(昭和29年、柴田氏はテレビ時代の創造に続き、原子力時代の創造に向かって走り出した)
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技術立国に向かって、この遅れた、品格と見識に欠ける日本の科学技術界に、飛躍
的な向上を目指させるためには、生やさしい手段では駄日だ。何としても衝撃的な手
だてを必要とする。それこそはエレクトロニクスから、二ュークリオニクスへ。電子
から原子への飛翔だった。原子力時代の創造に向かって、私は一目散に走り出した。
第五福竜九のスクープ
原子力時代の創造に向かって、一目散に走り出したといっても、それは全く私自身
の心の中の、あせりにあせる心象を述べたに過ぎない。日本は唯一の被爆国であり、
当然こと原子力というと、たちまち人々の神経はいら立ち、怒髪天を衝く。原爆アレ
ルギーの最たる国である。なまじっかなことで、これを受け入れる土壌ではない。
その上、テレビ局がなぜ原子力にと、怪訝に思う人ばかりだった。そこで私はアメ
リカで聞きかじってきた耳学問をもとに、原子物理学の歴史から、予見される可能性
の限りを調べ、折にふれ正力社長の説得に努めてきた。彼がようやくその重要性を理
解し、耳を傾けるようになるのに、一年半以上かかった。第一のテレビ時代の創造に
続いて、第二の産業革命ともいうべき、原子力時代の創造に、ようやく自ら先頭に立
つ意欲に燃えさかってきた。
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これがもとになって、二十九年三月三十日読売は、国内はもとより、世界をアッと
いわせた「ビキ二水爆、第五福竜丸事件」の大スクープを放った。
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このまま放っておいたらせっかく敵から味方へと、営々として築き上げてきたアメ
リカとの友好関係に決定的な破局を招く。ワシントン政府までが深刻な懸念を抱くよ
うになり、日米双方とも日夜対策に苦慮する日々が続いた。このときアメリカを代表
して出てきたのが、D・S・ワトスンという私と同年輩の、肩書を明かさない男だっ
た。かつて帝国ホテルのパーティーで知り台い、文部大臣から衆議院議長となった松
田竹千代の親友で、彼を通じて私が二ユーヨーク・シティー・バレエ団に留学させた
笹出しげ子と恋仲になり、正式に結婚したいというので、相談に乗ったりしていた。
まさかCIA要員だったならば、国籍を異にする女性を娶るはずばはないと思い、単刀
直入に聞いてみると、「違う、僕は国防省の人間である。ホワイト・ハウスと直結し
ているから、大使館など、まどろっこしいところを経由する必要はない。何とか妙案
はないか、考えてくれ」という。その真剣な申し出に打たれ、私は、「二、三日考え
させてくれ」と、その夜は二人で飲み明かし、例によって「源」に行きつき、「わさ
びなくして、寿司なし」と主張する私に対し、「いや、タバスコに勝る辛味なし」と、
断じて譲らない、以来、二人の「わさび、タバスコ論争」は、会うたびに再燃し、止
まることがなかった、数日後、ついに私は結論を告げた。
「日本には昔から、"毒は毒をもって制する"という諺がある。原子力は双刃の剣だ。
原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大な
産業革命の明日に希望を与える他はない」と熱弁を振るった。この一言に彼の瞳が輝
した
「よろしい。柴田さん、それで行こう!!」
彼の手が私の肩をたたき、ギュッと抱きしめた。そこで私は二ューヨークで会った、
ジェネラル・ダイナミックス社副社長ヴァーノン・ウェルシュの話を持ち出し、政府
間ではなく、あくまでも民間協力の線で、「原子力平和利用民間使節団」の名のもと
に、日本に送り込むよう、政治力を発揮しろ、と彼にハッパをかけた。
ワトスンがワシントンに働きかけると同時に、私は私で、ウェルシュを紹介してく
れたホールステッド技師を通じて、趣旨を説明し、早速、ウェルシュに相談するよう
依頼の手紙を出した。返事はワトスンの方が早かった。「ホワイト・ハウスは全面的
な賛意を表した。具体的なプログラムを送れ」とのことだった。相前後して、ホール
ステッドから、「早速ヴァーノンに伝えた。彼から早急に回答が行く」との返事が来
た。待ちに待ったウェルシュからの便りは、さすがに10日余かかった。
「幸い会長兼社長のジョン・J・ホブキンスには、来春五月東京で開催される国際商
工会議所第十五回総会に、アメリカ代表としてメイン・スビーチをするよう招待状が
来ている。日米双方のために役立つことなら、喜んで協力するという、確答を得た。
具体的な要求とプログラムを送ってくれ」というものだった。同時にウェルシュ自身
も同行するから、再会を期すという、うれしい便りだった。
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