柴田秀利氏 略歴
年月日 |
年齢 |
事 項 (敬称略) |
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1917.7 |
0 |
柴田秀利 愛知県東春日井郡瀬戸町で大脇小三郎・まつの の次男として生まれる。 |
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1929.11 |
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母方の家を継ぐため柴田覚太郎・多津の養子となる。 |
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1930.3 |
13 |
道泉尋常小学校卒業。(現瀬戸市立道泉小学校) |
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1931 |
16 |
ゴルフを始める。(名古屋ゴルフ倶楽部和合コース) |
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1935 |
18 |
愛知県立明倫中学校卒業(現愛知県立明和高校)。 名古屋大曽根の陶器絵付工場に住込みで働くが、病気で勤めを止める。 |
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1936.4 |
19 |
青山学院大学英文学科入学。 |
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1937 |
20 |
全日本学生演劇連盟理事長。(会長久米正雄、副会長岸田国士) |
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1940 |
23 |
青山学院大学英文学科卒業。報知新聞社入社。 |
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1941 |
24 |
招集礼状。岐阜の第 68歩兵連隊へ入隊。 |
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1942 |
25 |
陸軍少尉で中国出征、揚子江対岸の津浦警備の独立混成赤鹿兵団に配属。 |
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1943 |
26 |
病気で内地帰還。応召解除。読売報知新聞社複社。 社会部付大本営報道記者。千田是也、伊藤道郎らと「太陽の劇場」運動起こす。 |
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1945.8 |
28 |
日本無条件降伏。 |
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10 |
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読売新聞社第一次労働争議、正力松太郎戦犯として巣鴨拘置所入り。 連合軍総司令部担当記者となる。 |
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12 |
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馬場恒吾 読売新聞社社長就任。 |
1946.5 |
29 |
食料メーデー最中、高松宮、竹田恒徳(旧竹田宮)(注1)に呼ばれ、「何とかならんかねえ、頼むよ。」と相談される。 |
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6 |
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馬場社長とともにGHQへベーカー代将(注2)を訪ね読売問題で協議。吉田茂首相と初対面、以後親交を深める。 読売新聞社第二次労働争議。 |
1948.11 |
31 |
NHKで日本初のニュース解説者。(翌年読売新聞社退社) |
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1950.6 |
33 |
外電の中から米国 カール・ムント上院議員(注3)の「ビジョン・オブ・アメリカ」(V・O・A)に関する議会演説を発見し、ネットワーク建設構想を知る。 電波管理委員会発足。 |
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1951.4 |
34 |
アメリカの電波事情視察のため軍用機で渡米。 ムント上院議員と会談。(V・O・A)を撤回、日本独自のテレビ建設計画実現に協力を約束。 ムント議員の手配でホールスウセン弁護士(注4)、ホールステッド技師(注5) 、ダスチンスキー博士(注6) の3氏と会う。3人にテレビ計画実現の協力を要請。 |
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8 |
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NHKニュース解説者を辞任。 社名を柴田案の「日本テレビ放送網株式会社」とする。柴田「網」(ネットワーク)の言葉にこだわる。 |
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8.6 |
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正力松太郎公職追放解除。ホールスウセンあてに3人を正式招待する書簡を送付。 |
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8.14 |
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AP,UPなど「ムント上院議員の日本テレビ計画実現の話」を世界に配信。 |
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8.20 |
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正力、毎日新聞、朝日新聞を訪問し各社 1000万円の出資を要請、了解を取りつける。同時に内外に日本テレビは読売、毎日、朝日の3社共同事業と位置付ける。 |
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9 |
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日本テレビ設立記者会見。 |
1952.7 |
35 |
日本初のテレビ放送予備免許取得。 |
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10 |
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日本テレビ放送網株式会社設立総会。 |
1953.3 |
36 |
マイクロウェーブによる多重通信ネットワークシステム建設のための 1000万ドル借款交渉で渡米。渡米後元 OSS長官で弁護士のビル・ダナヴァン将軍に 1000万ドル借款の協力を要請。腹心のジェームズ・マーフィ(注7) と対面。また、この時ホールステッド技師の紹介でバーノン・ウエルシュ(注8)と知り合う。 |
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7 |
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1000万ドル借款に関する国防総省の正式推薦状が輸出入銀行に提出される。 |
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8 |
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日本テレビ放送網(株)放送開始。( NHKに半年遅れ) |
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12 |
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アイゼンハワー米大統領が国連で “アトムズ・フォー・ピース” の演説を行う。 |
1954.3 |
37 |
ビキニ水爆実験で第5福竜丸被災。 |
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12 |
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マイクロウェーブ建設計画反対決議案を衆議院本会議で可決成立。( 1000万ドルの夢消える) |
1955.1 |
38 |
読売新聞社社告にてアメリカから原子力平和利用使節団招待を発表。 |
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5 |
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アメリカから原子力平和利用使節団来日。団長ジョン・J・ホプキンス(注9) |
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11 |
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原子力平和利用博覧会開催。(全国を回る) |
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12 |
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世界読書力財団スピアー会長の教育とテレビの効果についての質問に対し、正力社長は「ホールステッド技師の街頭テレビのアイデアが成功していることを紹介。 |
1957.10 |
40 |
第5回カナダカップを日本で開催。(霞ヶ関カントリークラブ) 世界初のテレビ中継。 |
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12 |
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「ホプキンス・正力カナダカップ記念奨学基金」設立。(吉川庄一 M ITに留学) 日本テレビ放送網(株)取締役就任。 |
1958.3 |
41 |
室伏高信著「テレビと正力」講談社より出版。 |
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1960.6 |
43 |
アイゼンハワー大統領(注 10)とワシントンのバーニング・トリー・カントリークラブで会談。大統領の訪日中止を進言。 |
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9 |
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日本テレビ放送網(株)カラー本放送開始。 |
1962.5 |
45 |
国際新聞発行者協会、編集者協会総会に読売新聞代表として出席。(於パリ) |
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10 |
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よみうりランド建設計画のためアメリカ視察。 |
1963.5 |
46 |
正力と喧嘩( 10カ月出社せず) |
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1966.8 |
49 |
フラー博士(注 11)と富士登山。 |
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11 |
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2度目のゴルフ選手権(ワールドカップ)をよみうりカントリーで開催。 |
1967 |
50 |
日本テレビ放送網(株)専務取締役就任。 |
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1968.9 |
51 |
正力と再度衝突。日本テレビ放送網(株)を去る。 |
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1969.3 |
52 |
小笠原視察。 |
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1972.10 |
55 |
財団法人公益法人協会設立。顧問就任。 |
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1976.4 |
59 |
竹田恒徳らとガダルカナル訪問。 |
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1979.12 |
62 |
穂高自然保護財団設立。理事長就任。 |
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1981.10 |
64 |
ガダルカナル平和記念公園完成。 |
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1982 |
65 |
プリンストン大学吉川庄一、サンディエゴの大河千尋博士、フレデリック・デ・ホフマン博士(注 12)訪問のため渡米。 |
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1985.12 |
68 |
著書「戦後マスコミ回遊記」中央公論社より出版。 |
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1986.10 |
69 |
アメリカへ最後の旅に出発。 |
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11 |
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フロリダで客死。享年69歳。 |
(注1) 竹田恒徳氏(旧竹田宮) |
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戦後、柴田氏は元大本営参謀の竹下正彦中佐の仲介で、情報網を失った竹田氏に主として天皇の運命に関する世論を集め、報告することを義務付けられていた。 以来、2二人の生涯にわたる親交が始まり、「私の戦後の運命は柴田君のおかげ」と書かれた手紙もあり、また、竹田氏は柴田氏の死に接し「生涯最高の親友を失った」と悲嘆にくれた。 東京オリンピック開催時のJOC(日本オリンピック委員会)委員長。 |
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(注2) フレイン・べーカー代将 |
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GHQ渉外局長。マッカーサー元帥の側近の1人。民間情報教育局長ニュージェント中佐の直属上官。第2次読売労働争議の解決にマッカーサー元帥の代理として柴田氏に協力した。 1953年のマイクロウエーブ通信ネットワーク建設のため 1000万ドル借款交渉で訪米した際には、友人のスタンバーグ氏が輸出入銀行の副総裁であることから直接銀行にでかけ総裁、副総裁への紹介の労をとり柴田氏のために骨を折ってくれた。 |
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(注3) カール・ムント上院議員 |
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アメリカ上院議員でワシントンの情報の生みの親。 1950年「ボイス・オブ・アメリカ」についで、テレビのネットワークを世界中に建設してアメリカの反共政策の武器に使おうとする「ビジョン・オブ・アメリカ」の創設を提唱し、まず日本とドイツにテレビのネットワーク建設計画の構想を議会で演説した。 当時NHKでニュース解説を担当していた柴田氏は偶然、外電の中からこの情報をキャッチした。柴田氏は 1951年アメリカの招待で電波事情の視察のために渡米した際、ムント上院議員と出会い日本の現状を説明した。 この時ムント議員は、柴田氏のテレビ計画実現に全力を上げて援助することを約束し、上院外交委員会顧問ヘンリー・ホールスウセン弁護士、ウイリアム・ホールステッド技師、ウォルター・ダスチン スキー博士の3人の専門家を紹介し、その場でニューヨークでの会談の手配までしてくれた。 1953 年には、マイクロウエーブ通信ネットワーク建設のための1000万ドル借款交渉で訪米の際、彼の後任の上院外交委員会情報小委員会長ヒッケンルーバー議員を柴田氏に紹介。 |
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(注4) ヘンリー・F・ホールスウセン弁護士 |
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電子論と金融関係専門の弁護士。カール・ムント上院議員の「ボイス・オブ・アメリカ」創設以来上院外交委員会顧問として放送事業に携わっている。RCA、フィリップス、アインホーバーなどの代理弁護人。 |
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(注5) ウイリアム・S・ホールステッド技師 |
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1927 年ヘイバフォード大学卒業。早くから電子の魔術師として名声を博し、カール・ムント上院議員の技術顧問として一切の技術政策に関与、当時では奇想天外と言われた北大西洋 横断テレビ、全般通信ネットワークを発表。 電波の多重利用技術の発明者。日本でも後のテレビ技術の基礎を作った。 柴田氏と出会った最初の日に自宅に招き、マイクロウエーブによる通信技術の可能性について柴田氏の目を開いた。 街頭テレビのアイデアはもともとホールステッド氏が柴田氏に教えたものである。 |
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(注6) ウォルター・ダスチンスキー博士 |
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チェコスロバキア出身の万能設計技術者で、航空技術、電子工学の総合的・能率的利用が専門で、国際連合本部の通信組織の設計者でもある。 |
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(注7) |
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弁護士。大のゴルフ好き。 元OSS(特殊戦略本部)長官で弁護士のビル・ダナヴァン将軍の腹心の部下。戦時中OSS長官の下で諜報関係を担当するXUの部長。XUは CIAの前身で長官アレン・ダレスは戦時中マーフィー弁護士の部下だった。 柴田氏とは 1953年にマイクロウエーブ通信ネットワーク建設のための1000 万ドル借款交渉で訪米の際にダナヴァン将軍の紹介で知り合う。以来生涯を通じての親友。 |
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(注8) |
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ホールステッド技師の学生時代からの親友。GD(ジェネラル・ダイナミックス)社副社長。 1953年ホールステッド氏の紹介で知り合う。柴田氏に原子力の平和利用の可能性を説明、核融合による水爆の平和利用が最終目標と語り、柴田氏に原子力時代への夢のきっかけを与えた。 以後の2人の友情は、アメリカの原子力平和利用使節団の日本派遣、カナダ・カップの日本開催の実現へと発展する。 |
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(注9) ジョン・J・ホプキンス氏 |
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GD(ジェネラルダイナミックス) 会長兼社長。 1955年アメリカの原子力平和利用使節団団長としてウエルシュ氏らと来日。 国際ゴルフ協会の会長でゴルフのオリンピックといわれるカナダ・カップ(現ワールドカップ)の創立者。柴田氏のたっての願いでカナダ・カップの日本開催をノーギャラで実現してくれた。 彼の好意と功績を偲び大会終了後「ホプキンス・正力カナダ・カップ記念留学基金」を設立し吉川庄一氏を核融合研究のためアメリカのMITに留学させた。吉川氏は現在核融合研究の世界第一人者である。 |
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(注 10) アイゼンハワー米大統領 |
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第34代アメリカ大統領。 このとき日本は翌年が日米修好100年祭にあたるというのでアイゼンハワー大統領の招待計画を予定していた。 |
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(注 11) リチャード・バックミンスター・フラー博士 |
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技術家、建築家、デザイナー、哲学者。 東京よみうりカントリークラブのクラブハウスをフラードームで設計。 柴田氏とは 20年来の友人で、2人の友情は太平洋時代構想、地球の 環境保全、世界平和実現の思いに大きく貢献したと思われる。 |
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(注 12) フレデリック・デ・ホフマン博士 |
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GD(ジェネラルダイナミック)社の原子力部門ジェネラル・アトミックス社の社長。 水爆の生みの親となったエドワード・テラー博士の助手として水爆開発に携わった。 |
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