『自己の探求』 中村 元 著 青土社 より |
著書の「あとがき」に、こう書いてあった。
「人間は生きている限り、なにかしら思い悩むことがあるはずである。
そこで人は考えて、何らかの解決の道を求める。その反省の跡が思想として凝結する。
その結果は、あとから来る人々のために道しるべともなる。
自分はいま生きている。だが、どのように生きたらよいのであろうか?われわれは、常に反省を促されている。
この反省は、誰にとっても最も切実な、また最も大切なことではなかろうか?
人々は、こういう問題についての解決は、哲学が与えてくれると考えて、学校の高等教育においても哲学は必須科目となっている。
しかし、世間のいわゆる「哲学」なるものは、この問題に答えてくれないようである。いわゆる「哲学」にたずさわっている人々は、ただ一部の人々のあいだだけの隠語(ジャンゴル)をいじくり廻しているだけではなかろうか?
わたくしは前々からいわゆる<哲学界>なるものに満足することはできなかった。
自分は自分として反省をしたかった。『現代思想』の編集者の人々もわたくしの気持ちに理解を示されたようである。
そこで、『現代思想』誌にポツリポツリと連載させてもらって、やがて一書として刊行されたのがこの『自己の探求』である。
これは稚拙な試みである。しかし自分なりに考えてみた。あちらの書物をパラフレイズしたものではない。
はたして予想したとおり、この書は哲学界、思想界からは完全に無視された。
書評されたこともなく、言及されたこともない。
しかし、生き方を探求する人々は、真剣に読んでくださったようである。
そうして意外な方面から拍手喝采が送られた。 ー以下省略 ー」
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このHome page 全般にわたって一貫したテーマは、結局、”自分探し”である。
「何故? あのときに○△したのだろうか?」
「何故? あのときにそのような考え方をしたのであろうか?」・・・・・・・ 解けないままの疑問が、すべて青春時代に有ったことに始まっている。そして、いまもって私の心の片隅にぴったりとくっ付いたまま消えないそれに何らかの結論を出したいと念願し続けてきた。このホームページは、そんな自分の足跡であると言ってもよい。
『人間が、自己の在りようを、一生かけて創造していくものであるとするならば - 青春は、もっとも純粋かつ妥協なく、自己存在と向き合うときであるかもしれない。
ー 自分は何者であるのか。
ー なぜ生まれ、生きて呼吸し、何処へいこうとしているのか。
その問いかけに、数学の方程式のように整然と用意された万民共通の答えなどないことを知りながら、限りある自分の命を、意味あるもの、価値あるものたらしめたいと、人が願わずにはいられないのはなぜなのか?』
長谷川 綾 フリーライター 「Ideal Family」 August 2001
(医師:津田塾大卒、神谷美恵子 =らい患者のケア の紹介文)より
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般若心経で、こう言っている。
しき ふ い くう くう ふ い しき しき そく
ぜ くう
色不異空。空不異色。 色即是空。
くう そく ぜ しき じゅ そう ぎょう しき やく ぶ にょ
ぜ しゃ り し ぜ しょ ほう くう そう
空即是色。受想行識亦復如是。 舎利子。是諸法空相。 |
「諸法空相」で、「五蘊皆空」と、説いているのだから、”自分探し”の試み自体が、結論を得られない行為であることも推測は簡単である。
だが、敢えてこれを一心に励むことこそが、私自身の
ぎゃ てい ぎゃてい はら ぎゃてい は ら そう ぎゃてい
「羯諦 羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。」
だと、信じているのである。・・・・・・・・が、やはり
○ あるとみて、なきは常なり水の月。・・・・ であろう。
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これより先は、私の子供に、或いは親しい友人に読んで頂けたら・・・と、
つれづれなるままに蛇足を付け足しました。 |
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大部分の画家は、自画像を描く。
ささやかではあるが、ここに文章で「自分」を描いてみた。
・・・とは言え、画家が鏡を前に置いて描く”自画像”とは少し趣が違っていることと思う。
何故かならば、鏡を見ながら顔という物体を描くのとは状況が異なっているからである。
鏡の中の自分は、物理的な位置関係と大きさを、詳細にわたってほぼ正確に描くことは可能だ。 しかし、それでも、画家の心を反映して陰影や顔の各部分の大きさが微妙に画家の個性・その時の心情を反映する。 描きたい表情は画家が選ぶ。
さて、我が身の心の変遷をふり返って、己の過去と今をみると、これは意外と難しいモノである。
隠しておきたいと思う”恥ずかしい欠点”が、実は我が心の美点の裏側であったり、自慢したい”格好良い長所”が、これ又見にくい恥部の裏側にあるモノであるからである。
生きた時間の長さだけ、ヒトは悩み苦しみ、もがきながら険しい道を通りぬけてくる。それを意識するヒトとしない人がいる。
また、所詮、人間と言う動物は、エゴの固まりでしかない。
幼児のように、純情・無垢ではあり得ないからである。
お読みいただく前に、そのことをお断りして置きたい。
○ 青春時代、飢えて彷徨(さまよ)った。?!・・・私も・・・ |
★ 何故かしら?・・空虚な孤独感に襲われた・・ それから・・ 絶望感・・!・ |
私は、飢餓状態の体験を持たないが、きっと食べるもののない生き物は、ヒトは、路上に落ちている馬糞でも、”饅頭”に見えることであろう。
子供の頃から本が好きではあった。蔵の中に入って祖父や父親が読んだ本も読もうとした。
思春期に入ってから、一層その癖は強くなった。・・・・。むさぼるように本を読み漁った。
得体の知れない空虚な孤独感に襲われて、十四・五才の頃からは、まさに”Empty”な空間に漂う悲しさにつきまとわれた。
だが、本を、読めば読むほどに、虚無感と絶望感は増していったのだった。
これはいったい何であろうか?
・・・・ (高齢者になった今、振り返れば、これは、直感的に感じる『無常観』と、得体の知れない『おのれ』を生みだす分娩の痛みと、孤独に直面する不安から生じる苦痛だったと思う?・・・・・ 青年期の直感は、その人生全体を見通すほどの力があった。 ・・・・・。 そう思う。)
そんな経験をお持ちの方がきっと在ると思う。
中学時代には、夏目漱石が多かった。
高校は定時制農業科。田舎の分校であった。男子の生徒4名。
「農家の長男は、家に残って農業を継ぐのだ!」と、親の意志でこうなった。中学校の仲のよい友人たちは、それぞれ成績に応じた”進学校”に進んだ。
高校時代、青春の苦しみは一層大きくなった。ヒトは、共同幻想の中で生きる動物らしい。
中学から高校に入って、今までの”群れ”から、ポツンと引き離された孤独が苦しみの増幅の主たる原因であったと思う。
書物を読んだ。
書物を読んで、その中で、作者が一体何を表現し何を課題にしているかを掴(つか)もうとした。
俗に言う”進学校”に進んだ友人がこっそりと教科書を貸してみせてもくれた。だが、一向に青年の苦しみは癒(いや)されることは無かった。 |
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武者小路実篤・菊池寛・亀井勝一郎・芥川龍之介・有島武郎・石川啄木・幸田露伴・島崎藤村・堀 辰雄・伊藤 整・・等を思い出す。
ゲーテ、トルストイ、ドフトェフスキー、ロマン・ローラン、・・・そして、書物の書評を書く人々のものも読んだ。
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何故、この著作が”名著”なのかを探ることが、読書の最初の課題であった。
著名な作家の作品の中から、敢えて無名な物を選んで読んで、順次メジャーな物に読み進んでみた。
何がすばらしいのか????芸術とは何か? 例えば、日記までも読ませて頂いた。
孤独と劣等感に苛まれて絶望の淵にいた私にとって、書物はまるで飢えた野犬の獲物をまさぐるがごときであった。
劣等感は、私の中で自分のすべてを否定した。
自分のなかで、おのれの中に許せる物は一つも見いだせない。しかし、彷徨(さまよ)いながら・もがきながら、書物の中から光明(こうみょう)を見つけ出そうと、まさに藻掻(もが)いた時代であった。・・・・・・。今も忘れることはできない。
いま、読み返すと,禅語録の「祖堂集」などは、何だか全く架空の”屁理屈”のように思えて、腹の立つような思いがする。
それだけ現実の世の中の汚れにまみれてしまったのであろうか?!
しかし、何故か?当時はこれが良く理解できて面白かった。
自分の在処(ありか)を見つけたかのような安堵感(あんどかん)を与えられた記憶がある。
逆に、鈴木大拙氏の書物は、当時全く何のことか解らずに臍(ほぞ)を咬(か)んだ覚えがある(何故か、今は、すんなりとこころで理解できる)。
誰しも青春時代には悩む。
青春時代は、誰にとっても”疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代”である・・・と思う。
さて・・・・・。
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絶望感から救い出してくれたものは、三つほど記憶にある。
その一つは、祖母の何でもないふっと漏らした独り言であった。・・・・・?! いま、思い出せない。・・・が、光明が見えたその時に、わたしは祖母の言葉を反芻(はんすう)して、それが・・・、極(ごく)なんでもない言葉であることに驚いた。
それは本当になんでもない言葉であった。
はっと気づいた瞬間には、心の中で何度もその言葉を反芻した。・・が、・・・・、本当になんでもない言葉であった。・ ・・・・。
祖母は、糸紡(いとつむ)ぎをしながら、独り言のようにわたしに語りかけたのであった。
祖母も、木製の糸紡ぎの機械も今はない。
祖母の言葉によって、一つ淵(ふち)からよじ登ることができた。
その時に、祖母の言葉を二度程繰り返し自分自身に繰り返して言い聞かせたことは、私の記憶にある。
ヒトは、言葉を以て・・・・言葉で生きる動物である。 |
二つめは、自分の”肉体”に癒された。「奇妙だ!」と、お笑い下さるのもよい。
しかし、そうだった。『こんなに生きる価値のない自分でも、この腹の中では、一人前に・人並みに食した物を見事・・・・、繰り返すが、人並みに消化してくれている臓器があるのだ!』 『そうだ!自分にも、人並みなモノがある!』・・・と。
そんなことに気づいて(発見して)、自分は癒され少し自信がついた(笑っちゃうね!)。
何度も何度も「自分を抹殺してしまおう!」と、逡巡(しゅんじゅん)している最中のことであった。
それほど、絶望感は深かった。
だから、何かを掴(つか)もうとして無性に本を読んだ。読み漁った。
時間の過ぎるのが惜しまれた。一日、24時間が短かった。
「何とか?!自分は48時間に、否、72時間に充実して生きよう」等と、諸策を工夫しているときでもあった。
ヒトは窮すると、道理に叶わないようなことでも可能にしたいと切望するようである。想えば不思議な心理である。それでも、・・・・・、いずれは何らかの方法で”叶う”から、面白い!!
『死』を考える。その時、私のこころの裏側の”己”・自分が、正に逆に『ヒトとしての生』を模索していたようだ。 |
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一つの本のあらすじに集中すると疲れる。そこで、工夫した。・・・・・。同時に数冊の本を机上に広げて、疲れると別の本に目を移動して輪番に読んだ(笑っちゃうね!)。
聖書も読んだ。旧約と新約、そして解説書。新興宗教の教本までも読んでみた。
三つ目は、書物から何故か自信を与えられた。
それは、小林秀雄氏の著作であった。当時、随分と斬新な評論だと思った。そこで目に付く物はほとんど読んだと思う。小林秀雄氏の書評を元にその作品にも目を通した。
そんな中で、フッと『この人(小林秀雄)でもこうして世に出ているじゃぁないか?!それなら、自分だって・・・生きてみる価値はある!!』であった。「不遜な奴め!」と、お叱りの向きも在ろうが、正直、直感的にそう思って”自信”を得たのである(笑っちゃうね!)。
吉川英治氏は、小説で登場人物にこんな風に語らせていた。『土左衛門(水中の死体のこと)は、いつかきっと浮かび上がる。』と・・・。そうだ、三面記事に出てくる殺人の被害者は、重しを付けて水中に投げ込まれても、必ず浮いて水面に漂う。
後に、至道無難禅師の言葉
『生きながら 死人となりて なりはてて
思いのままにするわざぞよき』 と巡り会って納得できた。
自分のすべてを否定して生きることは、死に匹敵するほど辛かった。<当時はそう思った。>
文字通り必死であった。
ともかく、そんな中で、自分探しをした。そんな青春期であった。
青春時代は、暗い闇の中を歩く時代である。そう思う。
「青春期の苦しみは自分を生むお産のそれだ。
産みの苦しみは子供を分娩するときと同じ、大きいほど難産である。」そんなことを書いた本にも出会ったことがあった。
何せ乱読した。著者や書物の題名は覚えていない。
・・・・・。
振り返れば、全く受験のための訓練は受けなかった。それは自由な高校生活であった。
外から強制されるモノは一切無いと言ってもよかった。むしろ、家族は机に向かって本ばかり読んでいるのを心配していた。そんな息子の姿をみて、見るに堪えなかった様子であった。よく叱られた。
この「自由な日常」には、「自ら”選択”をする」という孤独がつきまとった。(そう言えば、ニーチェの著作にそのような言葉があったなぁ。)
岐路に立って思い悩むたびに「孤独の採択」に迫られた。自分自身と向き合った青春時代でもあった。
孤独感こそ人間を人間としてきたえる大切な要素だと思う。
孤独感をおそれ、それから逃げていては、いつまでも孤独感は人間の不幸でしかない。
(略)
もし私が甘えないで真の孤独感を味わえるとしたら、それをこそ、力にしたい。男の孤独、女の孤独でない人間としての孤独感を、不幸につなげないで、貴重な力にしたい。 (略) |
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『鳴滝日記』(昭和43年) 随筆家 岡部伊都子(1923〜2008) より抜粋 |
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内心、上にご紹介したような気持ちで、ひたすら耐えて生きた。 (「忍辱」の時間・時節だったように思う。)
孤独の中で、狂気と正気の狭間にいるような心地で、そのように信じて生きられたのは、何故だろうか?と、振り返って自問する。
注:担任の亀井先生には、随分とお世話になった。
定時制4年生の修学旅行の記念(中央が私) |
進学校の行っている『受験勉強』なるモノは一切しなかった。
定期的な実力テストも無縁の世界であった。
だが、TVの講座を活用して、『負けまいぞ!!』と、密かに勉学に励んだ。実にいろいろと彷徨(さまよ)った。
いろんな、書物に目を通した。それで、『やはり、教科書は良くできているわい!!』と実感した。教科書の編集に従って、己の居場所を振り返り、軌道修正もした。・・・・・。教科書は、うっかりととんでもない方向に迷い込んでしまっていることに気づかせてくれた。
だが、結果、殆ど小説ばかり読んだ。
しかし、そう言った時間に、私は純粋に、ひたすら純粋に自分と向き合った。
振り返って、今、そう思い出すのだ。
(振り返ると、「孤独の世界」は、実に貴重な体験であった。) |
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○ ヒトは、いのちは何かに祝福され、生かされている・・と言う実感・・・ |
@ 私の絶望感の根源・・・それは『普通』の流れから、曳きはがされた孤独から生じた。(そんなことが原因だった)
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比較と競争の学校生活。切磋琢磨(せっさたくま)の生活。そこから切り離された孤独感が私を迷いの泥沼に突き落とした。
試験成績の善し悪しで悦んだり落胆したりすると言う。小学校・中学校の生活とは一変した。
この”切磋琢磨(せっさたくま)”の生活も、訓練には重要な一面がある。
だが、「勝ち負け」や「優劣」の価値観から離れたところに、自分が放り出されてみると、津波(つなみ)のごとく私に孤独と絶望感が襲ってきた。
自分の心境は、「聖書」にある ”Stray sheep・迷える子羊”そのものであったようだ。聖書を読んでそんな共感を覚えた。
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生れ、生れ、生れ、生れて、生の始めに暗く、
死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥(くら)し。
・・弘法大師「宝鑰(ほうやく)」 |
○ 本来は、無一物なり雪だるま。
○ 人多き人の中にも人ぞなき、人となれ人、人となせ人。 ・・・いずれも、詠み人忘れ (*^_^*) |
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田舎の中学校で、少しばかり目立つ存在であった私は、父の薦めに素直に従って、農業高校の定時制に進学した。
父が地元の定時制高校に進学することを進めたのには、単純な理由があった。
夜、ジープに乗って家にやってこられた当時の村長さん・中学校の校長さんの説得によるものであった。
「地域の農村の後継者育成は、地域と地域の高校で・・・。」との肝いりで創立された学校には、入学希望者が少なかった。入学者が少なくて、このままでは存続も危ぶまれていた。
そんな理由で、農家の長男である私に入学を勧めに来られたわけであった。
親父は村長さんがわざわざご来宅されたことに感激したわけであった。
私は、中学校の校長先生が来られたことにいたく恐縮した次第であった。
<江戸時代代々庄屋だった。
父は、幕末の最後の庄屋の孫だった。「百姓」に矜持を持っていたのだ。> |
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自覚はなかったが、中学校まで”成績”で自分と友人を評価していたのであった。
自分と同程度の友人以外は、「友人」の枠の外にあった。
振り返れば、『差別』の眼が立派に自分のなかで育ってしまっていたわけである。・・・・・。私、農業高校や定時制は、内心見下していたのであった。
父親の薦めで入学したその高校に入って、過去に自分が知らず知らずに行っていた『差別』の眼差(まなざ)しがそのまま自分に向けられたのであった。いや〜ぁまいった! そのままその眼で、自分自身を責める結果となったのだ。
加えて、周囲の私を見る目も変わった。
確かに在る。この世は差別(仏門の人々は、”さべつ”と言わずに”しゃべつ”というようだ。”)の世界である。
特に、学校の先生たちはその傾向が強かった。
質問に応えて、正解を答えると「ちゃんと自分で考えろ!」と、私がカンニングしたと勘違いして注意された。宿題の製図などを提出すれば、「その歳になっても、まだ、親に宿題をさせるのか?!」などと誤解もされ非難された。
「定時制高校の生徒にはできっこない。」という、先入観で指導・教育されたのである。
ほんの一時期ではあるが・・・・、まじめに努力する気力は失せた。
思案の結果、やがて、私は置かれたその場の”生徒”になりきろうと努めることにした。「よい子」でなくても良かった。
信長が若い頃に”うつけ者”として生きた理由は分からない。成ってみれば、”うつけ者”も、結構心地よいではないか?!
そして、変な自尊心は捨て去ることにした。「普通の子」でなくても良かったのだ。
このころの決意は、そのまま今も変わらずに続いている。
否、青春時代に形成された心は変わらない。変えられないようだ。
私は、いわゆる『・・らしくない人間』なのである。
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一面から見ると、・・・・・、『差別』
『差別』とは、いすに腰を掛けて脚を組んだような状態である。
この時に、置いた脚が自分のものであるならば、組んだ下の脚は重さを感じない。
だが、他人のものであったら脚でなくとも重くて我慢できない!
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所詮、この世は差別の世界だ。あがきも通じない。それを「絶望感」と共に教えられることとなった。
結果、深い慚愧(ざんき)の念に自ら苦しんだ。それは、密かに人知れず涙する程度では簡単には消えなかった。消えるどころか、更に自分を責めた。
狭い世界で、少しばかり成績のよかった自分は、何時しか傲慢(ごうまん)になっていたのであった。・・・・、だが、赤裸々に申せば、私の場合には打算と功利的な日常生活が板に付いていたに過ぎなかった。
私の中の「負けず嫌い」が知識を旨く蓄えて、要領よく蓄えた知識を吐き出す方法を心得ていたに過ぎなかった。
高校の進学に失敗して、受験し直す人も結構いる。しかし、私は、この現実を受け入れる努力をした。
農業高校で、農場にいて単純な管理作業に従事しながら、自問自答の毎日であった。
さて、見渡せば周囲の友人たちは、成績こそは優れなかったが、純心であった。彼らは、姑息な駆け引きを一切しなかった。
それに気づいた私は、自らの醜さに脂汗をながした。そうだ!”四六(しろく)のガマ”の油売りの口上(Link)の如き有様であった。
しかし、『蝦蟇(がま)』になってしまえば、もう、怖いものはなかった。「不退転(ふたいてん)」の境地で勉学にいそしんだ。
だが、そこに至るまでが長くて険しかった。
(こころの時間は、長く感じた。青年期の1年間のこころの軌跡(きせき)は曲がりくねって長かった。)
先ず、周囲を怨(うら)んだ。・・・「何故?私が・・・。」「どうして、こんなところに置かれるのだ?!」
「怨み」というのは、軽蔑(けいべつ)と敵対心を経て生まれてくるものらしい。・・・・・。
当然にそのような心の負のエネルギーからは、幸福感などは生じようがない。
次に、自暴自棄(じぼうじき)になる。・・・・「もう、自分の人生は終わりだ!」(今思えば、笑っちゃうようなお話しだ。)
しかし、これは、愚かな行為であることがすぐに解った。
・・・・・。
農業・農学には、答えが幾つもあった。例えば、「茄子(ナス)の定植時期は、外気温25℃になったら行うとよい。」と、講義された。
私は、問い質した。「27℃や23℃ではいけないのですか?」と・・・・。応えは、『いや、それでもよい。』であった。この曖昧さがとても嫌だった。そのころの青年には、『地の恵み』や『生命力』等という言葉は、考えたくもなかった。
数学も化学も答えは必ず一つに限られている。
『科学的な知識』だけを唯一絶対であると・・・・・、私は思い込んでいたのだ。
想えば、祖父に何度も聞かされた『勉強ばかりできてもなぁ〜・。』という言葉は、軽視しながら聞き流していたのだった。
随分と年齢を重ねて分かることらしい。
しかし、これが私の受けてきた”学校教育”であったことは、否めない事実である。 さて、
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「Death Education」 エリザベス・キューブラー・ロス博士の「死についての学問=thanatology」に、
末期ガン患者の死の受容について紹介された著書を読んだことがある。それは、・五段階 ・・。
Step 1「戸惑い」「怒り」「不安」「焦燥」「抑鬱」 を、繰り返す。その後、・・・・・・、
Step 2 否定 ・・ 「私はガンのはずがない。何かの間違いではないか?」
Step 3 取引 ・・ 「死にたくない。どんなことでもします。どうか助けてください。」
Step 4 抑鬱 ・・ 多くの人がここで自殺を図ったりする。
Step 5 生かされている自分に覚醒 ・・ 苦しみの中で、
最終的に「人は生かされている」という事実を心安らかに受容。 |
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いささかオーバーのようだが、自意識過剰な傲慢(ごうまん)な青年の自分には、自業自得(じごうじとく)とはいえ、まるで死を宣告されたガン患者のごとき心境であった。・・・・。
誰もが抱くであろう”青雲の志”。青年期の夢と、将来への計算が根底から根こそぎ堀取られた。
田舎の”お山の大将”にも、青春期の大きな夢と野望があったようだ!?それが、すべて消え失せたと思ったからだ。(笑っちゃうね?!)
結果、私は青年期の最も多感な時期に、並ではない、貴重な場所に置かれることとなった。
多くの青年たちが、人生を考えることもなく、偏差値と追い駆(か)けっこしている時期に、私はあの「ガマの油売り」の口上にある蝦蟇がエルのごとく醜い自分と対峙させられることとなったのだ。
Link「ガマの油売り」の口上
そして、そこから、必死で孤独な自分探しが開始された。(これは、いまなお続いている。)とても貴重な境遇を与えられた。今になれば、正直、そう実感している。否、せざるを得ない。
(青年期の体験は人格の形成に非常に大きな影響を与えるようだ。)
先ず、私は、入学させた親を怨んだ。
地域の高校を存続させるために、一人でも多くの生徒を確保するため,夜、家にジープでやってきた村長と中学の校長を許せない気持ちの中で苦しんだ。
観てみれば、中学校の校長の長男も、地域の有力者の長男も多数この学校に入っていた。しかし、かれらは、私のように苦しまずに青春時代を楽しんだかのように思える。
何故?この私は苦しんだのであろうか?!・・・・・・。そこが、疑問である。
父親の死後、反目し続けた親父の「自分史」を読むと、「長男には可哀想な思いをさせた。」と、書いてあった。父親にも、息子の苦悶が見えたようであった。私の胸の内が分かった様子であった。
何故か?? 何故、私はそう思い、そんなに苦しんだのであろうか?
親父(おやじ)への反目は、永かった。父親が脳梗塞(のうこうそく)になって言葉が不自由になるまで続いた。親父の気持ちは十分に分かっていながら許せなかった。
だが、・・・・・、何故であろうか???
父は死に、その葬儀の日。火葬場の下まで着いたときに、突然に親父から呼びかけられた。こころの中で何処かから声が聞こえてきた。
私は、辺りをはばからずに声を出して泣いた。全身から絞り出すように体をくねらせて、・・・、それでも泣けて止まらなかった。既に、自分は60才になっていた。
親父(おやじ)はこう言っていた。『お前!可愛かったなぁ〜。哲康!』と、・・・・・。 それだけであった。
その時が、父子の相克(そうこく)の宿命と「孤独」から解き放たれた自分を自覚したときであった。
愛すべき親に反目しなければならない・・・、表現のしようの無い空しさから、その時に解放されたのであった。
だが、そんな軌跡(きせき)を歩んだ自分が、また、不可解なのである。
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A 窮すれば通ず・・・Man's Extremity is Gods Opportunity By Daisetz
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Man's Extremity is Gods Opportunity By Daisetz
ひとの行き詰まりが 神様のお出ましになる時である。
(鈴木大拙 1870〜1966)
(どうにもこうにも成らなくなったときに、新しい世界が開けてくる。)
自筆の書:報恩寺 (東京都東上野) 所蔵
”神は、自ら助くる者を助く”
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◇ フシギな夢を繰り返し観た・・16才から20才頃までのことであった。 |
一番感動した夢は、見事な色彩の夢であった。
本当に説明しきれないほどに”華麗(かれい)”な・美しい情景・色彩であった。
その情景は・・
山の頂上から、大きな水柱が吹き出した夢であった。
赤・青・黄色・・そこまでは記憶にある。あのような見事に美しい”赤”・”碧(あお)”・”黄色”は、かつて見たことがなかった。・・・・。すばらしい、見事な色であった。
そして、その水柱は太くてすざましいスケールであった。順次にドッと噴出して、瞬時に麓(ふもと)の村を埋め尽くそうとした。
まもなく私は、それらに飲み込まれた。
「冷たいぞ!」一瞬『あぁ!もう駄目だ!!』と、覚悟した。・・・が、瞬時(しゅんじ)に、それらの水にズ〜ンと持ち挙げられた。お山と同じ高さまで上げられたのだ!?上から6Km先の九久平まで見渡せた。
直感し覚悟した、”恐怖感”は不思議と感じなかった。
冷たい水の中に溺れる感覚はなかったのであった。
その時の私の驚きは、「あれっ。 顔にも耳たぶにも迫り来た水の感触がなかったことであった。
痛くもかゆくも・・、感じなかったことであった。
むしろ、それは、母親にいただかれたときの、あのやすらぎと暖かさだった。
・・・・・。季節は記憶にないが、高校1年生のころであった。
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注
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私の村は、標高607mの六所山が聳(そび)えている。その山の麓の村である。この山には、六所神社と村が始まって以来祀っている「八ケ峰神社」が祀られて、多くに崇敬者が心の支えにしてきた。私は、麓(ふもと)の村に住んでいる。標高はおよそ320m。 |
歴史参考:
1377年永和3年8月19日:松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)、吉木山(又は芳樹山)に陸奥の国一之宮塩竈六所明神を勧請奉祀する。
ご本殿を芳樹の宮と名付け、六所大明神と称した。猿田彦神(さるたひこのかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、岐神(くなどのかみ)、日本武尊(やまとたけるのかみ)を、御祭神とする。
それまで、吉木山は、そのものを神体山として、古往は大山祗神を祀り、産土神(うぶすながみ)として奉拝していた。その後は、隠居神として同じ山頂の東北にある峰に遷り、「蜂ケ峰神社」となった。 |
Link 「蜂ケ峰神社祭」 |
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『まさか?! そんなことが・・・???』と思うような、・・・。だから、”不思議”であった。
その後も、しばしばフシギな夢を見た。 それは・・・ |
☆ |
不思議な世界の探訪。 |
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いつも、誰か知らない面識のない男性が案内してくれた。
訪れた場所は、いつも何処も薄暗い世界であった。異様な体形の人々が、フシギなまるで動物のような奇怪な行動をする世界だったり、今度は、ピンクの世界で暖かな癒しの世界であったりした。
いずれも、この世では見られない世界であったので、眠りから覚めて、なお、いつまでも記憶に残ることとなった。 |
☆ |
10年後・15年後・20年後・・の、人生の岐路に立ったときの、自分の姿を夢で見た。
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それは、夢を見たときに”奇妙だ!?”と思ったので、印象に残っていた。そして、やがてその時が来て、『あぁ!あれだな?!』と、思い出すのであった。
たいていの夢が、「親父に似た顔?!しかし、親父ではない?!」それが自分だとすると、シチュエーションが摩訶不思議であった。「考えられない場面?!」。岐路に立ったその時点の、相手側から自分を見ている夢であった。
後年の自分であったのである。大方の夢は、その男が判断を誤って、苦難の道を歩く夢であった。
私は、時間を超えて、後年の自分の人生の岐路を垣間見たことになる。
一度夢でお復習いしているので、夢のようにならないように、”夢”で選択しなかった道を選んだ。
正夢(まさゆめ)というのであろうか?! |
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目覚めたときには、自分の顔が死人のように冷たかった。そんなことが多かった。・・・。不思議だ。 |
☆ |
以後のこと・・・ |
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フッと思い出したりして、脳裏に浮かんだ光景が、3〜4日後には実現する・・・
○ 例えば、昔の教え子・・・・。思い出すと必ず訪問されたりメールが来たり、お誘いがある。
「先生!○△で、”◇□”に集合ですが・・・・、ご都合は????」てな訳である。
その他・多数。・・・・・『そんなことが・・・・、どうなんだ?』と問われても、それはそれだけのことなんです。
<近代科学を学んだ”教養人”達は、必ず否定したくなるような戯言(ざれごと)です。だから、私は、”愚凡(ぐぼん)”なのです。> |
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ず〜っと、以前のこと・・・ これは、読者に妙な誤解をされそうな気がして、書くことをためらっていたが、2009年に追加した。 |
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どう考えても合点がいかなかった夢を見た。 山里に住んで居た。 子供の頃に、夏、水遊びをする場所は、溝のような狭い小川だった。
しかも、親たちが堰の下の水の落ち込む少し深まった部分を小さなプールに仕立ててくれた場所であった。それは、大水が出るたびに形状が変わったり、場所を移動させたものであった。
ある日、不思議な夢を見て驚いた。今まで水泳(水遊び)したことのない狭い棗(なつめ)の木の下に、土手から飛び込んで遊びに興じている夢であった。 ・・・・。 それはどう考えても思いつかない遊びであった。 幅が、およそ数十cmと狭い場所であった。 そのような場所は、とうてい水遊びは出来ない場所なのだ。
ふっと、父にそのことを話した。
父は、次のようなことを言って応えた。
『その場所は、自分が子供の頃に遊んだ場所だった!当時はそこは深かったのだ。当時の子供達の遊び場所だった。』と、・・・。
私には、到底、想像できない光景であった。そして、父親に聞いてみれば驚きの、それは私の生まれる前の光景であったのだ。
父親が子供の頃遊んでいた、親父の見た里山の光景を夢に見ていたのであった。
(信じて頂けるかな?)
常識的に言えば、一元の世界を見るには二次元以上の場に身を置かなければ不可能である。二次元の世界は、三次元からでないと確認することは不可能だ。
・・・・・・・・・・・・・・。
四次元のこの世に生きていて、時間の軸を遡った時空を見たことになるのである!?
この"夢"は、決して作り話ではない。 |
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◇ 「フッ!」と、感じたインスピレーション。・・ 生き方のスタンスが決まった!
(敢えて、ここで自分の愚かさと小ささを披瀝させていただくことにする)! |
青春時代に直感して、生き方のスタンスを決めた。
ある種のInspirationで、大きな雲の上にス〜ッと、持ち上げられたような気分になった。
静寂な世界に脱却したように感じたのである。このときに、こう思った。「今までの世界とは違う!?」 なぜかしら、そこは今までとは違う”スッキリ”とした安堵感に充ちた別世界であった。「世から抜け出た」ように感じたのであった。
私は、『ひょっとしたら、・・・・、これが<出世>か・・??』と、思った。それは、阿部次郎の「三太郎の日記」を読みながら、坂道を自転車を押しながらトボトボと歩く夕方のことだった。高校四年生。
以来、何故か、自分のスタンスが決まったのだ。・・・愚凡(ぐぼん)をそのまま受け入れて、<愚直(ぐちょく)>な生き方を選んだ!
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言葉で自分を飾らないこと。言い訳を一切しないこと。勿論、絶対に嘘やお世辞を言わない。 |
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言葉には、それなりの意味(言霊ことだま)がある(当然のことだ)。話す言葉は、必要最小限でよい。 |
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風聞や肩書きは一切排除して、人と対面して、その人の魂そのものと対話すること。人間性を見通すこと。 |
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自分の自慢したいことは、ひとまずそれに0.3を掛けて評価し(自分の良いことは三分の一に見る) |
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そして、他人の長所には3倍して評価し直す。・・・・。
これは、悲しく、そして悔(くや)しかったが、
そうしてみると確かに現実の世界はその通りであった。
(この歳になると、もう、そうしなくてもちゃんと少しまともに見えるようになった。)
周りがすばらしい人ばかりに見えた。実にすばらしい現実の世界であった。
人生が退屈なのは、与えられた境遇を見下しているからである。
そう実感した!!・・・・・苦縁讃
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◇ 決意のきっかけ・・
わたしは、絵が好きであった。(音楽も好きであったが、ピアノの練習などは頼んだが、当然、聞き入れてくれなかった。)
・・・。
ある時に、絵を描いていた。いっぱしの画家気取りであった。風景に向かって腕を伸ばし、・・・・・・、指を立てて・・・・・。その時にフッと思い当たることがあった。
『おやぁ?!』と、思った。
伸ばした腕の先の親指に遠くの樹木が親指に隠れるではないか?!・!(勿論、当然のことである。)
そこで、”フッと思い当たった”ことは、こうだ。
私の魂は、父母から頂いた肉体に入っている。愛(いと)しんで育てられた。
以心伝心。そのままの気持ちで(親が愛(いと)し子を眺めるがごとく)、自分を観る。・・・と、つい、尊大(そんだい)に自己を眺(なが)めて、魂が肉体を通してみる周(まわ)りの世界は、小さな親指が遙(はる)か彼方(かなた)の樹木と同じ大きさに見えていると、・・・・・・、大変な錯覚(さっかく)をしながら、世界を観ているのかも知れない?!
絵を描くときの腕の先にある親指と、遙か向こうにある大木と同じ大きさに・・・・・。 で、ある。
この発見には、驚いた!? |
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私は他人に厳しく、自分に甘かった。
こころの眼が曇っていた。しかも,乱れて視えていた。
その上、おかしな色つきで見えていたのである。
そこで、今までの見方を改める努力を試みた。
逆転させると、人生、やり甲斐と目標がふくらむのだ。
自分を正しく評価することによって”希望”が萌芽(ほうが)するのであった。 |
何故か、心中にそう決めたのであった。
自分の人生の先が、この選択によって狭められた。そう思った。・・・が、そう決意した。
『馬鹿な生き方』を、私は敢えて選んだ。
<何故か人は、他とは異なったものや言動をすると、罪悪感とか自己否定に陥(おちい)り苦しむようだ。ひょっとしたら、「生命」が持つ、太古の群生小動物の頃(鰯やメダカなど)の遺伝子の記憶であろうか?!>
この時、私の人生のこの先に見える道は、僧侶になるか彫刻家か童話作家くらいしか見えなかった。
その道は、俗に言うところの<出世>の道には、到底見えなかった。
しかし、この道が一番自分に合っていると直感したのである。”直感”には論理のつじつま合わせは不可能である。
ともかくそう決意したのだ。
後々、こういう生き方を<愚直>と言うらしいことを知った。また、後に、<八正道(はっしょうどう)>なる言葉を書物から学んだ。
しかし、”八正道”を、「愚直」と言うかどうかは、私にはわからない。
様々な執(とら)われから、外に出られることが解ったのだ。執(とら)われの外に出ると、事に当たって、物事への集中力が強くなる。有効に今のいのちを全うできると思った。
悔やんでも仕方がない、
大切なのは、いま、ここ・・
かけがえのない いま、ここ・・
焦(あせ)っても仕方がない
大切なのは、「自分」を生きること
かけがえのない いま、個々(ここ)・・
・・と、言い聞かせた。
法句経の一節にも符合して面白い。
Link 法句経
・・ 苦縁讃 |
○ 眼が曇っていては、世界どころか自分自身が見えない。
○ 他人には嘘がつけても、自分に嘘はつけない。
・・・正しい姿勢で言動しないと、つまらぬことにこころが執(とら)われて、物事に集中できない。
○ 嘘や虚栄は、それを取り繕うために、
実に無駄な記憶をし続けなければならない。
率直にあるがままを観<観自在>て、つまらぬ些事に苦しまない<一切の苦厄(くやく)を度(ど)す。>ためには、神仏の前にひざまずいて何百回念仏を称えても駄目なのである。老子は、「道タオ」第21章 の中で、『虚心』と言っていた。後に知った。
Link 思索の庵ー17 |
友人の中には、『君は、単純だ!』とか、諸事情に対して動揺しない私に対して『君は、傲慢(ごうまん)だね!』と、批判する者もいた。
しかし、理解してより深くお付き合いしてくれる友もできた。・・・。
あの頃に自分は、・・・・、確かに、俗世界から推測するところの”禅僧の小坊主”のような振る舞いであったかと思う。
しかも、年齢も肩書きも無視したかのような傍若無人な若造(わかぞう)であった。(エヘヘ!!笑っちゃうねぇ!?)
だが、内実は決して「傲慢(ごうまん)」ではなかった。それは誤解であった。・・・・・。以後、”誤解”は、全く恐れるに足りないことにした。頑固(がんこ)ではなく、わたし流に称すれば、”不退転(ふたいてん)”なる不動の生き方であった。
その頃からであろうか、「家を出て・・・、村を出て・・・・」などと、こころ密かにもくろみを始めた。
親の意志を無視した身勝手な生き方を、決意したのである。
「当面して、今は、もっと学びたい!」と熱望した。
だが、家族は反対したからだ。しかし、親を裏切っているという負い目が、一層自分のこころの中で<空しさ>を増幅させた。そうだった! 青春時代のそれは、”空しさ”との追い駆けっこであった。
それは、『高み』を極める生き方ではなく、『深み』を探る生き方である。
内心、そう思った。(笑っちゃうね?!)
堀江ケンイチ青年が、ヨットで単独横断を成し遂げたニュースが報道されている頃であった。私は、人生行路一人旅を自覚して、彼に共感したことを思い出す。
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B 私たちは、何か大きなものに導かれている・・生かされている→・私の場合 |
その1・・ 「右にならえ!」の人生から弾き出されて、予期しなかったものを学び取った。
・・高校進学
『迷える子羊』には、イエス様が、身近な存在に思えた。
<イエスさん。貴方より私は”純”だよ!>と、内心思った。不遜な青年がそこにいた。
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その2・・「勉強」は辛いから”強いて勉める”と書く。
私は、枯渇(こかつ)して知識を求め智慧を探した。
『十有五にして”学”を志し・・』た。孔子様が、人間的に身近な存在に思えた。 |
その3・・ 前述のごとく”夢の啓示(けいじ)”に導かれた。 |
その4・・ 高校では、担任の教師が、『君は、ここに居なくても良い。』と言われ、
別室で、勝手に好みの書物を読んだ。
中学校の復習のような授業に退屈であった。そんな私を解ってくださったのである。
小さな分校では、担任の教師が五教科目も担当されていた。教える方も大変であった。
質問しても、納得の行くようには応えてもらえなかった。
そこで、『君は、ここに居なくても良いから・・。』と言われたのだ。
夜間高校に転校。そして、昼間は農事試験場の練習生となった。・・・・。
全寮制。先輩にしごかれた。
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しかし、受験した大学に合格できた。
俗に”駅弁大学”と言われたが、それでも国立大学に合格できた。
フシギな出来事であった。 |
”神は、自ら助くる者を助く”・・・と、実感して、驚いた。 |
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これで、誰はばからず、本が読める!! 万歳!!
出題者をして、私に解ける問題を作らしめたに違いない。
お陰で、大学にいて多くの知らない世界を観た。 |
その5・・ 大学時代に、不注意による事故を起こした。偶然、生き存(ながら)えた。
Link Prologue
事故により長期入院したために、
目論(もくろ)んだ”家から出る”計画は、頓挫(とんざ)した。
退院して大学に戻った頃には、就職試験のほとんどが終わっていたからである。 |
その6・・ 何故か、教員になりたくなかった。しかし、もう、それしか道がなかった。
しかも大学の研究室の棚橋教授の特別な計らいでそれが実現した。感謝に堪えない。
・・・・が、何故か一大決心をしなければ、”教師”になる気にはなれなかった。
私の中の<教師の理想像>から、ほど遠い現実の姿がそこにあったからだ。
更に、自分が”教育”等という、大それた技のできる人間とは到底思えなかったからである。
子供の頃、祖父から聴いた、”尊敬する教師像”には到底及ばないとおもったからだ。
・・・・・、が、それ以外にも・・・、円形脱毛症になって悩むほど嫌だった教師にしか、道がないと思ったときの気持ちは、
他にもあるように思う?! これも、これからの自分探しの大きな課題である。 |
その7・・ 小学校時代の校長先生夫妻は、そんな私を陰ながら心配しつつ眺めていてくださった。
小学生の私には、新しい校長の企画する学校行事のすべてが感動であった。
後に私の義理の親となった。
二年生の時に、東京から赴任してきた”校長先生”の長女は、小学校時代に席を並べた同級生であった。 |
その8・・ 37年間教職を行った。不肖(ふしょう)のこの身!
全身で”教育者”に成りきろうとした。
辛い努力を続けた。義理の親父には、よく相談をした。
世間から実の息子かと勘違いされるほど、よく親父の元に通ったものである。
義理の親父のアドバイスは、小さく成りそうな自分の世界を、大きく拡げてくれた恩人であった。
そして、
教師であった間に、多くのことを学んだ。
教え子達に刺激されて、多くの世界を垣間見た。・・・。
惰性(だせい)で「教育」に携わっている教師や偏見(へんけん)で子供達を評価する教師や、当の本人には自覚はないが、自己の栄進の為に知らず知らずに生徒を利用する教師もいた。
そんな位置から、何故か他の多くの教師達を私は眺(なが)めていた。
だが、過ぎていま、想えば、・・・・、私には、・・・・、この、教師の仕事しかできなかったのかも知れない。
これが私に与えれられた『ご縁』かもしれない。
私は、そんな経緯で、教師になった。当然、異端(いたん)の教師であった。
県教委にも遠慮なく批判の発言をした。
だが、
しかし、・・・・・、このような私を・・・、想えば良く教頭にしてくれたものだ。
教頭になったその時に、親父は大層悦んだ。
脳梗塞で言葉を失った親父の目から涙を流して悦んでくれた。
子供達も義理の兄弟も、そして、かつての教え子達も祝ってくれた。
しかし、”昇進の嬉しさ”は皆目(かいもく)私には無かった。・・・、何故か責任の重さのみがのしかかった。
既に、同期の同僚達は先に栄進していた。皆、その時には満面に嬉しさを隠しきれない様であった。
だが、私はそうではなかった。
教師になると決めたときに、<教師に成るからには、栄進は望むべきではない。>
と、何故か・・そう決意していたからだったかも知れない。
しかし、この報告を伝えたら、親父は脳梗塞で、話すことは不可能であったが落涙(らくるい)するほどに悦んだ。
このときには、正直、嬉(うれ)しかった。褒めてくれたようであった。『そう言うモノか?!』と、感じさせられた。
そう言えば、親父に褒められたことはもう一度あった。
20代の頃、私の書いた教育に関する論文を、どこかで読んだ様子であった。
『よい視点で書いているな!』と、言われた。
10年間の教頭勤務は、私には更に厳しかった。
それは、180度、自己の在りようを換えねばならなかったからだ。
”異端の教師”のままでは、教頭の職は務まらなかったからだ!
今までの”自分と生徒”の関係から、
『異端の教師』は、批判的に眺めていた職員(教師)の中にとけ込んだからだ。
ほとんど独学で学んできた私には、画一的な教育がどうしても承知できなかった。
教頭になってからは、そんな自分の主張は遠回しに行動する以外に方法は見いだせなかった。
本当に辛い10年間であった。
私は、校長には昇進させられないまま停年退職した。
狭い世界の中での天狗様には成らなかった。無意味なしがらみに縛られないで終わった。
想えば、ウシロからつっかい棒をしてやらねばひっくり返りそうになるほど傲慢になった、独善的な天狗様の屁理屈を、
真面目な顔をして聞いて差し上げなければ納まらないような上司(校長)が多かった。<負け惜しみではない。> |
さぁ〜て、ざ〜と振り返った。・・・・が、一切が皆『苦』であった。だが、その苦しみの中で、実に多くの事柄を学んだ。多くの教え子達と出会った。多くの人々のご厚意を授かった。苦縁は、讃えて受け入れるがよい。・・・・と、思う。
以上、小さな、そして些細(ささい)な独り言である。。。
不器用(ぶきよう)で、愚鈍の私には、計算外のことばかりであった。自分の選んだ道は極めて少なかった。
その道も、予想とは大きく異なった世界であった。しかし、この道をトボトボヨロヨロと歩みながら、多くの沢山の智慧と感動を獲た。振り返って、つくづくと私は、何か大きなものに導かれて来た。と思うのである。。 |
このHome page 全般にわたって一貫したテーマは、結局、”自分探し”である。 |
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