を求める意味があったのだろう。この奉加帳の年次はわからないが、社殿が焼失したという大永7年から祐泉が亡くなった享禄4(1531)年の間のものと考えられる。 |
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1563 |
足利義輝 |
永禄6 |
9 三河三か寺(安城市野寺の本證寺、佐佐木の上宮寺、針崎の勝鬘寺)を中心に三河一向一揆おこる。 7織田信長、居城を清洲から小牧山城へ移す。この年家康ほぼ三河を統一する。寺部城:寺部町1丁目、在地の小豪族鈴木氏は、ある時は自立し、ある時は織田・松平に属して保身を図っていたが、この年松平元康に攻められた。『東照軍鑑』この時、信光寺(豊田市)も加担し針崎にて合戦。家康のとがめを恐れて信州へ逃れたが家康の祖先松平家の由緒の寺であるとのことで、許されて無事であった。 |
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「大津おおつ」村。ここに分かれ道がある。
昔は、むこうの二階建ての家は、
鍛冶屋さんであった。
トンカントンカンと、
毎日クワやカマを造っていた。
このまままっすぐに進む。
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右に行くと「高月院」 |
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この坂を、何故か「ゴウドウ坂」と呼んでいる。
「強盗でも出たんであろうか?」と思う。
父親の若い頃は、このような広い道ではなかったそうな。
LINK 高月院に詣でる |
坂を登る所には「二口」村がある。
何故、「二口ふたくち」なのかはわからない。 |
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この左手に”豊松(とよまつ)小学校があった。
祖父母も通ったと言った。歴史は古い。
今はない。
保育園になっている。
小学校は、別の所に移転している。
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坂・郷頭坂を登り切って、・・・、下ると、いよいよ我が里である。 |
やっと、我が村の一番下の家が見えてきた。
カーブが多い。このカーブを曲がると橋を見る。
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「宮口橋」だ。この上流に源氏蛍が大発生し、
夜景は見事だった。
むこうの山に六所神社本宮がある。 |
中央の山に六所神社本宮がある。
この辺りの夏の蛍は見物である。
LINK 六所神社・本宮 |
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六所神社本宮のふもとに「宮口村」。我が村がある。
江戸時代は、”みやくち”と呼ばれ、
豊田市街の宮口(みやぐち)とは呼び分けていた。
(「地名辞典」)
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☆ 宿泊のご案内 ☆ 二軒の料理屋がある |
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六所神社本宮への入り口に、「六所苑」がある。因みに、『六所苑』は、п@0565-58-1164 だ。
ここのホームページは http://www.rokusyoen.burari.biz/ です。
更に、 |
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200m程上がったところに、「大澤館」。 豊田市坂上町深山口2−5 рO565−58−1468
経営者ご夫婦の健康上の理由で、平成16年廃業となった。 |
地元の豊田市街から来たお方でも、「秘境の別天地」に来たような気分を味わう。
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