抜粋B
(昭和22年、柴田氏は吉田首相とは毎日話し合い、また、片山内閣へ総理業の手ほどきをした)
………
吉田総理とは、毎日のように話し合い、政治の動きの根幹に密着していただけに、
私の政治解説には、又聞きではない、ジカでしかもナマの強みと自信があった。
ある日総理はこんなことをいった。
「柴田さん、私がマッカーサー元帥に信用があるのは、なぜだかご存じですか。
それはねえ、私が絶対に新聞記者を寄せつけないことを元帥がよく知っている
からですよ。もっとも、あなただけは別ですがねえ」
そういって、笑ったことがあった。事実、彼ほど記者嫌いの政治家は空前絶後
だった。カメラ・マンに水をブッかけた写真が残っているが、これなどはまさに
傑作中の傑作といってよい。ふだんはまことに温厚で、皮肉と冗談の天才といって
いいほど、話し合う時は初めから終わりまで、笑い放しで帰ることが多かった。
会うたびに清々しい思いの残る人柄だった。
……………… ………
結果は小差ながら、社会党が第一党となり、思いもよらぬ政権にありつくことと
なった。片山首相、西尾書記官長の2人だけがまず官邸に入り、組閣にかかったが、
社会党単独では、到底持ちこたえる力はない。難渋を極めた連立工作が始まった。
総理室にただ一人閉じ込められたまま、梯子すらない台閣の屋根裏に放置されて、
よほど寂莫感に襲われたに違いない。私のところに呼び出しの電話がかかって来た。
総理業の手ほどき
通い馴れた総理室に一人ポツネンとしていたのは、いつも二コニコ、つやつやと
していた吉田総理ではない。ゴボウひげを生やし、しょぼくれた顔の片山哲新総理で
ある。戦時中新橋駅近くに、今はあやしげな品を売る商店街になり変わっているが、
小さな三、四階建ての薄汚いビルがあった。そこに彼は鰻の寝床ぐらいの弁護士
事務所を持っていた。隣に友人がいたので時折は顔を合わせていた。その貧乏弁護士
さんが、今や忽然として総理大臣に成り上がったのだ。しかし組閣が進まず、閣僚と
いえば、西尾末広ただ一人。どこかはつらつとして、光り輝いてもよさそうなのに、
まことにウラ寂しい顔つきであった。何事ならんと聞いて驚いた。
「いや、僕はねえ、総理大臣になるなんて夢にも想ったことがなかったんだ。だから、
いきなりこの席に坐らされても、いったい総理大臣というものは何をどうしたらよい
ものか、サッパリ分からんのだよ。そこで聞くところによると、君は前総理の吉田君
と一番親しかったということなので、ぜひひとつ、どうしたらよいか教えてもらいた
いと思って、御足労願ったわけです」
私は唖然とした。驚いた告白だった。と同時に何と正直、率直で朴訥な人間かと思
った。あきれ果てるというより、同情の念にかられてしまった。その上で、早速タッタ
一人の閣僚西尾書記官長を呼び込み「二人にジックリ話してくれたまえ」との仰せで
ある。30そこそこの若輩の私に、総理業の手ほどきをしろ、という。いやはや、
こんな総理は恐らく前代末聞。そこでまた私がいい気になって二時間余にわたり総理
学の手ほどきをしたなどということは、恐らくこれも珍聞中の珍聞であろう。二人は
まるで小学生のように素直にかつ真剣に聞き入っていた。それだけならまだしも、そ
の翌日、また同じようなお呼びがかかった。まさかと思って出掛けてみると、これ
また驚いた。今度は総理室に社会党幹部十数人がズラッと雁首揃えて半円形の陣を
張っているではないか。新総理自らの丁重なお出迎えを受け、総理机の前に坐らされた。
「いや、昨日伺った話が大変参考になった。そこで今日は閣僚候補者全員を揃えたか
ら、もう一度昨日の話を皆に聞かせて欲しいと思って、御足労願ったわけです」とい
って改めて全員にご紹介に及んだ。
その中には同郷、愛知県出身の加藤勘十、京都の下宿屋のおやじ水谷長三郎、米窪
満亮等々、顔馴染みもいる。その他、松岡駒吉、後に親しくなった平野力三もいた。
ただ弟さんが読売にいた鈴木茂三郎の姿がなかった。私はいささかたじろいだが、だ
れ一人インテリ然とした偉ぶった面相の者は見当たらない。皆が皆、そこいらの長屋
から出てきた下町のオッさんたちのように見えた。普通、閣僚候補といえば、いささ
か眩い張り切った感じを与えそうなもの。それが少しもそんな気配がない。何から話
そうかと一瞬天井を仰いでそっくり返っていると、片山が「昨日の話と全く同じこと
で結構です。皆にもう一度、とくとお話ししてください」と促した。実をいうと、昨
日喋ったことすらよくは憶えていなかった。もともと総理学などという定則があるわ
けがない。乞われるまま、出まかせに話しただけだったので、これだけ精鋭?にズラ
ッと居並ばれるといささか戸惑うのが当たり前である。
「えー、昨日新総理と書記官長にお話しした要点は……第一に……」記憶の糸をたぐ
りたぐり話し出したことは、「占領下の日本政府などというものはあってなきがごと
きものです。本来、内閣行政府の仕事は、政策を決めて対議会工作に専念すべきもの
ですが、今日の日本では、議会も同様、あってなきがごときもの。これは野党経験者
だった皆さんも十分御承知のことと思います」。何だかポカーンとした顔、顔、顔で
ある。
「内閣がなすべき、当面する課題、目標は、一にかかって、すべてを押しつけて来る
対司令部闘争あるのみといっても過言ではありません。その司令部なるものの内情を
十分掌握してかかることが、敵を知り、己れを知るは……」云々と、昨日回した蓄音
機の回転がようやく順調に滑り出し、司令部の内部分析だけでも二時間余りにわたっ
た上、質疑応答が長々と続いた。こんな話にも、皆はまるで初めて聞いたよその国の
話のように、キョトーンとして聞き入っていた。最後に、解散したあと、片山総理が
秘かに私に頼んだことは、「いわれてみればこ尤もな話で、よく分かりましたが、今
日集めた候補の中でも、英語のできるのは米窪君ぐらいで、あとはまるっきり駄目で
す。彼だってとても太刀打ちできるほどではないから、だれか司令部高官を相手に十
分喧嘩のできる人を推薦してくれませんか」だった。つまり白洲次郎に匹敵する渉外
担当を選んでくれということだった。それには本人の意志も確かめなくてはならない
から、その上で、といって辞した。
あとで私の誘いに乗って、勇み立ったのが哲学者西田幾多郎の甥、終戦連絡事務局
の政治部長山田久就だった。そのお蔭で彼は、次に吉田内閣が出来た時、有名なY項
パージ第一号となって、都庁の片隅に追いやられてしまった。そして何年か後、鳩山
の地盤を貰って代議士となり、環境庁長官までやって引退した。30年後の今、若者
の運動「花の企画社」に駆り出され、彼が会長、私は後見人の一人になっている。
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