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占領政策の転換
社長の馬場恒吾さんは、占領下の日本では吉田首相に次いで、アメリカに信頼
され、尊敬されていた、天下に知れた自由主義者であり、デモクラットだった。
ことにインボデン新聞課長の直属上司のドン・ブラウン情報部長は、戦前ジャパ
ン・タイムズで、馬場編集局長の下で働いていた男で、つねに「先生、先生」と
呼んで敬愛していた。
......
こうなってはスト派も困るが、反スト派も困る。錦の御旗を失っては、読売新
聞そのものが消えてなくなるからだ。考えあぐねた私の結論もそれだった。そこ
でスト派と戦い、これに打ち勝つためには、先ず容共的占領政策を根本から転換
させることが先決である。それ以外に、力ない社員を結束させ、立ち上がらせる
道はない。そのためには、何としても馬場さんの信用を活用し、この人を前面に
押し立てて、司令部を動かす他ない。自ら立たずしては、司令部としても手の
打ちようがないからだ。
相談する相手もなく、独り呻吟すること三日、私の戦略構想はまとまった。戦
時中、大本営報道部記者をしていた時、外務省から召集されて陸軍省報道部で外
電関係を担当していた福田篤泰中尉と親しくしていた。その福田氏が戦後外務省
へ戻り、情報課長として記者会見を担当するようになった。私もまた霞クラブの
メンバーとして、再び日夜接触する関係が続いた。血気盛んな彼に引っ張られて、
わざわざ横浜あたりまで夜遊びに出掛けたこともあった。その彼が、今や吉田内
閣の筆頭秘書官として台上にいる。因縁浅からず、遠慮会釈する仲ではない。最
高司令官への至近距離は、いうまでもない吉田総理をおいて他にない。私はトボ
トボトボと歩いて坂道を登り福田秘書官を訪れた。まさにツーといえばカーであ
る。
「よーし分かった。総理に言わせることをここに書きたまえ」
と一枚の紙を差し出した。何のためらいもなく、私は次の三カ条を大きな字で書
きなぐった。
一、天皇制擁護を確立すること。
二、占領政策の基本を容共から反共ヘハッキリと転換させること。
三、マ元帥の名において馬場社長を呼び戻すこと。
「よし、今晩すぐ総理に元帥のところへ行ってもらうから、明日の朝結果を聞
きに来てくれたまえ」
二人はここで固く握手し、「一読売新聞にとどまらず、日本を共産革命から守
るために、死を賭しても戦おう」――と誓い合った。
「要求はすべてOK。早速GHQ渉外局長のブレイン・ベーカー代将に元帥の代
行を命じたということだから、すぐベーカーのところへ行ってくれたまえ」とい
うお達しであった。
...直ちにタクシーを拾うと一目散に内幸町のNHKビルに向かった。渉外局
長のオフィスは二階の階段を昇るとすぐのところにあった。ベーカー代将は、マ
ッカーサー側近の一人で、民間情報教育局長ニュージェント中佐の直属上官であ
ることは知っていたが、会うのは初めてであった。私が入ろうとすると、途端に
そこから逃げ出して飛び降りて行った男がいた。それが総理側近で、当時終戦連
絡事務局次長としてクローズ・アップされていた白洲次郎公使だった。彼は私の
顔を見ると、ニコッともしないで、ただ、ウンと首肯くだけのサインを送った。
これは俺の問題で来てたんだな、と直感した。
副官がすぐ連絡し、代将室に案内された。どことなく故ルーズベルトを思わせ
るような温顔の老将だった。坐る間もなく、
「マ元帥の命令だといって、明朝十時に馬場社長を連れてきたまえ」
といった。